昭和二十五年八月。
日本は、戦後という言葉を急速に過去へ押しやるほどの活気を取り戻していた。
クワ・トイネ公国からは、安価で質のよい穀物、野菜、畜産品が入ってきた。
クイラ王国からは、原油、石炭、鉄鉱石、非鉄金属がもたらされた。
日本からは、繊維、工具、農機具、機械部品、日用品、鉄道資材などが送り出されていった。
そこに、イルメリアの技術支援が重なった。
港には真新しいクレーンが聳えていた。
発電所は復旧し、工場は夜遅くまで稼働していた。
東京にも大阪にも、まだ傷痕は残っていたが、街の空気は明らかに変わっていた。
映画館の前には行列ができていた。
イルメリアから、北方ローマの映画やハリウッド作品が流れ込んだためである。
その夏、最大のヒット作は、イルメリアの本国、北方ローマ皇国の歴史を描いた作品だった。
原題「Lumina Borealia」
邦題「オウロラの帝國」
新聞広告には、黄金の鷲の紋章と、雪深い都が描かれていた。
日本が元いた世界とは異なる、もう一つの地球の歴史。
滅びなかったローマが北の海に根を下ろし、交易の帝国となった幻の歴史である。
オウロラという語の意味を、正確に知る者は多くなかったが、看板に刷られたその言葉は、不思議なほど眩しく聞こえた。
同じころ、首相官邸には、あまりにも奇妙で頭の痛い書類が積まれていた。
『イルメリア向け打上花火 緊急製造状況』
武田首相は、その紙面をしばらく眺めた。
それから眼鏡を外し、白川次官を見た。
「白川君」
「はい、武田さん」
「これは何だ?」
「花火ですね」
「それは見れば分かる」
「でしょうね」
「三万発とあるが?」
「先月分です」
武田の手が止まった。
「先月分…」
「ええ。今月に入って、もう三万発来ました。合わせて六万発です」
しばし、沈黙があった。
「冗談ではないな」
「冗談なら、もう少し事は簡単かと」
日本国内の花火工場は、すでに総動員状態に近かった。
長岡、土浦、大曲、諏訪、両国系の業者まで、可能な限り引っ張り出された。
それでも足りず、民需転用の名目で旧軍工廠の設備と人員まで駆り出されていた。
現場は悲鳴を上げていた。
「イルメリアは、なぜこんなに花火を欲しがる?」
武田が尋ねた。
白川は、いつもの調子で答えた。
「祝祭があるそうです」
「祝祭」
「八月は、あちらの教会暦で大きな祭日が重なるとか」
武田は再び黙った。
「景気のいい話ではあります」
「白川君」
「はい」
「私は景気の話をしているのではない」
「でしょうね」
武田は書類を置いた。
「代金は?」
「前払いです。輸送船も向こう持ち。そこだけは実に結構です」
「金払いがよいのは結構だが、物には限度がある」
「現場からは、花火職人が倒れる前に何とかしてくれ、という声が来ています」
「当然だろうな」
武田は書類を閉じた。
「…彼らは本当に祝祭に使うのかね」
「そう言っています」
「君は信じているのか?」
白川は、少しだけ間を置いた。
「半分ほどは」
「残りは?」
「あの国の風流には、たいてい実務が添えられています」
■中央暦一六四〇年八月二十八日
イルメリア
領都マリポリ
八月のマリポリは、祝祭の気配に満ちていた。
だが、その華やぎには、どこか改まった空気が感じられた。
この年は、正教会の十二大祭のうち、八月十九日に主の顕栄祭、二十八日に生神女就寝祭を迎えていた。
聖堂の鐘が鳴り、香が焚かれ、聖歌隊が古い旋律を歌った。
政府庁舎では警備、交通、報道対応などの調整に追われていた。
日本からの観光客も、ちらほらと見かけられた。
彼らは『オウロラの帝國』で見た世界を、実際に目にして興奮していた。
石畳の広場、古い聖堂、港に浮かぶ白い艦影。
そのどれもが、銀幕の中の幻ではなかった。
だが、祭儀の中心には入れなかった。
聖堂の外陣までは案内された。
指定区域での見学も許されたが、内陣には入れなかった。
ある日本人記者が、案内官に尋ねた。
「撮影はできませんか?」
「外陣の指定区域までです」
「内陣には入れないということですね?」
「許可を受けた奉仕者以外は入れません」
「分かりました」
記者は、それ以上は尋ねなかった。
この国では、信仰の自由が認められていた。
だが、他者の聖域へ勝手に入ることは、自由ではなかった。
互いの領分を侵さないことが、自由の条件だった。
八月二十八日
生神女就寝祭
聖堂は朝から香の匂いに満ちていた。
金地の聖像が並ぶ壁面は、無数の燭火に照らされ、かすかに揺らいで見えた。
吊り香炉の鎖がかすかに鳴るたび、薄青い煙が内陣の上にたなびき、低い祈りの声に重なっていった。
祝祭でありながら、そこに歓声はなかった。
そこにあったのは、積み重ねられた歳月そのものの静けさであった。
その内陣の手前に、ユリアは立っていた。
白を基調に、青と金で飾られた大祭礼装。
襟元をめぐる真珠の列には青玉が混じり、燭火を受けて細かく光っていた。
胸元には、いつものようにエンコルピオンが下がっている。
小柄な彼女の面差しには、専制公としての重みがあった。
その傍らには、ペリトゥス・マグヌス総督が控えていた。
政務長官と軍務長官を兼ねる老人である。
白髪の長身に、濃紺の礼装。伏し目がちな眼差しには、老軍人の静けさがあった。
その顔立ちには、北方の軍人貴族らしい厳しさと、地中海の古い血統を思わせる陰影があった。
聖堂にあっても軍港にあっても、違和感のない人物であった。
聖歌が続くなか、燭火がかすかに揺れ、香煙が聖像の前をゆっくりと流れていた。
祭儀が終わり、ユリアは控えの間へ下がった。
聖歌はまだ、扉の向こうから低く響いていた。
そこで初めて、ユリアはマグヌスに尋ねた。
「パーパルディアからの返答は?」
マグヌスは、短く答えた。
「まだございません」
「そうですか」
マグヌスが静かに問う。
「催促いたしますか、姫様?」
ユリアは、少しだけ目を伏せた。
「典礼は終わりました。手順どおりに進めなさい」
「御意」
その夜、日本人観光客と記者たちは、海沿いの公園に集まっていた。
彼らは空を見上げていた。
日本から運ばれた大量の花火は、この大祭のためのものだと思っていたからである。
だが、遂に花火は上がらなかった。
鐘が鳴り、聖歌が流れ、蝋燭の列が石畳を進んでいった。
花火の音は、ついに聞こえなかった。
記者の一人が、広報官に尋ねた。
「花火は上がらないのですか」
「花火?」
「日本から大量に輸入されたと聞いています」
「ああ、あれですか」
「祭礼用では?」
「詳しいことは存じません」
数日後
東京 首相官邸
白川次官は、在イルメリア公館から届いた報告書を武田首相へ差し出した。
武田は黙って読んだ。
「祭礼での花火の使用は確認されず、か」
「ええ」
「六万発は?」
「使っていません」
「祝祭用ではなかったのか」
「そこまでは。少なくとも、公館員相手にぺらぺら話すほど気前はよくなかったようです」
武田は報告書を机に置いた。
部屋には扇風機の音だけが響いていた。
やがて武田が言った。
「白川君」
「はい」
「イルメリアは、何を始めるつもりだ」
白川はすぐには答えなかった。
代わりに、別の報告書を机上に置いた。
パーパルディア皇国、
イルメリアの勧告に返答なし。
武田はその文字を見た。
「…なるほど」
白川は、涼しい顔で言った。
「祝祭用ではなかった、ということでしょうね」