■昭和二十五年九月
札幌北海道帝国大学
北帝工学部の教室に、小柄な女子学生が座っていた。
暗褐色の髪に控えめな服装。黒縁の眼鏡。
誰とは言わないが、本人としては変装しているつもりだった。
もっとも、胸に下げた豪奢な
講義が終わり、学生たちが席を立った。
女子学生もノートを閉じて、何食わぬ顔で出口に向かった。
「テオドラさん」
教壇の前で、教授が手招きする。
「……何でしょう」
「今日は時間がありますかな」
「ありません」
「そうですか。では、少し講義をお願いします」
「今、ありませんと申し上げましたけれど」
教授は穏やかに頷いた。
「では、駐車場の無断使用についてですが……」
「……あります」
ユリアが踵を返すと、教室のあちこちから笑いが漏れた。
「私は聴講に来ただけなのですが」
「先週もそう仰いましたな」
教授はすでに最前列へ腰を下ろしていた。
帰りかけていた学生が席に戻った。
ユリアは小さく息をつき、教壇へ上がった。
誰も彼女を殿下とは呼ばないが、その正体を知っている。
最近では、それが北帝工学部の暗黙の了解にさえなっていた。
ユリアは黒板を前に、少し考えた。
「今日は……工学の話ではありませんが」
「構いません」
「では……文明について、お話ししましょうか」
教室が静まった。
ユリアはチョークを取る。
「皆様は、文明というものを何によって区別なさいます?」
「言語でしょうか」
「宗教」
「政治制度だと思います」
「技術水準もあるのでは」
「民族……ですかね」
ユリアはそれを板書した。
「どれも間違いではありません」
ユリアは黒板を見た。
「ですが、それだけでしたら、我々は既に滅んでおります」
教室が静まる。
「我々ローマ人が、古代からずっと同じ言葉を話していたわけではありません。信仰も、帝都も、政治制度も変わりました」
黒板を指した。
「それでも、ローマはローマでした」
歴史学の講義ではなかった。
ユリアにとっては、遠い古代の話ではないのである。
「ですからわたくしは、文明とは、何を持っているかだけで決まるものではないと思っています」
一人の学生が手を挙げた。
「では、テオドラさんにとって、ローマとは何なのですか」
「ローマは、ローマですけれど」
教授が額に手を当てた。
「テオドラさん、それでは説明になりませんな」
「そうですか?」
ユリアは少し考えた。
「皇帝がローマなのではありません」
今度は言葉を選んで言った。
「帝都がローマなのでもありません。もちろん、国土だけでも、制度だけでもありません」
「では、異世界への転移前にあったという、北方ローマ皇国そのものでもない?」
「それは国家でしょう?」
「ローマと国家は違うのですか」
「同じでもあり、違うとも言えます」
質問した学生が困った顔をした。
別の学生が手を挙げる。
「では、トーパ王国は?」
「ローマです」
即答だった。
教室がざわつく。
「ですが、トーパは独立王国ですね」
「ええ」
「イルメリアの領土ではなく」
「もちろん」
「専制公の臣下でもありません」
「そうですわね」
「……それでもローマなのですか?」
「はい」
ユリアは当然のように頷いた。
教授が顎を撫でている。
やがて一人の学生がおそるおそる尋ねた。
「それなら、日本はどうでしょう?」
「日本?」
「殿……テオドラさんのお考えでは、日本もローマですか?」
ユリアは一瞬考えた。
それを、なぜ問うのか分からないという顔だった。
「あなた方は、イルメリアと共存共栄の道を歩んでおられますわね?」
「……はい」
「では、ローマです」
一瞬の静寂。
後ろから声が上がる。
「我々は、いつローマ人になったのでしょう?」
「ローマ人と申してはおりませんわ」
「え?」
「貴方は日本人でしょう?」
「はい」
「なら、日本人ですわ」
話が余計に分からなくなっていく。
「では、日本人にもローマの市民権があるのですか」
「ありません」
また即答だった。
教室から笑いが起こる。
ユリアは少し眉を寄せた。
「それは政治のお話でしょう?」
「しかし、ローマなのにローマ市民ではない?」
「何かおかしいでしょうか?」
教授までが笑っていた。
「では、日本人がローマ市民になることはできますかな?」
「できますわ」
そこは、誰も笑わなかった。
「必要な手続きを行い、まずラテン市民権を取得してくださいませ」
「その後は?」
「北方ローマ皇国内で三代に亘って善良な市民として暮らせば、ローマ市民権を申請できます」
「三代ですか」
「ええ。あるいは……」
ユリアは少し考えた。
「ラテン市民権を取得した後、皇家、あるいは専制公の招集に応じ、義勇兵としての任期を全うなされば」
「兵役でですか?」
「ローマのために戦った方に、ローマ市民権を差し上げない理由がありますでしょうか?」
教授が頷いた。
「そちらはずいぶん明確ですな」
「制度ですから」
「ですが、文明のお話になると、急に曖昧になるようですが……」
「制度まで曖昧では困りますでしょう?」
一人の学生がノートを見て言った。
「整理すると、我々は日本人で、日本国民で、ローマではあるけれど、ローマ市民ではない」
「はい」
「トーパの人々も?」
「はい」
「では、ローマとは文明圏という意味なのですか」
ユリアは少し首を傾げた。
「それだけでもありませんわね」
「では、何なのでしょう?」
ユリアは再び黒板に向かった。
「必要な時には助けること」
「約束を守ること」
「相手を滅ぼして、自分だけが豊かになろうとしないこと」
「自分が守るべきものを、自分で守ること」
そこまで言うと、チョークを置いた。
「そのくらいでしょうか」
「ずいぶん広いローマですな」
「ローマは昔から広いものですわ」
「民族も宗教も言語も違って構わない?」
「ええ」
「政治制度も?」
「それぞれの国が決めればよろしいでしょう」
別の学生が手を挙げた。
「コミンテルンは?」
「それは決して」
即断である。
「先程、政治制度は自由だと
「先程の四つは、彼らの概念には存在しませんので」
「皇国への忠誠も必要ない?」
「北方ローマ皇国の臣民でなければ、必要ありませんわね」
「それでもローマでしょうか?」
「はい」
また議論が同じところに戻った。
教授が腕を組む。
「では、殿……」
言いかけて止まった。
教室中の視線が集まる。
「……テオドラさん」
「はい」
「あなたの仰るローマには、国境がないということですかな」
「北方ローマ皇国の国境でしたら、地図をご覧になればよろしいでしょう?」
「いえ。そうではなく、ローマそのものの境界です」
ユリアは少し考えた。
「……必要ですの?」
教授も黙った。
「文明は、境界を引かなければ存在できないものなのでしょうか」
ユリアは窓の外を見た。
九月の空が高い。
「イルメリアの船と兵は、長くローマを護ってきました」
声に誇張はなかった。
「帝冠を戴くのは摂政皇です。けれど、帝冠だけでローマは護れませんでしょう?」
教授が静かに頷く。
「ですから私は、皇国の領土だけをローマだとは思いません」
少し間を置いた。
「共に生き、共に栄え、必要なら互いを守る。それなら、十分ですわ」
一番前の学生が、なおも食い下がった。
「つまり、日本も?」
「先ほどから、そう申し上げていますけれど」
また笑いが起きた。
「では日本人が、その気になればローマ市民になることもできる」
「法律上の条件を満たせば」
「しかし、ならなくてもローマ?」
「ええ」
「……難しいですね」
「そうでしょうか?」
何が分からないのかを、互いに分かっていない顔だった。
教授は時計を見た。
「今日はここまでにしましょう」
ユリアは少し安心したように教壇を下りる。
「では、私はこれで」
「テオドラさん」
「まだ何か?」
「次は工学の話をお願いします」
「もう捕まえないでくださいませ」
「善処しましょう」
「信用できませんわね」
ユリアはそう言って教室を出ていった。
扉が閉まる。
しばらくして、一人の学生が言った。
「……あの変装、意味あるんですかね」
教授が振り返る。
「君」
「はい」
「本人が変装しているのだから、変装しているんだ」
その日の夕方には、工学部だけでなく、法文学部の史学、法学、政治学の研究室にまで話が伝わっていた。
――国家ではないローマとは何か。
――文明圏とも違うというなら、何をもってその構成員とするのか。
――日本はローマであるが、日本人はローマ市民ではない。
――ただし、所定の手続きを経れば市民権を取得できる。
議論はしばらく続いた。
当のユリアはそれを知らない。
知ったところで、答えは変わらないだろう。
日本は日本。
日本人は日本人である。
市民権は政治と法律の問題であり、欲しければ定められた手続きを踏めばよい。
だが、日本はイルメリアと共存共栄の道を歩んでいる。
ならば我々は――
ローマである。