■イルメリア専制公国 領都マリポリ
中央暦一六三八年五月一日
政庁前広場
「Senatus Populusque Romanus!(元老院並びにローマ市民諸君!)」
広場を埋め尽くすかのような領民の目が、一斉に壇上に向けられた。
専制公ユリア・テオドラのよく通る声が響く。
「我、ユリア・テオドラは、イルメリア専制公として宣言する。本日より、北方ローマ皇国との連絡が回復するその日まで、イルメリア専制公国は自らの責任において、統治、外交、防衛を行う」
「我、ユリア・テオドラは至聖三者と生神女に誓い、ローマ法と皇国の秩序を守り、領民の生命と暮らしを保つ。本国と再び相まみえるその日まで、変わらぬ統治を約束する」
それは、母国から切り離されたイルメリアが、自らの責任で国家としての機能を維持する宣言であった。
ほんのひと時の静寂。
そして――
—Τῇ ὑπερμάχῳ στρατηγῷ τὰ νικητήρια,
ὡς λυτρωθεῖσα τῶν δεινῶν εὐχαριστήρια,
ἀναγράφω σοι ἡ Πόλις σου Θεοτόκε.
Ἀλλ' ὡς ἔχουσα τὸ κράτος ἀπροσμάχητον,
ἐκ παντοίων με κινδύνων ἐλευθέρωσον,
ἵνα κράζω σοι, Χαῖρε, Νύμφη ἀνύμφευτε.—
―御身に感謝を捧げます
困難から我らを救い給うた御身に感謝を捧げます
御身の御加護であらゆる苦難から我らをお救いください
御身を慕い祈ることができますよう
生神女よ、祝福しあれ―
誰言うとなく、ひとり、またひとりと、広場の人々が歌いだした。
やがて歌声は大合唱となって、広場を包み込んだ。
正教の古い聖歌『擁護者マリヤ』は、北方ローマ皇国の国歌でもあった。
皆、待ち望んでいたのだ。
母国から切り離された、この見知らぬ世界で、それでも自分たちの国と秩序が失われてはいないという言葉を。
東ローマ帝国の後裔として受け継いできたものが、これからもこの地で続いていくという確かな言葉を。
■日本国 東京
中央暦一六三八年五月
昭和二十二年(中央暦一六三八年)五月三日土曜日、国民主権、基本的人権の尊重、平和主義を三原則とする日本国憲法が施行された。
当日は皇居前広場で記念式典が開かれ、各地で記念講演などが開催されたが、少なからぬ参加者が困惑を隠せなかった。
その原因は、憲法第九条を巡ってのものだった。
施行された憲法第九条には、こう記されていた。
第九条 日本国民は、正義と秩序とを基調とする国際平和を誠実に希求する。武力の行使は、国民の生命、自由および幸福追求の権利が脅かされる場合において、自衛の措置としてのみ許容される。
この条項自体が問題なのではない。
前年十一月三日に公布されたものから、改定されていたのだ。
もちろん、議会での審議を通しての改定だったのだが、施行前のわずか二週間で強引に改定法案が通され、国民への説明も不十分な状態での施行であった。
翌日の朝刊では、一部の新聞に「連合国によって武装解除されたばかりの日本が、再び武装への道を開いてよいものか」「第九条の改定は、この新世界での侵略戦争の始まりである」といった扇情的な記事が載せられ、国民を困惑させた。
■日本国 国会議事堂
五月五日月曜日。
この日の国会は荒れに荒れていた。
首相、武田茂は開会早々、評議党を代表とする野党からの質問攻めに晒されていた。
質問と言えば聞こえはいいが、その実、ほとんど非難、罵倒であった。
「武田総理に質問します。日本は終戦によってせっかく平和国家への道を歩み始めたものを、憲法を改定し、再度軍国主義に走らせるおつもりか!?」
「総理、総理はこの新世界の国家に対して侵略戦争でも始めるのか?」
「中途半端な説明のまま強引に憲法を改定して、独裁者にでもなるおつもりか!?」
連日繰り返される非難、罵倒を、新聞各社は面白おかしく煽り立てたため、全国に混乱が広がりつつあった。
■首相官邸
ソファーに身を沈めた武田総理は、深々とため息をついた。
いかに肝の据わった武田とはいえ、ここ数日の野党との遣り取りが、やはり身に応えていた。
「総理、いいんですか。言わせておいて?」
武田の前に立つ白川が問いかける。
「白川君。私は考えるんだがね。野党に煽られた今の混乱と、真実を知ったうえでの混乱。君なら、どちらを選ぶかね?」
「総理、それは……」
「そろそろ、我々の持っている札を見せてもいい頃だろう」
武田が、いや政府中枢が、国民の混乱を招く恐れがあるとして秘匿している情報。
それはイルメリア視察で得た、この新世界の国際情勢だった。
数日後、現在の日本を取り巻く情勢と、それに伴って憲法改定に至った経緯が公表された。
それは、日本人の大多数が初めて知る、この世界の状況であった。
この新世界の国々の多くは、転移前の世界に比べて、圧倒的に文明度が低いこと。
国家間であからさまな等級付けが存在し、上位国は下位の国々を蛮族程度にしか見ていないこと。
かつての欧米以上の民族差別や、さながら大航海時代のような奴隷制度が存在すること。
そして、国民の多くを憤慨させたのは、近隣のロウリア王国があからさまな民族浄化、すなわち亜人根絶を行っていること。
さらに、日本の友邦であるクワ・トイネやクイラへの侵攻を企図していることだった。
北方にあるパーパルディア皇国の侵略政策と、占領地や属国で行われる横暴や虐殺についても公表された。
これらが写真付きの詳細な資料とともに公開されると、世論は一気に憲法改定に肯定的に変わった。
と同時に、国民は混沌としたこの新世界に対して、言いようのない不安を抱くこととなった。
■イルメリア専制公国 領都マリポリ
「……はい、それは喜ばしいことですわ。我が国からも祝賀の使者を送りましょう。ええ、仔細は後ほど」
専制公ユリア・テオドラのもとに掛かってきた一本の電話。
後世の記録では、それが新しい時代の節目だったとされている。
"Τῇ ὑπερμάχῳ"は邦訳が見つからなかったので、こちらで意訳致しました。
公式訳を御存じの方が居られましたら、ご教授お願い致します。
「イルメリア専制公国」の国号を「北方ローマ専制公国」に変更することについて、皆さんはどう思われますか?改称した場合も「イルメリア」の名称は地名などで継続使用します。
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現行 今のまま。
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改称 第九話で北方ローマ専制公国に改称