深夜。
皇帝ルディアスは、ふと目を覚ました。
厚い帳の隙間から月明かりが差し込み、床に影を落としている。
ルディアスは、寝台の上で身を起こした。
何かがおかしかった。静かすぎるのである。
深夜でも皇宮全体が眠ることはない。足音のひとつくらい聞こえるのが常である。
毎夜、皇都を悩ませている花火すらも、珍しく途絶えているようだった。
ルディアスは枕元の呼び鈴を鳴らした。
しばらく待ってみたものの、誰も来ない。
もう一度鳴らしたが、やはり返事はなかった。
「誰かおらぬのか」
声を上げても、扉の向こうに人の気配はなかった。
ルディアスは夜着の上から上着を羽織った。丁度そのとき、寝室の扉が開けられた。
皇国の
入ってきたのは正装した若い女。その後ろに、小銃を肩に掛けた灰色の軍装の兵士が四人。
女は見事な刺繍の施された
女は寝台から数歩離れたところで一礼し、微笑んだ。
「こんな夜更けに失礼を、皇帝ルディアス殿」
ルディアスは闖入者を見据えた。
「何者か!?」
「イルメリア専制公、ユリア・テオドラ・コムネナ」
「……イルメリアの君主か」
専制公という称号に聞き覚えはあったが、どの程度の地位なのかは分からなかった。ただ、イルメリアの政治と軍をユリアが動かしていることは知っていた。
「余の衛士達はどうした?」
「宮殿内は、すでに確保しました」
「皇宮を制圧した、だと?」
「ええ」
あまりに簡単な返答。
ルディアスは冷静を装ってはいたが、胸中には冷たいものが走っていた。
「それで、何の用だと申す?」
「そろそろ、この争乱の落としどころをと」
ルディアスの眉がわずかに動いた。
「余に降伏せよとでも申すか」
「陛下も、状況はすでにご承知でしょう」
ユリアの声に嘲りはなかった。
「余が降れば、皇国がどうなるか分かっておるのか?」
「知りませんわ」
思わぬ答えに、ルディアスは目を細めた。
「……言うではないか」
ルディアスは、目の前のユリアを改めて見た。
「そなたなら、」
ルディアスが尋ねる。
「余の立場なら、そなたはどうする?」
「
ユリアは背後に控えた近衛兵に目を向けた。
「準備を」
「はっ」
テーブルの上に細長い瓶と、木製の装飾箱が用意された。
装飾箱には、酒杯と
瑠璃色の硝子で作られた、小振りの杯である。
淡い青の中にわずかに緑が掛かり、表面の曇りと銀化がその歳月を物語っていた。
ルディアスはその酒器に目を留めた。
「……古い品であるな」
「千六百年ほど前のものです」
「千六百年……」
「ええ。父祖伝来の酒杯ですわ」
ルディアスは箱から取り出された杯を見た。
「千年以上を経て、なお残るか」
「硝子は、割れなければ長く残りますから」
「……なるほど。これには恐れ入った」
「賛辞に感謝を」
ユリアはわずかに笑みを浮かべた。
近衛が瓶の封を切った。
ほのかな甘い香りが室内に広がる。
「葡萄酒か」
「故郷の海の葡萄酒、その最後の一本ですわ」
「最後の一本?」
「マリポリの城館に残ったものは、これが最後です」
ルディアスはユリアを見た。
「そのようなものを、余に出すか」
「皇帝を名乗る方には、」
ユリアは杯に視線を落とした。
「相応のものを持参するのが礼儀でしょう」
近衛兵が瓶を傾けた。淡い琥珀色の酒が、一対の瑠璃の杯に注がれていく。
その一方が、ルディアスの前に置かれた。
瑠璃の底で、葡萄酒が月明かりを受けて揺れていた。
「……なるほどな」
ルディアスは小さく息を吐いた。
「ずいぶんと古風なことをする」
「そうでしょうか」
「もっと簡単な手段はいくらでもあったはずだがな」
ユリアは何も答えなかった。
ルディアスは杯を手に取った。
指先でわずかに回すと、銀化した表面を月明かりが滑っていった。
「美しい杯だ」
ユリアは黙って聞いている。
「余の宝物庫にも古い硝子器はいくつかあるが、これほどのものはない……」
杯の中の酒を軽く揺らし、香りを確かめてから、ルディアスは一口含んだ。
「……良い酒だ」
「そう思って頂けたらなら何よりですわ」
ルディアスは、もう一度杯を眺めた。
「最後に飲む酒としては、贅沢が過ぎるな」
ユリアは何も言わなかった。
「そなたに一つだけ聞いておこう」
「何でしょう」
「余が死ねば、皇都を攻めるか」
「いいえ」
ルディアスは満足げに頷くと、杯を一息に飲み干した。
だが。
何も起こらなかった。
さらに時間が過ぎても、息苦しさも手足の痺れも起きなかった。
ルディアスは眉を寄せた。
「……遅効性か?」
「何がですか?」
ルディアスは顔を上げた。
「毒だ」
ユリアはわずかに不思議そうな顔をした。
「毒など入れておりませんわ」
「……では、これは何だ?」
卓上の杯を指す。
「葡萄酒でしょう」
「それは分かっておる!」
初めてルディアスの声が荒くなった。
近衛兵たちは微動だにしない。
ユリアも動じなかった。
「貴重な杯に、最後の一本だという酒を注ぎ、余に責任を果たせと言ったのだぞ」
「ええ」
「それで毒が入っていないと申すのか」
「毒など入れては、せっかくの葡萄酒が台無しですわ」
あまりに平然とした返答だった。
ユリアは空になった杯に目を落とした。
「これを飲まれるかどうかを見たかっただけです」
「……余を試したのか」
「ええ」
ルディアスは怒鳴りつけようとして、やめた。
怒るべきなのだろうが、なぜか笑いが込み上げた。
「……は」
ユリアはわずかに首を傾げた。
「は、はは……」
やがてルディアスは息を整え、卓上の瑠璃杯を見た。
「それで、余が飲まなかったなら、どうするつもりだった」
「帰りましたわ」
「帰る?」
「飲んで頂けなければ、意味がありませんもの」
「では、飲んだから何だというのだ」
ユリアの表情が改まった。
「ご自分の命を差し出す覚悟がおありなら、
ルディアスは黙って聞いていた。
「ルディアス殿には、生きて頂きます」
ユリアはルディアスを正面から見据えた。
「敗れた皇帝として、この争乱を終わらせなさいませ」
「敵のそなたが言うことか?」
「軍も、政府も、まだ
ユリアの声は穏やかだった。
先ほどまで毒杯と思っていた瑠璃の器が、卓上に置かれていた。
ユリアは杯を手に取り、
「ふふ。良いお酒ですわね」