■首相官邸 執務室
武田は受話器を耳に当て、黙って聞いていた。
「やれやれ、僕は連絡係じゃないぞ」
受話器を置くと、誰に言うでもなく呟き、机の引き出しを開けた。
中から取り出したのは、手のひらほどの黒いの板のような機械。
イルメリアから政府要人用として
武田は画面を操作すると、登録されている相手を呼び出した。
ほどなく、応答があった。
『はい』
「殿下、
『はい? 電話くらい構いませんわ』
「そう言って頂き、恐縮でございます」
『?』
「ところで殿下、
少し間があった。
『浅草です』
「浅草、ですか?」
『浅草には立派な駅がありますのね』
武田は、何かを察して目を閉じた。
「殿下…」
『はい』
「現在、道に迷っておられますね?」
『…』
「周囲に何が見えますか?」
『大きな駅があります』
「駅名は?」
『分かりません』
「殿下は日本語に堪能だとお聞きしておりますが?」
『残念ながら、平仮名しか読めません』
「…」
武田は思わず額を押さえた。
「そこから動かずにお待ち頂けますか? こちらから迎えを出します」
『分かりました』
「くれぐれも、その場から動かれませんように」
『はい』
武田はPDAを机へ置くと、卓上の黒電話を取った。
「内務省につないでくれ」
警官が二人、東京駅周辺の人混みの中を歩いていた。
「イルメリアの女性だそうだ」
一人が同僚に話しかける。
「どのような人物なんだ?」
「それが、名前くらいしか聞かされてないんだ」
「名前だけ?」
「ああ、それしか聞いていない」
それを聞いた同僚は、何とも言えない表情をしていた。
二人はしばらく駅前を探していたが、やがて、一人が足を止めた。
「あれじゃないか?」
案内板の前で、小柄な女性がきょろきょろと周囲を見回していた。
異国の、少女と言っても差し支えのない若い娘。
胸元を飾る、装飾のない外套には不釣り合いな十字架。
どこか気品を感じさせる姿は、華族や貴人の立居振舞を思わせた。
だが、今現在の様子は、誰がどう見ても迷子だった。
「失礼ですがご婦人」
警官の声に、女性が振り向いた。
「はい」
「お名前を伺ってもよろしいでしょうか」
「ユリアです」
二人は顔を見合わせた。
「丁重にお連れするようにと、上からの指示を受けております」
「よく分かりませんが、ありがとうございます」
しばらくして、帝国ホテルの玄関前に
ちょうど会議室から出てきたフィアームたちは、その様子を何となく眺めていた。
車両の後部座席の扉が開き、小柄な女性が降りてきた。
「…?」
高橋は、その姿を見るなり苦笑した。
「やっぱり来られていましたか」
「そのようですね」
「どなたですか?」
ベルーノの問いに、近藤が答えた。
「…イルメリア専制公、ユリア殿下です」
「…は?」
ミリシアル一行の顔から表情が消えた。
ユリアは警察官に一礼した。
「お手数お掛けしましたね」
「いえ、お気をつけて」
警官たちは事情を詳しく知らないまま、車両に戻っていった。
ユリアはそこでようやくフィアームたちに気付いた。
彼らを数秒見つめたあと、納得したようにポンと手を打った。
「…神聖ミリシアル帝国の方々ですか?」
フィアームは反射的に姿勢を正した。
「は、はい。神聖ミリシアル帝国外務省のフィアームと申します」
ユリアは小さく頷いた。
「イルメリアのユリアです。よしなに」
フィアームは言葉を失った。
その名前は、本国から事前に知らされていた資料と一致する。
イルメリア国家元首、専制公ユリア・テオドラ・コムネナ。
フィアームはしばらく固まっていたが、ややあって任務を思い出した。
「ユリア殿下。唐突ではありますが、我が国からの提案を申し上げてもよろしいでしょうか?」
「はい?」
フィアームは、日本側にも説明した先進十一ヵ国会議について、要点をまとめて伝えた。
「―以上です。神聖ミリシアル帝国としては、イルメリアにもぜひご参加をご検討頂きたいと考えております」
「参加します」
「……はい?」
「参加します」
即答だった。
フィアームは目を瞬かせた。
「ご検討頂く時間は―」
「必要ありません」
ユリアは淡々と答えた。
「参加する価値があります」
「そうですか…ありがとうございます」
「ただ」
ユリアが続ける。
「形式上、元老院にも同じ内容を伝えてください」
「元老院に、ですか?」
「はい。私からも伝えますが、正式な招請は元老院にお願いします」
「承知いたしました」
あまりにも話が早い。
フィアームは、これまで相手にしてきた各国との外交交渉を思い返した。
普通は国内での検討や調整、条件の確認などの時間を要する。
ところがイルメリアの専制公は、数分の説明を聞いただけで判断を下した。
それでいて、元老院への正式な手続きについては忘れていない。
数十分前まで迷子になっていたとは、とても思えなかった。
「では、これで」
「…お帰りになられるのですか?」
フィアームが聞き返す。
「はい、一度大使館に」
ユリアは玄関近くに立っていたホテルマンに視線を向ける。
そして、小さく手招きした。
ホテルマンはすぐに気付いた。
「お呼びでしょうか」
「大使館に連絡をお願いします。迎えを」
「かしこまりました」
ホテルマンは館内に戻っていった。
程なく、帝国ホテルの玄関前に橙色の小型車が滑り込み、大使館員の女性が降りてきた。
スーツ姿の妙齢の女性である。
イルメリアのVOLO社製コンパクトカー、コモディ。
日本でもよく見られる小型車である。
女性はユリアの姿を確認し、それから、表情を引き締めた。
「殿下」
「はい」
「どちらへ行っておられたのですか」
「浅草ですが、東京駅だったそうです」
「…」
大使館員が沈黙した。
「前にも申し上げましたが、外出される際には、せめて大使館に一言お知らせください」
「言い忘れておりました」
「それと、大使館の庭は駐車場ではありません。芝生が傷みます」
国家元首が臣下に叱られている。
しかも本人は反論するでもなく、淡々と返事をしていた。
ミリシアル一行は、何とも言えない顔でそのやり取りを眺めていた。
大使館員はそこでフィアームたちに気付き、すぐに表情を改めた。
「失礼いたしました」
「い、いえ…」
フィアームも反射的に答えた。
「…あの方がイルメリアの専制公殿下ですか?」
ベルーノが呟いた。
「そうらしいな」
フィアームは、遠ざかる車を見つめていた。
「ずいぶん決断の速い方でしたね」
ライドルカが言う。
「ああ」
「…だが、よく分からん方だ」
彼らの中に、フィアームの言葉を否定する者はいなかった。