幽霊が出る――という噂はかなり前からあった。とてもとてもよくあった。
たとえば冷蔵庫からおやつが忽然と姿を消すことからはじまって、校舎の壁にとつぜん七色の落書きができていたり、真夜中にお米の炊ける匂いがしたり、深夜の屋上部屋から苦悶の声が響いたり。
夜も明けない体育館のステージで謎の足音が聞こえたり、どこからともなく包丁を研ぐかなしげな音が聞こえたり、プールがお風呂になっていたり。
読みかけのラノベに足が生えてどこかに逃げてしまったこともあった。
食べたはずのおやつがいつの間にか冷蔵庫に補充されていたり、全員分の洗濯物が綺麗に干してあったりなんてこともあった。
これらをみんなは「不思議なこともあるものだ」「学校の七不思議だね」なんて言って流していたけれど、七不思議にしても七つじゃぜんぜん足りなかった。
結局幽霊を目撃した人はいなかったし、誰も積極的に探そうとはしなかった。みんな一様に気まずそうな顔を浮かべ、まあまあと言いながら騒ぎ立てずになだめるばかり。
不思議なことは数あれど、次々と新しい『不思議なこと』が起きるので、ひとつひとつの不思議なことは古いものから立ち消えしていったのだった。
図書室へと続く廊下はひんやりとして薄暗い。空には濃い青が広がっていて、廊下はコントラストのせいでまるで影の中にいるみたいだった。
窓の外から波のざわめきと蝉の合唱が混じり合って聞こえる。夏の声はうるさいくらいなのに、人の声が全然しないせいで、かえって静寂を感じる。まるで沈黙してるみたいに。
きららは廊下のそこかしこに幽霊の残滓を探ろうとしたが異変は感じられなかった。そうこうしているうちに図書室に着いた。扉を開けるとがらんとしていて室内には誰もいない。窓から差し込んだ一本の夏の日差しのなかに埃がきらきらと舞っていた。きららはいちおう中に入り、ぐるりと一周してから図書室を後にした。
階段を降りていくと、角の作業室からなにやら話し声が聞こえた.誘われるようにして声の下へと足音を忍ばせる。それから扉に耳をつけて中をうかがった。
――愛央。ちょっと食べ過ぎじゃない?
――まだたくさんあるから大丈夫だって。
――いやいや、もう半分もないよ。
――それならいっそ全部食べちゃったほうがいいかも。
――証拠隠滅?
――いんめついんめつ〜。
そこまで聞いて、きららは勢いよく扉を開け放った。
「幽霊の正体みたり! 覚悟しろ!」
室内には開けっぱなしの冷蔵庫の前に、ゴブリンのように背を丸めた愛央と勇希が居座っていた。ふたりは手に持っていたシュークリームを慌てて口の中にねじ込んで、きららに向かって猛然とダッシュした。
まず体格の優れた愛央がきららを羽交い締めし、勇希が手に持っていたシュークリームをきららの口に押し込んだ。勢い余って飛び出したクリームをきららの口の周りに塗りたくり、きららがシュークリームを飲み込み終えてようやく羽交い締めから解放した。
「これできららも共犯だからね」
「もしバラしたら連帯責任。詩帆とこころのお説教は怖いよお〜?」
けれど、一気に飲み込んだせいできららは咽せってしまい、二人は慌ててコップに水を汲んできららに飲ませた。
「ゴホッ、ゴホッ……」
「やりすぎちゃったか……。ごめんねきらら」
「二人はこんなところで何をしているの」
「なにって……ねえ?」
「ねえ?」
愛央と勇希は顔を見合わせて、照れくさそうにニタリと笑った。
「シュークリームは何故おいしいのか。その深淵なる謎に勇希隊員と挑んでいたところなんだよ。ねえ勇希?」
「うんうん。いやー前から不思議だったんだよねえ。シュークリームがおいしいのは誰でも知ってることなのに、なんでおいしいかは誰にもわからない。この謎を放っておくなんてありえないからさあ」
「言いたいことはそれだけか」
「ちょっと待ってよ。もうきららも共犯なんだよ。自分の立場わかってる?」
「『共犯』って言ってるし。自分でも悪いことだってちゃんとわかってる。その言い訳がどこまで通じるか、さっそくこころに教えてあげないと」
「ちょ、ちょ、ちょっと待たんかっ!」
「きらら、いいの!? きららも怒られるんだよ!?」
「こころはきっと信じてくれる。きららは普段の行いが違う。もし一緒に怒られても構わない。きららは今、愛央と勇希に罰を与えたい気持ちでいっぱい」
「なんでえ。シュークリーム食べたじゃん!」
「おやつはみんなで一緒に食べるのがおいしい。きららは今日のおやつの時間をすごく楽しみにしていた」
きららが踵を返して部屋から出ようとすると、二人は服を掴んで部屋から出すまいと踏ん張った。
「こんなことをしたって意味がない。どうせおやつの時間にはばれる」
「きららが黙っててくれれば済む話じゃん」
「いや愛央、さすがに済まないと思う」
愛央の無茶な提案を勇希がすかさず否定した。
「勇希はどっちの味方なんだ!?」
「私はつまみ食いで終わらせるつもりだった。愛央が調子に乗って食べ過ぎるのが悪いんじゃん!」
「勇希! 裏切るつもり!?」
「みにくい……」
きららが呟いて、二人を引きずっていた足を止めた。
「愛央。シュークリームがなくなったことをどう説明する? ためしにきららに言ってみて」
「それは……そうだ、お化けが食べちゃったことにすれば――」
「お化け……。幽霊の噂の出所はやっぱり愛央だったか」
「噂? なにそれ」
「幽霊が出たという噂。さっきかんなが見たと言っていた」
「うっそだあ。この令和の世にお化けなんか出るわけないでしょ」
「あーあ、自分で言っちゃったよ」
と、勇希の嘆息。
「愛央。このままだとぬすみ食いで怒られて、それから嘘をついたことでも怒られることになる。もっとましな落とし所を考えないといけない」
「落とし所って、たとえば?」
「たとえば……謝って許してもらうとして、なにかお詫びの品を用意するとか」
「きらら、それいいアイディア」
「勇希、そんなこと言ったっておやつなんか作れるの?」
「私は作れるよ」
「ほんと!?」
「まあね。もっと褒めて」
「勇希隊員さすが! お嫁さんにしたい女子ナンバーワン! 匂い立つ女子力にむせかえりそう!」
「ふふーん♪」
「で、なにを作るわけ?」
勇希は戸棚や冷蔵庫にある材料を調べ始め、次にスマホでレシピサイトを検索した。
「いろいろあるけど、手っ取り早くスフレ風パンケーキにしようかな。ふわふわのやつ。愛央は生クリーム担当ね」
「おっけー。任せといて」
二人は方針が決まるや否やテキパキと動き出した。
「どうせ怒られるなら嘘をつくよりもおやつを作った方がもう一回食べられておトク。さすが勇希、クレバーな判断」
「まあねー」
「じゃあきららはもう行くね。おやつ楽しみにしてる」
「はいよー。みんなには私たちが直接言うから、きららからは何も言わないでおいてくれるとうれしい」
と、勇希は手を動かしながらきららに言った。
「うん、わかった。ここだけの秘密」
そう約束して、きららは作業室を後にした。部屋の中からはかちゃかちゃと器具の擦れる小気味よい音が響いた。