扉を大きく開け放ち、二人は足音を忍ばせて屋上におどり出た。
薄暗い塔屋――屋上前の踊り場になっている場所のこと――を出ると、傾いた夏の日差しが二人を横から照りつけた。夕暮れ近いとはいえ、床からの照り返しもまだまだ強い。きららは暑さと眩しさから思わず目を細めた。
屋上は校舎と同じ長方形で、塔屋の逆サイドに小さな教室が建てられている。元々は天文部用の教室だったらしく、中には部室としての一通りの設備のほかに望遠鏡や双眼鏡、夜をメインに活動する部活なのでランタンなどの明かりや防寒具、食事用に薬缶や簡易コンロなどの備品が揃っている。けれど、何より特筆すべきは、こんな離れの部屋なのにエアコンとパソコンがあることだった。
そんな教室だったから、天文部が廃部になった後でも色々な同好会から引く手あまただった。
教室に残された謎の被り物やら衣装が掛けっぱなしのパイプハンガーは演劇同好会だったときの名残だし、漫画研究会は膨大な作画資料や同人誌を置き土産として残していった。
そして、現在は宮内伶那が個人の部屋として占有している。
伶那は「私には自分だけのスペースが絶対に必要だから!」と言い張り、頑として譲らなかった。
実際、伶那は理知的で性格は真面目、みんなの意見を取りまとめるリーダーシップもあったし、揉め事の仲裁役にもよくなっていた。悪くいえば変化を嫌う保守的な部分があるにはあったし、意見の衝突を恐れないところはあったけれど、他人を振り回すような身勝手な振る舞いはなかったし、えこひいきもしなかった。
つまり、伶那はみんなの中心的な人物だったのだ。
それに、別にわざわざ屋上なんて離れの部屋など選ばなくても、校舎にはちょうどいい空き教室などいくらでもあった――放送室や脚本室、生徒会室、各準備室など、個室でいいならそれこそたくさんあった――し、もちろんエアコン完備でPCだって持ち込める。
だからみんなは「ふうん」という感じで、特に反対もせず伶那に屋上部屋を譲ってやった。
きららとかんなは、そんな屋上部屋に向かって抜き足差し足で忍び寄っていた。
かんなは意図を持った忍び足だったが、きららはかんなを真似て忍んでいるだけだった。だって、スパイみたいでなんだかカッコいいし、そっちのほうが楽しそう。
伶那が部屋で何をしているか――実際のところは誰も知らないのだった。
なにせ部屋には常に鍵が掛かっているし、だからといって別に伶那は部屋に引きこもったりはしていない。大抵は誰かと行動を共にしていた。
たまに部屋に招かれることもあったけど、いつも小綺麗に片付いていて、どちらかというと生活感のない部類に入る。
伶那が部屋を使うのは主に晩御飯の後だったけど、それは誰だって同じだし、しばらくすれば寝室として使っている教室に戻ってきて、みんなと一緒に眠るのだ。たまに部屋でひとり夜ふかしすることもあったけれど、どうせ読書だろうとみんな思っていた。
だから、足音を忍ばせて伶那の部屋に近づくなんて、よく考えたらあまり意味のない行動のはずなのだ。
けれど、かんなの態度は確信に満ちている。
これから何を見ることになってしまうのか――そんな期待と不安から、きららはごくりと唾を飲み込んだ。
部屋に近付いたかんなは、扉を避け、窓の下に慎重に張り付いた。そしてあらかじめ動画モードにしておいたスマホを掲げ、レンズ越しに窓から室内を覗いた。
レースのカーテンの隙間から、ソファに並んで座っている人物が見えた。伶那ともう一人はアレシアだった。
なんでアレシアがここに――と、きららは思ったが、喉まで出かかった言葉をすんでのところで飲み込んだ。
ソファの奥側に腰掛けているのが伶那で、手前に座ってこちらに背を向けているのがアレシアだ。アレシアが伶那に詰め寄るような格好になっていて、二人はどうやら揉めているようだった。中の声を聞くために、かんなは窓に爪をかけて、指をねじこむようにして静かに窓を開けた。すると、かすかにだが話し声が聞こえるようになった。きららは息を殺して耳を澄ませた。
「ちょっと! ストップストップ、ストップだって! お願いだから待って!」
「なによ、さっきからあなたらしくないわね。ここまで来てなにを待つことがあると言うの?」
「アレシアこそ焦りすぎ! さすがに急だって!」
「あなたから言い出したことよ。今さらおじけ付いたなんて言わせないから」
アレシアは語気強く言い放ち、伶那の両肩に手をかけて押し倒さんばかりに力を込めた。
「違うって。そうじゃなくて……」
「何故拒むの。正直に言いなさい」
「これ以上しちゃったら戻れなくなっちゃうってぇ……」
そんな伶那の声色は今まで聞いたことがなかった。アレシアの肩越しに見えた伶那は、今まで見たことがないくらいに不安気で頼りない顔をしていた。
アレシアはそんな今にも泣き出しそうな伶那の髪を指で漉いて、頬に親指を這わせ、ゆっくりと静かに口付けた。部屋に不穏な沈黙が降り、その場の空気を支配した。アレシアは顎をくっ、くっと傾けて、伶那の口の中の奥深くを舌で愛撫する。伶那はうっとりと目を閉じ、ソファの背もたれに身を預けた。アレシアが伶那の足の間に割り入ると、伶那は背もたれからずりずりと崩れ落ち、ついに座面に横たわった。その上にアレシアが覆い被さると、濡れて密着する二人の唇がはっきりと見えた。時折舌が絡みあう。アレシアだけでなく、伶那も自ら舌を動かしてアレシアを求めた。
きららとかんなは息をするのも忘れて、没頭する二人を見つめた。
「キスって素敵ね。そう思わない、伶那?」
唇を離し、荒い呼吸のままアレシアが伶那の上から尋ねた。伶那はこくこくと頷き、濡れた目でアレシアに合図した。
「それじゃダメ。ちゃんと言葉にしなきゃわからない」
「……無理。ほんとにこれ以上は無理」
「まだ言うのね」
アレシアが怒ったように言い、もう一度キスしようと伶那に顔を寄せるも、そうはさせまいと伶那はアレシアの顔を両手で掴んで拒んだ。それに構わずアレシアが体重をかけると、伶那の肩がソファに深く沈み込んだ。
「キスならギリギリ踏み越えたことにならないと言って私を誘ったのはあなたよ?」
「たしかに言ったけど!」
「言ったけど、なに?」
「こんなふうになるなんて、そのときはわからなかったからぁ……」
伶那の言葉は、語尾に向かうにつれて鼻にかかったような甘い声になった。そんな自分の声にあてられてか、手に込めていた力がふにゃっと抜けた。
「こんなふうって、どんなふうになったのかしら?」
「言いたくない」
アレシアは、そう言った伶那の内股に自分の膝をぴたりと密着させ、ぐっと押し込むように上下に動かした。
「はあっ! それ……ダメ……」
「そんなふうには見えないけれど?」
「違うの。こんなふうに流れでしちゃうのはダメなんだって」
伶那はアレシアの腿を手で押し除けて、なんとか足を閉じようと試みた。けれど力が抜けてしまっているから、ただ身悶えしているだけのように見える。今の伶那を動かしているのは意志の力だけだった。
「ねえ、お願い。これ以上は本当にダメ」
「そう。解放してあげてもいいけど、その代わり……」
アレシアは伶那のお腹の上にまたがるように位置を変え、人差し指を伶那の顔の前に突き出した。指をそのまま伶那の口に持っていき、唇に触れる。伶那が少しだけ口を開くと、指先からしずかにその中に忍び込ませた。そして爪で舌をかりかりと甘く擦ってやると、伶那は自分ではほとんど意識しないまま、アレシアの指に舌を絡めていた。
それからアレシアは空いているほうの手で伶那の乳首を服の上から強く押し込んだ。
「はんっ!」
伶那の口はアレシアの指を咥えて開いたままだったから、思いっきり甘い喘ぎ声を漏らしてしまった。
「あら。その声が『こんなふう』の正体かしら?」
言いながら、アレシアは伶那の乳首にぐりぐりと刺激を与え続ける。
「あんっ! うんっ! ね、ねえっ! ああっ! 聞いて! 聞いてアレシア! お願いだから!」
「なにかしら。言ってみて?」
「好きな人がいるの! だからもう終わって!」
「あらそう。奇遇ね。わたしもよ」
「それならわかるでしょ! こんなこと、お互いのためにならない!」
「今さらね。誘ったのはあなた。歯車は噛み合い、回り始めた。覚悟なさい」
「ダメだってぇ……。これ以上したら、離れられなくなっちゃうからぁ……」
アレシアは再び伶那の足の間に陣取って、両足を大きく開かせた。スカートが捲れ上がり、伶那の下着が露わになる。アレシアはそこに顔を近づけて、じわりと染みの滲んだ下着の部分に口付けた。
「ああああぁぁ……。もうやだぁ……」
ぴちゃっ、くちゃっ、という濡れた音が室内にこだまする。その音から逃げるように、伶那は目を閉じ、耳を塞いだ。
「こういう味がするのね。それにあなたもすごく気持ちよさそう。羨ましいわ」
「こんなのずるい。気持ちよすぎて何も考えられない。全然抵抗できない。私はちゃんとやめてって言った。なのにアレシアは聞いてくれない……」
伶那が洟をすすった。目も潤んでいる。涙は嬉しい、悲しい、恐怖などの理由で溢れるものだが、伶那の涙にはその全ての意味が込められていた。
「はあ……。やめてよね。これじゃまるで私が犯してるみたいじゃない」
アレシアは興醒めだと言わんばかりにため息をつき、伶那から顔を離した。
「あなたにそこまで思われるだなんて、その子に少し妬けるわ。私もそこまで思われてみたいものね」
そう言ってアレシアは伶那に手を差し出した。伶那はおそるおそるその手をとって起き上がった。
「――ありがとう」
「ねえ、最後にあなたからキスしてくれない。ちゃんとしたやつ」
「ええ……。まだするの?」
「あのねえ。私だって経験したいのよ。無理やりじゃない、合意の上のキスをね」
アレシアにそう言われて、伶那ははっとした。確かに伶那ははじめから拒み続けていたし、ここで終わってしまっては二人の間に苦いものが残りそうだ。
「自分のことばかりじゃなく、私のこともわかってくれた? ちゃんと気持ちを込めて、あなたなりのやり方でして頂戴」
「うん、そうだよね。ごめんね、アレシア」
伶那は背を伸ばしてアレシアに向き合った。あらためて見ると、アレシアの顔は人形のように完璧な美しさがあった。その顔に先ほどまで愛されていたことを思い出し、頬がかっと熱くなる。
アレシアは伶那をまっすぐ静かに見つめたままだ。
伶那は意を決して、アレシアの唇に自分の唇をささやかに重ねた。
そして唇が離れた。
伶那は顔を赤くして、アレシアと目が合わないようソファの座面に視線をやった。
「え、これだけ?」
「うん」
「あなたのキスって、これのこと?」
「そうですけど!」
「あはは! これじゃ私がピエロみたいじゃない。あなた、思った以上にうぶだったのね」
「それがなに!? 悪い!?」
「伶那って、見かけによらずかわいいところあるのね」
「もう。馬鹿にして」
「素直じゃないわね。そういうところが好きだって言ってるの」
アレシアが悪意のない笑顔を向けると、伶那はふんとむくれて、頭をアレシアの肩に預けた。
「あら。急に甘えんぼさん?」
「違う。疲れたから肩を借りてるだけ」
「ならそういうことにしてあげる。ところで伶那、そもそもなんでこんなことしようなんて考えたの。あなたには荷が重かったでしょうに」
「うん。少し悩んでた時期があってさ。その人のことが好きなのか、ただ欲情してるだけなのか、自分では判断つかなくなっちゃって」
「へえ。それで、誰かに相談したの?」
「彩未」
「そう」
「それでね、アレシアなら話がわかると思うから、まずはキスから試してみたらって勧められてね」
「それなら心当たりがあるわ。私もこの間、伶那のことをどう思うか彩未に聞かれたの。もちろん魅力的よって答えた。そしたら、どこまでありか、なんて聞いてきたのよ。もちろん最後までって答えたけど」
「さ、最後までって?」
「最後は最後よ」
「わかんない」
「私だってわからないわ。なにせ未経験だし。それともあなたが教えてくれるのかしら?」
「……うううぅぅ」
伶那は返す言葉がなくなって、獣がうなるように喉を鳴らした。
「まあいいわ。で、どうだった?」
「どうって、なにが?」
「私の味」
「言い方えろいって! でも、そうね。わかったことがある。えっちと好きな人は別モノってこと。でも、私は好きな人とじゃなきゃ無理みたい」
「あんな姿を晒しておいてよく言うわね」
「だから、今わかったの! あのまましてたら絶対後悔してた」
「そ。よかったわね」
「アレシアはどう? 好きな人とじゃなくてもできちゃうの?」
「私は……そうね。あなたとなら平気みたい」
「そ、そ、そうなんだ」
「だって顔が好みだし、何より性格がかわいいもの」
「ありがと! はい、この話終わり!」
「ふふふ。私たちの間に秘密ができてしまったけれど、これからどうしようかしら?」
「うん。ちょっと困ったことになったよね。こんなこと誰かに言えないし、でもなかったことにはできないし」
「あら、忘れないでいてくれるのね」
「だってさ、もう今まで通りの態度でいるの、私には無理だよ。アレシアに対する親しみみたいなものは生活の色んなところに出てきちゃうから、たぶん隠せない」
「別に隠す必要ないじゃない」
「いや、だって急に仲良くなったら露骨に怪しいでしょ」
「急にじゃなければいいのね。じゃあこれから一緒にシャワーを浴びましょ」
「どうしてそうなるの!?」
「汗かいちゃったし、あなたも色んな意味でシャワー浴びたいでしょ?」
「そりゃ浴びたいけど……。誰かに見られたらどうするの」
「そうじゃなくて、見せるの。最初は違和感から冷やかされるかもしれないけれど、気にせず毎日続けるの。もちろん誰かを誘ってもいい。そうしているうちに、私たちの関係は日常に埋没する。きっとあっという間よ」
「そんなに上手くいくかなあ。あっ――彩未はどうしよう。彩未にはバレちゃってるのよね」
「彩未のことは諦めなさい。私たちはもう彼女の手のひらの上で踊ってしまったんだから。大丈夫、きっと悪いようにはされないわよ」
「いやだなあ……」
「さ。そうと決まったら汗を流しにいきましょ」
「そうね。うじうじ考えてても仕方ないか」
そう言いながら伶那は立ち上がり、自然な様子でアレシアに手を差し出した。アレシアはその手を見つめたまま二、三度パチパチとまばたきして、それからその手を取って立ち上がった。
かんなは静かに死角となる部屋の裏へと移動し、きららもその後ろを着いていく。
伶那とアレシアは校舎へと続く扉まで手を繋いだまま歩いていき、ノブに手をかけたところで、どちらからともなく繋いだ手を離し、それから扉を開けた。