「いつも由紀子がいるからさ、私はいなくなるまで待たなくちゃいけないんだ。ほんと邪魔なんだよね」
かんなはそう毒付いて、扉の向こうの暗がりに顔を向けた。
「詩帆もアレシアも詩も美岐も、みんな邪魔。忘れちゃってるくせに、思い出したら急に自分のものだってアピールしてくるし。かんなのことなんかまるで無視。やってらんないよね」
何かがおかしかった。
急に牙を剥いたようなかんなの態度もそうだし、図書室にこんな部屋があることをきららが知らなかったこともおかしい。
なにせきららは図書委員なのだ。図書室の清掃は大切な仕事のひとつだったし、もちろん手を抜くことなく隅ずみまでちゃんと清掃している。
でも、こんな扉――本棚と本棚の間にある隙間――のことなんか今のいままで全然気付かなかった。
「かんな――かんな! 幽霊ってなに?」
きららは部屋に踏み込みかけたかんなの袖を掴んで引っぱって、震える声で聞いた。
「この中にいる人はね、かんなが世界で一番大切なひと。大好きなお兄ちゃん。かんなのぜんぶ」
かんならしからぬ色気を帯びた艶のある声だった。きららは思わず唾を飲み込んだ。
「お兄ちゃん、ただいま!」
かんなが声を上げた。
薄暗い独房のようなその部屋は、おそらく図書室の用具入れに使われていたのだろう。古い本がぎっしり詰まったスチール製の本棚は中央が本の重みでひしゃげている。そんな本棚が壁一面に所狭しと並んでいて、ひどい圧迫感があった。
小部屋の中央にはパソコンデスクが置かれていて――おそらく図書検索用であろう古い形のパソコン――パソコンモニタとにらめっこする体勢で一人の男の子が座っていた。
男の子は少し癖のある髪の中に手を突っ込んで、特に意味もなくぽりぽりと頭を掻きながら思索にふけっている。
その男の子の顔に青白いモニタの光が当たって、まるで幽霊のようにも見える。けれど、どう見ても実体のある『人間』だった。
「お兄ちゃん、おつかれさま。かんなだよ」
そう声をかけられた『お兄ちゃん』は、かんなの声などまるで聞こえていないようにモニタを見つめ続けている。顎に指を当てて深く思索している姿はまるで生きる彫刻のようだ。
「はい、お土産。スポーツドリンクと、カロリースティックと――なんと今日はね、特別なチョコレートがあるのだー!」
かんなは高らかに宣言して、ポケットから彩未特製のパパリーヌを取り出した。
「かんなはまだお子様だから難しかったけど、きっとお兄ちゃんならおいしく食べられると思うよ。いいなあ、お兄ちゃんは大人で」
そう言って、かんなは『お兄ちゃん』のいる机の上にそれぞれを並べた。
すると『お兄ちゃん』はかんなを見ることもなくドリンクのボトルに手を伸ばし、画面から目を離さずにキャップを開けて口に含んだ。
「お兄ちゃん。慌てて飲んだらむせっちゃうよ。落ち着いて、ゆっくりね」
かんなのそんな気遣いも、『お兄ちゃん』はまるでどこふく風で、ごくりと飲み終わると蓋を閉め、再びモニタに向かった。
きららはその光景を前に、何もすることができなかった。
心の中に寂寞の風が吹いていた。
その『お兄ちゃん』の姿をひどく懐かしく感じるのに、心の中をどんなに探してもその記憶が存在しなかった。
完璧だと思っていたきららの世界に、ぽっかりと穴が開いたような感覚があった。
「お兄ちゃん。ねえ、お兄ちゃん」
かんなが縋るような声で言った。
「かんな、諦めないからね。絶対諦めないからね」
そう言って、かんなは『お兄ちゃん』を後ろから抱きしめた。『お兄ちゃん』は抱きしめられていることにも気付かない様子で、ただモニタを見つめるばかりだ。
「お兄ちゃん、大好き。大好き。大好き。大好き。大好き――」
大好きと繰り返すかんなの腕に力がこもる。
『お兄ちゃん』の肩口に埋もれたかんなの唇が『お兄ちゃん』の首筋に触れたのをきららは見た。
かんなと『お兄ちゃん』の逢瀬から逃げるようにして、きららは扉の外に出た。
少しして、かんなも同じように部屋から姿を現した。
扉を閉めるかんなに、きららはなんて声をかけていいものかわからなかった。
「ねえ、きらら」
きららが躊躇っていると、かんなが口火を切った。
「お兄ちゃんはね、かんなのことが見えてないんだ。みんなだってお兄ちゃんのこと忘れてるでしょ。それとおんなじ。ここにいるのに、いないことになってる」
「忘れてる?」
きららは首をかしげた。懐かしい感じはするが、きららにとっては全然知らない男の子だ。
「そう、忘れてる。きららはお兄ちゃんのこと『リーダー』って呼んでたんだよ?」
「リーダー?」
「そう。リーダー」
やはり覚えがなかった。それに、きららは誰かをリーダーなんて呼んだことがない。それどころか、リーダーがなんなのかもよくわからないのだ。
「テスト勉強で必死に暗記したのに、テスト本番で忘れちゃうことってあるよね。その『忘れる』はちゃんと覚えてるのに、毎日当たり前に過ごした時間のことは、すぐに忘れちゃう。『忘れる』ってなんなんだろうね」
かんなの声には、諦めすぎて諦めることにも飽きてしまったような渇いた響きがあった。
雫世界はフラグメントと呼ばれる記憶の塊が蜘蛛の巣のように無数に繋がって構成された世界だ。個人と個人は誰かの記憶を通すことで繋がりを維持している。だから、そのネットワークから外れてしまったものは認識されないのだ。
かつてリーダーと呼ばれていたその少年は、かんなからの一方通行の思いによって繋がりが維持されている。これを双方向にするための繋がりの束が圧倒的に足りていなかった。
「忘れられちゃった人はさ、いないのとおんなじなんだよ。でも、覚えていたところで、触ってすらもらえなかったら、それだってやっぱりいないのとおんなじ。だからさ、お兄ちゃんにとってかんなは、きっといないのとおんなじなんだよ」
そう言ってかんなは、口元だけで不器用に笑った。なのに全然笑えてなくて、むしろ泣いているようにも見えた。
「この世界はひどくあいまいで、お兄ちゃんはかんなたちとは別の世界にいるんだよ。ちゃんと触れるのに、おかしいよね。お兄ちゃんさえかんなのことを思い出してくれれば、きっとこっちの世界に来れると思うんだけどなあ」
かんなが小さくため息をつく。
「どうすればあの人はかんなのことを思い出してくれる?」
「その方法はたったひとつ。かんなたちがお兄ちゃんを思い出せばいい」
「おおー」
「お兄ちゃんとの強い繋がりを思い出せばいいんだよ。この世界には、お兄ちゃんと特に深く繋がってた人たちが集められてるから」
「じゃあさっそくみんなに教えてあげないと!」
「それはダメ」
解決策を見つけて腕を上げかけたきららに、かんなが強い調子でピシャリと言い切った。
「あの人のこと、ここから出してあげないの?」
「だって、お兄ちゃんは幽霊だから」
「あれは幽霊じゃない」
「幽霊だよ」
「違う。あれはれっきとした人間」
「なに言ってるの、全部忘れちゃってるくせにさ! そうやっていちいち自分の考えを主張してこないでよ。こうなるから誰かに教えるのイヤなの!」
かんなは急にヒステリックな声をあげた。もうウンザリだとでもいうように、鼻の横に邪悪なほうれい線が色濃く浮かんだ。
きららが怯えて肩をすくめると、
「ああ、ごめん。いきなり怒られてもわけわかんないよね。えっとね、お兄ちゃんって夜になるとたまに部屋を出て、校舎をふらふらしてるんだ。でも結局は幽霊ってことで片付けられちゃったでしょ。かんなは思い出してくれるなら幽霊でもいいって思ったんだけど、でもなんにも起こらなかった。それからは何を言っても幽霊ってことで話は終わっちゃうし、お兄ちゃんと全然関係ないことまで幽霊のせいにされた。だから、もういいやって思っちゃったんだ」
かんなは、さっきまで笑っていたかと思えば急に怒り出し、思いの丈をぶつけた後で投げやりな態度を取る。そんなかんなの姿がきららの目にはひどく不安定なものに映った。
「ねえかんな。なんできららには教えてくれたの?」
「きららはね、証人だから」
「証人?」
「そう、証人。かんなだけはお兄ちゃんのこと覚えてたって、きららには知っといて欲しくて。だってきららはどの世界でもお兄ちゃんに恋しなかったから。いつでも、きららだけはお兄ちゃんの本当の妹だった」
「そうか、きららにはお兄ちゃんがいたのか――!」
「あはは。たとえばの話だよ。でも本当の兄妹みたいで羨ましかった。だから、きららとはきっと友達になれるって思ったんだ」
「本当の友達? かんなはみんなを友達と思ってないの?」
きららが問うと、かんなの顔に嘲るような表情が一瞬浮かび、それを隠すようにしてにっこりと笑った。
「同じ秘密を持たない人は友達じゃない。ねえ、きらら。お兄ちゃんのことは二人だけの秘密だからね」
「秘密――それは必ず暴かれるもの。そして秘密を抱えた二人の関係は変化する。これは今日きららが学んだこと」
「そうだね」
「秘密のままにしておけば、誰かに暴かれる心配はなかった。でも、かんなはきららに秘密を教えちゃった――かんなは本当にお兄ちゃんのことを秘密にしたいって思ってる?」
秘密を共有したきららとかんなは、親密になり、その親密さは伝播し、二人の共通点はやがてみんなの知るところになるだろう。
幽霊というオカルトを隠れ蓑にして、二人だけで交わす秘密のお兄ちゃんトーク。
かんながお兄ちゃんをどれだけ好きか、それを言葉にしてしまえばもう止まらないだろう。
思いを堰き止めることは誰にもできない。
公然の秘密は秘密でなくなり、夜な夜な校内を徘徊する謎の幽霊は誰かに『発見』され、共有され、あるひとつの強いイメージとなる。
(この人は、誰だろう?)
そうやって、記憶の蓋が音を立てて開いていくのだ。
きららは真意を推し量るべく、かんなの瞳の奥に現れる揺らぎを待った。
しかし、かんなには動じる様子がまったく現れない。
ただ黙ってにこにことしている。
「きららに秘密を守ってほしいって、本当に思ってる?」
きららが繰り返し尋ねる。
けれど、どんなに尋ねても、かんなはもう何も喋らなかった。