続・小説みつめてナイト 紅玉の双騎士【完結】   作:ケルティック☆タイチ

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【35】月下幻想

 海面に体を叩きつけられた衝撃で肺の中の酸素の大半を吐き出してしまった忠正は、そのまま重力に引っ張られるように海の中へと沈み込んでいった。

十月になろうとする海の水はまだ肌を刺すような冷たさは感じないが、体温を奪うには十分な冷たさを持っている。

前後もわからない状況で水の中へ叩き込まれたので、まずは目を開けて状況を把握し、海面を目指さなければいけない。

 

 そう考えて見開いた目に最初に飛び込んできた光景は、猛然とこちらに向かって迫りくるアンスガーの姿だった。

いくら浮力の強い海水とは言え、重量のあるチェインメイルを着込んでいるアンスガーは水中では絶対的に不利であるはずだ。

だが今目の前に迫りくるアンスガーはそんな不利をものともせずに、信じられない速さでこちらに迫って来ていた。

 

――迎え撃つ前に空気を吸わなければ……!

 

忠正は即座に判断し海面を目指して水を蹴る。

だが、その足首をアンスガーの手が万力のような力で掴むと同時に深みへと引き戻された。

どこにそんな力が残っているのか信じられなかったが、そんな事を考えている場合ではない。

忠正は自分の右手にまだレイピアを握っている事に気が付くと、咄嗟にそれをアンスガーに向かって突き出した。

レイピアはアンスガーの腹部を捉えたが、チェインメイルの所為で突き刺さる事はなかった。

アンスガーは水中で器用に方向を変えると、忠正の背中を蹴って水面を目指していった。

 

蹴られた衝撃でまだ少し肺の中の空気を吐き出してしまった忠正は、目の前に星が飛ぶのを感じながら必死に空気を求めて水を掻いた。

必死に水を掻いていた左手が水面を打ち、海面に顔を出すのと同時に空気を大きく吸い込んだ忠正の頭を、先に海面にたどり着いて待ち構えていたアンスガーが再び水の中へと押し込んだ。

十分な量とは言えないが多少の呼吸が出来た忠正は、このいけ好かない銃使いの男が、この場で自分を溺死させるつもりでいる事を確信した。

 

 

 暗い水中に引き戻された忠正は、再び目の前にアンスガーが迫ってきているのを確認し、今度は顔面目掛けてレイピアを突いた。

しかしアンスガーは咄嗟に下へ向けて泳ぐ方向を変えており、その忠正の一撃は外れてしまった。

アンスガーは器用に水の中を泳ぐと、忠正の両足を抱きかかえるように取りついた。

水を蹴る事が出来なくなった忠正は、チェインメイルを纏ったアンスガーの重さも相まって、急激に沈んでいく。

執拗なアンスガーの殺意に忠正は恐怖を通り越し、半ば呆れながらレイピアでもう一度突こうしたが、アンスガーは水中でも卓越した身体能力で忠正の背中を取ると、上下の無い水中の強みを活かして、腕は忠正の両足を抱えたまま体の上下を入れ替えて、足で忠正の首を絞めた。

まさに水中ならではのレスリングを応用した締め技だ。

今さっき少しだけ吸えた酸素は水中での激しい抵抗で立ちどころに消費してしまった。

苦しさのあまりレイピアを持つ手が緩み、手からこぼれてしまう。

酸素を切望する肺が火をつけられたように激しく痛み、目の前の視界が瞬く間に狭まっていくのがわかる。

 

――このままじゃ、まずい……!

 

 

 アンスガーにしてみれば、これは自分の命を賭した決死の行動であった。

すでに先ほどの二人がかりでの体当たりを受けた事で肋骨はかなりの数が折れており、その内の何本かが内臓に突き刺さっているのを直感で理解していた。

仮にこの戦いを切り抜けたとしても、戦場に復帰するのは難しいだろうし、シュバルツデスアプグルント騎士団の隊長として指揮を執るにも相当な時間を要するだろう。

シュバルツが目指す大トルキア帝国の復興は、そんなに時間的猶予があるわけではない。

 

そうであれば、自分が隊長として出来る最善の行動とは何かを冷静に考えると、ハンガリアの陽動に釣られずに戦力を温存するという事を考えて、尚且つ部隊の指揮権を持つ者を瞬時に見極めて排除しようなどと小賢しい知恵の回る、この騎士をこの場で確実に殺す事だと思い至った。

この東洋人風の外見にルビーのような紅い瞳を持つ男は、生かしておけば必ずこの先シュバルツデスアプグラント騎士団にとって脅威となる。

それを確信したアンスガーは、差し違えてでもこの男をこの場で亡き者にしようと決意していた。

 

相手の動きを封じる為に足を抱えつつ上体を拘束してはいるが、忠正が死に抗って体を激しく動かす度にすでに満身創痍のアンスガーの体はバンシーが叫ぶかのような悲鳴を上げる。

だがこの全身を襲う痛みが、耐えがたい苦しみの一つ一つが、大トルキア帝国復興の礎になると考えるとアンスガーはむしろそれらが自身の魂を高みへと導く救いのような気さえしており、恍惚とした表情すら浮かべていた。

 

 

 忠正はすでに死線を彷徨っていた。

酸素欠乏により頭は朦朧としており、アンスガーに対抗しようとしても四肢に力が入らない。

このまま無限の海底まで引き摺り降ろされて死んでいくのか。

自分にはまだやらなければいけない事があったのではないか。

何の為にドルファン王国まで来たのか。

傭兵として、こんな所で命を散らしている場合ではないのでないか。

あの人の、大切な人の無念を晴らす為にドルファンに来たのではなかったのか。

生きようとする本能が酸素を求めて、どれくらいの距離があるのか判断がつかないが遥か遠くに見える海面に視線を送った時、忠正は鈍る思考のなかでも信じられない物を見て我が目を疑った。

 

 わずかに明るい海面の光を背中に受けて、一人の美しい少女がこちらを見ていた。

波打つ青い長い髪が水の流れに揺れて、肢体にまとった羽衣のような服がふわりと広がり戦場というこの場にそぐわないほど優雅だ。

こちらを見つめるその視線は切なげで愁いを帯びており、海中だというのにその瞳には涙が浮かんでいるようにも見えた。

そのこの世の物とは思えない美しさは、まるで神話に出てくる人魚のようだ。

そんな事を考えながら朦朧とした意識の中でぼんやりと眺めていると、その女性はこちらに向けて信じられぬ速さで泳いで来て、忠正の前で静止した。

近くで見るその表情は大人びているようでどこか幼く、そして美しかった。

女性は何かをつぶやくように口を動かすと、静かに顔を近づけて忠正の唇に自分の唇を重ねた。

 

 

 口づけた唇から空気を吹き込まれた忠正は、ぺしゃんこになった肺が空気を取り込み、脳に血流が周って一気に覚醒した。

忠正に空気を与えた女性はすでに水面を目指して泳いでいたが、一瞬だけこちらを振り返りわずかに微笑んだように見えた。

 

 それが神話の登場人物だろうが、人魚だろうが構わない。

棺桶に片足どころか両足を突っ込んでいた忠正だったが、その神秘的な女性によって与えられたチャンスを無下にするような事は出来ない。

状況は変わっておらず、死と隣り合わせなのは変わらないのだ。

すぐに行動に移った忠正は、制服の内側に入れていた先ほど銃弾から命を守ってくれたフィオナのナイフを取り出し、鞘から抜き放った。

背中に張り付くアンスガーに向けて刃を振るってもチェインメイルに弾かれる事はわかっているので、自分の首を絞める足に向かってナイフを突き立てた。

肉を抉る不快な感触と共に、目の前の海水にどす黒い靄が広がる。

声にならない悲鳴が空気の泡となって溢れ、首を絞めていた足が外れた。

上半身が自由になった忠正はずかさず両足を抱えている腕にもナイフを突き立てる。

瞬間的に足を絞める力が緩み、忠正は足を引き抜いた。

 

 ようやく自由になった忠正がアンスガーの方を振り返ると、手足から赤い靄を噴き出しながら、アンスガーがまるで鬼のような形相でこちらを睨んでいた。

突然の闖入者によって状況を覆された事に対してなのか、忠正を仕留めきれない事への怒りなのかはわからないが、間違いなく臨界点を超えた怒りを表情に浮かべている。

謎の女性に助けてもらえたとは言え相変わらず空気は足りていないし、この謎のガンナーとは決着をつけなければならない。

 

 忠正はフィオナのナイフを右手に構えると、アンスガーに向かって水を蹴った。

対するアンスガーも手足から溢れ出る血を全く無視して忠正へと泳ぎ出た。

二人は水の中で激しくもつれ合いを演じたが、ついにここに来てアンスガーの無限とも思われた体力は底を突き始めていた。

明らかに動きに精彩がなく、チェインメイルの重さに筋肉が対応しきれていない。

忠正は謎の女性に分け与えられた空気の最後の一呼吸分を酷使して、露出したアンスガーの喉元、頸動脈を目掛けてナイフを振るった。

 

 アンスガーの口元と切り裂かれた喉から空気の泡と一緒に鮮血があふれ出し、それでも鬼気迫る形相で忠正を睨みつけたが、それもほんの数秒でアンスガーはその表情のまま重力に縛られて沈んでいった。

それを見届けた忠正は、水面を目指して泳ぎ出した。

 

 

 永遠とも思える海面までの距離を泳ぎ切ると、ようやく頭を出して空気を吸った。

今まで少ない空気で散々酷使された肺が急取り込んだ空気に驚いて収縮を拒否したが、むせながらも呼吸を繰り返していると徐々に落ち着いて空気を吸って吐いてくれるようになった。

そこでようやく周りを見渡すと、船から落ちた場所はすでにそれなりの距離が離れており、少し先にはシーエアービーチの白亜の砂浜が見て取れた。

アンスガーとの死闘で痛めた体がこわばっているが、水を吸った重い体をなんとか奮い立たせて波打ち際まで泳ぎ切ると、忠正は砂浜へと倒れこんだ。

荒い呼吸をしながらごろりと仰向けに寝転ぶと、空には美しい三日月が浮かんでいた。

 

月を見上げたまましばらく肩で呼吸をしていると、ようやく生き残ったという実感が湧いてきた。

どの瞬間に死んでいてもおかしくないような強敵だった。

生き残れたのは運が良かったからと言い切ってしまってもおかしくない。

あれほどまでに恐ろしい敵、強い敵と対峙したのは初めての経験だった。

まだ右手に握ったままのナイフに気付き、それを月明かりにかざす。

このナイフが無ければ確実に死んでいた。

ナイフを貸してくれたフィオナに感謝すべきなのか、それともエリータス家の人間の証としてフィオナに託していたジョアンに感謝すべきなのか、そんなくだらない事を考えていると砂浜を歩く静かな砂音が聞こえてきて、忠正のすぐ近くで止まった。

視線を隣に向けると、素足のすらりとした足が見える。そのまま上へと視線を辿っていくと濡れたワンピースのドレス、手に持たれた忠正のレイピア、そしてこちらを心配そうな顔でみつめている、海の中で助けてくれた少女の顔が見えた。

 

「君は……!」

 

忠正は言いながら上半身を起こしたが、体中に激痛が走りわずかに顔をしかめた。

 

「あ……大丈夫ですか……?」

 

少女があわててひざまずき、忠正の背中に手を添えながら、鈴のような澄んだ声で言う。

忠正は若干咳き込みながら言葉を返す。

 

「さっきはありがとうございました。あの……」

 

そう言いながら先ほどの唇の柔らかな感触を思い出して赤面した忠正は、しどろもどろに言葉を続けた。

 

「なんて言ったらいいか……その、助けてもらわなければ死んでいました。本当にありがとうございます」

 

少女はそんな忠正に微笑んで見せると、レイピアを差し出した。

 

「これ、拾っておきました。きっと大切な物だと思ったので」

 

忠正はそれを受け取ると、安堵のため息を吐いた。

 

「ありがとうございます。お察しの通り、大切な物なんです。剣は騎士の魂、これは母から譲り受けたオレの宝物なので」

 

その言葉に少女は頷き、もう一度優しく微笑んだ。

忠正はあわてて立ち上がると、少女に向かって頭を下げながら言う。

 

「申し遅れました。オレ……私は、ドルファン海軍所属の傭兵、タダマサ・キサラギといいます」

 

深く垂れた頭を上げると、少女も静かに立ち上がり、両手を胸の前で組みながら言った。

 

「タダマサ・キサラギさん……。わ、私はアンと言います」

 

アンと名乗った少女は濡れた髪を手櫛で整えながら頬を赤らめた。

 

 大砲の弾が飛び交う戦場海域になぜこんな普通の少女がいたのか。

あんな状況の中でなぜ自分を助けてくれたのか。

真っ暗な海の中でどうやって自分のレイピアを見つけてこられたのか。

次から次へと疑問が浮かんでくるが、忠正は月明かりを浴びて微笑む少女の息を吞むような美しさに見惚れて、うまく言葉を発する事が出来ずにいた。

そんな忠正にアンは戸惑い気味に声をかけた。

 

「あ、あの、私はこれで失礼しますね。こんな濡れ鼠で恥ずかしい……」

 

その言葉でようやく現実に立ち返った忠正は何を言っていいかわからず、咄嗟にこんな言葉を口にしていた。

 

「また会えますか!?」

 

アンは驚いたように息を吸ったが、やがてはにかみながら微笑んで言った。

 

「はい。きっとまたお会いしましょう」

 

そんな言葉を残して去っていくアンの後ろ姿を、忠正は呆然とみつめていた。

 

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