続・小説みつめてナイト 紅玉の双騎士【完結】 作:ケルティック☆タイチ
まだ夜が明けきる前の薄暗さの中、木々が生い茂る森の中で唯一開けた丘の花畑の中心で、その女は静かに立ち尽くしていた。
春とは言え早朝の空気は冷たく、女の静かで深い呼吸に合わせて白い息が漏れている。
目を閉じたまま立っている女は非常にゆっくりとした動作で徐々に腰を落としていくと、左手に持った刀の鯉口を切った。
時間が止まったかのように腰を落としたその姿勢のままピクリとも動かない。
そんな凍り付いた早朝の薄暗い花畑へ別の女性が近づいて来た。
灰色の長いローブを頭から被ったその女は森の中から現れ、立ち尽くす女に声をかけた。
「サリシュアン様」
その瞬間、全く何の音もせず、何の予備動作もなく、立ち尽くしていたはずの女の右手には鞘から抜き払われた刀が握られており、何もない空間を確かに斬っていた。
ローブの女はその光景を初めて見たわけではなかったが、いつ見ても、何度見ても、刀が抜かれた瞬間を認識する事は出来たためしがない。
「鍛錬のお邪魔でしたか」
ローブの女が言うと、サリシュアンと呼ばれた女、ロゼッタ・サリシュアンは刀を鞘に納めながら言った。
「いえ、大丈夫よ。もう終わりにしようと思っていたところ。それより、なにかあった?」
ローブの女はロゼッタの近くまで歩いていくと、フードを外して跪いた。
秋の小麦畑のような金色の肩下までの髪がこぼれ、まだ幼さを残す顔立ちに、細い鼻のまわりのそばかすが特徴的だ。
ゲルタニア人に多くみられる薄いブルーの瞳がロゼッタを真っ直ぐに見上げていた。
「これより潜入捜査を開始いたしますので、お別れのご挨拶を……と思いまして」
「ああ、もうそんな時間。おいで。髪を結ってあげるわ」
ロゼッタはその少女と言っても差し支えのない女の手を取って、近くの大きな石に座らせた。
その後ろに同じように座りながら、少女の金色の柔らかな髪を三つ編みに結い上げていく。
少女はされるがままに任せているがその表情はどこか恥ずかしそうで、どこか恍惚としているようでもあった。
ロゼッタはするすると三つ編みを編み上げると、懐から一本の赤いリボンを取り出して先っぽに結んだ。
「サリシュアン様?」
少女が不思議そうな声をあげる。
今まで三つ編みを編んでもらった事は幾度かあったが、リボンを結ばれたのは初めてだった。
ロゼッタはそのリボンを愛おし気にみつめている。
「そのリボンは私が幼い頃、お母様にいただいた物よ。今日まで大切にしていた私の宝物なの。お守りがわりにもらってくれる?」
「そんな……そんな大切な物、いただけません!」
少女が戸惑った声を上げると、ロゼッタはそんな少女の頭を優しく撫でながら言った。
「あなたにもらってもらいたいの。余所者で歓迎されていないシュバルツデスアプグルントの中で、あなただけは私を慕ってくれた。私にとってあなたは妹のようなものよ。これからの任務の事を考えれば、私がしてあげられる事などこれくらいのものなのが歯痒いわ」
「サリシュアン様……!」
少女は振り返り、その薄いブルーの瞳に涙を浮かべた。
そんな少女の頬を優しく撫でながら、ロゼッタは言葉を続ける。
「たった一人で敵地に潜入させるような事になってしまったけれど、許して。私も機が熟せばそちらに合流する。それまでは辛いと思うけれど、耐えてくれる? パティ」
少女は涙を拭うと、力強く頷いた。
「もちろんです。サリシュアン様の為に、大トルキア帝国復興の為に、このパトリツィア・オーエンズの命をかけて任務を遂行いたします!」
パトリツィアは立ち上がり、ロゼッタに向けて深々とカーテシーをすると、サッと振り返って森の方へと歩いて行った。
そして一度だけ振り返って三つ編みの先のリボンを握ってみせた。
「このリボン、私の宝物にします!」
そう言って去っていくその後ろ姿を見送りながら、ロゼッタは深いため息を吐いた。
パトリツィアが去って行った反対の方向から男の声が聞こえてきた。
「へえ、人心掌握もお手の物ってか?」
ロゼッタはその男を確認もせずに、もう一度深いため息を吐いた。
「覗きなんて趣味がいいわね。エルヴィン・ハーン」
名前を呼ばれたエルヴィンは薄ら笑いを浮かべたままロゼッタに近づいて行った。
「よく飼い慣らしたじゃないか。あれはあんたの為に命を捨てられる覚悟をもっているぜ」
ロゼッタはその言葉には答えず静かに立ち上がると、冷たい目でエルヴィンを見た。
「こんな早朝にも私の監視? ご苦労な事ね」
「監視なんて人聞きの悪い。オレはあんたの教育係を仰せつかっているだけさ」
「教育係とは笑わせてくれるわ。あなたから何かを教わった事は一度もない」
「そりゃあ手厳しいご指摘で」
そう言ってへらへらと笑うエルヴィンの態度に、ロゼッタは嫌悪感も露わに言った。
「それで、わざわざそんな事を言う為に来たの?」
「ああ、そうだったな」
エルヴィンの顔から笑顔が消える。
途端に空気が冷たく、重くなるような雰囲気があった。
「騎士団長から招集命令だ。ハンガリアの動きについての緊急会議だそうだぜ」
「……わかったわ」
森の中へと入っていくエルヴィンに続きながら、ロゼッタは振り返ってパトリツィアの無事を祈った。
「おい、私はこの状況をどう受け止めたらいいんだ?」
言葉の端に溢れんばかりの怒りを含ませて言うジョアン・エリータス少佐に対し、忠正は苦笑を浮かべる事しか出来なかった。
今日は傭兵も含めた海軍の二度目の招集日だった。
前回と同じように時間通りに会議室に入った忠正の目に飛び込んできたのは、広い会議室の前方の長椅子を陣取り、行儀の悪さを体現したかのように机の上にブーツの足を乗せたルシル・ルシラ・ド・ベルヴィラとその周りに同じような態度の柄の悪い屈強な男たちが七人いる光景だった。
同じタイミングで部屋に入って来たジョアンが最初に口にしたのが、冒頭の言葉というわけだ。
そんな様子のジョアンに対し、不遜な態度で見ていたルシルは嘲るような口調で言った。
「あんたがこの軍の親分かい? 今日からこのルシル・ルシラ・ド・ベルヴィラが率いる海賊団〝白鷲〟の七隻と、オレの船〝ブルー・セレンディバイト号〟が世話になるよ」
ジョアンは眉間に寄った皺を指で揉みながら答えたる。
「それが世話になる者の態度か」
「実際はオレ達があんたらの世話をしてやるわけだからな」
ルシルが言うと周りの男達が声を上げて笑い出した。
ジョアンは唇の端を引きつらせながら、忠正の肩に手を置いた。
「どういう事だ、キサラギ君。前回はキミ以外に誰も参加しなかったが、どういう風の吹き回しなんだ、これは」
「ま、まあ色々とありまして。ですが、これは我が軍にとっては大きな前進です。素行はともかくとして、ルシルの艦隊は戦力として申し分なしです。言う事を聞かない〝彷徨えるオルティニア人〟の如き海賊どもに比べれば、まだこちらに協力する意思のある者の方が期待出来ると思うのですが……」
「う、うむ……」
早口で言った忠正の言葉に、ジョアンは渋い顔のまま頷いた。
実際に忠正の言った通りなのだ。
傭兵徴募で集まった船は確かに数だけはそれなりに集まったが、全く統率が取れておらず、有事の際にどうやって指示を出したら良いかすら決まっていなかった。
仮にも八隻の船が自分の指揮下にいてくれるならば恰好はつくし、その様子を見た他の船たちも便乗してくるかもしれない。
アルビア海軍との伝令の仕事しかなかった過去の自分の立場を考えれば、多少の問題はあっても今の状況の方が大分マシと言えるだろう。
そう考えたジョアンは佐官専用の制服の襟を正すと、ルシルに向かって軽く咳払いをした。
「まあ、キミ達が協力してくれるというのならば、私としてもやぶさかではない」
そう言ってちらりとルシルを見る。
ルシルはこちらを見てにやにやとしていた。
「……本当にキミのような年端もいかぬ女性が艦隊を率いる船長なのか? 私の娘と大して変わらないように見えるが……」
ポツリと呟いたジョアンの言葉に、ルシルの取り巻きの船長の一人が威圧的な声を上げた。
「おう、うちのお嬢を甘く見たら海に叩き落とすぞ!」
それに同調するように他の男達も次々に声を上げる。
「そうだ、うちのお嬢は腕っぷしの強さもこの中じゃ一番よ!」
「お嬢はマルタギニア海一の船乗りだぜ!」
「それにマルタギニア海一の美人だ!」
「そうだ!」「そうだ!!」
口々に声を上げる男たちに、ルシルがため息を吐いた。
「お前ら、ちょっと静かにしな」
ルシルの一言で男達はびしっと背筋を伸ばして静かになった。
そんな男達を横目に、ルシルが切り出した。
「まあ、あんたの言いたい事もわかるよ。オレも他の海賊の奴らに安く見られた事は一度や二度じゃないし、確かに他の船長どもに比べて年齢が若いというのもあるさね」
ルシルは言いながら立ち上がり、ジョアンの前に立った。
「元々、この海賊団〝白鷲〟はオレの親父が作ったものだ。この船長たちは親父の部下だったやつらだし、親父と一緒に海を渡った猛者どもだよ」
ジョアンは落ち着かない様子で言った。
「そ、その父親はどうしたのだ?」
「死んだよ」
なんの感情も含まない言葉で言い切ったルシルに、ジョアンはやや驚いた様子だった。
だがルシルは構わずに続けた。
「まあ、海賊だからね。戦闘で負った傷が原因で、死んだ。もう三年も前の話だ。その跡目を継いだのが義理の娘だったオレってわけだ」
その言葉に反応したのは忠正だった。
「義理?」
「ああ。オレはもともとみなしごでね。籠に入れられて海を漂っていた赤ん坊のオレを、親父が拾い上げて育てたんだ。まあ、物心つく前から海賊船で育ったわけだから、海賊歴は長いかもしれないな」
そう言ってルシルはからからと笑った。
そんなルシルを見ながら、男の一人が低い声で言った。
「オレ達は先代船長からお嬢の事を託されている。そして、お嬢が赤ん坊の頃からそのすべてを見てきている。ここにいる全員がお嬢の事を信頼しているし、お嬢の為に命を懸けているんだ」
その男の目はまっすぐで、その言葉の端々にルシルへの厚い信頼が滲み出ていた。
絆の強さを目の当たりにして、忠正は思わず微笑んだ。
「……海賊団というよりは家族のようなものなんだな、キミ達は」
その言葉にルシルは少しだけ照れ臭そうに笑った。
「まあな」
そんなルシルを見て、先ほどの男が言う。
「しかし、うちのお嬢を打ち負かす程の強者がいるって聞いて驚いていたが、まさかこんな優男だとはな。お嬢の事、よろしく頼みますぜ」
「お、おい!」
突然の言葉に狼狽えるルシルを余所に、男は続けた。
「びっくりしやしたぜ。タイマンで負けたって事もそうだが、帰って来るなりその負けた相手の事を誉めまくるもんだから、これは相当な実力者だって噂になっていまして」
「ば、馬鹿! やめろ!」
顔を赤くして慌てるルシルに、忠正は苦笑いを浮かべるしかなかった。
その日の軍議を終えルシル達一行が船に引き上げていき、忠正とジョアンは言いようのない疲れに襲われていた。
態度の悪さもそうだが、事あるごとに文句を言う海賊たちと、意外と核心をついた質問をするルシルの相手は想像以上に二人の負担となっていた。
ジョアンは自分の目をぐりぐりと押しながら、疲れ果てた声で言った。
「戦力にはなってくれそうだが、毎回あの相手をするとなるとなかなか大変だな」
「同感です。出来ればルシルとその側近一人くらいにして欲しいものです」
忠正の返答にジョアンは苦笑いを浮かべた。
「まあいい。どうだ、少し付き合ってくれないか」
そう言ってグラスを傾ける仕草をするジョアンに、忠正は若干驚いた。
海軍少佐でドルファンでは圧倒的な権力を持つエリータス家の貴族にしては、その物言いがあまりにも庶民的だったからだ。
「よろしいのですか? お屋敷に奥様や使用人がお待ちでは」
忠正が言うと、ジョアンは嫌味のない笑顔で言った。
「何、妻は不在にしているし、使用人達も私が夜はあまり食べない事を知っている。問題ないさ」
「はあ、ではお供させていただきます。私は未成年ですので、食事のお付き合いしか出来ませんが」
「なんだ、意外とお固いんだな」
「仮にも治安維持を担う傭兵部隊を束ねる方のお言葉とは思えませんが」
忠正の言葉にジョアンはわずかに微笑んだ。
「まあいい。私は飲むし、キミは食事をすればいい。何か美味いものでも食べていこう」
二人は連れだって夜のサウスドルファンの通りへと歩き出した。