続・小説みつめてナイト 紅玉の双騎士【完結】 作:ケルティック☆タイチ
シャルシス・エリータスを巡る一件がとりあえずの収束を見せた後、フィオナは時折こうして夜のビーチを散歩しに来る事があった。
それは命を狙われているという無意識下の緊張から解き放たれた事もあるし、父であるジョアン・エリータスとのわだかまりが解消されたという事もある。
穏やかな夜のビーチは静かだが解放感があり、まだ大きな声を出して歌うほどの勇気は出ないけれど、こうしてハミング程度なら歌うようになった。
ドルファンを代表する世界の歌姫である母ソフィアはまだ遥かに遠い存在ではあるものの、その憧れへの道をフィオナはようやく歩み始めたところだった。
そんなフィオナは、波音に紛れて不意に耳に届いた歌声に思わず足を止めてまわりを見渡した。
「この声……!」
透き通るような清らかな声に乗る、言葉に出来ないような切なさと儚さ。一度聴いたら忘れられないその歌声。
少し先の浜辺に座り、海に向かって歌っていたのは、以前忠正に紹介をされたアンに間違いなかった。
「あ、アンさん!」
フィオナがやや緊張気味に声をかけると、アンはゆっくりとフィオナの方を向くと少し困ったように首を傾げた。
「す、すみません。どちら様でしたでしょうか」
その反応にフィオナはショックを受けなかったわけではないが、たった一度、ほんの少し話をしただけだ。そうなっても仕方がないと思い、必死に声を上げた。
「あ、私、フィオナ・ロベリンゲです。以前、キサラギさんと一緒にお話しした事が……」
キサラギの名に反応して、アンはようやく思い出したかのように申し訳なさそうに言った。
「ごめんなさい。私、人の顔と名前を覚えるのが苦手で……」
「い、いいえ! 私こそ急に声をかけてしまいすみませんでした」
アンは小さく首を横に振ると、自分の隣を手で指し示した。
フィオナは軽く会釈をしてからコートの裾を折りたたみながらアンの隣の砂浜に静かに腰を下ろす。
穏やかな寄せ波の音が二人の間に流れ、しばらく二人は月明りの海を眺めていた。
静かな瞳で海を眺めているアンに対して、フィオナの鼓動は落ち着きなく激しく脈を打っていた。
以前会った時もそうであったように、今しがた聴いたアンの歌声は美しく、フィオナの感情を激しく揺さぶる。
誰かの歌声にここまで心を奪われるのは、初めて母親の歌を舞台で聴いて以来だった。
緊張するフィオナを余所に、アンは黙って海を眺めていたが、やがて静かに口を開いた。
「……あの、あなたも歌いに来たんですか?」
「は、はい……!」
フィオナは驚きながらもしどろもどろに答える。
「以前アンさんに『海はいつだってあなたの歌を受け入れてくれる』って教わったので、最近はこうして歌いに来たりしています。……アンさんのように上手くは歌えませんが」
その言葉にアンはわずかに微笑む。
「そうでしたか。わ、私の歌なんて上手くもなんともないですが……」
「アンさんの歌はすごいですよ! 私、歌にこんなに心を掴まれたのは母の歌以来ですし、私もこんな歌を歌えるようになりたいって、本当に思います!」
思わず身を乗り出して言うフィオナにアンは一瞬驚いて目を大きく見開いたが、また静かな微笑を浮かべた。
「歌が好き、なんですね」
アンの言葉にフィオナは先ほどまでの勢いから打って変わり、静かなトーンで言う。
「歌が好き……と言えるのか、わからないんです。つい最近まで私は自分に自信が持てなくて、歌を歌う事も諦めていました。何も無い私に、人から愛されてもいない私が歌う歌なんかには価値がない……って思っていました」
フィオナは月明りに青白く輝く海原を眺めながら、一つ一つ言葉を探るようにして続ける。
「でもこんな私でも、愛してくれている人がいました。赤の他人である私の為に、動いてくれている人がいました。そんな人たちに私が何かを返せるとしたら、それはきっと歌なんだろうと、そう思ったんです」
フィオナの言葉はアンに向けての言葉と言うよりは、独白に近いものだった。
しかしアンは黙ってそれを聞き遂げると、フィオナと同じように海原の果てを探すように遠くに視線を送った。
「……誰かの為に歌えるって素晴らしい事だと思います。私も……誰かの為に歌っていたはずなのに、それが誰の為だったのか……もうわからないから」
その声があまりにも寂しく冷たい響きを持っていたので、フィオナは思わずアンの横顔を仰ぎ見た。
一瞬、その姿が透けて見えたような気がして目をこすると、アンは寂しそうな横顔で確かに海を見ていた。
今にも消えてしまいそうなアンの儚さに、フィオナは必死に言葉を探して繋ぎとめるかのように声をかけた。
「そう言えば、アンさんはこの近くにお住まいなんですか? 海にはよくいらっしゃるようですが」
何気ないフィオナの言葉に、アンはようやく夢から覚めたようにフィオナの方を見た。
「は、はい。あの、シーエアー地区に……」
「そうなんですね。海が近くていいですね」
「はい。海の匂い……私、溶けてしまいそう……」
そんなアンの言葉が比喩ではなく、本当に起きてしまいそうな説得力がある。
会話がかみ合っているようで空回りしているような不思議な感覚に、フィオナは戸惑いを感じ始めていた。
何か共通の話題を、と必死に考えて思いついた言葉を反射的に口にする。
「そういえば、キサラギさんとは最近はお会いになっていますか」
自分で口にした言葉ながら、あまりにも唐突で不自然な話題の振り方だとフィオナが顔を赤らめていると、アンは何かを思い出すかのように遠い目をして言った。
「あ、あの、タダマサさんとは……クリスマスにお会いしたのが最後で……」
クリスマス。
クリスマスと言えば、ドルファン城の毎年恒例となる城内解放のパーティーが行われる日だ。
フィオナとサラも忠正とダンスパーティーに参加するのを楽しみにしていたのだが、突然の中止によりそれは叶わなかったのだ。
自分でもどうして突然忠正の話をしたのかわからないが、戸惑うフィオナに対してアンは切なげに目を細めた。
「……あなたもタダマサさんの事が好き……なんですね」
途端にフィオナの頬がかっと赤く染まる。
忠正への好意は自分でも認識していると思っていたが、改めて人に指摘をされるとなぜだか照れくさい気持ちになる。
しかし、それと同時にフィオナの中の冷静な部分が、アンの言葉を的確に分析していた。
――あなたも……?
その言葉が持つ意味はただ一つ。
アンはフィオナにとって憧れの女性だ。
その幼さと大人びた雰囲気が混在したような不思議な魅力と、何よりも美しい歌声。
包み込むような優しさ。儚げなその瞳。
どれを取ってもとても適わないとフィオナは感じていた。
だが、だからこそ、その気持ちを確かめずにはいられない。
忠正には明確に“かけがえのない友人”と言い切られてしまっているが、彼に自分の歌を、想いを届けてみせると決めた。
もう“私なんか”と言うのはやめたのだ。
「私はキサラギさんの事が好きです。アンさんも……キサラギさんの事が好きなんですね」
フィオナの率直で真剣な言葉にアンは静かに頷いた。
「……タダマサさんは、過去に縛られていた私に、未来を、明日を生きていいと言ってくれました。……幸せでした。灯火を失った私の心に、再び火を灯してくれたような気がして」
アンの言葉にフィオナの胸がちくりと痛む。
忠正とアンの間に何か特別な事があったのは明確で、その絆はきっと自分が付け入る隙間はないのだろう。
そんな思いがわずかに黒い感情を伴ってちりちりと胸を焦がす。
フィオナはその黒い感情を必死に追い出そうと首を振った。
しかし、アンは嬉しそうな表情ではなく、切なげで、それでいて悲しそうにすら見える横顔で言葉を続けた。
「……私、わかるんです。タダマサさんは来年のクリスマスも一緒に過ごそうと言ってくれましたが、それは叶わないと」
来年のクリスマスの約束までしているのに、何が不安なのか。
フィオナは思わず大きな声を出してしまった。
「どうしてですか! アンさんはキサラギさんが好きで、キサラギさんも来年のクリスマスの約束をしてくれるような関係なのに……!」
その訴えにアンは困ったように、そして少し寂しそうに微笑んだ。
「おかしいですよね。でも……」
アンは不意に立ち上がると波打ち際まで歩き、しゃがみこんで寄せる波に手の平をさらした。
「私は幸せにはなれない。幸せになってはいけないんです」
フィオナはいたたまれなくなって立ち上がると、そんなアンの背中に声を投げる。
「そんな……。どうして……!」
アンは静かに立ち上がると細い三日月を見上げた。
月明かりに照らされるアンの姿が怖いほどに美しく、フィオナは小さく喉を鳴らした。
「私は……今を生きているわけじゃないんです。自分の心が満たされる度に、忘れていた色々な事が思い出されます」
「アン……さん?」
「未来を生きようとするタダマサさんの隣に相応しいのは、あなたのように明日を生きる女性だと思うんです」
アンの言葉にフィオナは軽いショックを受けた。
そしてそれと同時に怒りの感情が湧き上がってくるのを感じた。
「何を言っているのかわかりません。でも、一つだけ私にもわかる事があります」
フィオナは拳を握り、必死にアンの背中に向かって叫んだ。
「キサラギさんはあなたが好きなんです! キサラギさんの気持ちがわかっていて、応えようとしないなんて卑怯じゃないですか! あの人の信頼を、想いを裏切るなんて、あんまりじゃないですか!」
自分が得たくても得られなかったものを持っているというのに。そして、自身も同じ気持ちだとわかっているというのに、それを拒絶するアンの気持ちがフィオナにはまったく理解出来ない。
そんな想いが普段控えめなフィオナにしては珍しく、強い語気となって表れている。
アンは俯いてその言葉を聞いていた。
何かに耐えるように胸の前で指を組んで、黙って聞いていた。
流石のフィオナも高ぶった感情が波の音に沈められて冷静さを取り戻し、言い過ぎてしまった事を後悔し始めていた。
「あの……すみません……私、つい」
フィオナが声をかけると、アンはようやく顔を上げた。
その双眸から真珠のような涙が零れ落ちた。
「あ、アンさん……!」
思わずフィオナが手を差し出すのを、アンは静かに首を横に振った。
「フィオナさんの仰っている事、わかるつもりです。私、ずるい女です。彼の気持ちをわかっているのに……」
ぽたぽたと雫が砂浜に落ちて吸い込まれていく。
「出来るなら、彼の気持ちに答えたい。一緒に未来を生きてみたい。私……私……!」
アンは涙で濡れた顔を上げると、フィオナを見て消え入りそうな声で言った。
「私、まだ消えたくない……」
「え……?」
その言葉の意味を理解出来ずフィオナが呆気にとられていると、アンは涙を拭って必死に笑顔を繕った。
「ご、ごめんなさい。意味がわかりませんよね。……私、もう行きますね」
「アンさん……!」
「ごめんなさい。彼を、タダマサさんをお願いします……。私には出来ないから……!」
その言葉を最後に、アンは夜の砂浜を走って行ってしまった。
フィオナはその姿を追う事も出来ずに、ただ茫然とその後ろ姿に向けて伸ばした手のまま固まっていた。
やがてその手をそっと降ろすと、その手を静かに握りこんだ。
「アンさん……あなたは一体……」
波音だけがあたりを包み、フィオナは静寂の海にいつまでも立ち尽くしていた。