続・小説みつめてナイト 紅玉の双騎士【完結】 作:ケルティック☆タイチ
どれほど昔の話だろうか。
詳しい年代はわからないが、少なくとも忠正やその両親も生まれるよりずっと前の話だ。
夏の暑さが本格的になる前の七月の終わり。
十九歳になったばかりのアンはドルファン港へと軽い足取りで向かっていた。
三方を海に囲まれたドルファン唯一の国際港であるドルファン港は、様々な国籍の船が入り乱れ多種多様な人種が集う、混沌と刺激が共存する場所だ。
アンのような年若い娘が一人で港にくるような事は普段ならありえないが、この日ばかりは特別だった。
ドルファンと海自安保条約を結んだばかりのルビア皇国の軍艦である“トレンツ号”が、この日入港する予定だった。
軍艦とは思えぬ美しくなめらかな外観と船首に備えられたシーア神話の海の女神“トレンツ”の船首像で有名なこの船は、海を走るその姿を見られれば幸せになれるとか、トレンツの加護を得られるとか、そんな迷信で有名だ。
もともとシーア神話が大好きなアンにとっても、海の女神トレンツは憧れであり、その船首像を一目でも見たいとこの日を心待ちにしていたのだった。
ドルファン港の桟橋の一つにゆっくりと滑るように入ってくるトレンツ号を遠巻きに見上げていたアンは、興奮しながらもっと近づこうと多くの人で賑わう港の中を小走りに急いでいた。
もう少しで船首の方に回れるといったところで、トレンツ号に気を取られていたアンは、道を歩いていたガラの悪い水夫に気付かずに正面からぶつかってしまった。
「きゃあ!」
その衝撃に思わず声を上げて尻もちをついたアンに対し、水夫は熊のように大きな体には何の影響もなかったが、地面に転がるアンのすらりと伸びる素足を見て下卑た笑みを浮かべた。
「おい、姉ちゃん。何してくれたんだ。腕が折れちまったかもしれねえぞ」
その声に顔を上げたアンは、自分に覆いかぶさるように立ちふさがる水夫の山のような巨体に恐怖を感じた。
「ご、ごめんなさい。私の不注意で……」
元より気の弱いアンの震える声に、水夫は何かを確信して舌なめずりをした。
「どうしてくれるんだ? この後も仕事があるっていうのによ」
「あ、あの……わ、私……」
消え入りそうな声を絞り出すアンに、水夫はますます目を細める。
それを見ていた他の水夫たちも、可憐な少女が怯えながら地面に転がる様子を見てまわりに集まりはじめ、無遠慮な視線をアンに注いだ。
「ちょっとそこまで来てもらおうか」
水夫の男が欲望丸出しの早口で言った時、どこから現れたのか一人の青年がアンと水夫の間に割って入った。
その青年はドルファンでは珍しい黒い髪をしており、よく日焼けした端整な顔立ちに情熱的な赤い瞳、アルビア皇国海軍の所属である事を示す青い軍服と腰に差した剣といういで立ちだった。
青年は自分よりも背の高い水夫をその赤い瞳で睨みつけると、若々しく響く声で言った。
「止せ。怯えているだろう」
突然の闖入者の言葉に水夫は眉根を寄せながら声を荒げた。
「なんだぁ、お前は?」
それにつられる様に周りの水夫達も声を上げる。
「兄ちゃん、カッコつけてんじゃねぇぞ」
「痛い目みたくなかったら引っ込んでろ!」
普段の仕事は無気力なのにこういう場面では仲間意識が強い水夫達に黒髪の青年はため息を一つ吐くと、瞬間的に一歩踏み出し、水夫の腕をつかむなり体を反転させて背負い投げた。
あまりにも一瞬の出来事で、投げられて地面に叩きつけられた本人はおろか、まわりの水夫達も何が起きているのか理解出来ないでいる間に、青年は腰の剣を引き抜くと高らかな声で名乗りを上げた。
「私は誇りあるアルビア皇国海軍所属、ヴァイル・ナウファル少尉だ。私に向ける敵意はアルビア皇国に向けた敵意と同意だ。ドルファンの海の守りを預かるアルビア海軍将校として、私は厳格な対応をする事になるぞ」
当時のドルファンにとってアルビア皇国は海の守りのすべて委ねたばかりという事もあり、港でのアルビアの権力は相当のものであるのは海に生きる者達にとって常識であった。
それは水夫達に取っても至極当たり前の事で、背負い投げられた水夫も最初こそは怒りに身を任せて勢いよく立ち上がったが、ヴァイルと名乗った青年の青い軍服を目の当たりにするなり、途端に揉み手をして媚びた猫撫で声を出した。
「こ、これはアルビアの将校さんとは知らず、失礼しやした。いえ、ちょっとこのお嬢さんが転んじまったので、助けようとしただけでして……」
ヴァイルは侮蔑の色も露わに水夫を一瞥すると冷酷に言う。
「その腕は随分なめらかに動くじゃないか。骨折の心配はなさそうだな」
水夫は愛想笑いの頬をわずかに引きつらせながら、必死に笑顔を取り繕う。
「ふ、へへ。お、お陰様で。じゃ、じゃああっしらはこれで……」
まさに脱兎のごとき逃げ足で退散する水夫達を横目に、ヴァイルはアンの方を振り返ると手を差し伸べた。
「大丈夫でしたか?」
「は、はい。ありがとうございます……」
手を取るアンの姿に、ヴァイルは思わず息を飲んだ。
「あ、あの、どうしましたか?」
手を借りながら立ち上がったアンの言葉に、ヴァイルは慌てて答えた。
「いえ、なんでもありません」
まさかアンの姿が自分たちの船の守り神でもある船首像の“女神トレンツ”に瓜二つだった為に、そのあまりの美しさに呼吸をする事も忘れていたとは言えなかった。
アンもまた、赤い瞳に黒髪を揺らし、海風のように颯爽と現れたその青年を直視する事が出来ず、高揚する胸に頬を赤らめるばかりだ。
「あ、申し遅れました。私はヴァイル・ナウファルと言います」
軽く咳払いしながら微笑むヴァイルに、アンは赤く染まった頬でわずかに目を逸らしながら答えた。
「私は……アンと申します」
「アン。とても素敵な名前だ!」
この日運命の導きの元出会った二人が恋に落ちるのに、時間はかからなかった。
ドルファンの沿岸警備の任に就くためにトレンツ号とともに着任したヴァイルは、シーエアー地区の宿舎に滞在し一年余りをドルファンで過ごした。
その間に着実に関係を深めた二人の関係は、夜のビーチでのヴァイルからのプロポーズを経て婚約者へと進んでいた。
これはアンにとって人生で一番幸福な時間であった。
ヴァイルはアンを深く愛し、アンもまたその想いに全力で応える。
これほどまでに人を深く愛する事自体が初めての経験であったアンは、幸せという言葉を噛みしめながら、これからの明るい未来に胸をときめかせていた。
異邦人であるヴァイルは、婚約者であるアンをアルビアの両親や親族へと紹介しようと、トレンツ号の一時帰国に同乗させることにした。
アンもまた愛する婚約者の両親に会える事を楽しみにしていたし、ドルファン以外の国への旅行など初めての事で、期待に胸を膨らませていた。
二人が運命の出会いを果たした七月のあの日からちょうど一年後に、二人を乗せたトレンツ号はアルビア皇国を目指してドルファン港を出発した。
二人を祝福するかのように晴れ渡った青空は、これからの明るい未来を象徴するかのように輝いていた。
しかしドルファン港を離れ一時間もせずにエドワーズ島の沖に差し掛かった時、事態は急変した。
つい先ほどまで晴れ渡っていた空は突然厚くて黒い雲に覆われてしまった。
頬を撫でるような柔らかだった風は怒り狂ったように吹き荒れて、畳むのが間に合わなかったメインマストの帆をずたずたに切り裂く。
穏やかだった海はまるで違う生き物のように猛り、船体の倍の高さはあろうかという真っ黒な波が容赦なく船腹を殴りつける。
雲の影などまったく見えなかっただけに、この天気の急変には百戦錬磨のアルビア海軍の男達も成すすべがなかった。
「アン! 無事か!?」
山道を転げ落ちる馬車のように揺れる船にしがみつきつつヴァイルが船室を訪れると、アンは床板に固定されたベッドにしがみついていた。
「わ、私は大丈夫です……」
不安そうなアンの声に。ヴァイルは転がりそうになりながらベッドにたどり着くと優しく抱き寄せた。
そして柔らかだが緊張気味に言う。
「怖い思いをさせてすまない。信じられない事だが、この船はもう沈む」
「え……」
恐怖に震えるアンの髪を撫でながら、ヴァイルは明るく笑って見せる。
「だが心配はいらない。脱出用の小舟があるから、それでこの船を捨てよう。オールで漕げる船の方が風に翻弄されないから、すぐにエドワーズ島へたどり着けるさ」
優しいヴァイルの声に頷きながら、アンは部屋の外から聞こえる怒り狂った風の音と、それに負けないくらいに声を張る海兵たちの声を聴いた。
「ボートを降ろせ! 流されないように気をつけろ!!」
「なんだってこんな嵐が……! 船に女なんか乗せたから、トレンツの怒りを買ったんじゃないのか!!」
「バカなことを言っている暇があったら手を動かせ!」
海の神トレンツは女神であるが故に、船に女性が乗るのをよく思わないという話はアンも聞いた事があった。
海に愛されるために船乗りは男の仕事であり、女を乗せるとトレンツの嫉妬を買ってしまうと。
「私の……せい?」
カタカタと小さく顎を震わせながらアンが言うと、ヴァイルは激しく首を横に振った。
「君の所為なんかじゃない! 誰の所為でもない。こんなのは運が悪かっただけだ!」
アンを片手に抱きしめながら船室を飛び出したヴァイルは、舷側を超えてくる波と打ち付ける銃弾のような雨粒からアンを庇いつつ、必死に後部デッキを目指した。
まだ昼真っ盛りの時間だというのに、夜のように暗く猛威を振るう凶暴な波に、アンは神の怒りを感じずにはいられなかった。
「少尉! こちらです!」
アルビア海兵の一人が声の限りに叫ぶ。
そこには今にも振り落とされそうな、ロープで吊り下げられたボートが揺れている。
「急いでください! ロープが千切れる!!」
「わかった!」
ヴァイルとアンが後部デッキへの階段に足を踏み入れた時、今まで一番大きく高い波が巨大なハンマーのように舷側へ襲い掛かった。
そのあまりの力にアンは体が一瞬ふわりと宙に浮いたと思うと、次の瞬間には強かに甲板へ叩きつけられた。
必死に舷墻へとしがみついたアンの目に、信じられない光景が映った。
ヴァイルの身体が宙に浮いていた。
叩きつけられた甲板が再び襲い来る波の力で跳ね上げられ、ヴァイルは宙に放り投げられてしまったのだ。
「ヴァイルさん!!」
アンは咄嗟に手を伸ばし、ヴァイルの手を掴む。
「ア、 アン!」
無我夢中で手を掴んだもののヴァイルの身体は舷墻を飛び越え、アンの細腕一本で宙吊りの状態となってしまった。
アンは必死にヴァイルを甲板へと引き上げようとしたが、その細い腕では全身の力を振り絞ってもわずかでも上がる事はなかった。
「アン! 手を放せ! 君まで落ちるぞ!!」
いつまでも支えられる事が出来ない事は明白で、ヴァイルが叫ぶ。
しかしアンも負けじと、轟く雷鳴にかき消されないように叫び返す。
「ダメ! 放さない! あなたがいないと、私……!!」
その時、後部デッキで宙吊りにされていたボートを支えていたロープが千切れ飛び、波に翻弄されて上下する甲板の上をボートは意思を持った生き物のように滑り、アンの方へと猛然と突っ込んでいった。
その気配に気づきアンが振り返ったと同時に、ボートはアンの身体のすれすれを走り抜けて舷墻を突き破っていった。
その衝撃でアンは空中へと投げ出され、握っていた手が離れるのを感じた。
空中でのその瞬間は、時間が停まったかのようだった。
一瞬、何の音も聞こえず、まったくの静寂が訪れ、アンの手から解き放たれたヴァイルの身体がゆっくりと離れていく。
必死に手を伸ばすアンを愛おし気にみつめたヴァイルは、いつものように優しく微笑む。
「アン。君を愛している。いつまでも、永遠に、君への想いは変わらない」
その言葉は確かにアンの耳に届いた。
アンはヴァイルの名を喉が裂けるほどに叫ぶ。
が、次の瞬間狂ったように吹き荒れる風雨に声はかき消され、ヴァイルは真っ黒な波へと吸い込まれていった。
それから、何がどうなったのかはわからない。
ただ、アンはあの脱出ボートに乗っており、気が付いた時にはどこかの浜辺に打ち上げられていた。
アンは痛む体を引きずり、ボートから降りて砂浜の上に立った。
先ほどの猛り狂っていた海が嘘のように、穏やかで優しい波が足元に寄せる。
すでに月明りが海を照らしていたが、その海は信じられぬ程静かで、嵐があった事などまるで夢のようであった。
それでもアンの腕に残った、あの感覚。
ヴァイルの腕が離れてしまった、その喪失感。
そして瞼の裏に焼き付いた、あの笑顔。
耳の奥に刻まれて消えない、あの言葉。
「ああ……あああああああ!!」
絶叫に近い泣き声を上げながら、アンの足は一歩、また一歩と何かを求めて進んでいく。
穏やかな波が一歩進むごとに、くるぶしを、膝を、腰を、胸へと打ち寄せる。
それでもアンは歩みを止めない。
やがて、アンの体は絶望の果てへと沈んでいった。