続・小説みつめてナイト 紅玉の双騎士【完結】   作:ケルティック☆タイチ

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【75】想い出は波のように……(後編)

 そこまで語ったアンは、諦めと寂しさが混在したような複雑な表情で、窓の外の枝ばかりの木々を茫然とみつめていた。

 

「……気がつくと、私は海を漂っていました。何度身を投げても、いつも同じ」

 

そのまま忠正の方を見たアンは静かに目を伏せた。

 

「私は海で死ぬ事は出来ないと悟りました。理由はわかりません……」

 

忠正はアンの手を握ったまま、何も言葉をかけられずにいた。

彼女の過去に悲しい出来事があったであろうことは予測していたが、それだけに留まらない秘密に、言うなれば軽いショックを受けていた。

 

 それでも、幾分冷静な部分で必死にアンの話を整理する。

アンの語った話がどこまで正確かはわからないが、ドルファンがアルビア皇国と海事安保条約を結んだのは今から九十五年前だ。

その翌年にアルビア皇国所属の軍艦が、突然の嵐によってエドワーズ島沖で沈没したという事故は、ドルファンの海難史では比較的有名な話でもある。

その船にヴァイル少尉とアンが乗船していた。

アンの言葉に嘘があるとはこれっぽちも思っていない忠正ではあるが、現実的な性格故にその話を鵜呑みにも出来ない。

 

 戸惑う忠正を気遣う様に、アンは自嘲気味に微笑んだ。

 

「それからの事はあまり定かではないんです。あの人の影を求めて街をさ迷い歩き、あの人を想って歌を歌う。ただただあの人を探してダナンやウエールにも行きました。そんな中で、いつしか自分が年を取っていないという事に気づき、自分で自分が怖くなりました」

 

忠正の手の平の下でわずかにアンの冷たい手が震える。

 

「自分が何者なのかもわからず、時間の流れとともに消えていくあの人の嬉しそうな顔。愛おし気に私を呼ぶ優しい声。私を助け起こしてくれた力強い腕」

 

重ねた忠正の手の甲に、冷たい雫がぽたぽたと落ちた。

 

「ただただ無為に過ぎていく年月に、私の記憶はどんどん朧気になっていったんです。愛していたのに。生き残ってしまった自分を許せない程に大切な人だったのに」

 

 

 そのアンの苦悶の叫びに、何も出来ない自分を忠正は恥じていた。

ただ、適当な慰めを口にしたところでアンの海のように深い悲しみを癒す事など出来ないことだけはわかる。

 

――百識のサリシュアンなんて呼ばれていても、結局はこのザマだ。

 

アンの涙を拭う事すら出来ない自分の無力感に唇を噛む。

忠正の悔しそうな顔を横目に見たアンは、俯いたまま続けた。

 

「そんなある日、私の停まっていた時計は再び動き出したんです。あの春の日のドルファン港で、怖い男の人たちに囲まれたフィオナさんをあなたは助けましたね」

「え、ああ」

 

言われて忠正はドルファンへと到着した日の事を思い出す。

スィーズランドからの長い船旅を終え、ようやくたどり着いたドルファンの港で悪漢に絡まれていたフィオナを確かに助けた。

 

「私、見ていました。まるであの時の自分のように。あの人がしてくれたように、あなたはフィオナさんを助けた」

 

アンはシーツをじっと眺めていたが、その瞳は違う何かをみつめている。

 

「そんな事が前にもあった気がします……。でも、もう思い出せない。大切な何かだった気もするのに……」

「アンさん……」

 

アンはようやく顔を上げると、忠正をみて少しだけ申し訳なさそうに微笑んだ。

 

「私、あなたにあの人を重ねてみてしまったんです。あなたのその黒い髪と、赤い瞳に」

 

忠正は表情を変えずに静かに頷いたが、内心はかなり動揺していた。

アンの言う内容はまるで御伽噺か神話のような途方もない話だ。

しかし、それ自体は大した問題ではない。

ソフィアに対して言い切ったように、忠正にとっては今目の前にいるアンの存在以上に重要な事はないし、それが全てである。

だが、そのアンの想いそのものが自分ではない、過去の恋人へと向けられているものと理解した時、忠正は自分の中で飲み下す事の出来ない、重く大きなしこりのような何かを感じていた。

 

 そんな忠正の気持ちを察したのかはわからないが、アンは自分の手に重ねられた忠正の手を握った。

 

「あの真っ暗な海の中で沈んでいくあなたに、あの人の影を重ねてしまったから、絶対に助けたいと思ってしまったのは確かです。でも、あれから過ごしたあなたとの時間は……クリスマスの夜にあなたと交わしたあの約束は……」

 

熱を帯びる言葉と手のひらの暖かさに忠正も顔を上げてアンをみつめる。

わずかに潤んだ瞳で忠正をみつめかえしながら、アンは言葉を続けた。

 

「あなただからこそなんです。タダマサさん」

 

必死に訴えるアンの言葉に、忠正はアンの手を握り返す。

アンのその言葉がすべて真実であったとしても、例え偽りがあったとしても、最終的にはどちらでもいいと忠正は思った。

それは投げ槍な気持ちや、考える事を放棄した結果ではない。

 

 アンが何者でも構わない。

過去にアンが誰かを愛していたとしても構わない。

忠正にとって初めての“特別な人”であるアン。

そのアンが自分に向けて想いを伝えてくれるならば、それが全て。

若さ故の盲目とも言えるが、そんな事は忠正本人が一番理解していた。

それでも忠正が出した答えは、アンを愛しているというシンプルなものだった。

 

「アンさん」

 

頭の中で答えを出した忠正が、毅然とした瞳でアンの名を呼ぶ。

しかし、アンはその真っすぐな瞳から逃れるように顔を背けた。

 

「……ダメです」

 

突然のアンの拒絶の言葉に、忠正は思わず身を寄せる。

 

「なぜですか」

 

再び忠正をみたアンの瞳は言いようのない寂しさをたたえていた。

 

「私は……もうすぐこの世からいなくなるから」

 

 

 

 その言葉に、忠正は瞬間的に思考回路が機能せず理解が追い付かなかった。

 

「え……?」

 

なんとも間抜けな反応をしてしまったと、どこか客観視している冷静な自分と、一切の思考が停止している自分とが混在している。

分析に優れ論理的思考力が自身の強みだと認識している忠正にとって、それは初めての経験であった。

そんな忠正を横目に、アンは絞り出すような声で言う。

 

「わかるんです。今まで悠久の時を生きてきた私ですが、もうこの体を維持できないと」

「な、何を……?」

 

戸惑う忠正に、アンは静かに首を横に振る。

 

「どれだけの時間が残されているかわかりませんが、近いうちにきっと私は海へと還るでしょう」

 

「アンさん?」

 

「もともとあの海で死んでいたはずの私が、どうして今日まで存在していたのかわかりません。後悔の念に縛られていたのか、女神トレンツの気まぐれなのか……」

 

「アンさん」

 

「でも、これは確信に近い直観です。私に残された時間はわずかで、こうやって触れ合えるのもこれが最後になるかもしれません」

 

「アン」

 

「……私、満たされてしまったから。あなたの優しさに、想いに心が満たされてしまったから」

 

「アン!」

 

やや強く名前を呼ばれ、アンはびくっと体を震わせた。

忠正は気まずそうに視線を泳がせたが、おずおずと空いている左手でアンの背中に触れた。

 

「大きな声を出してすみません……。ですが、待ってください。この世からいなくなるって……」

「……そのままの意味です。私は、本来ここにいていい存在ではないから」

「避ける方法は無いのですか。アンさんがいていいかどうかなんて、トレンツだろうが誰だろうが、誰にも決める権利なんてないはずだ」

 

忠正の真剣な眼差しに、アンは胸の奥が切なく熱くなるのを感じずにはいられなかった。

自分が人外の存在である事を明かしても、変わらないでいてくれるその想いを感じれば感じるほど自分の身体が海と一つになっていくような感覚に、彼女の確信は強くなっていった。

だからこそアンは、覚悟を決めた。

 

「避ける手段は……無いと思います」

「……っ!」

 

忠正の顔が悲しみ、苦しみ、切なさ、様々な感情で歪む。

その顔をみつめながら、アンは万力で締め上げられるような苦しみを押し殺しながら、言葉を絞りだす。

 

「でも、もしかしたら一つだけ、避けられる方法があるかもしれないです」

 

その言葉に忠正は地獄の底で蜘蛛の糸をみつけたかのように顔を上げた。

 

「どんな方法ですか!?」

 

必死の形相で縋る忠正に、アンは小さく息を吸い込んだ。

 

「あなたと会わない事です」

「え……?」

「私は、心が満たされてしまえば消えてしまう。だったら、あなたと会わなければいい」

「アン……さん?」

「私、あなたの事忘れます。あなたと過ごした時間も、クリスマスの約束も、全部忘れます。そうすれば、きっと私は消えなくてすむから……」

 

 

 忠正の顔から表情が消えた。

この方法は忠正が理知的で論理的な思考をするからこそ、間違いなく刺さるという事を他ならぬアンが一番よくわかっている。

だからこそ反論も出来ないだろうこの手段を選んだのだ。

そして、優しい忠正はきっとそれすらも受け入れるだろう事も。

 

 愕然とした表情でアンをみつめる忠正の視線を振り切るよう、アンは忠正の手からそっと自分の手を引き抜くと、胸の前で拳を握った。

 

「ごめんなさい、部屋から出て行ってもらえますか。そして、もう二度と会うのは止めましょう」

「アンさん……」

 

母猫に突然相手にされなくなった子猫のように傷ついた顔の忠正に、アンは精一杯の冷たい表情を作る。

 

「……私のことを愛してくれているのだったら、出て行って!」

 

とどめの言葉だった。

考える間も、反論する間もなく下された断絶の言葉に忠正は茫然自失のまま力なく立ち上がり、覚束ない足取りでドアを開けて病室から出ると静かにドアをしめた。

その背中を冷たい表情のまま見送ったアンは、しばらくの間閉じられたドアをじっと見ていたが、やがてシーツを引き寄せて顔を埋めた。

 

 

 

 忠正が出て行ったドアが遠慮気味に開き、ソフィアが入れ替わるように入ってきた。

アンはシーツから顔を上げず、ただ押し付けるように押し殺した嗚咽を上げているのがソフィアにはすぐにわかった。

 

「ごめんなさい。……悪い事とは思いましたが、お二人の会話を外で聞いていました」

 

ソフィアの言葉にもアンは何の反応も示さない。

 

「……タダマサさんの事を愛しているんですね」

 

アンは忠正という単語にようやく反応して、シーツから顔を上げた。

その顔は涙でぐしゃぐしゃで、深い悲しみが顔中に刻まれていた。

 

「私は悪い女です。あの人の愛を欲して、満たされたのに、結局拒絶する事しかできない!」

 

溢れ出る感情ととめどない涙で途切れ途切れになりながらも悲痛な声を上げるアン。

ソフィアは忠正が座っていた椅子に座ると、アンの背中に手を添えた。

 

「本当は、タダマサさんを拒絶したとしても……その……海に還ってしまうのではないですか」

 

その言葉にアンの体が小さく震えた。

アンはしばらくすすり泣いていたが、やがて小さく頷いた。

 

「そう、です。おそらくもうこの運命を覆す事は出来ないという事はわかっています……」

「だから、あえてあんな冷たい言葉を」

 

ソフィアの声には同情の色がありありと感じ取れた。

それはアンにとっても、せめてもの救いだった。

 

「……タダマサさんには幸せになって欲しいんです。私なんかの事は忘れて、未来を生きる素敵な人と幸せを掴んで欲しいんです」

「でも、それじゃアンさんが……辛すぎるじゃないですか」

 

思わず本音が漏れたソフィアに、アンは涙で濡れた顔を上げて、悲しく切ない作り笑いを浮かべた。

 

「私は……思い出をもらったから。それが波のように消えていくとしても、私は……もう十分だから」

「アンさん……」

 

アンは再び窓の外へと視線を戻し、冬の終わりの薄灰色の空を黙って眺めた。

その頬を伝う涙は、乾く事はなかった。

 

 




アンの過去編はこれで終了です。
次回からはついに始まるシレーナでの船上公演と、シュバルツの侵攻のお話となります!
いよいよ物語は佳境に入って行きます。
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