続・小説みつめてナイト 紅玉の双騎士【完結】 作:ケルティック☆タイチ
弱い風に揺れるランタンの残り火が、ついにその燃料を燃やし尽くして前触れもなく消えた。
明るい月明りも森林区の鬱蒼とした木々に遮られて、ロゼッタ達の下へは届かなかった。
深い闇に支配された空間の中でロゼッタとパトリツィアは身じろぎ一つせずジッとその場に固まっていた。
完全な闇というものは屋外にいる限りありえない。
どんなに暗い闇夜であっても月は光り、仮に新月だとしても星は瞬く。
曇り空や雨雲でも地上の光を反射して空を照らす。
この一見すると真っ暗な森林区の道端であっても、目が慣れてくれば朧げに木々のシルエットが浮かんで来る。
ましてやロゼッタとパトリツィアは夜間行軍の訓練を受けているし、常人のそれよりもよほど夜目が利く。
それでも二人がぴくりとも動かないのはアンゼリカの影がどこにも見当たらないからだった。
弱弱しい風に木々がざわめく音だけが不気味に響く中、五分以上経ってようやくロゼッタが周囲を警戒しながらも口を開いた。
「……アンゼリカを見失ったわ」
パトリツィアもゆっくりと周りを見渡しながら、少しずつロゼッタへ近づいて行った。
「気配を消すのが異常に上手いですね。火が消えた瞬間から、何かが動く気配や足音等は全くしませんでした。まだその辺りに潜んでいる可能性は否めません」
「逆もまた真なりね。私達が感じなかっただけで、すでにこの場を離脱しているかもしれない」
パトリツィアは警戒を解かないが、小さくため息を吐いた。
「どうしましょうか。このままあの狂信者を放っておけば、騎士団長に合流されてしまいます」
「それだけは避けたいわね」
ロゼッタはしばらく何もない暗闇だけが支配する道をみつめていたが、やがて覚悟を決めたように頷きパトリツィアの耳元に口を近づけると、小さな声で言った。
「仕方がないわ。二手に別れましょう。私はレッドゲートに戻る。パティはここに残ってアンゼリカを探して。東の空が白んできたら、あなたはドルファン城へ向かって」
「わかりました。見つけたら始末しておきます」
簡単に言うパトリツィアにロゼッタは真剣な声音で答える。
「相手はあの“黒衣の聖女”よ。分が悪いと思ったらすぐに逃げる事。いくらあなたでも彼女の言う“神の声”が本物なら危ないわ」
その言葉にパトリツィアは胸の奥がわずかにむずがゆくなるような感触を覚えた。
敬愛するロゼッタが自分の心配をしてくれた事が嬉しかったのだ。
だが、パトリツィアはその気持ちを噛みしめながらも不敵な微笑を浮かべて見せた。
「“神の声”なんてものは存在しません。それよりもサリシュアン様もどうか気を付けて下さいね」
ロゼッタは力強く頷くと同時に駆け出し、その足音は瞬く間に聞こえなくなっていった。
闇の彼方へと消えていくロゼッタの後ろ姿をいつまでもみつめていたパトリツィアだったが、片手に握られたナックルダスターをもう一度強く握りなおすと、そのままの姿勢でおもむろに声を投げた。
「私が一人になるのを待っていたんでしょう。出てきたらどう?」
闇夜の中で独り言のように響いた言葉だったが、近くの茂みが音を立てアンゼリカ・ローゼンベルクが姿を現した。
「あら、気が付いていたの? 私の気配は察知できなかったと言っていなかったかしら」
例の芝居がかった口調に、パトリツィアは嫌悪感もあらわに答える。
「気配を殺すのは上手いみたいだけれど、そのどす黒い殺気だけは消す術をしらないみたいね」
「うふふ」
暗闇の中で笑うアンゼリカの歯だけが白く浮かぶ。
パトリツィアは大きく舌打ちをしながら右こぶしを引いて足を前後に開き、構えを取る。
それを見たアンゼリカは愉快そうに言う。
「私にはセレーネー神の声が聞こえるから暗闇など全く問題ないけれど、あなたはそうはいかないでしょう。わざわざサリシュアンを先に行かせて、本気で私に勝つつもりなのかしら?」
「聞いていたのでしょう? “神の声”もそうだし、そもそも“神”なんてものは存在しない」
「ああ、なんと痛ましい。信仰を忘れた人間ほど悲しい生き物はいないわ」
その言葉と同時にアンゼリカのフレイルが横殴りにパトリツィアの顔面めがけて襲い掛かる。
すんでのところで体を後ろに反らして躱したパトリツィアだったが、反らした体を戻した瞬間に駆け抜けていったフレイルが逆から飛んで来た。
今度は体を戻した勢いそのままに上体を前に屈めてそれを躱すが、体を起こしたところに真上からフレイルが振り下ろされてきた。
パトリツィアは全身の筋肉を酷使し大きく後ろに飛び退く事で、紙一重のタイミングでそれを避ける事が出来た。
まさにロゼッタが苦戦を強いられた、あの連撃であった。
重量があり、振り回すことで慣性の法則の影響を受けるはずのフレイルの棘付き打撃部の部分が、まるで意思を持つかのように縦横無尽に襲ってくる。
おおよそ常識では考えられないフレイルの動きだったが、パトリツィアは冷静だった。
物心つく前から他ならぬシュバルツデスアプグルント騎士団により戦闘のプロフェッショナルとして育てられた彼女は、その徹底したリアリストぶりと合理的な考え方で、敵を観察し分析する事に特化している。
その冷静な判断力で、彼女はアンゼリカの攻撃にすでに一つの答えを出していた。
この攻撃は人間の筋力の限界を超えている。
最初のフレイルの一撃を躱した時に、パトリツィアはフレイルの先の打撃部ではなく、アンゼリカの手元を見ていた。
そして二撃目を繰り出す際その手元の動きは明らかに“無理やり”であり、もはや筋力や膂力の話ではなく、ただ単純に人間の限界を超えた力技で攻撃を繋いでいたのだ。
そんな事をすれば普通の人間であれば、身体が引き裂かれるような想像を絶する痛みに悲鳴を上げるところだろう。
しかしアンゼリカは、その異様な柔軟性でそれを緩和しているのと、それでも襲ってくるどうしようもない痛みを“神への信仰”という異常なまでの妄信で、いわゆる一種の麻薬による興奮状態に近い状況を作り出して“脳が感じていない”のだ。
それが正しいかどうかは問題ではない。
パトリツィアはそう分析したので、それに対処するように行動するだけ、と自分に言い聞かせていた。
自分の武器は右手に嵌めたナックルダスターのみ。
アンゼリカの攻撃を防御出来るものはない。
そうであればやる事は一つ。
――アンゼリカの身体が耐えきれなくなるまで、フレイルの猛攻を躱し続ける。
パトリツィアは自分からアンゼリカの間合いに入っていくと、侮蔑の色もあらわに吐き捨てるように言った。
「私にも“神の声”が聞こえるわ。あなたの攻撃が手に取るようにわかる。あなたの信じるセレーネーって誰にでも神託を授ける尻軽なのね」
その言葉はアンゼリカの琴線に確かに触れた。
「神の御声は清らかで、選ばれし者の心にのみ響く。貴女のような軽薄な者にその聖なる啓示が理解できるはずもないわ!」
それと同時に再びフレイルが猛烈な勢いで頭に襲い掛かってきたが、パトリツィアは大きく上体を逸らして躱した。
「ほら、当たらないわ。セレーネーが教えてくれるから!」
「黙れ! セレーネー神の聖なる御名を穢すその口、頭ごと叩き潰してやる!」
芝居がかっていた口調は今や怒りに溢れて絶叫に近いものとなっており、次の一撃を驚異的な速さで繰り出す。
その怒りに身を任せた攻撃は頭部に集中しており、パトリツィアは攻撃の軌道を予測しやすくなっていた。
猛烈に振り回されるフレイルの連撃をあらゆる手段でかいくぐるパトリツィアは、見る間に体力を消耗していった。
かすっただけで致命傷になりかねない棘付きフレイルの一撃を、次の動きを予測しながら躱す。
自身の頭部に攻撃が集中しているとはいえ、だからといって攻撃を躱さなければいけない現実に代わりはない。
森林区のこの暗さが逆にパトリツィアの集中力を増大させているとも言えた。
アンゼリカの猛攻を躱し続けるパトリツィアの動きは、まさに神がかっていた。
一撃必死、視界の利かない暗さ、防御すらできない状況。
そのすべてがパトリツィアの集中力を極限まで高め、普段よりも数倍の動きを可能にしている。
パトリツィアはあずかり知らぬ事だが、まさにアンゼリカの“神の声”も同じ理屈であった。
彼女は本当に“神の声”が聞こえるわけではない。
彼女の本当の能力とは、その異常なまでに敏感な五感にあった。
目が見えない者は聴力に優れるように、目も耳も不自由な者の触覚に優れるように、アンゼリカは五感すべてが常人のそれよりも非常に鋭利で敏感であった。
その目は相手のほんのわずかな筋肉の動きまで見分けるし、その耳はどんなに小さな音も聞き逃さず、その肌は空気の流れの変化まで察知し、その鼻は相手の敵意まで嗅ぎ分ける。
それら全ての感覚で彼女は自分の身の周りに起こる事を予測し、反応しているのだ。
しかしその卓越した能力は彼女の脳に過剰ともいえる負担を強いる。
その敏感すぎる感覚が故に、それを処理する脳は常に限界まで酷使されている。
だからこそ彼女は“神”に救いを求め、それに依存する事で精神的な均整を保っていた。
今、同じ次元とはいわないまでも、自身と近いレベルの動きと反応で攻撃を躱すパトリツィアに彼女は脅威を感じていた。
今まで遭遇したどんな敵も、今まで屠ってきたどんな相手も、この領域に踏み込んできた者はいない。
神と自分だけが対話出来る、この“聖域”までは。
永遠に続くかのようなフレイルの攻撃の嵐の中、それを躱し続けるパトリツィアの集中力と体力は限界を迎えようとしていた。
並みの兵士よりも余程厳しい訓練を受けているパトリツィアであっても、人間である以上は限界がある。
しかしフレイルを振り回すアンゼリカの鼻からも、血が流れ始めた。
彼女もまたここまで自分の攻撃を躱された事など初めての経験で、酷使された脳が焼き切れる寸前ではあったが、その顔には恍惚とした表情すら浮かんでいる。
「ああ、セレーネー神のお姿が見える! 貴方はやはりそこにいらっしゃるのですね!」
もはやその目は対峙するパトリツィアの姿を見ておらず、虚空をとらえていた。
右から振りぬかれた一撃を躱した時、パトリツィアは体勢が崩れて大きくよろけてしまった。
それを見逃すアンゼリカではない。
「神よ! やはりその寵愛は私にこそ相応しい!!」
今までと同じようにフレイルの軌道を力任せに、そして異常なまでの稼働で次の攻撃に繋げようとした時、それは起きた。
人間の限界を無視し続けていたアンゼリカの肘がありえない方向にぐにゃりと曲がり、その手からフレイルの柄がすっぽ抜けて森の中へと飛んで行った。
「え……?」
一瞬何が起こったのか理解出来ないアンゼリカが声を上げる。
その隙にパトリツィアは歯を食いしばり、残された力を振り絞ってこの戦いで初めて自分から攻撃を仕掛けた。
右手に握られたナックルダスターを力の限り振り抜き、小指側の刃部でアンゼリカの頸動脈を断ち切る。
「か゜っ!?」
空気がぬけるような嫌な音とともに声にならない声が響き、続いて噴出した真っ赤な鮮血が噴水のように真っ暗な夜空に飛び散る。
「あ……か……か……」
喉を手で押さえようとして血を噴きながら二、三歩よろけたアンゼリカはそのまま膝をつき、地面に倒れた。
パトリツィアは感情の伴わない目でその哀れな姿をみつめていたが、血に濡れたナックルダスターを握りながら呟いた。
「結局、セレーネーは貴女を守ってはくれなかったのね」
戦いの余韻を振り払うように大きく息を吐くと、パトリツィアはロゼッタの向かったレッドゲートへと走り出した。