エアコンの効いた部室、眉間に寄った皺をほぐすために顔を覆う。
「ご主人様、そろそろ一度休憩なさってはいかがですか」
凝り固まった肩肘をほぐそうとしてして右肩を動かすと後ろから聞き慣れた声をかけられた。背もたれ越しに振り向けば、今日の当番である室笠アカネがピシリと背筋を伸ばして佇んでいる。
「んー、もうちょっとだけ」
なんとなしに答えてからまたデスクに体を向ける。小さくて高機能性なノートパソコンは先生にとって大変心強い味方だ。ただしその小さい画面にこれでもかと詰め込まれた書類データと、すでに通知が意味をなさないメールボックスの処理まではしてくれない。結局仕事をこなすのは人なのだ。
さて、先ほどまで確認したところがどこまでだったか、などと文章を上からなぞるように目線を走らせる。しかし目先が滑って何度も同じ行を読んでしまって、どうやら大概に集中力を切らせているのが分かった。
再び目を擦ると、ため息とコツコツと背中から近づく音が聞こえる。ヒール、もしくはそれに近い靴の足音。しばらく耳を澄ませて背中に気配を感じるところで足音が止むと、手袋越しの柔らかい手が目元を包んだ。シャンプーかそれとも石鹸か、何にせよいい香りがした。
「食事をすませてからニ時間と四十五分、その間目頭を抑えたのが今ので二十三回、頭を抱えたのが十二回、伸びたのが十八回。集中力も限界ではないですか?」
彼女にも当番として色々とお願いしていたはずなのだが。その上でここまで把握しているのはさすがとしか言いようがない。
「よく見てるね」
目元の両手を優しく離してから体ごと向き直す。実物を見たことがないからあくまで想像ではあるが、フリルのついた可愛らしいエプロンに丈の長いスカート、俗にいうクラシックというやつだろうか。それに右腕には特徴的なコールサイン“03”の文字。それを着こなしたアカネがすぐ前に立っていた。
「うふふ、ご主人様のメイドとして当然のことです。それに、そろそろアカネの紅茶が恋しくなってきた頃ではないですか?」
紙コップに伸ばした手を見逃さずアカネは嬉しそうに答える。笑顔で見守られながら口にした水はすでに一口分も無かった。手元を傾けて雫を啜るように飲み込み、まいったと手をあげる。
「何でもお見通しってわけだね」
「ご主人様のことでしたらもちろん。アカネはご主人様だけのメイドですから。それに今朝、紅茶によく合う菓子も手に入りましたし、ご一緒にいかがでしょう」
どこからともなく取り出した紙袋を、嬉しそうに両の手に抱えあげる。
「それは」
「ええ、どれも名店の品をご用意しています」
この前トリニティに赴いた際にご馳走になったお菓子が美味しかったんだ、と話した覚えはある。さすがお嬢様の集まる学園御用達のお菓子ともいえようか。伝統を感じさせる飾り付けに、それでいて重たく感じさせない。まるで一つ一つがアンティーク家具のようだった。
しかしはて、その話をアカネとした覚えがない。それに今どこから出したのか。見間違いじゃなければ、いやまさかなーー。
頭に疑問符を浮かべていると、それに答えるようにアカネが微笑む。
「ご主人様の期待に最高の奉仕で応えること。それこそ私の一番の喜びですので」
彼女なりに自分の力になりたいと思ってくれたからこその結果なのだろう。であれば、それは褒めこそすれど根掘り葉掘り探るのは野暮というものだ。それに、私に関してだけならそこまで詰めるほどのことでもない。
「そこまでしてもらっちゃ逆に休まないといけない気がしてきた」
机の上のノートパソコンの画面を閉じる。メールの受信トップが先ほどとは別件になっていたのは見ないふりで考えないことにした。
「アカネ、用意をお願いできるかな」
顔を上げるように伝えて声をかける。一糸乱れぬ仕草で姿勢を正したアカネの顔はいつもの通り。余裕のある笑顔だ。
「うふふ、お任せください。すでに準備はできていますので」
「さっすが。二人分?」
「? いえお一人分です。本日この時間に来訪者のご予定はないはずですが」
「来訪者はいないけど、アカネは今日まだいるでしょ」
「もちろんです。起床から就寝まで、業務のサポートに、ご主人様へのご奉仕。それこそが本日指名された私の責任ですから」
「うん、だから二人分」
「?」
「? だからアカネと私の分で二人分」
「………?……??」
常に緩やかな雰囲気を崩さなかったアカネの表情が少し狼狽えた。首を傾げて、先生が言っている意味がよくわからないらしい。
ああ、そういうことか。順序立てての説明が必要らしい。
「私の分はきっと用意してるんでしょ」
「もちろんです。ご主人様には最高のお時間を提供するのが私の勤めですので」
「でも自分の分は用意してないでしょ」
「自分というのが私のことであれば、はい。アカネはご主人様のメイドとして、いつでもご主人様の側に仕える必要がありますから。それにメイドがご主人様と席を同じくして、あまつさえ休憩などーー」
メイドとはこうあるべき、こうあらなければならない。思いの内のメイド像をアカネは流暢に語る。
「~ですので、メイド足るものその心を忘れてはならないのです」
一通り熱の入った語りに軽く肩を竦ませて、聴き終えた後で先生は立ち上がった。
「アカネはさっき“最高の時間を”って言ってくれたよね」
「ええ。その通りです」
「うんうん。最高の紅茶に、最高の菓子。疲れた時には甘いものっていうし、アカネが手に入れてくれた最高級の茶葉はきっと美味しいんだろうね。でもね」
先生が突然、行き場なく組まれたアカネの両手を撫で解き取る。
「それと同じくらい、いやそれ以上に私はアカネと一緒に喋ってる時間のほうが好きだな」
「え、えと、ご主人様…?」
掬い上げる。まるでおとぎ話にある、お姫様の手を取るようにして。
「今みたいに喋ったり、最近のこととか、こんなことあったとか。同じ目線で、お互いに話ができるのが最高だなって。私はそう思ってるよ」
先生は絡め取った私の両手に自分の手を重ねて握り締めた。それはメイドとしてでなく、しかりと生徒の一人として。常に見上げている目線が自然と下がっていた。
「これは、その…予想外でした」
「あはは。実は私もちょっと恥ずかしい」
先生がぱっと両手を離す。
あ、指摘しなければよかった。繋がれていた温もりを名残惜しくも拭いながら、アカネは乱れた服を整えた。
※※※
「まぁ偉そうに言っておいて忙しさを盾に身の回りのこと任せっきりにしてる私にいわれてもって話なんだけど…たはは。特に洗濯は流石にそろそろ」
最後の一言は独り言くらいに声が小さくなっていた。
炊事洗濯掃除。炊事に掃除は生徒の厚意と用務員の方に甘えているが、洗濯はそうにもいかない。服は毎日不定期に汚れるくせに、毎日ある程度まとまった時間がないと手をつけられないのが鬱陶しい。
そもそも洗濯をしようにも家に帰れる方が珍しいのだ。最近はシャーレでの寝泊まりの方が圧倒的に多いこともあり、またシャーレも潤沢な資金があるわけではないが、仕事の都合上男性用のワイシャツなんて無限に近しいほどのストックがある。そんな環境だと必然的にそうなってしまうわけで。
「それこそアカネにご命じください!」
「え?」
大きな声に気圧される。アカネの頭が一歩近づいた。
「ご主人様」
アカネのこんな気迫は今まで感じたことがない。一歩、また一歩近づくアカネの意気に押されて一歩後ずさる。ついぞ後一歩で体が密着するようなところまで追い詰められて、背中を壁に貼り付ける。
「そう、罰としてアカネにご命じください。きっと、今度こそご主人様のご期待に応えて見せます!」
「いやでも流石に嫌でしょ。汗でぐしゃぐしゃなシャツなんて絶対臭いし…」
自分で言って傷つくくらいなら言わなければよかったと思う。しかしこの季節、洗濯をおろそかにした服の行き着く先はゴミ箱か焼却炉直送である。何より可愛い生徒に自分の肌着を処理させるのは抵抗があった。
「構いません。むしろそれくらいの方が罰になりますし、やりがいを感じます」
罰かぁー。
先生の思いも通じず、手袋をはめ直しメガネを正すアカネは、「それに」と言葉を続けるや否や小顔を揺らして胸元の匂いを嗅ぐ仕草を見せつける。
急いで肩に手をかけると、力一杯に手を伸ばしてアカネを遠ざけた。長いベージュカラーの髪が揺さぶれる。
「何やってんの!?」
「私はご主人様の匂いを臭いだなんて思いませんよ?お仕事を頑張った人の香りです」
「そうじゃなくてね…」
「それに、もしご主人様がそう思われるのであれば、それこそアカネにお任せください。清潔に、シミ一つないシャツを毎日お届けいたしますよ」
「いやまぁ。確かにそれはそれで助かるんだけどさ」
「ではこれにて決定ですね。これからご主人様の脱ぎ散らかした服の洗濯はアカネの仕事ですっ!」
「まだ決めてないから!あとあんまり大きな声で言わないで!?」