ルナティック幻想入り   作:アルパカ度数38%

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2009/10/18(新月


12-博麗神社3

 

 

 十六夜咲夜は、レミリア・スカーレットに忠誠を誓っている。

と言っても、それは生まれたその瞬間からと言う訳ではなく、“生まれた”と言うのを名付けられたその瞬間に変えて見せても、同じ事である。

吸血鬼ハンターとしてレミリアに挑み、あっさりと返り討ちにされた咲夜は、レミリアによって今の名、十六夜咲夜と言う名前をもらい、悪魔との契約によってレミリアの従僕として生き残る事になった。

当然、レミリアに向ける感情は、畏怖であり、恐怖であった。

一体何時自分が害される事になるのか、いや、この誇り高き吸血鬼が約を違える事は無いだろうが、それでもその力が直ぐ側にあると言うだけで怖くて怖くて仕方がなく。

せめてものプライドとして咲夜はそれを表に出さないように努めてきたが、ただそれだけ。

レミリアに対する恐怖は、まるで時が止まったまま永遠であったかのように、何年経とうとも変わらずそこにあったのだった。

 

 それが変遷を遂げるのは、紅霧異変からである。

咲夜の世界にとって、最強であり最も誇り高く、あらゆる点で最上に位置していたレミリアは、あっさりと霊夢に敗北を喫した。

いくらスペルカードルールがあるとは、言えども、咲夜の想像の範疇の外にある出来事であった。

咲夜にとっては、レミリアが負ける事などありえなかった。

何せ相手は、レミリア・スカーレットなのである。

あらゆる者を畏怖させ、従え、恐怖を振りまくあの誇り高き吸血鬼なのである。

だが、レミリアは負けた。

あっさりと霊夢に負けた。

想像を絶する事態に混乱する咲夜を捨て置き、いつの間にやらレミリアは霊夢の事が気に入ったようで、仲良くなっていた。

これもまた、想像の埒外にある出来事である。

咲夜にとって、レミリアは孤高な存在であった。

唯一友人といっていい扱いであったパチュリーと会話する時でさえ、その誇り高き威容を崩す事はせず、メイド長や門番を相手にするなら猶の事であった。

吸血鬼でありながらも何処か神聖でさえあり、触れてしまえば、こちらが崩れ去ってしまいそうなぐらいに、咲夜にとってレミリアは孤高だった。

だが、レミリアは仲良くなった。

あっさりと霊夢と仲良くなった。

それもレミリア側から仲良くなったように見える光景であり、決して霊夢から懇願した訳でもなく。

 

 それを見て、咲夜は胸を撃ちぬかれるような気分を味わった。

凝り固まっていた自分を撃ちぬかれ、そこから雁字搦めになっていた糸が爽やかに舞う、風を感じた。

吸血鬼は、レミリア・スカーレットとは、仲良くなっても良い相手なのだ。

霊夢とレミリアの居る光景を見て、咲夜はそんな感慨を抱き、まるで許しを得たような気分になった。

初めてレミリアと霊夢が遊んでいた光景を見た後、咲夜は自室で跪き、祈りを捧げるかのように両手を組み、涙をさえ流した。

そしてようやくの事咲夜はレミリアに真の忠誠を抱くようになったのだ。

畏怖や恐怖がある事も確かだけれども、そこに更に親愛や愛情をも込めた忠誠を。

 

 咲夜はそうやって長い経緯を経て、レミリアに忠誠を誓うに至った。

そしてそのうちにレミリアから信頼もされるようになったと自負しているし、今まで知らなかった一面も知り、よりレミリアの支えとなれるようになったと考えている。

だから、レミリアへの忠誠は、咲夜にとって誇りだ。

だと、言うのに。

レミリアと仲良くなると言う事は、咲夜にとって崇高で、汚し難い事であった。

だと、言うのに。

 

「七篠、権兵衛……」

 

 ぎりぎり、と奥歯が軋む音がする。

噛み切ってしまった唇からは血が滲み、両手は余りに入った力に震えてしまう。

すう、と深く息を吸い、胸のうちに浮かんだ黒い感情と共に、吐き出す。

ようやくのこと咲夜は権兵衛に対する感情を体に表すのを止め、その光景を見やる事ができた。

 

 博麗神社の縁側。

丁度日陰になるそこに座る権兵衛の、両足の太ももの辺りに、レミリアは尻を載せていた。

ばかりか、まるで子が親にやるように、自身の背中を権兵衛の胸板にこすりつけている。

両足は権兵衛の片足に絡みつくようにしており、その両手は、回された権兵衛の両手を、離さないとでも言わんばかりに掴みとっていた。

その顔は、まるで天使が降りてきたかのように見間違わんばかりの尊さで、貴重で壊してはならないような物に思える。

そしてその顔で、レミリアは権兵衛に話しかけていた。

咲夜ではなく、権兵衛に、である。

 

 七篠、権兵衛。

レミリアがここ数日、急激に仲良くなっている男である。

初見の印象は、何とも奇妙な男と言う物だった。

そも、木乃伊男のように包帯だらけだったので、見目こそは分からなかったものの、性格に関しては、レミリアの吸血未遂をあっさりと許した事で分かるだろう。

呑気、と言うか。

脳天気、と言うか。

何があってもぼやぼやと笑っていそうなその性格に、咲夜は何故か、不快感を抱いた。

なんだか理由もなく、にっこりと笑っている権兵衛の顔を見ると、胸の奥がつっかえるような、気味の悪さを感じるのだ。

別段そういう性格の人妖は幻想郷に少なくないのだが、それでも普通それは、強い力や足りない頭に起因する物である。

対して目前の男、権兵衛は、弱く、かと言って頭が足りぬと言うほど弱い訳ではなかった。

恐らく自分の不快感は、それ故になのだろう、と咲夜は分析する。

 

 レミリアと親しくする権兵衛を見て、咲夜が最初に思ったのは、許せない、の一言であった。

何せ自分は最初からレミリアに忠誠を誓えていた訳ではなく、霊夢のような圧倒的存在によって、レミリアが絶対の強者ではないと知り、それで初めて咲夜はレミリアに親愛を抱く事が出来たのである。

なのにこの権兵衛と言う男、霊夢のように超然とした所がある訳でも無いと言うのに、まるでレミリアと対等であるかのような言葉を発しているのであった。

当然、権兵衛はレミリアが霊夢と話している所など、見た事も無いのに、である。

勿論この男は全方位に発している謙った気持ちはあるが、別にレミリアを特別と見る事もなく。

対しレミリアもまた、それに答えて明らかに権兵衛を特別に見るようになった。

それはあっさりと、咲夜の頭上を超えてゆくかのように。

 

 この気持ちは、嫉妬である。

そう自覚していながらも、咲夜は権兵衛をこき下ろそうと情報を集めるのを、止められなかった。

どうにかしてレミリアと権兵衛を引き裂かないと気が狂いそうだったし、また、それが不可能と何処かで分かっていても、じっとしていては体が引き裂かれんばかりで、兎に角動いていなければ気が済まなかった。

そこで、とりあえずは人里で、と咲夜は権兵衛の評判を集める事にする。

どうせ権兵衛が正直過ぎて愚かである、と言う類の噂をしか集められないだろうと思っていた咲夜であるが、意外や意外、そこで得た権兵衛の評判は、何と、悪評ばかりであった。

曰く上白沢慧音を騙して、金をせびって村に居着こうとした、悪人である。

曰く里の食物を無理矢理に値切って買っていった、悪人である。

曰く慧音など強き者の威を借りて無理に高値で野菜を売り払っていった、悪人である。

などなど。

対面していた権兵衛の印象とはまるで違った話であった。

 

 これは使える、と思った咲夜は、早速レミリアに報告した。

権兵衛は人里で悪評を流されている。

それが真実であるかどうかは分からない。

しかしどちらであるにしろ、権兵衛との付き合いは止めるべきではなかろうか。

権兵衛が実は悪人であるならば言うに及ばず。

権兵衛が真に善人であるならば、悪評を持つ人間と付き合い、レミリアの評判が落ちる事を、好ましくは思わないだろう、と。

そう告げる咲夜に、背中で話を聞いていたレミリアは振り返り、ゆっくりと咲夜の目を見た。

今にも血が滴りそうな、赤くどろりとした瞳であった。

それはまるで、紅霧異変の前、咲夜がレミリアを畏怖を通してでしか見れず、また、レミリアにもただの道具としか見られていなかったであろう頃に、逆戻りしてしまったかのような。

 

「使えないわね」

 

 と。

ただ一言だけで、レミリアは咲夜の反論全てを封じた。

ゆっくりと歩いてゆくレミリアの背後、咲夜はがくがくと震える膝を落とし、ぺたんと座り込んでしまった。

恐ろしい想像が咲夜の中を渦巻いていた。

同じ人間の権兵衛。

同じレミリアに敬意を持つ権兵衛。

咲夜よりも好かれている権兵衛。

咲夜よりも速くレミリアを好きになった権兵衛。

では。

もしかして。

もしかして。

もしかして、次の執事長として、権兵衛が選ばれるのではないだろうか。

咲夜の全てを、権兵衛が奪っていってしまうのではないだろうか。

 

 咲夜にとっては、名前すら新しく与えられた咲夜にとっては、レミリアは、その存在の全てである。

最初は畏怖で占められていた物でこそあったものの、それは常に同じであった。

常にレミリアが最優先。

常にレミリアが全て。

だのに、そのレミリアが、奪われてしまったのだったら。

 

 がくがくと体中が震えてくる。

勝手に汗がしとしとと滑り降りてきて、涙がぽろぽろと絨毯に染みを作る。

目はからからとして、喉は張り付かんばかりに乾いていた。

恐ろしかった。

恐ろしくて、今までの権兵衛とであってからの事が、まるで悪夢でも見ているかのように思えてくる。

ああ、今観ているのはいっそ作り物と言って良いぐらいに悪事が降りかかっているけれど、それもすぐに夢のように覚めて、消え去ってしまうのだ、と信じたくなってくる。

だが。

今自身を抱きしめるその感覚も、涙が集まる瞳の熱さも、喉から漏れてくる小さな嗚咽も、全てがこれは現実だと言っていた。

 

「……ろさないと……」

 

 今や咲夜は、その言葉に頼るしかなかった。

全ての原因である権兵衛さえ、そうしてしまえば、解決するのだ、と、そんな淡い希望に縋っていなければ、立って歩く事すらもままならなかった。

 

「……殺さないと……」

 

 ひっく、と小さく嗚咽が混じる。

走馬灯が咲夜の中を走った。

昼寝している美鈴に、ナイフを投げつける光景。

昼夜を問わずに勉学を進めるパチュリーに、お茶を淹れる光景。

霊夢にあっさりと負け、あっさりと仲直りするレミリアを、呆けた顔で見ていた光景。

原初。

レミリアに敗北し、十六夜咲夜と名づけられた、正に咲夜が生まれたその日の光景。

それらを守る為にも。

 

「……殺さないと……」

 

 静かに呟きながら、咲夜は立ち上がった。

涙を拭きとり、瞼を一度閉じ、開くと、そこには数分前と違わぬ姿の咲夜が立っている。

ただ一つ、その瞳だけが見目を違えていた。

硝子玉のように、作り物めいた光をしか見せなくなった、その瞳だけが。

 

 

 

 ***

 

 

 

 妹紅は、権兵衛を焼いて以来、何一つ口にすることなく、ただただふらりとそこら中をさまよっていた。

万が一にでも慧音と会いたくなくて、家にすら帰らなかった。

ただふらふらと、何の意図もなく、そこら中を歩き回っているだけだった。

雨が降ってもそのまんま、ただただポッケに両手を突っ込んで歩いているだけなので、体は汚れるのに身を任せていた。

ただ、妖怪は妹紅の強さを悟ったのか襲ってくる事はなく、傷はそこらに引っ掛けて作った物ばかりである。

白い髪は泥を啜って灰色になり、服は枝にひっかけ穴だらけ、肌は泥で汚れているものの、枝で切ってしまった所だけ完全に治って汚れが落ちているもので、まるで体に変な模様が出来ているかのようだった。

何と醜い体か、と思ってから、体だけじゃないか、と妹紅は頭を振る。

何せ妹紅は数少ない友人を裏切り、男を取ってしまうような真似をしたのである。

その上その男にですら、勝手に怪我を作るような真似をしてしまった。

了承を取ろうとすれば取れたであろう、と言うのが更に妹紅の罪を重くする。

その男、権兵衛は何でも受け入れてくれるような心が狂わしい程に広い男であるのだが、それすらも疑ってしまったかのような形になってしまったからだ。

 

 そんな風にところ構わず歩きまわっているうちに、ぐるりと回ってきてしまったのか、妹紅は博麗神社の前まで来ていた。

木陰から日向の神社を眺めていると、まるで目の前にぶっつりと境界線を引かれ、別々の世界に分けられてしまったかのように思えてくる。

つい数日前までは、妹紅は権兵衛に気を許しているような許していないような、奇妙な状態で権兵衛を見守っていたのだ。

だのに今は、まるで別世界を歩いているようで。

境界線を跨いだこちら側に居るからか、何のことはない、他愛のない権兵衛との会話ですら、宝石のように貴重に思えてくる。

ふらふらと、誘蛾灯に誘われるようにして博麗神社に吸い寄せられようとした妹紅の足を止めたのは、がらり、と言う障子が開く音であった。

思わず木陰に隠れてしまい、それから何故私は隠れているんだろう、と思ってから、ようやく妹紅は権兵衛に会って嫌われたかもしれない事柄の結果を見るのが嫌だからだ、と思い出す。

一瞬それを忘れさってしまうほど、陽光の降り注ぐ博麗神社の縁側は魅力的だったのだ。

 

 足音は三人分。

ちらりと視線をのぞかせると、権兵衛と、レミリアと、咲夜であった。

何やら冷たい雰囲気を背負った咲夜は兎も角、やたらと仲が良い権兵衛とレミリアは、妹紅の興味の内である。

勿論、たったの五百年しか生きていない小娘である、気まぐれで行動しているのかもしれないが、それにしたって仲が良すぎるんじゃあないかと妹紅は思う。

今もそう、権兵衛の太ももに尻を載せ、右手を両手で掴み、まるで匂いをこすりつけるかのように、権兵衛の胸板に、体中を擦りつけている。

当然、妹紅がつけた権兵衛の火傷の上にも。

ガギン、と言う音と共に、妹紅は口内に違和感を感じた。

大きな音に、気付かれはしなかったかと慌てて三人の方を見やるが、三人とも首をかしげているだけに過ぎない。

いや、その中でも一人だけ——。

あの憎たらしい小娘、レミリアだけが一瞬、妹紅の居る場所を見やった気がした。

気のせいかもしれないが、と思いつつ、妹紅が口内の違和感を吐き出すと、それは砕けた奥歯であった。

あまりに強すぎる力で歯ぎしりを行おうとしてしまったので、歯を噛み砕いてしまったのである。

所で、嫉妬と言うのは矢張り愛情の一つであり、それを思うのならば、この噛み砕いた歯も、権兵衛への愛情を示す、記念品にならないだろうか。

そう思って、ポケットの中に自分の奥歯を入れようと思った妹紅だが、ポケットには残らず穴が空いていたので、残念ながらそれは捨てることになった。

 

 こうして腰をかがめ、耳に手を当てていると、永遠亭で二度にわたって盗み聞きをした事を思い出し、また盗み聞きか、と内心苦笑する妹紅。

そんな風にしている妹紅の耳に入ってくる言葉は、たまに世間話や、他愛のない話をする権兵衛とレミリアの会話だけで、特に重要な物は無い。

ならばさっさと引き上げるべきなのではないか、と思い、内心よいしょと腰に力を入れた所で、レミリアの口から、こんな言葉が飛び出した。

 

「そういえば、権兵衛。あの逃げ出した焼鳥女の事、どう思っているのかしら」

「へ? うーん」

 

 どくん、と心臓が跳ね上がる。

緊張で体の震えが止まらず、じとじとと嫌な汗が出てくる。

もし嫌われていたらと思うと、権兵衛の答えを聞きたくない、と言う妹紅が居るのも確かだったが、その他に、もう聞いてしまって楽になってしまいたいと思っている自分が居る事に、妹紅は気づいた。

それほどに妹紅は疲れはてていた。

不老不死である蓬莱人だと言うのに、権兵衛の事を考え続けているだけで。

 

 権兵衛。

権兵衛。

あの、自分の物にしなければいけない男。

あの男は、果たして自分の事をどう思っているのだろうか。

何せあの本当に平等に心の広い男である、既に妹紅の事など許して、笑って迎える準備をしているのかもしれない。

そしたら、どうなるのだろうか。

妹紅は権兵衛に一度だけ抱きしめられた、あの日の事を思い出す。

まず、ゆっくりと権兵衛の掌の感触が、妹紅の背の、肩甲骨の辺りに触れる。

服と肌の間隙にある空気を押し出し、暖かな温度が冷えた妹紅の肌に触れる。

それからつつっと滑るように斜めに権兵衛の掌が動いていって、背の正中線を通り、それから腰の辺りを、力強く、それでいて痛くないぐらいの絶妙な加減で握りしめる。

そのころには権兵衛の腕も妹紅の背に触れており、その部分だけ焼けた鉄に当てているかのように熱く、しかし湯に体をつけた時のように暖かかった。

思い出しただけで涙が出そうになり、咄嗟に妹紅は口元を抑え、滲む涙を振り払う。

 

 権兵衛に受け入れられたら、と言う想像だけで、これほどまでに妹紅は体を震わせた。

体の芯が熱く、心のそこから権兵衛を欲しているのが分かる。

だが。

だが、だからこそ、ここで盗み聞きなどしてはいけない、と自分の中の一部分が囁くのを、妹紅は感じた。

妹紅の心の痛みの中の幾らかは、権兵衛に対して誠実であれなかった事に起因している。

だのにここで、盗み聞きで自分の評価を聞き、受け入れられるかどうか知ってから会いに行くなど、人道に反する行いであり、また、権兵衛に対し誠実でなくなるのだ。

それにそも、権兵衛だって自分を許してくれるかどうか、分からないのだ。

体に残る、幸せを思い出した残滓の温度を感じながら、妹紅はゆっくりと立ち上がり、その場を立ち去ろうとした。

 

「ねぇ権兵衛、どうなのよ」

 

 所が、痺れを切らしたレミリアの言葉を聞き、後一瞬で権兵衛の本音が聞けるかも、と思うと、妹紅の吹けば飛ぶような決意は、揺れに揺れた。

どうせ、ここまで聞いてしまったのならば、あとちょっと聞くぐらいいいじゃないか……。

さっきまでは思っても見なかった言い訳が妹紅の胸の中を覆い尽くし、その場に立ち尽くさせる。

どうしよう、どうしよう、とそんな言葉が頭の中でクルクルと回っているうちに、権兵衛が、静かな声で答えた。

 

「一言じゃあ、言い難いけれど。そうだなぁ、いい人、と言うか、賢い人、と言うか、そんな感じかなぁ」

「へぇ、あの月の頭脳と知り合いでも、そう思うのかしら」

 

 ついに、妹紅の心からはここから立ち去ろうと言う選択肢が消えてなくなった。

代わりに顔面にぽうっと熱が集まってきて、思わず誰もいないのに顔を覆い隠し、しゃがみ込んでしまう。

 

「いえ、確かに純粋に俺の知る中で最も賢い人を選ぶのなら、永琳さんになるのでしょうけれど。

ただ、俺のヘンテコな部分に対してだったり、だらし無い部分にだったり、いろんな所に最も助言をくれたのが妹紅さんだったので、つい、そういう印象を持ってしまうのですよ」

「ふ〜ん。怪我を負わせた上逃げたのには、どう思っているのよ」

 

 と、そこまではその辺りで転がりたいような気持ちだった妹紅は、気を引き締める。

何が言われてもいいように、心の中を平静にして、聴覚に神経を傾けた。

と言っても、自分でも頼りなく思う程度の、突貫工事の平静さなのだが。

 

「あの時——妹紅さんは、俺の知らない何かに、打ちのめされていました。

俺は、出来ればそんな妹紅さんの力になりたかったのですが、失言をしてしまったらしく、悔しい事に、妹紅さんの力になれず。

そればかりか刺激してしまい、取り乱させてしまって。

輝夜さんと関係がある、と言うぐらいの事は分かったのですが、それだけで、詳しい事情は分かりませんでした……。

そんな時、俺の呟きで妹紅さんは天啓を得たようで、俺を自分の物にする、と、言い、そして——」

 

 権兵衛は、服の上から火傷の痕を抑える。

それが、仇敵のつけた印でもあり、権兵衛との間柄の切欠でもあるレミリアは、複雑な目でそれを見ていた。

 

「だから俺は、この怪我の事で妹紅さんを恨む気持ちは、一切ありません。

と言うよりも、あと一歩で彼女の力になれたのに、と、そう思うぐらいでして。

是非会いたい、会って力になりたい、と言う気持ちと、同時に、会って、また力及ばず傷つけてしまうのでは、と言う思いもあって。

いえ、その怯えは、俺の自身可愛さによる甘えもあるのでしょう。

だとすれば、きっと俺は、妹紅さんと会わなければならない。

会って、彼女の力にならねばならない。

勿論、猪突猛進で良いと言う訳では無いので、もう少し、事情を探ってからにしようと思っていたのですが——」

 

 と、そこでちらりと、伺うような色を見せて権兵衛がレミリアを見やると、ふん、と小さな胸を張り、尊大な仕草で言って見せる。

 

「昨日から、なんだか気になっていたみたいだから、余計な事をしたけど……。

なら、もうちょっとゆっくりとお膳立てすれば良かったかしら」

「へ?」

 

 と首を傾げる権兵衛を他所に、すっとレミリアは立ち上がり、権兵衛のすぐ側に退いた。

それから、聞き耳を立てながらも思わず身を乗り出していた妹紅と目を合わせ、くい、と手を差し出し、折り曲げてみせた。

あまりに意外な光景に目を丸めている妹紅を尻目に、レミリアは権兵衛にこのままで居る事を言いつけると、咲夜を引き連れ姿を消した。

ごくり、と妹紅は生唾を飲み込む。

こんな。

こんな事が、許されていいのだろうか——。

そう思いつつも、自然と一歩、二歩、と妹紅の足は動いていってしまう。

がさりがさり、と紅葉を踏み抜く音に気づき、面を挙げた権兵衛と、目があった。

 

 それは、妹紅の全てが振りきれるのに十分な質量を持った出来事であった。

思い切り足を踏み出し、落ち葉を踏抜き、すぐにトップスピードに乗る。

瞳からこぼれ落ちた涙が、顔を横に伝って空中へと飛散した。

がば、と全力で両手を開き、同じように動く右手を広げている権兵衛へと、押し倒すような勢いで抱きついた。

 

「ごん、べぇ……」

 

 先程までの夢想とは違い、実際にある体温。

頬と頬が擦り合い、それだけで火傷でもしてしまったかのような感覚に陥る。

両手でしっかりと抱きしめる権兵衛の体は、まるで不死鳥の炎の如く、熱いと同時、暖かかった。

全身にじっとりとかいた汗が、肌の触れ合う部分で、権兵衛の汗と混じり合う。

汗でぐっしょりと濡れた乳房が権兵衛の胸板に、形を変える程に押し付けられている。

自身の乳首が、間接的に権兵衛の魂の火傷に触れたのを感じ、感動のあまり、より一層の涙を妹紅は流した。

 

 どれほどの時間、そうしていただろうか。

永遠に思えるその時間の間、権兵衛はどうすればいいとか、何をすれば力になれるだとか、そんな野暮な事は聞いてこなかった。

こうやって体温を重ねあう事が一番だと、権兵衛も理解していたのだ。

それが自分と同じ思考なのだと気づくと、権兵衛が怪我人だと言う事も忘れ、妹紅はより一層強く権兵衛の事を抱きしめてしまう。

すると未だに怪我人なのである、流石に痛かったのか、ぴくり、と身じろぎする権兵衛。

その仕草に妹紅は僅かに冷静になり、そして気づいた。

 

 今はこんなにも幸せで、もう幸せが溢れ出してしまいそうなぐらいだけれども、先ほど権兵衛は何と言っていた?

知らない、と言っていたのだ。

妹紅と輝夜の間の確執を、まだ知らない、と言っていたのだ。

そう、二人が常に殺し合いを続けるような、仇敵のような間柄なのだと。

輝夜が権兵衛の事を蓬莱人にしようとしている、と。

妹紅は輝夜に取られたくなくて、権兵衛に証として火傷をさせたのだ、と。

 

 冷水を浴びせられたような気分だった。

もしこの事を権兵衛が知ったならば、どうする?

恐らくは、少なくとも自立ができるまでは、どちらにも肩入れしない、と言う立場を取るだろう。

もしどちらかに手を貸すとしても、師弟関係のある輝夜の元に。

恐ろしさのあまり、そしてそれをも覆し、それでもいいじゃないかと思わせるような暖かさのある権兵衛を引き離す必要性を感じ、妹紅は権兵衛の肩に手を置き、ぐっ、と体を離した。

逆らわず、それに従う権兵衛。

これで妹紅の力になれたのだ、と純粋に喜んでいる目。

そんな目を見て、思わず妹紅は権兵衛の顔に手を伸ばした。

ぺたり、と、権兵衛の鼻の辺りを掌の中心に、五指を広げて権兵衛の顔を捕もうとするように。

 

「わふ。って、どうしたんですか、妹紅さん?」

 

 変な鳴き声をあげる権兵衛を尻目に、妹紅はつい先日思った、仮定の話を思い出す。

——あぁ、そういえば何で自分は権兵衛の左胸なんて言う、地味な所に証をつけてしまったのだろうか。

——権兵衛の顔を焼け爛れさせれば、何時でも権兵衛との絆が確認できた上、余計な虫どもが寄ってくるのを避けられたに違いないのに。

——権兵衛の、顔を、焼け爛れさせれば——。

ごくり、と、妹紅は再び生唾を飲み込んだ。

僅かに五指に力を入れて、力を解放しようとして——。

 

「あら、まだやってたのかしら?」

「——っ!?」

 

 思わず、ばっ、と権兵衛から飛び退き、権兵衛の顔を掴んでいた掌を隠す。

が、現れたレミリアは顔こそ笑っているものの、瞳は全く笑みを漏らさず、冷徹な視線を隠れた妹紅の手へと向けている。

気付かれていたのだ。

また同じ事を繰り返す所だった妹紅は、同じ過ちをせずにいられて感謝すべきか、それとも同じ結果になって権兵衛の証が増える事を考えると残念に思うべきなのか、分からなかった。

ただ、矢張り万が一にでも権兵衛に嫌われるかもしれない、と思いながら逃げまわるのは流石にもう勘弁だと言う気分で、その分だけは感謝してもよい気分であった。

 

 それにしても妹紅は、再び人道に反する行いをしていたのであった。

レミリアの思惑があったとは言え、盗み聞きをして権兵衛の心を確かめた上で、自分が絶対に安全だと分かった上で権兵衛と対面した上に。

そうまでしてやっと再開できた権兵衛に、小さな不安から、再び権兵衛に相談する事なくその顔を焼こうとしてしまったのである。

兼ねてからの友人への裏切りも含めて、最早妹紅は権兵衛の前では罪人に等しい。

また、権兵衛が自分より輝夜を選び易い理由が増えたな、と、自嘲気味に内心妹紅は苦笑する。

 

 飛び退いて、尻餅をついたままの姿勢から、立ち上がる妹紅。

しかしどくどくと心臓がなっているのに、思わず胸に手をあてるが、収まる気配は一向に無い。

このままでは何を言ってしまい、何をやってしまうのか分からないぐらい自分が興奮している事に気づいて、妹紅はこの場を一度立ち去る事に決めた。

とすれば、即時行動である。

早口気味に、妹紅はまくし立てる。

 

「あーっと、だ。権兵衛。色々聞きたい事もあるだろうけれど、また今度でいいか。ちょっと、用事ができちゃってな」

「へ? あぁはい、勿論それは構いませんが……」

「じゃあ、な。また会おうさ」

 

 と言って、手を軽く振りながら権兵衛に背を向け、すたすたと歩く。

また権兵衛に一つ嘘をつき、また権兵衛が自分より輝夜を選び易い理由が増えた事に気づき、脱力し、その場に崩れ落ちそうになるも、気力でそれを隠しながら、妹紅はその場を去った。

 

 

 

 ***

 

 

 

 権兵衛の部屋側の縁側が日向になる時間になると、権兵衛はレミリアを気遣ってか部屋の中に戻るし、当然のごとくレミリアは咲夜を外に置いて中についていく。

すると、もう秋も中頃だと言うのに、閉めきった部屋は少し暖かく、じわりと汗が滲むようになる。

特に権兵衛は未だに怪我人である故、布団の中で大半の時間を過ごす事になり、自然、その汗の匂いは強くなる。

そんな権兵衛の匂いに包まれるのが、レミリアは好きだった。

だからそれを独占するために咲夜を中に入れる事は無いし、権兵衛の汗を拭いてやったりは自分でやっている。

何と言うか、別に普段の威厳のある吸血鬼としての時はそんな事した事も無かったのだが、これで少しでも権兵衛が楽になってくれるのだと思うと、嬉しくて嬉しくて、仕方が無いのである。

そんな汗を拭いてやったり、水を飲ませてやったりしたぐらいの事で、と思いもするのだが、実際やってみると、本当に危ないぐらいに胸がドキドキしてしまう。

どのぐらい危ないかと言うと、何時も顔を真っ赤にして、権兵衛と目を合わせる事すらできず、何度かは危うくその場でごろごろと転げ回ってしまいそうな衝動に襲われる程である。

勿論、偉大な吸血鬼どうこう以前に淑女としてそんな姿見せられないので、どうにか我慢してきている。

と言う事で、権兵衛の世話と言うのは、レミリアにとって意外な強敵であったのだった。

 

「うっ……」

 

 思わず、呻き声をあげながら、手にとったタオルを、権兵衛の肌蹴た胸へと触れさせる。

帯を緩め、少し肌から浮かせた服との間にある空間は不思議な空間で、半裸になられるよりは、と思ってこれを指示したレミリアであったが、こちらの方がもしかしたら威力が高いかもしれない、などと嘯きつつ、タオルを権兵衛の腹の辺りまで侵入させる。

これも権兵衛の隠された部分に手を突っ込んでいるのだと思うと、妙に興奮してしまい、難易度が高い。

殆ど息を止めんばかりの勢いでどうにか権兵衛の体を拭き終え、タオルを手に離れると、にっこりと権兵衛が微笑んだ。

 

「ありがとうございますっ」

「——っ」

 

 笑顔が眩しい。

あまりの破壊力に、思わず息を飲みながら胸を仰け反らせたレミリアに、不思議そうに首を傾げる権兵衛。

その仕草もレミリアのクリティカルな部分を刺激し、思わず悶えて悶えて、いっそ死ぬんじゃないかと思うぐらいであった。

とまぁ、そんな具合に先日権兵衛に告白——と言っても、男女のそれではなく、真実をである——を終えて以来、レミリアはずっとこんな感じであった。

勿論人目のある所は避けていたが、昼間、権兵衛が起きている間は殆ど部屋なりに入り浸りで、ずっと権兵衛の世話をしていたのである。

そんな風に幸せ満点のレミリアであったが、一つ、レミリアには心配事があった。

 

「………………」

 

 沈黙と共に、レミリアは権兵衛を見据える。

するとすぐにそれに気が付き、視線を返してくる権兵衛。

余りに純粋なその視線に晒されているのに耐え切れず、レミリアは視線を正座している膝先にやり、内心溜息をつく。

問題は、権兵衛と妹紅との事であった。

どうやら権兵衛が優しい事に、あんな証を残すために無理矢理怪我を負わせた妹紅の事を気にしているらしい事に気づいていたレミリアは、丁度会話の際に近くに妹紅がいた事に気づき、ああやって助け舟を出してやったのだ。

何せ、レミリアにとって、権兵衛は特別なのである。

特別な権兵衛の心の心配をするのは当然の事だし、そんな権兵衛を占有しているのである。

妹紅にちょっとぐらいの間分けてあげても、度量の大きさを見せる事になるだろう、と思っていた。

事実、そうだっただろう。

あの後権兵衛はレミリアにこれでもかと言う程に感謝の言葉をくれたし、甘えようとすれば、すぐに抱きしめ返してくれたりもした。

それは勿論嬉しくてたまらないし、良いことなのだと思う。

けれども。

けれ、ども。

 

 権兵衛が、あの焼鳥女に向けていた表情。

本当に心の底から救われたと言う感じと、相手を心の底から慮っている感じを、合わせたような表情。

あれは。

もしかして。

あの告白の日、権兵衛がレミリアに向けていた表情では無かったのだろうか。

権兵衛は、レミリアにとっての特別の筈なのに——。

 

 ふるふる、とレミリアは頭を振る。

いいや、そんな筈は無いのだ。

だって権兵衛はレミリアに許しを与えてくれた、最高に心を許している相手なのだから。

だから、他の女などにうつつを抜かつ筈が無いのだ。

この優しさを、匂いを、汗を、血を、レミリア以外の誰かに与える事など無い筈なのだ。

そしてそんな事は、聞いてみればはっきりする。

だからレミリアは、そっと権兵衛を見上げ、まるで祈りを捧げるかのように両手を組み、口を開いた。

 

「ねぇ、権兵衛。ちょっと、聞きたいんだけど」

「はい? なんでしょうか」

「その、さ……。私にとって、権兵衛って、特別、でいいんだよね?」

「はい、勿論ですよ」

 

 そう言う権兵衛の笑顔は、相変わらず光り輝くような笑顔で、だから安心してレミリアは次の言葉を告げた。

 

「じゃあ、勿論、権兵衛にとっても、私は特別なたった一人、なんだよ、ね?」

「………………」

 

 果たして、即答は来なかった。

思わず目を見開き、口をぽかんと開き、呆然とするレミリア。

その目前で、権兵衛は困ったような笑顔を作って、明らかに頭の中で言葉を探す仕草を取る。

一瞬で、レミリアは理解した。

そう、確かにレミリアにとって権兵衛は特別である。

しかし、権兵衛は優しいのだ。

とてつもなく、途方も無いぐらいに優しいのだ。

その優しさが、レミリアが権兵衛を好きになった所で。

だけれども、その優しさ故に、権兵衛は誰か一人を特別に思う事ができないのだ。

そう、権兵衛にとって、レミリアは特別ではないのだ。

 

 そう思った瞬間、レミリアの中にはぞっとするような寒気が生まれた。

かちかちと歯が鳴り始め、祈りを捧げていた両手も震えが止まらない。

目も喉もからからに乾いていて、だのに心臓だけはばくばくと五月蝿いぐらいに鳴り響く。

権兵衛にとって、レミリアは特別じゃあない。

頭の中で考えるだけで、怖気が走る程の恐ろしい言葉であった。

だから、咄嗟にレミリアは、それを類推できる言葉が権兵衛から発されるのが怖くて、口を開く。

 

「くすっ、冗談。答えなくってもいいわ」

 

 顔に貼りつけた表情は、完璧であった。

それ故に、権兵衛は安堵したような、自虐的なような、複雑な笑顔でそれに答える。

それを見てから、レミリアは気づく。

権兵衛の隣は聖地であったはずだった。

一切自分を偽らなくていい、レミリアは何でも甘える事のできる、最高の場所の筈だった。

だがしかし、その場所でレミリアは、嘘をついてしまったのだ。

それも、必要にかられて。

 

 何かが崩れ去ってゆく音を、レミリアは背後から聞いた。

座っている筈なのに、足が地面に引きずりこまれるような感覚がする。

平衡感覚が無くなる。

くらりと揺れた頭をすぐに抑え、心配する権兵衛に、またもや嘘の言葉で、何でもない、と答えるのだった。

また、嘘をついてしまった。

それだけでも絶望的なのに、権兵衛にとって自分が特別ではない、と思うたびに絶望に襲われ、しかもそれを嘘をついて隠さねばならない、と思うと、泣きたくなるぐらいに辛い。

なにより、その泣きたい、が一瞬前まではすぐに権兵衛に甘えて解消できていたのに、今はそれができないのだ。

かと言って、権兵衛を責める事も、一切できない。

何せ権兵衛が自分を受け入れてくれたのは、そも、その優しさ故にであると言うのに、その優しさを責めると言う事は、レミリアにはできなかった。

絶望的な、気分だった。

 

 だが、それでも、まだマシなのだ、とレミリアは思う。

無言で両手を差し出すと、権兵衛がすぐに気づいて身を起こしてくれる。

それに抱きつき、この世に二つとない温度を味わう。

その間にも背中には絶望の寒気があって、それは今までの物と違い、権兵衛の暖かさを以てしても、消えることは無い。

それでも、自分はまだマシなのだ、とレミリアは言い聞かせる。

権兵衛に特別に思ってもらう事はできなくても。

レミリアが権兵衛を特別に思う事は、許されているのだから。

最早レミリアは、そう思う事で自分を慰める他無かった。

それが今の今までは当たり前のように続いていた事だった事を、無理矢理無視して、貴重な物だと思い込んで。

 

 掌から、腕から、胸から、権兵衛の体温が伝わってくる。

つい先程まではこの世にこれ以上無いぐらいの暖かさだったそれは、今は、もう少し温いぐらいの温度に思えるようになってきた。

それは丁度、ぬるま湯の温度に似ていた。

ずっと浸かっていて、出て暖かい物を浴びて、初めて自分が冷えていたと気付かされる、それぐらいの温度に。

 

 

 

 ***

 

 

 

 新月の夜であった。

空は晴れ、星々はキラキラと輝いているのに、その最中に居る筈の月は姿をみせていない。

太陽や星は、その現れる時間を昼と夜に分けたり、間に時折気まぐれに雲を挟む事によって互いの属性を踏み荒らさないよう住み分けているが、月だけは違う。

数多くの星に囲まれる夜にばかり姿を見せ、それ自体が発光する訳ではなく、太陽の光を受ける月。

それは何故かと言うと、月は狂気を支配しているからである。

狂気は常に波のように寄せては引くような物で、ある時と無い時が振幅を作って出来ている物であるので、月には月齢が存在するのだ。

そして、満月が最も狂気に満ちた時であると言うのならば、果たして新月は、狂気の存在しない時間なのだろうか?

——否である。

新月は満月と互いに振幅の頂点に位置すると言う共通点を持っており、言わば、狂気で無い度が最も増える時間であるのだが、しかし正常と離れている距離は満月の時と同じであり、最も狂わしい時のもう一つであるのだ。

その振幅は、何によって決定されるかと言うと、互いの持つ重力によってである。

互いが惹きあう力が、強ければ強い程、それは激突する際に弾力を持って更に反発し、更に遠くへと飛んでゆくのである。

それが狂気の振幅を作っており、それ故にこの新月の夜、咲夜もまたその新月と反発するように、狂気を持って博麗神社に潜んでいた。

十六夜、咲夜。

十六夜の昨夜は十五夜、満月であるが故に。

 

 小さく、息を吸う。

殺意を全身にみなぎらせ、足音を殺して咲夜は廊下を歩いて行く。

当然、勘の良い巫女の膝下である、時を止めて咲夜の世界を展開しながらの事である。

それ故に既に息を殺す意味も無いのだが、それでも警戒して尚余りあるほど、咲夜にとって霊夢の脅威は高かった。

新月の星々だけが光る夜の下。

僅かに聞こえる、ぎぃ、ぎぃい、と言う音を引き連れ、咲夜はついに権兵衛の部屋の前に辿り着く。

すっ、と扉を開くと、中は星明かりだけの、僅かな何処か青白い光に照らされた光景であった。

畳や布団ばかりではなく、普段からやや血色の悪い権兵衛の顔は、余計に青白く見える。

殺す前から既に死人のようであった権兵衛に、僅かに気色ばんでから、咲夜は後ろ手に戸を閉め、権兵衛の部屋に入り込んだ。

 

 秋も半ば辺りまで過ぎ去っていると言うのに、ここは閉めきっているからか、少し空気が蒸し、汗の匂いがする。

それが権兵衛の物であるのに気づき、一瞬しかめっ面を作ってから、咲夜は更にその匂いの元へと近づいてゆく。

布団から首だけ出した権兵衛は、その首の上だけでも額に包帯を巻いた、痛々しい姿であった。

しかしそれを見ても何も思うでもなく、咲夜は権兵衛の枕元に立ち、懐からナイフを抜き出す。

片手をつき、身を乗り出してもう片手で、銀のナイフの装飾の刻まれた柄を握り、権兵衛の喉元に宛てがう。

だがしかし、何と言うか、しっくりとこない。

 

 頭を振ると、一端ナイフを仕舞い、それから咲夜は両手で手探りに、布団の上から権兵衛の体と、両腕の位置を確認する。

それから両腕を含んで股に挟むようにして、権兵衛の上に馬乗りになり、再び銀のナイフを取り出し、権兵衛の喉元にあてがった。

今度こそ、殺す。

そう思った瞬間に——、咲夜は、何故か、ナイフを振り抜く事が出来なかった。

まるで体が何かに絡み取られているかのように、自由が効かない。

血が滲む程に歯を噛み締め、全身に力を入れていると言うのに、権兵衛の肌に掠り傷一つつける事ができない。

そのくせ手を離そうとしてみれば、今までが嘘のように、簡単に腕が動かせて、ついてしまった勢いに、咲夜はバランスを崩し、後ろ手をつきながら権兵衛に体重をかける。

 

「何よ、何? 何だと言うの!?」

 

 叫びながら、今度は上空から一気に振り下ろそうと、するものの、今度も上手く行かない。

腕が空中で釣り上げられているかのように、ぷるぷると震えるだけで動かなかった。

何だこれは。

私は、この男を殺すと、お嬢様への忠誠に誓ったのでは無いか。

だのに何故、こんな何の障害も無い所で躓いているのだ。

あまりの情け無さに、咲夜の瞳からぽろぽろと涙さえもが溢れてくる。

その涙が権兵衛の頬に落ち、まるで権兵衛が泣いているかのように頬をつたい、枕へと落ちていった。

そして次の瞬間。

権兵衛が、目を開いた。

 

「えっ!?」

 

 驚愕の声をあげると同時、突然咲夜の体は自由になり、勢いでナイフを振り下ろしてしまう。

駄目だ、こんな事で殺してはいけないっ!

内心の叫びに従い無理に軌道を変え、ナイフは既のところで権兵衛の首の横を過ぎり、枕へと突き刺さった。

流石に驚いたのか、目を見開く権兵衛であったが、驚き過ぎたのか、それとも他の何かからか、声は出さずに居る。

いつの間に時が動き始めてしまったのか、と疑問に思うと同時、殺るなら今だ、と咲夜の内心が囁いた。

殺るなら、今が最後だ、と。

 

「——っ」

 

 振り下ろしたナイフは、権兵衛の頸動脈のすぐ側であった。

あと少しでも動けば権兵衛の頸動脈を掻き切り、その生命を終わらせる事ができるだろう。

ほんの僅かでも良いのである。

指先の震えのような、薄皮一枚の動きで良いのである。

だのに咲夜は、その手を微塵も動かすことができなかった。

そうこうしているうちに、瞼を開いた権兵衛が、ぼうっとした顔で咲夜とナイフを見比べ——、そして。

にっこりと、微笑んだ。

 

「——ぁ、あぁっ!」

 

 単に寝ぼけて笑っただけかもしれない。

状況が理解出来ていないだけかもしれない。

だが咲夜の目には、それは全てを許して見せる、慈母の笑顔であったかのように思えて。

思わず、咲夜は握っていたナイフを取り落とす、

金属が畳に落ちる、重い音。

代わりに両手で顔を多い、見開いた目で微笑みの形のままになった権兵衛を見据える。

気づけば権兵衛は、先ほどの笑顔が幻であったかのように、再び眠りに入っていた。

さながら時は止まったままであったかのように。

 

 ようやくの事、咲夜は理解していた。

咲夜は確かに、権兵衛に嫉妬していた。

単純に忠誠を誓う咲夜よりもレミリアに好かれていた事。

自分には霊夢と言う超然の存在が出るまで出来なかった、レミリアを一人の存在として見、仲よくなる事が出来た事。

それらは確かに咲夜の中で黒い炎となってくすぶり続けていたのだが、しかし、それだけではなかったのだ。

何故、権兵衛を見ていると苛々したのか。

何故、権兵衛がレミリアと仲良くしているのが、気に入らなかったのか。

その、答えは。

顔を覆っていた手をだらんと下ろし、いっそ爽やかな笑顔で咲夜は呟く。

 

「私——、一目惚れ、しちゃってたのね」

 

 そう、その通り。

嫉妬の気持ちは、権兵衛に対してではなく、レミリアに対してであったのだ。

それを認められず、こんな風に決定的な殺人と言う行為の寸前までいくまで、気づかないとは。

自分は何と自身に対し鈍感なのだろう、と、咲夜は内心苦笑しつつ、権兵衛の寝顔を見やる。

数分前までは正面から見やる事もできなかったその寝顔を、今初めて真っ直ぐに見つめると、確かに青白く、痛々しい怪我の痕こそあるものの、何とも愛らしく、宝石のように貴重な物であるように思える。

 

 そう、好き。

私は、権兵衛が、好き。

そう思うと胸の奥が熱くなって、咲夜はぎゅっと両手を合わせ、胸の間を抑えつける。

それでもその中には詰まっている気持ちは今にも爆発しそうで、すぐにでもこのまま顔を隠しつつ転げ回ってしまいたいぐらい。

動機は先程までの緊張とは違う意味でばくばくと破裂しそうで、顔の温度は触ったら余りの熱さに思わず勢い良く手を離してしまうだろうと言うぐらいだ。

そういえば、権兵衛と同じく、閉めきった部屋で体温が高くなったからか、汗を多くかいてしまう。

全身の服が肌にぴたりと張り付き、その中にある体のラインを浮かび上がらせる。

自分が、寝ているとは言え権兵衛の前で扇情的な格好をしていると思うと、それだけで早鐘を打つように鼓動が早くなった。

 

 ぶるぶると頭を振り、咲夜は思考を引き戻す。

そう、咲夜は権兵衛が好きだ。

そしてそれを認められなかったのは、恐らく、レミリア以上に好きな相手が存在する事を認められなかったからなのだろう、と咲夜は思う。

だから咲夜は、それを解決する素敵な方法として、二人とも好きになる、と言う事を考えるのだった。

 

 恐らくそれは、困難に満ちた道程になるだろう。

咲夜は権兵衛もレミリアも好きでいたいし好きになってほしいが、かといってその大好きな二人が仲良くしている光景と言うのも、こうやって冷静に思い返せる段になれば、素晴らしい物であった。

であれば、咲夜は、権兵衛と言う誠実な男に、レミリアと咲夜の二人を好きになってもらわねばならないし、先日信頼を損なうような事をしてしまったレミリアに、権兵衛を一部とは言え手に入れようとする自分を好きになってもらわねばならないのだ。

明らかに無理がある道程があり、その困難さは咲夜の想像を超えるだろうと、容易く理解できる。

だがしかし、この権兵衛の寝顔を見ていると、何だってできそうに思えてくるから、不思議である。

そこで決意を新たにしようと、咲夜は自分の中の心を定める儀式をしようと思った。

 

 咲夜はまず、大きく息を吸い、吐き、自身の呼吸を整える事に腐心する。

それから咲夜は、すっと取り落としたナイフを持ち上げ、権兵衛の首筋に近づけた。

丁度、レミリアの吸血痕がある場所である。

そのあたりの皮膚を薄く切り裂き、毛細血管だけの血をちろりと流させる。

それから咲夜は、深呼吸をし、自身を落ち着かせてから、思い切って権兵衛の上に押し倒すようにして抱きつき、首筋に唇を寄せた。

まず、そっと唇を傷口に近づけさせ、キスしようとするものの、中々気恥ずかしくて、一気にとはいけない。

レミリアと同じように、権兵衛の血を吸って、それを契約としようと思っていたのだが、なかなか上手く行かなかった。

あれこれと脳内に言い訳のような物が浮かんできて、自分を止めようとする。

 

 そこで、咲夜は、一度離れ、じっと権兵衛の顔を見る事にする。

愛らしい顔であるが、咲夜が一番気になるのは、やや伸びっぱなしにしてある髪の毛であった。

別に特別な手入れをしてある訳ではなく、夜中寝ている間に汗や埃が絡みついているような髪であるが、無性にそこが気になる。

そこで咲夜は、権兵衛の寝ている枕の辺りを少しまさぐると、そこから数本の権兵衛の抜け毛を取り出した。

此処の家主も黒髪であるが、長さを見るに権兵衛の物だし、そも、霊夢は中々此処に来ないそうなので、間違いなく権兵衛の物だろう。

なによりそこにこびり付いた匂いが、権兵衛の物だと主張しているように思えて、そうなると、こんな髪数本でも愛おしくなってきて、だから咲夜は喰った。

権兵衛の髪の毛を喰った。

細くて噛み切れないそれを、舌で誘導し、奥歯で磨り潰し、細切れにしてから大量の唾液と共に飲み込んだ。

ごくん、と喉を鳴らし、食道を権兵衛の髪の毛が嚥下されてゆくのが、咲夜には良く理解できた。

 

「——これよっ!」

 

 興奮のあまり、咲夜は叫んでしまった。

それから慌てて、夜中であった事に気づいて口元を抑え、時が止まった世界にも侵入してきそうなあの紅白巫女がやってこないのを確認してから、胸をようやく撫で下ろす。

しかし、それ程の興奮であった。

髪の毛。

何故そこに咲夜がこんなに興奮するのか分からないが、兎も角、レミリアにとって最適の方法だった事が、咲夜にとっても最適な方法ではなかった、と言うのは道理が通っている。

早速、咲夜は身を乗り出し、権兵衛の髪の毛を一房手に取り、ゆっくりと眺めてから、まずはそれに頬擦りする。

そして舌で舐めとった。

たっぷりの唾液で、権兵衛の髪の毛を汚してみせた。

ぞくりと、背徳的な興奮が咲夜の背筋を犯す。

 

「——あはっ」

 

 ど、と、体中から汗が噴き出てくる。

顔を伝う汗が顎に集まり、権兵衛の髪へと落下し、弾ける、その光景にすら胸が熱くなる。

次に咲夜は、他の髪の一房を手に取り、今度は根本近くを掴んで立たせるようにして、そして一気にぱくっと口の中に含んだ。

唾液だけでなく、口内の肉が、舌が、権兵衛の髪を征服する。

くしゅりと、唾液と共に踊らせると、ふわりと口内で広がり、もさもさと口内に触れるのが、逆に蹂躙されているかのようで、咲夜の興奮を誘った。

つぽ、と小さな音を立てて権兵衛の髪を口から抜き、口内で残った唾液を飲み干そうとする咲夜だったが、その時思いつく事があって、それはやめた。

代わりに唾液を集めた舌をちょこんと出し、権兵衛の頭の上に下ろすようにする。

やがて唾液が舌の先端に集まり、糸を引くようにだらりと垂れ、権兵衛の髪を穢していった。

 

 それから咲夜は権兵衛の髪を利用しながら、これからの幸せに思いを馳せていた。

権兵衛が居て、レミリアが居て、咲夜が居て。

その三人が、仲良くしている、夢のような光景。

そんな光景を想像している咲夜は、未だにレミリアの心を知らない。

レミリアが権兵衛にとっての特別になる事を諦めてしまった事を、知りはしない。

決して実現することのない夢を見ながら、それでも咲夜は権兵衛の髪を弄びながら、幸せだった。

何せ、夢を見ると言う事は、いずれ打ち砕かれる事が決まっているとしても、その瞬間だけは幸せな事は確かなのだから。

 

 

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