ルナティック幻想入り   作:アルパカ度数38%

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冒頭朝の時点で、2009/11/03(満月


15-宴会3

 

 

 チュンチュン、と、鳥の囀りの音が鳴り響き、朝日が明るく全てを照らす、朝。

空気は澄んで、深呼吸すると冷たい空気が肺の中に入り込んでくるのが分かり、体が中から洗われるかのようであった。

そんな中、一人、膝に萃香さんの頭をのっけたまま、朝から酒を飲む俺。

何とも空気をぶち壊しにする、駄目男っぽさ漂う光景であった。

と言っても、一つ言い訳をさせてもらうのであれば、俺は少々奇妙な現実に直面し、それから逃げたかったのである。

俺は今まで、俺は酒に弱いと思っていた。

何故なら俺は今まで慧音さんとサシで酒を飲んだ事しかなく、そしてその度に記憶を失っていたからである。

勿論、記憶を失ったからと言ってそれが酒に弱い事に直結するとは限らないが、それでも順調に考えれば弱いと考えても可笑しくは無いだろう。

しかし現実に今、俺は恐ろしい程の酒を飲んでいた。

しかも萃香さんの持っている、萃香さん曰く無限に酒の湧いてくる瓢箪とやらから出てくる、やたらと度数の高い酒を、である。

量は、萃香さんが酔いつぶれてからもごくごくと飲み続け、厠に行きたくなればそっと萃香さんの頭を下ろして行き、戻ってきてはまた萃香さんの頭を膝にのせ、また飲み続けると言うのを繰り返して、多分萃香さんの五割増しぐらいは飲んだだろうか。

萃香さんは、鬼である。

鬼とは須らく酒に強いと言う種族と聞いており、幻想郷の中でも一番なのだと言う。

その中でも萃香さんは最も酒に強く、いつも酒を飲んでいて、素面を見た人が居ないぐらいなのだとか。

そんな萃香さんに飲み勝った俺は、当然恐ろしい程に酒に強い、と言う事になる。

 

 当然の事だが、それは矛盾である。

ならば条件の差異があるのでは、と思うものの、慧音さんと飲んでいる途中に俺が悪酔いするような原因があれば、あの人の良い慧音さんである、きっと俺を正してくれただろうし、かと言って萃香さんが何か俺を酒に強くするような事をした、と言うのも考えづらい。

どうしたものか、と、疑問を解消する理由と言うのがいくら考えても正しらしいものが見つからず、ほとほと困り果てていた頃に、ふと、膝の上が僅かに軽くなった。

おや、と視線をやると、寝ぼけ眼のまま、萃香さんが起き上がろうとしていて、それがふらふらとしていて今にも頭をガツンとやりそうなので、手をかして起こしてあげる。

 

「ふぁ……権兵衛?」

「はい、そうですよ。おはようございます」

 

 と言って、きちんと体を起こしたのを確認して、手を離す。

すると萃香さん、寝起きがいい人なようで、すぐに目から眠気が去ってゆき、次第に正気の色が浮かんできた。

と、次に浮かんできたのは、何故だか、羞恥の色である。

顔を真っ赤にし、思わず、と言った様相で両腕で体を抱きしめ、俯いてしまう。

どうしたものか、と声をかけようとする俺に先んじて、萃香さんが口を開いた。

 

「ご、権兵衛、私って、その、い、今、素面、かな?」

「へ? えぇ、寝ている間にさっぱり酔いが抜けたんでしょう、酔ってる感じはしませんよ。

あんなに飲んだのにこんなに早く酒が抜けるなんて、やっぱり萃香さん、お酒に強いんですね」

 

 と答えると、ひゃん、と小さい悲鳴を上げ、萃香さんは益々体を縮こまらせ、恥ずかしがってしまうようであった。

一体何が恥ずかしいのだろうか、と疑問に思うものの、頭の中で答えが出るよりも早く、萃香さんが言う。

 

「ご、権兵衛。ひょ、瓢箪、瓢箪ちょうだい」

「あ、はい。このお酒の湧く瓢箪ですよね」

 

 と言って差し出すと、奪い取るような勢いで萃香さんは瓢箪を手に取り、きゅぽ、と蓋を取ったかと思うと、すぐにぐいっと一口二口、喉を鳴らして飲み始める。

あまりに突然な光景に呆然としている俺を捨て置き、ごくごくと萃香さんはラッパ飲みを続け、暫く経ってからようやく瓢箪を口から離し、口の端から溢れる酒を手で拭う。

するとすぐに萃香さんの顔に恥ずかしさ以外で赤みが差し、頭が僅かにゆらゆらと揺れるようになった。

昨日出会った時と同じ、ほろ酔い加減の状態である。

 

「あぁ、やっと人心地ついたぁ。私ぁ酔ってるのが平常運転だから、素面でいるのは落ち着かなくってね」

「素面が危険運転なんですか。外の世界と逆なんですね」

「そうそう、って……」

 

 と、少し呂律の甘い声で言っていた萃香さんは、急に顔を深刻そうな物に変える。

どうやら、俺が起きて今の今まで酒を飲んでいたのに気づいたようで、つまりは。

 

「私、飲み勝負で、負けたのかい?」

「……はい」

 

 ず、と重い怒気が萃香さんを中心に放たれる。

酒の所為ではなく、喉が乾いてゆく。

目がシパシパと乾き、手足の先がふるふると震える。

 

「あんた、昨日私に、毎回記憶を失うぐらい、酒に弱いって言ってたよね」

「はい」

「あんたさ、私に、嘘をついたの?」

 

 ど、と、凄まじい威圧が俺を襲う。

思わず腰が引けそうになってしまうのだが、この指摘を予想していた俺は予め耐える気概を持っており、それ故にかどうにか耐える事が出来た。

大きく息を吸い、吐き、はっきりと答える。

 

「いえ、嘘などついていません。俺は確かに、これまで酒を呑む度に、記憶を失っていました」

「あんたは」

 

 言って、一端区切ってから、萃香さんは凄まじい怒気を携えて言う。

 

「それを、命に賭けてと言えるかい」

 

 そのあまりの威圧に、思わず息を飲んでしまう俺。

しかし、ここで答えに窮してしまうのは、俺ばかりか、萃香さんの為にもならない。

彼女の種族である鬼は正直者の種族であると聞くし、なにより昨夜聞いた萃香さんの武勇伝は、どれもが正々堂々とした物ばかりで、その性格を顕にしていたからである。

であれば、彼女に俺を疑わせてしまうと言うのは、酷く彼女の誇りを損なわせてしまうように思えるのだ。

もしかしたら、この答えによって俺は、命を失うかもしれない。

恩返しを終える事ができないまま、生涯を終えてしまうかもしれない。

しかし彼女の誇りのような、尊大で素晴らしい物を損なわせてまで生きるような醜い生き方をして返す恩に、果たして何の意味があるだろうか。

そう思うと、俺は心の奥底から勇気が湧いてくるような気がして、どうにか声を震わせずに、答える事ができるのであった。

 

「言えます」

 

 すると、一瞬、萃香さんが難しい顔をしたかと思うと、次の瞬間、空気が弛緩した。

思わずほっと溜息をつく俺。

とりあえず、補足の説明も必要だろうと、続けて口を開く。

 

「その、俺自身ですら非常に信じがたい事なのも確かなのですが、確かに俺は今まで慧音さんと酒を飲んだ時は何時も記憶を無くしていて、それ即ち酒に弱いと言う訳ではありませんが、少なくともそれらしい状態でした。

此度萃香さんに飲み勝負で勝ったのも、断じて不正などしていません。

何せ持ってきた酒はすぐに飲み干してしまったもので、殆どは同じその瓢箪からの酒を飲んでいた物ですので」

「……待て。あんた、何時も半獣と酒を飲んでいたのかい?」

「は、はい。幻想入りする以前は記憶がなく、幻想入りしてからは慧音さんと二人でしか酒を飲んだ事はありません」

 

 と、突然聞いてきた萃香さんに答えると、また何かに悩むような仕草を取る萃香さん。

どうしたものか、と声をかけようとすると、またそれよりも早く萃香さんが口を開いた。

 

「ちょっと、確認に行ってくるよ。昨日の宴会のおかしさも含めてね」

「へ? 確認?」

「まぁ、すぐに分かる事さ」

 

 と言って萃香さんはぴょん、と縁側から飛び降り、駆けてゆく。

それを見てから、あ、と気づき、その気づきの遅さに、なんで俺はこんなにも俺はとろいんだろうか、と自己嫌悪しつつ言った。

 

「そういえば、もう秋も終わり頃なのに縁側で寝てしまいましたが、体を冷やしてはいませんか。

鬼の萃香さんなら滅多に風邪は引かないでしょうが、その分引いてしまえば酷くなるとも聞きます。

調子が悪いと思ったら、早めに医者にかかってくださいね。

もし永遠亭に知古がなければ、俺が仲介できますよ」

 

 と忠告をすると、どうやら偶然足を踏み外したようで、ずっこけそうになる萃香さん。

どうしたんだろう、と首を傾げる俺に、苦笑いしながら萃香さんが言う。

 

「全く、あんたったら、心配するのはそれこそ鬼の私より先に、自分でしょ、あんただって夜中ずっと外に居たじゃあないか。

本当にあんたは素直って言うか、抜けているって言うか、もうこんなの見たらあんたの事を疑えやしないよ、もう」

 

 なんとも言う通りの事であり、恥じて恥じて顔を真っ赤にしてしまう俺を尻目に、何故か上機嫌そうな足取りで、しかし何処か顔色は悪く、萃香さんは俺の元を去るのであった。

 

 

 

 ***

 

 

 

 伊吹萃香は、酒呑童子である。

宴会をしようと言う人を信じ、鬼を殺す酒を飲んで弱まり、斬り殺された伝説を持つ妖怪である。

なればこそ鬼の中でも特に率直な物言いを好み、素直な人間を好んでいる。

ついでにいえば鬼の中でも一二を争う酒豪であり、故に大酒飲みとあればそれだけで相手に敬意を表するぐらいだ。

そんな萃香の好みに、権兵衛はど真ん中で的中していた。

萃香も長い事生きているけれども権兵衛ほどに素直だと感じた人間は居ないし、権兵衛ほどの酒飲みを見たこともない。

そしてなにより、権兵衛には素面で居る所を見られてしまったのである。

萃香は常に途切れること無く酒を飲み続け、酔っ払い続けている物なので、素面で居る自分と言う物を知る存在はこの世に居ないと言ってもいい。

自分でも本当だったか覚えていないが、自分は生まれてから初めて立つより前に酒を飲み始めたんじゃないかとさえ萃香は思っている。

そんな萃香が素面を晒すのは、処女の全裸を晒す以上の恥じらいであった。

思い出すだけで顔に火が出そうになるし、それこそ本当に穴を掘って入りたいぐらいな気分になるのだが、それを全く権兵衛が気にしていない様子なのが、余計に恥ずかしさを増す。

無論権兵衛は素面を恥じらう気持ちなど理解出来よう筈も無いのだ、それは当然の事なのだが、それでも恥ずかしい物は恥ずかしい。

それにしても、と萃香は思う。

処女は全裸を晒した相手に責任を取れ、と言って結婚を迫る事があるが、自分は果たして権兵衛に娶ってもらえるのだろうか。

 

「〜〜っ」

 

 思わず身悶えするような恥ずかしさに、萃香は歩みを止め、その場で座り込んだ。

己が壊れんばかりの力でぎゅっと抱きしめる。

顔が紅潮してゆくのが嫌でもわかって、それがまた恥ずかしく、更に顔の紅潮を増す事になった。

いやいや、自分は何と女々しい考えをしているのだ。

勿論自分は女であるのだから女々しい考えをしてはならないわけでは無いが、それでも何と言うか、性に合わないだろうに。

ぶんぶんと頭を降って、桃色な考えを脳内から弾き飛ばすと、ややふらついた足取りで、萃香は再び歩み始める。

 

 権兵衛は本当にいい男だった。

それが萃香にとって恋愛事になるかどうかは置いておくとして、それは確かであるし、更に言えば、権兵衛は萃香に勝った男であった。

確かに権兵衛の言う通り、勝ち負けの結果だけの気安い勝負として萃香は権兵衛の勝負を受けたのだが、それでも勝負には全力を欠かさなかった。

となれば、どうしても結果だけではなく、その権兵衛に対する畏敬の念と言う物が出てくるのはしょうがないことである。

勿論権兵衛が自身の実力を把握しておらず、それが努力によるものではないと分かっていたとしても、だ。

それ故に萃香は思う。

もし権兵衛が記憶に細工をされていたならば、許せない、と。

 

「——まぁ、あのクソ真面目な半獣が、そんな事するもんか、分からないけどね」

 

 つぶやきながら、萃香は視線を空にやった。

青空に浮かぶ銀髪の少女と萃香は特に仲が良い訳ではないが、宴会に来た事があるので、その性格の大凡ぐらいは把握している。

生真面目と言う言葉が人格化したような半獣で、かなり差し迫った理由がなければ、他者を傷つけるような真似をする人妖ではない。

しかし、状況証拠としては、権兵衛の言によると一番怪しいのは慧音であるし、萃香には権兵衛の言葉を疑うつもりは無いので、自然そう考えるしかなくなる。

して、どうするか。

恐らく伝えれば、権兵衛が酷いショックを受けるだろう事は、萃香にも想像できた。

故に気軽に伝える事のできる内容でもないし、そも確実にそうだと言い切れる訳でもない。

ならばとりあえず確実にそうだと言い切れる奴に会いに行こう、と言うのが萃香の目的で、故に萃香は禊を行っている霊夢の元にたどり着いていた。

 

 ざばぁ、と、重い水の音。

寒気もまして来た秋の早朝、差すような冷たさの水が、水の花を咲かせるように白装束の霊夢を打つ。

滝のような流れは一瞬で終わり、すぐにぽたぽたと、毛先やら袖先など、先端から落ちてゆく水滴だけになった。

それも一息、すぐに霊夢は川に桶を浸す。

ぼこ、と小さい音を立てて空気が抜けてゆき、すぐさま桶の中は水で満たされ、それがまた霊夢の頭上から落とされる。

暫くそれを、近くの岩に腰掛けて眺めていた萃香だったが、霊夢が禊を終える段になると、腰を上げて話しかける。

 

「霊夢、話があるんだけど、いいかい?」

「私、さっさと体を拭いて着替えたいんだけど」

「じゃ、待つさ」

 

 いかにも面倒臭そうに顔を顰める霊夢だったが、萃香が再び腰を下ろし、暫く居座る様子であるのを見てとると、溜息交じりに白装束を脱ぎ、手拭いで体に張り付いた水滴を拭きとってゆく。

それから何時もの脇の空いた紅白の巫女服に着替え、水気を絞りとった白装束を片手に、とすん、と萃香の隣に腰を下ろした。

そして本当に面倒臭そうに溜息をつき、肩を下ろし、暫くその姿勢のまま動かないかと思うと、急にぱっと体を起こし、口を開く。

 

「権兵衛さんの事ね」

「あぁ。あいつ、もしかして里の半獣に記憶を喰われているんじゃあないか?」

「えぇそうよ」

 

 実にあっさりと答えた霊夢に、思わず萃香は目を見開く。

 

「でもまぁ、それを権兵衛さんに明かすのは無しよ」

「何でっ!?」

 

 が、続く言葉に思わず口を衝いて出る言葉。

腰を上げながらの叫びに、矢張り億劫そうに霊夢は溜息をついた。

 

「昨日散々喋った事なんだけど……。

あいつは、歴史を喰えると言う事は、つまり歴史が見えている。

つまりは権兵衛さんを監視し続ける事ができる訳で、権兵衛さんにあんたが事実を明かしたその瞬間、あいつは歴史を食べる事ができる。

あんたみたいな鬼相手には無理でも、少なくとも権兵衛さんの記憶全てぐらいなら、防ぎ様のない一瞬でね。

前はそこまで他者を警戒していた訳じゃないから、準備無しだったみたいだけど、今はねえ。

あぁ、でも多分、慧音の事だけは覚えているって言う風にでもなるのかしら?

そこら辺までは私も分からないけれど」

「………………」

 

 確かに、聞く所による慧音の能力によれば、それは可能かもしれない。

しかし萃香には権兵衛個人に対してそんな事をするような存在が居る、と言う事は想像の埒外であった。

何せ権兵衛は、確かに素直で正直で良い人間でこそあるものの、ただの人間である。

それを相手に里の有力者である慧音がそこまでして権兵衛への罪の暴露を恐れるとは。

まるで。

 

「私と同じみたいだ、かしら」

「……な、何をっ!?」

「別に、同じじゃなくてもいいけどね。

多分察してる通りよ、慧音は、権兵衛の事を好いているわ。

ううん、それどころか、昨日の宴会に出ていた私以外の人妖、あぁ紫は分からないけど、兎も角それ以外の人妖は、全員権兵衛の事を好いている」

「………………」

 

 確かに。

権兵衛の言う幻想郷の有力者の人物像は、ちょっと良い方に傾き過ぎていた。

当初は萃香は権兵衛の持つ精神の極端な善性による物だと思っていたが、しかしそれだけではなく、他の理由があると思えばより納得が行く。

そう、例えば権兵衛に優しくしたくなる理由があるとか。

権兵衛の事が、好きだと言う事だとか。

 

「わ、私、どうしたらいいんだろう」

 

 突然付きつけられた現実に、萃香は思わずそう漏らしていた。

鬼として人間に頼ろうとは思っていないものの、霊夢だけは不思議と例外で、気を抜いてしまえば何でも話せてしまえそうな雰囲気があり、それが萃香の口を緩くしているのだ。

一度声を漏らすと、決壊はすぐだった。

心に浮かんだ言葉が、すぐに萃香の口をついて出る。

 

「権兵衛の事好きな人が、そんなに居るなんて知らなかったし、それに、私、権兵衛に忘れられたくないっ。

でも、そうするには、私、権兵衛に、う、嘘をつかなくっちゃいけなくって……。

い、嫌だよ霊夢、私、権兵衛に嘘なんてつきたくないっ!

あいつ、私みたいに圧倒的に力のある存在を相手に、少しも嘘をついたりなんかせずに、正直に話してくれたんだよ?

なのに私からは嘘をつくなんて、耐え切れないっ!

でも、私を忘れられるなんて……」

 

 と、そこまで言った所で、ふと思いついた事があって、萃香は言葉を止める。

そもそも、こんな事が始まったのは、誰の所為だ?

そいつさえいなくなってしまえば、権兵衛に忘れられる事も嘘をつくことも、しなくて済むのではないだろうか。

幸い気付かれずに近づく事には、悪意が無かったとは言え霊夢にさえ気付かれずに居られた萃香である、簡単にできるだろう。

ならば……。

思いつめた表情で今にも立ち上がろうとした萃香を、霊夢が差し止める。

 

「慧音を殺そうとしたのなら、無駄な事よ。

昨日集まった全員で、あんた達が出て行った後にちょっとした会議をやってね。

他にも色々利害を調整したんだけど、誰かを殺すのは基本的に無しって事にしたわ。

だって、誰かを殺してそれを秘密にしようとしても、他の誰かがそれを暴露して、誰かを蹴落そうとするのは眼に見えている。

そうして有利になった誰かをまた殺して……、それが繰り返されたなら、幻想郷は戦争になるわ。

それでも構わないって奴も居るけれど、権兵衛がその戦争の理由を知れば、権兵衛の心に大きな傷がつく。

それを防ぐために、新入りのあんたを監視している奴は沢山いるの。

ほらね、気づかない?」

 

 霊夢の言に気配を探ると、幾つかの術や目が萃香を見ているのが感じられ、萃香は愕然とする。

もしそれが本当ならば、萃香は権兵衛に嘘をつかざるを得ないからである。

権兵衛に、嘘をつく。

考えるだけで胸の辺りにぽっかりと穴が空いて、寒風が吹きさすようであった。

悪寒が全身を支配して、震えが止まらなくなる。

涙さえ滲み出てきて、歯がカチカチと鳴り始める。

 

「わ、私、どうしたら……」

「ごめんね、私も疲れてるし、あんた一人に肩入れするつもりも無いのよ。

自分で考えてちょうだい」

 

 思い切って口に出した悩みも、あっさりと跳ね除けられてしまう。

そして本当に立ち上がってしまう霊夢の背に、思わず手を伸ばしてしまう萃香であったが、何を言おうか迷っているうちに、さっさと霊夢はその場を去ってしまった。

遠くなってゆく紅白の背中を見ながら、萃香は伸ばして手から力を失わせ、徐々に下ろしてゆく。

それに比例するかのように萃香の顔からは明るい色がすっかり抜け落ちてしまい、真っ青な顔のまま、暫く萃香はそこで座ったまま動けずに過ごす事となった。

 

 

 

 ***

 

 

 

「あら、どうしたのかしら、鬼の事が気になって仕方が無いって顔しているけれど、昨日の宴会があの後どうなったのか聞きたいって顔はしないのかしら?

……やっぱり聞くとそんな顔するのね、素直ねぇ。

平穏無事で和やかな感じだったわよ。

あら、私の鼻が伸びているって?

つまりますます鼻が高くなって、私が美しくなると言う事かしら。

ならば正直者の貴方は鼻がどんどん低くなって、最後には平面になってしまいますのね、可哀想に。

まぁつまりは、嘘つきは得、と言う事。

貴方は損な男なのよ、権兵衛さん。

私は貴方以上に損で、不幸が待ち受けるであろう人間を見たことがないけれど、きっと最後にはお涙頂戴のお約束が待っている、と思えばきっと立ち向かえますから頑張ってくださいね。

貴方の頑張りには神ですら応えられないでしょうけれど、私は気まぐれになら応えてあげますわ。

だって気まぐれは嘘と同類、女を美しくみせる為の物ですもの」

 

 紫さんと、出会い頭にこれだった。

いや、確かに俺は性格で損をしてこそいるものの、それ以上の得を得ているので構わない、と言うのが正直な感想だし、俺は頑張っている訳ではなく、当たり前の事を当たり前に行っているだけなのである。

精魂尽き果てるまで努力したかと言うとそうでもなく、俺の不幸は大抵努力よりも縁や幸運、思いつきによって解消されているので、そんな風に応援されても、気恥ずかしくなるばかりであった。

しかし、俺はそんなに心配されるほどの不幸顔なのだろうか。

内心で落ち込みつつ、俺は口を開く。

 

「紫さん。その、さっきどうにも思いつめた表情で萃香さんが歩いて行ってしまったものなので、気になって探しているのですが」

「目の前にこんなに気になる美女が居るって言うのに、失礼ね。

まぁ、貴方のそういう失礼さは無欲さや純粋さから来るものだから、裏返しでいい所にもなっているのだけれども。

でもカードが裏返るには人の手を待たなくては駄目、風が吹くのを待つのはちょっと人間にしては気が長すぎるわね。

そう、裏返っている理由は、全てのカードが表向きになっているのは、手があるからなのよ。

その手は何なのかしらね。

きっと自然の手なら私は歓迎するわ。

だってこんなにも素晴らしい幻想郷は、外の世界と比べて何が豊かって、自然が豊かですもの。

そうであれば私も喜色満面、キスだって奪ってあげるわよ。

あら、うふふ、そういえば権兵衛さん、未だにファーストキスは未経験なのね。

あ、でもこんな事言ったら事故の発生率がうなぎ登りになったりして。

大変だろうけれど、結局苦労するのは貴方以外もなのだから、自分だけじゃないと思って頑張りなさい」

 

 で。萃香さんは何処に行ったのだろうか。

思わず胡乱気になった目で紫さん相手に目を細める。

まったくもって美しい少女であった。

所々が幼さと静謐さを兼ね添えた容貌で、それなのに全体の雰囲気としては妖しい感じであると言う、その不思議なギャップが彼女の美しさを増す。

それはきっと、見えないヴェールなのだろう。

彼女が頭から、西洋婚で被るような怪しさのヴェールを被っているのだ、と想像しながら、それが矢張り似合っている事に納得しつつ、紫さんの言葉を待つ。

一瞬、間があいた。

 

「何処に居るのかは知っているけど、貴方に会わせられる場所には居ない、というか、貴方はすでに会っている。

でも彼女を見いだせないと言うのならば、呼び寄せる事もできるわ。

でもね、私は萃香の友人なのよ、できればそんな事したくないの。

友達は大切よ、貴方はそれを知っているでしょう?

知らなくとも、少なくとも知っている気にはなっているでしょう?

くす、私は別に貴方の感じている友情を哂った訳じゃあないつもりよ。

だからねぇ、そんな顔しないで、怒っているんだろうけれども、貴方がしても小動物の怒りにしか見えないわ。

こっちが可笑しくなっちゃって、笑ってしまいそう。

それに対して貴方は、すこしおかしいのよね。

それはただの性格に留まるおかしさなのかしら?

それとも、その手の根本にあるおかしさなのかしら?

うーん、見てみたい気もするけれど、ちょっと我慢我慢。

私まであなたにおかしくなってしまうつもりは無いの、ごめんね?」

 

 相変わらず、紫さんはよく分からない物言いである。

辛うじて俺が読み取れたのは、兎に角萃香さんは今直ぐ会える場所に居るが、俺の力不足により見えず、また、紫さんにはその彼女を連れてくるつもりも無いと言う事だった。

紫さんの胡散臭さを思うとどうにも信用するのに躊躇する部分があったが、俺はそれを受け入れる。

昨日の萃香さんの話しぶりから、彼女から紫さんに友情を感じているのは間違いなく、ならば逆もまた然りであろう、と言う事からだ。

 

「分かりました。じゃあ、そうだな、宴会場の片付けって残っています?

もう全部やっちゃったかな、霊夢さんなら」

「いいえ、残っています。

それで暫し時間を潰すといいでしょう」

 

 と言うと、すっと紫さんの背後に空間の亀裂が走る。

その両端にリボンがちょこんと巻きつけられているのが可愛らしいなぁ、と思いつつ、俺は静かに手を振りながら紫さんを見送った。

それから残り物の片付けに入ろうと、近くの宴会場の戸を開くと、霊夢さんと鉢合わせする。

 

「あ」

「あ、おはようございます」

 

 思わず、といったように顔を歪める霊夢さん。

俺は、いったい何をしてしまったのだろうか。

と思うと同時、先の紫さんの言葉が思い出される。

昨日の宴会の後は平穏無事で和やかだった、と、明らかに嘘をついた様子で言っていて。

つまりは俺が出て行った後、少なくともあの状況は改善されなかった訳であるので。

俺はあの大変な状況を一人ぬけぬけと抜けだしてやったと言う、酷い男なのである。

そうとなれば、俺を見ただけで顔を歪めてしまう気持ちと言うのも判るものだ。

 

「その、昨日はすみません。あの後あの宴会を霊夢さんに任せちゃって」

「……半分どういう答えが来るか分かっていて聞くけど、あの宴会ってどういう宴会だか分かってる?」

「え? 何だか妙に静かで、皆さん威圧しあっているような宴会、ですよね?」

「……まぁ、それならそれでいいんだけどさ」

 

 紛らわしい事言わないでよ、とぼやきつつ、霊夢さんは溜息をつく。

それから俺は霊夢さんが手に宴会の食器を幾つか持っているのを見て、俺が霊夢さんの邪魔をしているのに気づき、慌てて俺は横にどいて見せる。

しかし本当に慌てて動いてしまったので、台所へつながる方の道に避けてしまい、あぁ、これでは無駄では無いかともう一回り、反対側にどく俺。

そんな俺を、奇妙な物を見る目で見つつ、霊夢さんは台所へと歩いて行く。

 

「その、今日こそ俺も手伝っていいですか? 結構大変そうですし」

「……徹底するなら本当は駄目なんだけど、後数日だしねぇ。ま、いっか」

 

 と聞いて、俺は吃驚してしまって思わず聞き返す。

 

「って、後数日? え、じゃあ、早く次に住む所を見つけないと……」

「ん? あぁ、探すなら、明日まで待ちなさい。珍しく良い知らせがあんたにあるわよ」

 

 と言ってさっさと行ってしまう霊夢さん。

どういう事かと聞き返したかったのだが、本当にすぐに行ってしまったので、俺はとりあえず、宴会場に残った食器やその上の残り物を集めて、台所に集める作業に従事する。

何と言っても、あの上品な人が多い宴会で、何故にこんなに散らかるのか、と言うぐらいの散らかりようで、結構な時間がかかってしまった。

俺はその良い知らせとやらがどういう事なのか聞きたいけれど、忙しそうにしている霊夢さんに聞くのは気が引けて、更に言えば昨日から俺はこの人に世話になりっぱなしで頭が上がらない具合なので、聞くことはできない。

代わりに色々と想像しながら食器と残り物を集め、食器を洗い、宴会場に出涸らしのお茶っ葉を撒いて箒で掃き、乾拭きをする。

良い知らせ。

単純に言うならば誰かが忘れられた家屋を見つけていて教えてくれると言う物なのだが、俺の知る中でそんな物を見つけそうな行動範囲の人と言えば、幽香さんだろうか。

一人で過ごし散歩を趣味の一つとしている、と言う幽香さんなら、忘れられた家屋の一つや二つ、知っていてもおかしくはないと思う。

もしかしたら、とそんな事を想像しながら掃除を終えると、結構時間がかかってしまい昼時になってしまったので、昼食を作らせてはくれないか、と言うと、昨日の食事が目にかなったのか、許可がもらえた。

そこで喜び勇んで焼き魚に玉子焼きに味噌汁に漬物、猪肉と山菜の炒め物、と気合を入れて作り、さてどうだろう、とちらちら霊夢さんの反応を気にしながら、集中できずにご飯に箸を付けていると、言われてしまう。

 

「なんかワクワクしてる所に水を差すけどさ、あんた良い知らせがどうのって事を聞きたいんじゃあなかったっけ?」

「あ」

 

 とまぁそのような顛末があって、暫く俺は顔を真っ赤にしたまま食事を終え、お茶を淹れて二人で向かいあって飲んでいるのであった。

ちなみに、料理の感想は透明な感じのする味ね、と言う所。

透明な味噌汁とかはなんとなく分かるが、炒め物や焼き魚が透明な味って、どんな物なのだろうか。

いや、俺が作った本人なのだけれど……。

と、そんな事を考えている俺に、不意に霊夢さんが口を開く。

 

「良い知らせは、そうね、多分日が変わるまでにはあるんじゃあないかしら。霧の気分次第だけれどね。

ま、私の提案だけど、無くってもあんたが思いついたって言うのは、私の勘が保証しているわ、安心して」

「へ? はぁ」

 

 よく分からない話を、霊夢さんはまるで俺ではなく天井へ向けて話しかけた。

忍者よろしく誰かが天井裏にでも居るのだろうか、と首を傾げ、思わず簡単な探査魔法を使ってみるものの、なんだかちょっと霧があるような感じがするばかりである。

どうしたものか、と霊夢さんに目で問いかけてみるものの、霊夢さんは取り合わず、お茶をずず、と啜るだけだった。

 

「えーと、まぁ、それならなるべく遅くまで起きているようにしましょうかね。

寝ていて良い知らせを聞き逃したんじゃあ、やりきれないでしょうし」

「まぁ、それでいいんじゃない?」

 

 言うと、お茶を飲み干し立ち上がる霊夢さん。

何をしに行くのだろうか、と聞くより早く、巫女の仕事よ、と言われ、俺はすごすごと引き下がる。

すると早速一人で暇な時間が出来てしまった訳で、はて、どうしようか、と暫く瞑目してから、とりあえず霊力の扱いの練習でもするか、と庭に出て、月弾幕をぽつぽつと作ったりしながら時間を潰す俺なのであった。

 

 

 

 ***

 

 

 

 夜中。

夕食も終えて、良い知らせとやらは本当に来るのかどうか、不安に思った権兵衛は、気を紛らわせる為に霊力の扱いを練習していた。

そろそろボロ屋でも生活できるぐらいに結界の練度は高まっており、食べられる野草やキノコの知識も仕入れ済みである。

着々と準備を進めてきた一人暮らしについて、権兵衛のそれは一応の完成を見せていた。

と言っても、所詮付け焼刃感が否めない程度ではあるのだが。

そんな権兵衛が、結界を張ったり解いたりしているのを、霧になった萃香はぼうっとしたまま見つめていた。

 

「……はぁ」

 

 口を開けば出てくるのは溜息ばかり。

権兵衛の前に出れば嘘をつかねばならず、出ないのはあの萃香の心を動かす少年と二度と出会えないと言う苦痛となる。

二律背反である。

故に答えは出ず。

どうすべきか、どうすべきか、それだけがぐるぐると頭の中を回っているのを感じながら、萃香は権兵衛を眺める。

権兵衛は、月の魔力を扱うようであった。

ただの記憶喪失の人間の筈なのに、不思議と月人しかマトモに扱えない筈の魔力の扱いが上手い。

比較対象が月の姫が偶に弾幕ごっこで使う程度なのでなんとも言えないが、相当な物であるように萃香には思えた。

 

 権兵衛が指揮者のように指を振り上げる。

指は月の魔力が灯っており、その軌跡が月の白とも黄とも青とも時によって色が変わる物で、そこには月の魔力が充填されると同時に、地上の空気の真空が出来ていた。

そのままくるりと一回転しつつ指をなぞり、自身を中心に縦の螺旋を描くようにしてみせる権兵衛。

くるり、一回転。

くるり、もう一回転。

最後には指先が地面にぴたりとくっつくまで周り、そこで権兵衛は指先の灯りを消した。

立ち上がる。

すると、ふわりと権兵衛が足で地面を蹴飛ばすと、ゆっくりと浮き上がる事となった。

何せ権兵衛が描いたのは、擬似的な月光線である。

それの元となる螺旋の中心の円柱は、月と言う事になる。

つまりは重力が地球よりも低い、大地であるのだ。

よって、権兵衛はまるで宇宙飛行士のようにゆっくりと浮き上がり、ゆっくりと下がる。

 

 一部始終を見ていた萃香は、思わず手を握り締めていた。

動機が激しくなるのが自分でもわかる。

胸ばかりか全身がか〜っと熱くなってきて、汗がじわりと吹き出し、肌は湿って光を反射し輝いた。

これだ。

これなのだ。

歓喜の声を、萃香はあげる。

 

「権兵衛……権兵衛っ!」

 

 気づけば萃香は、実体化して走りだし、権兵衛に抱きついていた。

驚く権兵衛だが、すぐに萃香を気遣い背に手を回してくれる。

興奮している萃香の体は既に暖かい筈なのに、権兵衛の手はそれ以上に暖かく感じ、萃香は口元を軽く緩めた。

 

「萃香さん。どうしたんですか、今朝から急に見なくなりましたけど……」

「いいんだ、権兵衛、いいんだっ!」

 

 そう、いいのだ。

これでいいのだ。

権兵衛を騙してしまうと言う罪悪感も、嘘をつかないと言う自身の精神的支柱が崩れてゆくのも、これでいいのだ。

だって萃香は、今、それ以上に感動しているのだから。

その中身を叫ぼうとするが、胸が一杯になって、口を開く事すらもままならない。

 

 そう、権兵衛が持つ能力の一つは、“重力を操る程度の能力”だった。

何せ権兵衛は月らしい力を持つ男で、月と言えば星であり、星と言えば、重力を持つ大地なのである。

そして重力とは、人と人の縁でもあった。

人や妖怪と言った精神の持つ、他の人妖との縁や繋がり。

それを権兵衛は月のような巨大な質量が持つような大きさで持っており、それを徐々に操ることができるようになってきたのである。

 

 重力は、同じように大きな質量を持つ物同士であるほうが、より強く惹きつけられる。

幻想郷の力関係は須らく精神の持つ力で決められており、強者はより強い精神的質量を持っている為に、権兵衛により強く惹かれてゆく。

権兵衛に関わる有力者が、誰しも狂的な感情をさえ持っているのが、その力が作用している証拠だろう。

何せ権兵衛は月の重力を持っているのだ、関係もまた月的になるのは当然の理である。

また、里人のような精神的質量の低い者たちは、権兵衛に惹き込まれるよりも、よく分からない何かで有力者を惹きつける権兵衛に嫉妬してきた事が、その仮説を裏付けるだろう。

最早萃香の目には、権兵衛が“重力を操る程度の能力”を持っている事は明らかだった。

だってその能力が、自分にだけは効いていないのだから。

 

「あ、あはは、あはははははっ!」

 

 何せ、萃香の能力は“疎と密を操る程度の能力”。

当然物質や精神の疎密を操る事ができ、つまりはそれらの持つ重力をも擬似的に操れるのである。

故に疎となった萃香には権兵衛の能力は最早及ばず、萃香の中には能力によって生まれた好意は無くなっているに違いない。

少なくとも萃香にはそれが感じ取れており、権兵衛に奇妙に惹きつけられるような気持ちは、疎となっていた時にはなくなっていた。

故に萃香は権兵衛の能力について確信するのだが、それよりももう一つ、大事な事実がある。

それは、萃香が、疎だった先ほどから密となった今まで、変わらずに権兵衛の事が大好きであると言う事だ。

これはつまり、この幻想郷で権兵衛の能力によらず権兵衛を好きと言えるのは、萃香たった一人だと言う事で。

この世界に権兵衛を純粋に好きだと叫べるのは、萃香一人だと言う事で。

 

「やった、やったよ、権兵衛っ!」

 

 泣き叫びながら萃香は権兵衛を抱きしめる。

力加減が上手くゆかず、どこかでちらりと、権兵衛は痛がるだろうな、とも思ったが、反して権兵衛はより強く萃香を抱きしめてくれて、萃香は泣いて喜んだ。

その喜びを口にしようとするものの、口は上手く回らず、もう訳が分からないぐらい嬉しくって、それを表現しようとふと周りを見ると、丁度満月となった夜空の月がみえた。

だから萃香は、名残惜しそうに権兵衛から離れ、すっと掌を空へと向ける。

 

「見て、権兵衛」

 

 言って、権兵衛が空を見上げたのを確認してから、萃香は手を握った。

空が弾けた。

空に写る偽りの月にヒビが入ったかと思うと、次の瞬間月が音もなく砕け散った。

その欠片が、流星のように地上へと降り注いでゆく。

それは、さながら流星群の夜であった。

夜空を滝のように流れる光に、権兵衛はあんぐりと口を空ける。

 

「……凄いや」

 

 感嘆の余り小さくそう漏らすのが限界であった権兵衛に、萃香はとん、と軽く抱きついた。

萃香の、権兵衛の月の魔力さえも砕いてみせ、その上で萃香がそれでも権兵衛を受け入れている事を、動作で示したのである。

最も、自分の能力を把握できているかどうかも妖しい権兵衛である、萃香の行為を理解できたとは思えないのだけれども。

それでも、自分にとって最高の愛情表現をする萃香の顔は、とても満ち足りていて。

その顔を、地面に落ちた月の光が、下からぼうっと薄く照らしてみせる。

 

「権兵衛ぇ……」

「……はい」

 

 たった一言、声を交わすだけでも、心臓が飛び出そうな程萃香の胸は高鳴った。

ぎゅ、と権兵衛の着物を握りしめる。

頬を権兵衛の腹の辺りに擦り付け、権兵衛の肉の、骨の、臓器の感触を感じる。

ずっとこのまま、永遠にこうしていられたら、とさえ萃香は思った。

がしかし、現実には、鉄の意思を以てして萃香は権兵衛から顔を引き剥がす事となる。

霊夢の台詞を思い出したからである。

 

「その、権兵衛」

「はい。どうしたんですか?」

「権兵衛の家、無くなっちゃったんだろ?」

「はい」

「ならさ……、私が作ってやるよ」

 

 え、と驚く権兵衛に、振り向いて背を預けたいな、と思った萃香だったが、自分の角が邪魔になる事に気づき、やめた。

角だけ疎にしてしまえばそれもできるかもしれないけれど、それは何だか折角素のままの自分を受け入れて貰うのが無くなってしまうような気がして、やめておく。

代わりに萃香は、権兵衛の着物の裾を持ち、少しだけ引っ張る事にした。

 

「ほら、私の能力が“疎と密を操る程度の能力”だって言っただろ?

こいつで木材を集めれば、権兵衛一人住める家ぐらい、あっと言う間さ」

「で、でも、家ですよ!? そんな畏れ多い……!」

「いいっていいって。ついでに、これを飲み勝負の賞品って事にもしちゃおうかな」

 

 本当の所、それには権兵衛に対する打算も含まれていたが、それを一切臭わせずに萃香は言う。

暫くどう答えたものか、と百面相していた権兵衛であったが、如何なる葛藤の末にかそれを受け入れるようにしたようで、神妙な顔を作って言った。

 

「えーと、それじゃあ、お願いしてもよろしいでしょうか」

「まっかせてっ! 今度は頑丈な家にするし、手ぇ出そうってもんなら大怪我するぐらいにしてあげるさ!」

 

 朗らかに、掴んでいた着物の端を離し、両手で握りこぶしを作って上にあげる萃香。

しかし対する権兵衛は困惑した模様で、苦笑気味に漏らす。

 

「いえいえ、そんな物騒な物にしないでください。 子供の秘密基地みたいのになるのは勘弁してくださいよ?」

「……ん?」

 

 あれれ? と、首を傾げる萃香。

何せ権兵衛は、話を聞く限り里人に家を壊されたのである。

これでは里人を憎んでいて仕方なく、そうでなくとも良い感情は持っていないと思ったのだが。

 

「じゃあさ、こう……ちょっとぐらいおちょくる仕掛けぐらいは作らないの?

権兵衛、家を壊されて、畑も滅茶苦茶にされて……、それでも辛くは無いの?」

 

 問いかける萃香に、数瞬、権兵衛は眼を閉じてみせた。

沈黙の間、萃香は奇妙に空気が粘着く事に気づく。

まるで権兵衛が溶け出し、黒い泥のようになって萃香の足を絡めとっているかのようで。

だとすれば、権兵衛の肉は黒蠅で出来ているのだ、と、ふと萃香は思った。

黒い小さな無数の黒蠅。

余りに多くの蠅がその空間に押し込められている為、次第に増えてゆく蠅に蠅が押しつぶされ、その墨で出来た体液がぶちゅりと溢れ出す。

それが権兵衛の足元を中心に池を作り、萃香の足元まで広がっているのだ。

 

「辛くないと言えば、嘘になります」

 

 はっ、と萃香が気づくと、光景は現実の物に戻っていた。

完璧と言うより愛嬌のある権兵衛の顔と、それを照らす足元の月の欠片。

 

「ですが、それは仕方のない事なのです。

だって里人の皆さんにとって、俺は慧音さんを誑かし、作った野菜を高値で売りに来る、極悪人なのですから。

そう噂を聞いてしまえば、俺のように里人と仲良くなるのが下手な人間を、悪人としか思えなくなってしまいます。

人は、悪に対し、何をしてもいい、と思わなければ、生きてゆくのもままならない生物です。

だからそれは、仕方のない事なのです。

俺が嬲られる事も仕方のない事なのです。

俺の家が壊されたのも仕方のない事なのです。

俺の畑が荒らされたのも仕方のない事なのです。

里の人々は、悪くありません。

敢えて悪を問うならば、人里と言う社会で悪であり、またそれを覆す力を持たなかった俺の弱さこそが、悪なのでしょう」

 

 言って、権兵衛は萃香に視線を合わせる。

何の変哲も無い普通の視線の筈なのに、萃香はまるでそこにピン止めされてしまったかのように動けなくなってしまった。

そんな萃香に、権兵衛はにこりと天上の微笑みを見せる。

同時、萃香達の足元にあった月の欠片達がぐぐ、と動き始め、空へとまた集まり始めてゆく。

その先は丁度権兵衛の頭上にあり、萃香にはまるで権兵衛の背後から後光が差しこんでくるかのように思えたのだった。

 

「だから、仕方のない事なのです」

 

 なんとも、重い質量を持った言葉であった。

そんな権兵衛の瞳は、黒い花が無数に咲いた、花畑のようだった。

雄しべすらも真っ黒な花々は、茎が見えない程に密集していて、まるで生き物のように犇めき合っている。

次第に散り始める黒い花弁が、二つ合わさり、黒色の蝶となって萃香の元へと羽ばたいてきた。

幽々子の扱う死の蝶にも勝るとも劣らぬ、狂気の蝶である。

生唾を飲み込みながら、萃香は俯き、権兵衛から視線を外す。

 

 権兵衛は、狂っていた。

それは丁度月の魔力が、権兵衛の持つ魔力が人をそうさせるように、彼もまた自身の重力により極限まで収縮し、内部にブラックホールを作ったのだ。

虚ろな中身は、何一つ抜け出せない深淵の闇で、それをさえ抱える権兵衛は、他者と同じように心を狂わせている。

そして丁度狂人と常人がそうであるように、能力を避けている萃香と権兵衛とでは、決定的な間隙があると萃香は感じた。

 

 次いで萃香が感じたのは、絶望感だった。

まるで足元に穴が空き、途方も無い時間落ち続けるような気分である。

自分は、権兵衛と話を擦り合わせる事ができないのだ。

永遠に価値観を合わせる事ができず、すれ違いを続ける事しかできないのだ。

そう思うと、ぞっとするほどの寒気に全身が包まれ、萃香は思わず身震いする。

かと言って、萃香もまた狂ってしまったのならば、その好意は純粋ではなくなり、権兵衛を好く女たちの中で特別ではなくなってしまうのである。

二律背反。

権兵衛にとっての特別となった事で、無理に見ぬふりをしてきた権兵衛に嘘をついている現状も、再び萃香の心を差し始める。

涙腺が温度を持つのを感じ、急ぎ萃香は言った。

 

「そ、そっか。じゃあ、河童の最新科学を取り入れた、凄い奴を作ってやるよ。 それじゃあね、権兵衛! また明日!」

「……? はい、また明日」

 

 それから萃香はすぐに権兵衛に背を向け、涙が今にもこぼれ落ちそうな顔を見せまいと、すぐさま霧になる。

涙が零れ落ちたのは、タッチの差だった。

霧の中から零れ落ちる涙に、思わず手を伸ばす権兵衛であるが、そこには霧になった萃香しかおらず、勿論気体となっているので触れる事はできない。

それが今後の権兵衛と萃香との関係を暗示しているかのようで、霧になったまま存在しない目から存在しない涙を零す萃香。

しかし代わりに権兵衛がすっと霧になった萃香の中に入ってきて、まるで肉体的には二人が重なり合っているように思える。

すると同時、萃香は自身のうち幾らかが権兵衛の呼吸に乗って吸われ、吐かれている事に気づいた。

 

 これは、もしかしたら。

そう思い、萃香は一端自分と権兵衛の間にできた間隙の事を考えるのを辞めて、少しだけ自分を密にする。

丁度人間の肺の中を満たせるだけの量になって、萃香は権兵衛が息を吸うのと同時に、権兵衛の鼻梁の中に入り込んだ。

それから喉を通り、気管を通り、肺にいきつき、そこの中で萃香は霧のまま漂う。

そこは、三六〇度何処を見ても権兵衛の肉しか存在しない空間だった。

誰よりも権兵衛に近く、重なっているとしか言えない間隔で。

まるで自分と権兵衛との境界線が無くなり、混ざり合っていくかのように萃香は感じた。

あぁ、これで私は、権兵衛と一緒なんだ——感動の余り、泣き出したくなる萃香であったが、場所が場所なのでそれをどうにか抑え、権兵衛の内側を見やる事にする。

今度こそ、萃香は権兵衛にとって唯一の存在である筈だった。

何せ権兵衛が体をここまで一つにした相手など、居る筈も無かろう。

これ以上無い一体感に、霧となった瞳を閉じ、感覚的に胎児のような姿勢を取り、萃香は権兵衛の中で眠る事にする。

 

 確かに、萃香は狂人たる権兵衛と永遠に心を通わせる事ができないかもしれない。

確かに、萃香は権兵衛に対して嘘をつき続けなければならないかもしれない。

だけど萃香は、こうやって権兵衛と一緒に居られて、幸せだった。

もう二度と権兵衛から離れるなんて事、想像もつかないぐらいである。

だからこそ萃香は、権兵衛に対し、思うのだ。

 

 ——ぜったいに、わたしがずっと一緒だよ、権兵衛。

 

 それが明日にでも、権兵衛との再開の約束を果たす為に守れぬ幸せなのだ、と、気づきつつも。

 

 




権兵衛の能力1:
権兵衛の能力2:月の魔法を使う程度の能力
権兵衛の能力3:重力を操る程度の能力
権兵衛の能力4:
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