ルナティック幻想入り   作:アルパカ度数38%

30 / 33
30-地霊殿3

 

 

 俺はまどろんでいた。

半分夢の中に居た俺は、呆然と天井を見上げながらぽけーっと口を開けていた。

といっても、見えるのは漆黒の目隠しばかり。

その中で目隠しを通して見える天井の灯りだけが、光彩色として俺の目に写っていた。

それは万華鏡のように移り変わり、次々に幾何学的な模様を作っては崩れてゆく。

綺麗な光景であったが、ここ五日程ずっと見ていて、見飽きた光景でもあった。

次第に覚めていく意識が、体をピクリと動かす。

鎖と、手錠とがぶつかり合う音が響いた。

 

「……あ」

 

 口に出して呟き、俺は意識を覚醒させた。

確か、さとりさんに目を舐められている間に、お空さんが来て、それでどうなったのだろうか?

不思議な事にいきなり意識が途絶えてしまい、俺にはよく分からない。

何か手がかりは無いものか、と残り少ない魔力を使って魔的な意識の糸を伸ばし、思わず目を見開いた。

 

「さ、さとりさんっ!?」

「あら、起きたのね」

 

 言って、さとりさんはパタン、と文庫本らしきものを閉じた音を立てる。

それを何処へやら仕舞った後に、手を伸ばし、服越しに俺の腹の辺りに触れた。

自然、腹に力が入ってしまう俺に、何時もの冷たい声でさとりさんが言う。

 

「お空は、危ない所だったわ」

 

 一瞬、言われた内容が理解できず、俺は言葉を頭の中で反芻する。

危ない?

何故?

——勿論、俺によって、だ。

突如背筋に悪寒が走り、ぶるりと俺は震える。

俺は、あれほど注意していたのに、またお空さんを不幸にしてしまったのだろうか。

体の震えにかちかちと手錠が鳴った。

全身がこのまま沈んでいってしまうような後悔に、俺は目眩すら感じる。

 

「あら、早合点ね。

もう一度私の言葉を思い出してみたら?」

 

 言われて、俺はさとりさんの言葉を思い出す。

お空さんは、危ない所だった。

と言う事は、現在は危ない所に居ないと言う訳で、つまりはどうにかなったと言う事になるのだろうか。

思わず俺は視線を、さとりさんが居ると思わしき所へと向ける。

すっと空気が和らぐような、そんな気配があった。

 

「そう、お空は不幸になるよりも早く連れ出す事ができたわ。

これまで、確証がある訳じゃあないから言わなかったけれど……、私にはそれができる。

分かるでしょう? “心を読む能力”で心を読んでいれば、当然その誰かが不幸になる瞬間が分かるのよ」

「………………」

 

 思わず、俺は絶句してしまった。

ではお燐さんもなのか、と思うと同時、僅かに俺の腹の上に置かれた手が強張ったような、気がする。

恐らく、俺がお燐さんを害しかけてしまったと言う真実を伝えるのに、さとりさんは躊躇したのだろう。

すぐに硬い空気は消え、柔らかな空気に戻った。

 

「そう、その通りよ。

まぁ、ちょっとよからぬ事を考えていたから、罰を与えているのは本当だけれど」

「そ、それじゃあ……」

 

 とさとりさんの言を区切って、俺は続ける。

 

「それじゃあ、さとりさんがいれば、俺が誰かを不幸にしてしまう前に引き離す、事ができる?」

「えぇ。勿論私が監視できる範囲内でしか不可能だから、地霊殿の中にいない限りそれは不可能な事だけれど」

 

 と、条件付けするさとりさんであるが、その言は殆ど俺の頭の中に入ってこなかった。

俺は、“みんなで不幸になる程度の能力”の持ち主である。

その不幸の量がどれほどであれども、結局不幸をしか生み出せないのならば、俺は最早永遠に誰とも話さず、ただ一人孤独に過ぎす事しかできないのだろうと思っていた。

だが。

だが、しかし。

さとりさんさえいれば、俺はこの地下室から出れないかもしれないけれど、人妖の全てと交流と断たずに済むのではないか。

地霊殿の人妖には、善くできるのではなかろうか。

恩返しはできないけれども、せめて善行を積む事はできるのではなかろうか。

そんな希望が、俺の頭の中を掠めた。

いやしかし、と俺が反射的に甘い希望を掻き消そうと、何か反論を思いつこうとするその瞬間、さとりさんの声がそれを遮る。

 

「と言っても、地霊殿で力のある妖怪は今少し忙しくて、貴方の世話を任せられる者は居ないの。

だから、どうせ貴方を定期的に近くで観て、異変が無いか確認しなければいけない私が、貴方の世話をするわ」

「さとりさんが?」

 

 思わず、俺は疑問の声を上げた。

これまでさとりさんは、俺の世話をせず、ただ会話して俺にこいしさんとの会話へ意欲的にさせるのを目的として此処へ来ていた。

それは恐らく、俺と長時間会って、さとりさんが不幸になってしまう事を防ぐ為なのだろう。

ならばさとりさんが身を切ってまで俺に出会う時間を作るのは、何故か。

 

「こいしが見つかったからよ」

 

 と、さとりさんは断定的に言った。

ちょうど他の事実に思い当たりそうだった俺の思考は、さとりさんの言に意識を寄せている間に消えてしまう。

いや、しかしさとりさんの言っている事は恐らく事実だろう。

何せこいしさんが見つかったならば、再び見失うよりも早く俺に会話をする気を持たせる必要がある。

俺と出会う頻度を高めるリスクは、再びこいしさんが見つかるまで不幸にならない可能性を考えると、比して低いと判断されたのだろう。

いや、ちょっと待てよ、そもそもそれがリスクになるって事は……。

 

「と言う事で、あれからもう何時間も経ったし、お腹も空いたでしょう、ご飯をあげるわ」

 

 再び何らかの答えに辿り着きそうになった俺の思考は、またもやさとりさんの言葉に押され消えていった。

と同時、俺は自身が空腹な事に気づき、思っていたよりも時間が経っていた事にも気づく。

そうなると急にお腹が空いた事に意識が向かい、目隠しから出た鼻孔になんとも言えない良い匂いが漂ってくるのを感じた。

 

「粥よ」

 

 と言ってさとりさんが俺に食べさせてくれたのは、普通の白粥だった。

普段は色々と手を凝らした粥が来るのだが、今日はシンプル路線らしい。

いただきます、と挨拶をしてから口に運ばせてもらい、噛み締めると、少し味付けが薄かったり、焦げている部分があったりする。

急いで作ったのだろうか、と内心首を傾げるが、これはこれで素朴でいい味だった。

 

「美味しいですよ、さとりさん」

 

 と言うと、ピタリとさとりさんの粥を運ぶ手が止まった。

どうしたのだろう、と内心首を傾げると、再びその手が動き始める。

しかしなんだかその動きが優しくなったような気がして、俺はなんだかこっちまで優しく和やかな気分になっていくのを感じた。

地底に封印されて以来、俺はお燐さんと居てもお空さんと居ても、何処かで暗い部分を抱えたままであった。

が、今こうやって、懸念事項が少しづつ解決されていっているのを感じると、なんだか心の奥底まで暖かな気持ちになれたような気がする。

それと同時に、あれ、と何度か何かに気づきそうになるタイミングがあったのだが、その度にさとりさんがスプーンを口に運んでくるので、俺が何かに気づく事は無いままであった。

 

 

 

 ***

 

 

 

 俺の狂った時間間隔で、半日程が経過した。

この暗闇の中誰もいない一人の時間、俺は殆ど思考と言う物をしない。

それは食事の量が不足気味だと言う事からでもあるし、どうせ何を考えた事でできることは何も無いからでもあるだろう。

だから俺はさとりさんが俺にとって救いの主であると考えたまま、俺は時間を過ごしていた。

 

 救いの主。

そう、正に俺にとって、さとりさんは救いの主であった。

俺がお燐さんやお空さんを不幸にしてしまう寸前でそれを止め、互いに得であった部分だけを残して別れる。

そんな事ができるのならば、俺はもしかしてこれまで生きてきた中での恩返しすら、何時かはできるんじゃないかとすら思った。

勿論さとりさんに心を読まれるのは俺の恩人達にとって不愉快なのかもしれないが、それでも可能性は残る。

そう思うと、俺は救われたような気分だった。

 

 それは……それは、どうしてなのだろうか。

漠然とした思考の中、俺は少しだけ考える。

俺は俺の受けてきた恩を返していきたいと思っている。

だが、それは何故なのか。

何故俺は恩を返していきたいのか。

普段はただ一言、善行であり、道理であるが故に、と答えるべき所に、俺は一歩深く踏み込んで考えていた。

 

 それが善き事であり、褒め称えられる事だからなのだろうか。

いや、しかしそれだけならば他に無数に選択肢があるし、もっと積極的に誰かを救おうと思える筈である。

もし俺がそんな積極的な人間であれば、もっと凄まじい不幸がばらまかれ、酷い事になっていたのだろうが。

ならば何故か。

何故、俺は恩返しをしたいと考えているのか。

 

 そんな事を考えている途中のことである。

何度か足音のような音がひたりとして、その度に首をかしげてみるものの、反応は無い。

最初は気のせいなのだろうと思っていたが、それが三度目になり、三度目の正直と言う言葉に思い当たった俺は、あ、と小さく声を漏らし、口を開く。

 

「もしかして、こいしさん?」

「……っ!?」

 

 息を呑む音と共に、軽い体重の誰かが飛び退く音が聞こえた。

当たりである。

俺はにこりと微笑を作ると同時、内心で迷った。

これまでならば俺はこいしさんに対して、最低限の言葉しか吐かなかっただろう。

だがしかし、今はさとりさんにより、いざとなればこいしさんは不幸になる前に救われる事ができるのである。

と言っても、そもそも相手を不幸にするような事はしなければいいのではないか、と言う見地もあった。

暫し俺が迷い、結論が出るよりも早く、こいしさんが口を開いた。

 

「権兵衛……って、言うんだよね」

「えぇ、初めまして。七篠権兵衛と言います」

「うん、そっか、挨拶もまだだったよね。

私はこいし、古明地こいしよ」

 

 と言って、こいしさんの服が擦れる音がする。

なんとなく、頭を下げたんだな、と思い、俺も少ない可動範囲で出来るだけ頭を下げた。

すると何かがおかしかったらしく、くすりと笑うこいしさん。

何が面白かったのか分からないので、俺は困った顔しかできず、そうしているうちにこいしさんは大笑いまでし始めた。

 

「くす、あはははははっ!」

「こ、こいしさん……?」

「はは、あははははっ!」

「その、俺、何処かおかしかったでしょうか……? 顔、落書きとかされてます?」

 

 非常に残念ながら、今の俺は目隠しをされているので、落書きをされていてもそれを確認する事はできない。

なのでこいしさんに聞いてみたのだが、それがツボだったらしく、すとん、と膝が落ちる音を混ぜつつ、こいしさんは更に大笑いをする。

当然、理由も分からない俺は肩を縮めつつ、黙ってこいしさんの笑いが収まるのを待つしか無かった。

 

「あは、ら、落書きだって、あははははっ! ち、違うってば権兵衛〜っ! あーもう笑い過ぎてお腹痛い〜!」

 

 と言うこいしさんは、最後にはひーひーと肩で息をしつつ、あーあと呟きながら、リラックスした様子で口を開く。

 

「もう権兵衛ったら気づかないの?

私、無意識になったままお姉ちゃんと一緒に此処に入ってきたのよ?

つまり私、貴方に十時間以上も話しかけられなかったの。

なのについに話しかける事ができたら、こんなにあっさりした事で。

自分がおかしくなって、笑っちゃったの。

あぁ、落書きがどうのなんて言い出す権兵衛もおかしかったけれど」

 

 と言われて、あぁ、と俺は納得する。

そう言えば俺は、さとりさんが此処を出て行って以来、錠前を開け閉めする音を聞かなかったのである。

成程、と納得しつつ、俺は思わず口に出して言った。

 

「そうか、良かったです、こいしさんが俺に話しかけるのが苦でなくて」

 

 だって……と口に出そうとして、俺はその言葉を口内で消費する。

だって、何だと言うのだ?

俺は誰かを不幸にしかできない男である、話は弾まない方がいいだろう。

ならば俺は、こいしさんがこのまま話しかけられずに此処を去る事を希望した方が良かったのではないか?

自身の疑問に翻弄される俺を捨て置き、こいしさんの話は進んでいく。

 

「うん、ありがとね、権兵衛。

じゃあ、次も頑張ってみるね」

 

 次? と俺が口にするより早く、こいしさんはすぅ、と息を吸い込み、緊張した様子になった。

視界には写らずとも、その緊迫した空気は肌で感じられる物である。

思わず黙り込んだ俺を尻目に、緊迫した空気の中、俺のあずかり知らぬ何かがこの部屋で行われていた。

 

 ごくり、とこいしさんが生唾を飲む音がする。

まるで一本の糸が千切れる寸前にまで力を込められて引っ張られているかのような空気だった。

俺も思わず緊張してしまい、口内が乾いていくのを感じつつ、じっと何かが起こるその瞬間を待つ。

すると、ぴたり、とこいしさんの体温であろう物が俺の右手に触れた。

ぴくり、と俺が体を震えさせると、びくん、とこいしさんもその指先を震えさせたが、それが一瞬の物であったと分かると、ゆっくりと俺の手にまで昇ってくる。

こいしさんの手は、微細に震えていた。

緊張故にか、何故にか。

それはこいしさんと殆ど会話もしたことのない俺には分からなかったが、何故かとても見知った感情であるように思え、俺はそれを大切に扱った。

と言っても、俺に出来る事など、体を動かさずに居る事だけ。

その様子を見守る事すらもできなかったのだが。

 

「……っ」

 

 こいしさんが息を飲む音が聞こえる。

こいしさんの手は汗でじんわりと湿っていた。

それ故にか、俺の手と一体化するような動きで、ぴたりと俺の手に合わさりながら、俺の手を昇ってゆく。

爪先、指腹、関節、掌と昇ってきて、やがて手首近くまでたどり着くと、これまたゆっくりとした動きで俺の手を握った。

少女らしい華奢な手に似合わず、強い力が込められている。

自然とその手を握り返すと、こいしさんは安堵の溜息を吐き、少し体から力を抜いたようだった。

俺もまた、小さく溜息をつき、体から力を抜く。

 

「権兵衛の手、握れたねっ」

「そうです、ね」

 

 可愛らしく言うこいしさんに、俺は困惑気味に答えた。

俺ごとき馬鹿で無能で何の役にも立たないと言うか、全てを不幸にしてばかりいるような男の手を握るのに、一体どんな苦労があったのだろうか。

 

「そっか、権兵衛には全然分からないんだよね」

 

 そんな疑問が声に混じっていたからか、こいしさんは少し落ち着いた声で、そう言った。

その手は小さくて柔らかくて繊細で、とても壊してしまってはいけない物だと思える。

俺ごときがそれを不幸にするなんてあってはいけない、と思えるような手で、だから俺は口を噤もうとするが、それでも理由ぐらいは言ってもいいんじゃないかな、とチラリと俺は思った。

が、それよりも早くこいしさんは続けて言う。

 

「私、誰かに嫌われるのが、とても怖いの」

 

 さとりさんやお燐さんから聞いた話だった。

しかし当然の事なのだけれど、他者から話を聞くのと、本人からその話を聞くのとでは、深刻さの度合いが違う。

緊張に俺がごくりと生唾を飲む音が、小さく場に響いた。

驚いてこいしさんが手を離しそうになるのを、俺は咄嗟に握り返し、その場に留める。

少しの間こいしさんは無言でいたが、やがてクスリと笑うと、同じように俺の掌を強く握り替えした。

それで俺は力を抜き、自然体にこいしさんと手を握り合う形に戻る。

こいしさんは、語った。

 

「誰かに嫌われるんじゃあないかって思うと、本当に怖くて怖くて仕方がなくて、体が竦んじゃうの。

いっぱい嫌われた事があるからかな。

悪意って、本当に身に受けると泣きたいぐらい辛くて、嫌なものなの。

嫌われるって思うと、思い出したくもないのにそんな事が思い出されてきちゃう。

だから私、誰にも嫌われたくない。

みんなに愛想を振りまいて生きたい。

別に好きでいてくれなくてもいいの、ただ嫌わないでさえいてくれたら」

 

 悲痛に訴えつつ、こいしさんは俺の手をぎゅっと握る。

目隠しで隔たれていても分かる、まるで俺が嫌われない為の唯一の希望で、それを離しちゃったら誰もに嫌われてしまうのではないか、と言うぐらいに必死だった。

ばかりか、その声は不思議と俺の心を打った。

内面がぐちゃぐちゃにかき乱され、俺は自分の中の深い部分が踏み荒らされるのを感じる。

暴力的な気持ちがムカムカと湧いてきて、それでも不思議と俺は、それを解放する気にはなれなかった。

代わりに、鬱屈とした気持ちが俺の中にうず高く積もっていく。

 

 そう、嫌われるのは辛い。

里で嫌と言うほど嫌われている俺にも、よく分かる話だった。

でも、嫌という程嫌われてその深刻さを知っているからか、俺はその言葉は容易に頷いてしまって良い物ではなく、もっと深い理由と経緯が無ければいけないのだと思う。

だから結局、俺は何の返事もしなかった。

ただ、こいしさんの手を、同じだけの力で握り返した。

言葉ではないそれが、どれほどこいしさんの心に届いたのだろうか。

分からない。

何にせよ、こいしさんは続けた。

 

「でも、私は嫌われない事ができない妖怪だった。

当然よ、私はさとりだったもの。

心を覗かれて嫌な思いをしない奴なんて、何処にも居やしないわ。

人も当然、妖怪だってさとりを恐れていたし、神様だってさとりを嫌がった」

 

 小さく、俺は呻く。

そう、嫌われない事ができない運命と言うのは、辛い。

まるで自分で得ようとして得たのではないのに、嫌われる運命を背負うのは、酷い気分だった。

気づかないうちに自分が加害者になっていて、訳もわからないままに罪を背負う。

その理由を天に問うても、偶然や運命と言う言葉しか返ってこない。

 

 傲慢な言い方を許されるならば、俺もまた、そうだった。

いきなり俺は、“みんなで不幸になる程度の能力”をつきつけられたのだ。

一番嫌な思いをしているのは俺の所為で不幸になっている人妖の皆なのだけれど、俺もまた、辛かった。

犯した罪にまだ実感は無くて、俺は自分がそんな呪われた能力の持ち主だと言うのに、未だに戸惑っている。

けれど確かな事実としてそれはあって、だから俺は償わなければならない。

しかし俺には償いすらも許されておらず、できるのはただ出来る限り誰かを不幸にしない事だけ。

勿論ゼロにはできない。

だから誰かを不幸にし、嫌われ続ける運命に俺はある。

その点において、俺はこいしさんと共感できる立場に居た。

 

「だから私は——、そんな自分を無くした。

嫌われると嫌だと感じるその心を、無くしたの。

もうこれで楽しいと感じる事も永遠に無いけれど、辛いとか苦しいとか嫌われるのが怖いとか、そんな風に思う必要も無い。

だから私は、これで幸せ。

幸せだと感じる心も無いから、めでたしめでたしとはいかなかったけれど、兎に角どうにかはなったの」

 

 ならば俺もまた、何時かはこの心を無くすのだろうか。

皆と関わって、ようやくのことまともになってきたと自負できるようなこの心を、無くしてしまうのだろうか。

皆から受けた恩を、投げ捨てるのだろうか。

今の俺には、そんな事想像もできなかった。

けれど確かに今の俺にはありうる一つの未来として、こいしさんの言葉を受け取る。

掌の感じでそれが分かったのだろうか、こいしさんは頷くような振動を、手から伝わらせた。

 

「お姉ちゃんは私を哀れに思い、強く生きて欲しいみたいだったけれど、無理だった。

私は、弱かったから。

心を無くさなければ、生きていく事すらもままならなかったから。

だから大好きなお姉ちゃんを裏切ってしまった。

ううん、それは元々だったのかもしれない。

私がお姉ちゃんを大好きなのも、姉妹だからじゃない、自分を嫌わないでくれる唯一の人だったからなのかもしれない。

だから、お姉ちゃんが私に強く生きてなんて言わないで、弱くても一緒に居るから大丈夫って言ってくれれば、私はまださとりで居られたのかもしれない。

勿論、お姉ちゃんが言う事の方が正しいのは分かっているし、私が弱いのが悪いのも分かっている。

多分そんな風にお姉ちゃんに寄りかかっていたら、お姉ちゃんに何かあったら何もできないような娘になっていたのも分かっている。

ただ、そうだったかもな、って思うだけなの」

 

 俺もまた、精神的弱者である事は明白だった。

ただ、強く生きようと思う事はまだ辞めていない、と思う。

そりゃあ完全無欠に強い、真正面からの生き方ができているか、と問われれば、いや違うけれど、としか答えようが無いけれども。

でも、少なくとも“みんなで不幸になる程度の能力”から完全に目を背けている訳ではない、と思う。

だからこいしさんの言葉は、俺にはまだ遠い先にある言葉だと思った。

ただ、こちらは痛い程に想像できる。

弱くていいよ、と俺に言ってくれる人が居て、俺が精神的に弱っている時にそう言われてしまえば、俺はその人に完璧に依存してしまうだろうと言う事は容易に想像できた。

そしてもし、自分の弱さに負けてしまい心を閉ざした時、依存させてくれる誰かが居たらな、と思う気持ちも。

 

「だけど、最近、閉じて無くしてしまった筈の心が、開いてしまう事があるようになってきたの」

 

 こいしさんの手は、汗まみれでじっとりとしていた。

次第に握る力も強まり、少し痛いぐらいだ。

俺はこいしさんが痛みを感じない程度に強く、その手を握り返す。

それにこいしさんが手を握る力を強くし、その堂々巡りだった。

 

「権兵衛、貴方と出会ってからよ」

 

 こいしさんの声は、不思議と艶やかさを秘めていた。

全身を舐めるような視線を、皮膚が受け取る。

まるで千本の手で抱きしめられているような感覚だった。

 

「貴方と出会ってから、私はいろんな事を考えるようになった。

なんでか分からないけれど、一人で居る時や、貴方と二人で居る時には、第三の目が薄目を開ける事もあるようになってきた。

ドキドキした。

貴方の事を考えると、胸が張り裂けそうで、辛いの。

辛いけど、なんだか嬉しい部分もあって。

嬉しさにベッドの上でゴロゴロしちゃう時もあれば、辛さになんだか涙が出てくる事もあった。

だから、私はまた貴方に会いに来た」

 

 言って、こいしさんはぴとり、と俺の手を頬にくっつける。

暖かな体温に最初吃驚して飛び上がりそうになってしまうが、そうするとこいしさんの事を爪先で傷つけてしまいそうで、なんとかそれを抑えた。

こいしさんの頬は、柔らかくて、マシュマロのようにモチモチとしている。

女の子の肌はなんでこんなに男の肌と別物の作りになっているんだろうなぁ、と頭の片隅で考えた。

 

「そして気づいたの。

薄目を開けた第三の目は、貴方の思考の表層ぐらいは読めるのだもの。

だから分かったの。

貴方は、私に——、似ている」

 

 すとん、と胸に落ちるような感覚であった。

そう、俺とこいしさんは、何処かで似ている部分があった。

臆病で、他人の視線を気にしていて、嫌われたくないとして善くあろうとしている。

けれどそれが報われる事は永遠にない事が決定していて、それに諦めに近い感情を抱いている。

勿論俺はまだその道の中途で、こいしさんはずっと先に居る、と言う違いはあるし、俺はもしかしたら途中でこいしさんと違う道を行くかもしれない。

けれど今のところ、俺はこいしさんの辿った道を歩いていた。

 

「ねぇ、私に、何時かでいい、言ってくれないかしら。

弱くていいよって。

弱くても、生きていていいよって。

そうしたら、私はまた、第三の目を開く事ができる気がするの。

もしかしたら、それは貴方の持つ“みんなで不幸になる能力”の、不幸の始まりなのかもしれない。

だけど、だけれども、もしかしたら——」

 

 と、そこから先の言葉が見つからないようで、俺の手に頬をくっつけたまま、こいしさんは顔を横に振った。

それから、慌てて付け加える。

 

「勿論今じゃなくていいのよ、お姉ちゃんと相談もしたいし、それに……」

「言いますよ」

 

 と、俺は言った。

こいしさんが驚く気配が、なんとなく感じ取れる。

閉じた口を開くのが、鉛で出来た口唇を開くかのような労苦であったが、俺は口を開いた。

 

「言います。

こいしさんは……あぁいや、さとりさんが同伴した方がいいんでしたっけ、だから今は言いませんけれど。

言います。

何度だって言いますとも」

 

 こいしさんを不幸にしてはならない。

そういった思いも、俺の中には確かにあった。

この弱くて傷つきやすい少女を、また厳しい生の中に放り出すのかと思うと、それだけで辛い。

ばかりか、俺は“みんなで不幸になる程度の能力”の持ち主なのである。

当然これからこいしさんは不幸になるほかないし、少なくともこの選択によってはそうだろう。

ただ、俺はこの少女を放ってはおけなかった。

俺とあまりに似たこの少女に、何の手も貸さない事に、耐え切れなかった。

 

 あぁ、俺はなんと言う事をしてしまったのだろうか。

後悔が胸に打ち寄せてきて、頭の中が真っ暗になる。

俺はこいしさんに何も言うべきでは無かったのだ。

この少女が、人に嫌われるのを恐れる少女が、精一杯の勇気を出して口にした小さな願いを、それでも切り捨てるべきだったのだ。

無視して、この少女が顔を歪め、今度こそ絶対に心なんか開こうと思うものか、と永劫に心を閉ざしてしまうのを待つべきだったのだ。

なのに俺はできなかった。

何故。

何故なのだろうか。

そう問うならば。

矢張り、自分の為だろう、と己の中から答えが返ってきた。

 

 この時、俺は初めて思い知る。

俺は、よく人を助けようとする。

誰かが困っていれば手を貸さずにはいられないし、その時自己を損ずる事も厭わない。

だがそれもまた、俺が誰かに嫌われたくないと言う、利己的な行為なのだ。

今の行為もまた、そうだった。

俺が本当にこいしさんを想っているのだとすれば、俺は苦渋を舐めながらもこいしさんの言葉を無視できていただろう。

だが、俺にはそれができなかった。

俺はなんて利己的で自分のことしか考えていない男なのだろう、と思う。

それでもこいしさんは、暫く呆然としていたかと思うと、急に立ち上がり、叫んだ。

 

「や……やったっー!」

 

 多分ぐるぐると何週かステップを踏む音と共に回ってみせて、それから俺の手をがばっと両手で握り締める。

 

「ありがとう、ありがとうね、権兵衛っ!」

「………………はい」

 

 俺は最悪の事をしたのだ。

なのに何故か、心が軽くなるような空気だった。

これから俺もこいしさんも、不幸に向かっていく事は違いないのだ。

だけれども今この瞬間だけは、何故か未来に希望が満ちているかのような感覚であった。

それが俺の罪悪感を紛らわせる為の欺瞞なのだと知りつつも、俺はそれに浸り、こいしさんを祝った。

訂正しよう。

俺は、自分の能力から全く目を背けている訳ではない、と思った。

だがしかし、今この瞬間だけは、俺は完全に自らの能力から目を背けていたのであった。

馬鹿だと思う。

阿呆だと思う。

しかし兎に角俺はそんな風にしていて、こいしさんは一人お祭り状態で、わいわいと賑やかにしていた。

そんな状況が、次にさとりさんがこの部屋に入ってくるのと入れ替わりにこいしさんが出ていくまで続くのであった。

 

 

 

 ***

 

 

 

 さとりの部屋に、ノックの音が響いた。

第三の目でその心を覗く事ができない事から、妹による物だと判断し、さとりは最近艶やかさを増してきたその唇を開く。

 

「どうぞ」

「はーい」

 

 短い姉妹の挨拶を交わし、こいしはドアを開けた。

その動作を見て、さとりはドキリと心臓が跳ね上がるのを隠せない。

見間違いか、一瞬こいしの第三の目が薄く開いていたかのように見えたのだ。

ドアを閉め、振り返った姿を見る限り、その瞳は閉じたままである。

それに安堵の溜息を吐き、それからふとさとりは疑問に思った。

今自分は何故安心したのだろうか?

そこから直視難い事実が浮かび上がるのを、こいしの挨拶がかき消す。

 

「お姉ちゃん、お姉ちゃん、ねぇ、報告があるのっ!」

「何かしら、こいし」

 

 読書をしていたさとりは、本に栞を挟んで卓上に置き、こいしに反対側の椅子を勧める。

ゴシック調の装飾のある椅子を引き、こいしはその上に座ってから、両手を広げて語りだした。

 

「そのね、権兵衛がね、私の第三の目を開くのに協力してくれるってっ!」

「あら、もう話がついたの?」

 

 目を見開きながら、さとりは少し心にくすぶるものを感じる。

一体何が自分の心の中に潜んでいるのか。

思索に耽る誘惑を感じたさとりであったが、目の前の妹を優先させようとそれを振り切る。

自分は全てをなげうってでも、妹の第三の目を開こうと決めたのだ。

今更他に何がある、と。

 

「それでね、それでね、きっと権兵衛がこう言ったら、私の目が開けるかな、って思う言葉があったの。

権兵衛は言ってくれるって言ったんだけど、私はその、目を開く時、お姉ちゃんに一緒に居てもらいたいな、って思って」

「それは勿論、私もできる限り、貴方が心を開く時には一緒に居るつもりで居たわ。

でも、切欠を貴方が自覚できるかどうかが分からなくって……。

その言葉って、どんな言葉なのかしら?」

「えーと、えへへ、内緒っ!」

 

 掌を合わせ、体ごと傾かせながら言うこいし。

流しても良かったが、出来ればそこは聞いておきたい所だ。

さとりは目を細め、口唇を引き締め、絶対零度の視線で見つめる。

数秒後にはこいしが目をあちらこちらにやり始め、やがて観念したように口を開いた。

 

「その、別に変な内容じゃあないんだよ?

ただその、お姉ちゃんが聞いても、許してくれるか分からないから……」

「許す……?」

 

 瞬間、さとりの脳裏に浮かんだのは、権兵衛と永遠を誓い合うこいしの姿であった。

憎悪がさとりの心の中を満たし、どす黒い粘ついた感情がさとりの中に湧き上がる。

しかし辛うじて、さとりはそれを抑えつける事に成功した。

許すと言う言葉から想像される事はもっと広く、権兵衛との誓いとは限らない。

いやそもそも権兵衛が誰と番となろうと、それで怒るのは筋違いではあるまいか。

内心の原因不明の激情を流しきろうと小さな溜息を吐き、優しげな表情を作ってさとりは続きを口にした。

 

「何のことだか分からないけれど、きっと大丈夫よ。

私の一番の望みは、貴方の第三の目を開く事。

その為なら、なんだって許せるに違いないわ」

「うん……」

 

 一応頷きつつも、こいしは納得が行かないような顔だった。

なのでさとりは、手を伸ばし黒い帽子越しにこいしの頭をなでる。

すぐさまこいしの顔が紅潮し、それにさとりは小さく微笑んだ。

そう、こんなにも可愛らしい妹の為なのだ、自分は何だってできるし、許せる筈。

 

「第三の目を開いたら、真っ先に私の心を読んでみなさい。

すぐに私が心から貴方の言葉を許していると分かるに違いないわ。

ね、そうでしょう?」

「うん……そうだよね。

あ、でも一番最初に心を読むのは権兵衛っ!

約束したんだもんっ」

「あら、権兵衛さんに妹を取られちゃったかしら」

 

 と冗談交じりにさとりが言うと、こいしは真っ赤になって黙り込んだ。

ピタリと、こいしを撫でる手が止まる。

石のような視線をこいしにやってしまうが、幸いこいしは視線を膝先にやっており、気づかないようだった。

パタパタと両手を上げ下げしながら、笑みを隠せぬままにこいしが口を開く。

 

「その、権兵衛とそういう事は無いのよっ。

ただ、権兵衛と私って、似ている所があるなぁ、って思って。

そしたらなんだか親近感が湧いてきて……、それだけなのよ」

「あらあら、本当かしら」

「本当だよっ、もー!」

 

 と、こいしをからかうような口ぶりだったが、さとりは自らの視線に粘ついた物が混じっているのを自覚した。

すぐにこいしにそれを向けるのを辞め、膝先に向けて、予定を考えている振りをしてどうにかそれを消そうとする。

しかしいくら意識してもそれを消し去れた自信が無く、さとりは一度眼を閉じた。

小さく息を吸い、吐く。

口腔から頭の中に澄み渡っていく新鮮な空気で、無理矢理粘ついたそれをはぎ取るイメージ。

再びさとりが目を開くと、どうにかそれは消え去っていたようで、こいしが怯える様子も無かった。

こいしを撫でるのを、再開するさとり。

 

「じゃあ、そうね、もうすぐ少し書類を整理しないといけないから、あと二時間ほど後に、集まりましょう。

場所は……貴方も目を開いた直後は、いくらか権兵衛さん以外の心を読めない状況で居たほうがいいかもしれないし、そう考えるとあの部屋がいいわね。

それでどうかしら?」

「うんっ、わかったお姉ちゃん!」

 

 言って、こいしは勢い良く椅子から飛び降り、それから椅子をコーヒーテーブルの内側まで戻して、それからとてとてと走りだす。

それから扉の前で立ち止まり、百八十度ターン。

ぱっ、と五指を広げ、笑顔で口を開く。

 

「じゃあ、それまで権兵衛の部屋に居るわっ。

それじゃあね、お姉ちゃん」

「えぇ、また後で、こいし」

 

 さとりが手を振り返してやると、こいしは元気な仕草でさとりの部屋から出ていった。

扉が閉まり、足音が消えて行くのを確認してから、さとりは大きく溜息をつき、流れるように卓上へと体を横たえる。

下敷きにした文庫本が、胸にあたって少し痛かった。

 

「何? 私は、一体何が不安なの……?」

 

 頭に浮かんだ疑問を呟き、さとりは思索に耽る。

完璧とは言わないまでも、さとりの作戦は予定通りにいっている筈だった。

大事なペットが二体も犠牲になってしまったようだが、結果としてこいしの第三の目は開かれようとしている。

当然問題などあるはずが無いし、犠牲も結果もさとりが承知していた筈の内容だ。

なのに何故か、胸が締め付けられるように痛い。

涙が出そうな感覚に、唇を噛み締め、さとりは耐えた。

 

「そうね、きっとこいしを救うのが私ではないから、だから悔しいと思って、いる、のよね……」

 

 口から出る嘘は、自分すらも騙せない稚拙な嘘であった。

それでも、無理矢理それで自分を納得させ、さとりは椅子から立ち上がり、ベッドへとふらふら歩み寄り、倒れるようにベッドの上へと寝転んだ。

先程こいしに書類の整理があると言ったのは嘘である。

ただ、そのぐらいの時間心の準備が必要だろうと、反射的に嘘をついただけだ。

その時間を使って、このぐちゃぐちゃな心を整理しよう、とさとりはベッドの上で自分を抱きしめる。

そんな時、つい口を衝いて出る言葉は、これであった。

 

「権兵衛さん……」

 

 ついに、耐えていた筈の涙さえもポロリと零れた。

それが悔しくって悔しくって、さとりは頭を振りながら思う。

権兵衛など、こいしを救うために優しくしてやった相手に過ぎない。

沢山話をしたのも、権兵衛がこいしと話しやすくするための演技に過ぎない。

本当はあんな汚らわしい能力を持った男となど、関わりたくも無かったのだ。

今だってそう、こいしが心を完全に開ききったら、権兵衛など地霊殿から捨ててやるのだ。

いや、まだ何かに使えるかもしれない男だ、保管ぐらいはしておくかもしれないが……。

 

 そうやって思って、権兵衛の事を心から振り払おうとしても、何故か心の何処かには権兵衛を求める部分がある。

だが、そんな事はさとりと言う種族にはあってはならないのである。

さとりに必要なのは孤高に立ち続ける鋼の魂。

誰かを求める心など、必要無い。

例外は家族だけ、それ以外を思う必要など唯の一つも無いのだ。

 

 だからさとりは、心の中から権兵衛を消し去る作業を始めた。

権兵衛との思い出の一幕を心の中で絵にして、それに火をつけ焼き払う。

楽しかった思い出も、苦しかった思い出も、全てを同じ灰にして、散らしてしまう。

それでも思い出を思い出すと、そこから連鎖していくつもの思い出が出てきてしまい、権兵衛の事を心から消し去るどころか、これまで以上に権兵衛の事が強く心に焼き付く事になる。

そんな作業を二時間続けて、それでもさとりは権兵衛への想いを消し去る事は出来なかった。

その想いがどんな言葉で呼ばれる物か、考えようともしないままに、時間は来たのだった。

 

 

 

 ***

 

 

 

「失礼するわ」

 

 と言う声と共に、俺の部屋の扉が開いた。

すると俺の手を握ったまま談話していたこいしさんが、ぴくりと体を動かし、恐らくさとりさんの方を向く。

ぶんぶんと風を切る、恐らくは手を振る音。

 

「あ、お姉ちゃん、いらっしゃーい!」

「こんにちは、さとりさん」

 

 何故か、さとりさんの返答は僅かに遅れた。

 

「……えぇ、こんにちは、二人共。

ごめんなさいね、少し遅れちゃったかしら」

「ううん、全然待ってないから、大丈夫っ!」

 

 俺も頷き同意すると、何故だかさとりさんの歩みは僅かに遅くなったような気がする。

と言っても、所詮目隠しをされたままの俺である、耳でしか確認はとれず、勘違いかもしれないと思う程度なのだけれども。

しかし体調でも悪いのか、心配になって口に出そうとして、それから既にそれがさとりさんに伝わっている事に気づき、俺は口をつぐんだ。

すると気持ち、さとりさんの歩みが早くなったような気がした。

それは無理をしていないと言うさとりさんのアピールなのだろうが、それさえも俺が無理に引き出してしまったのではないか。

少し心配になる俺だったが、さとりさんの自己管理能力を信じて思考を打ち切る事にする。

何故か、目隠しごしにさとりさんと目が合ったような気がした。

あの冷たい中にも、僅かな温かみが残る笑みを、見たような気がする。

何かが通じ合ったような気がして、そんな事実など何処にも無いのに、何故か俺の心を安心感が漂った。

 

「それじゃあお姉ちゃん、早速始める前に、まず権兵衛さんの目隠しを取ってもいいかしら」

「……えぇ、そうね」

 

 と、こいしさんの声に、さとりさんの声が僅かに冷たさを増した、ような気がする。

それに感づいたのか、慌てて付け加えるこいしさん。

 

「その、なんて言えばいいんだろう、私が心を閉じている所はこれで見納めな訳で。

権兵衛に、何時か心を閉じるような事があっても、誰かに助けを求めれば、また心を開けるんだよ、って知ってほしくって。

その、権兵衛も、辛い能力を背負っているから、だからっ」

「大丈夫、反対なんてしないわよ」

 

 くすりと微笑みながら、さとりさんは言った。

目隠しをしている俺の観点からも、いつも通りの冷たさのさとりさんで、先程一瞬あった粘ついた冷たさは無い、と思う。

さとりさんがペタペタと足音を立てながら俺の側に立ち、ぺたりと俺の顔に触った。

 

「じゃあ、目隠しを取るわよ。

眩しいでしょうから、権兵衛は目を閉じていて」

「あ、はい」

 

 と言うと同時に、さとりさんは俺の右耳から目隠しの紐を外す。

ひんやりとしたさとりさんの指が耳に触れるのは、なんだかもぞもぞしてこそばゆい感覚だった。

恥ずかしいから早く終わってくれないかな、と思う俺の心を読んだのだろう、さとりさんは急に手の動きをゆっくりにし、左耳の紐を外すのにはちょっとした時間をかけた。

じんわりと、俺の体温がさとりさんの低めの体温で侵される感じは、なんだか背徳的で頬が赤くなる。

 

 さとりさんが目隠しを取って離れると、灯りが瞼を通して瞳へと届いた。

赤く染まる視界が落ち着いてから、俺は細目を開けながらそれに慣れる事に腐心する。

やがて目が慣れてきてから、俺は首ごと横を向き、さとりさんとこいしさんが居るであろう辺りへ視線をやった。

紫水晶の髪に低温の視線、白磁の肌のさとりさん。

その妹たるこいしさんは見当たらず、代わりにさとりさんの後ろから、黒い帽子のつばが見えている。

 

「………………こいし?」

「………………こいしさん?」

「ひゃ、ひゃいっ!」

 

 と、呼ばれると返事をして、こいしさんはぴょこんと横に飛び出し、俺の視界に入った。

姉を見れば想像できる話だったが、こちらも大変な美少女であった。

黒いつばありの帽子からは銀色に輝く少しウェーブした髪が覗き、瞳は深い緑色、緊張故にか白い肌の頬は赤く染まっている。

ベージュの上着に緑のスカートから、眩しいぐらい白い足が覗いていて、少しスカートの丈が短い以外は姉妹で似た印象の服であった。

第三の目は左胸の辺りに位置し、こちらはさとりさんと違い紺色で、触手の数も少ない。

それは心を閉じているが故なのだろうか、それとも妹であるが故なのだろうか。

などとそんな事を考えていると、すっ、とさとりさんが手を伸ばし、俺の腹の肉をぎゅ、とつまむ。

思わず悲鳴を上げそうになるのを隠して、すぐに手が離れていくのを一瞬恨めしく見つつ、俺はこいしさんに向かって口を開いた。

 

「想像していた通り、可愛らしいですね、こいしさん」

「か、可愛いっ!?」

 

 こいしさんは、飛び上がった。

それから両頬に手をやり、指の隙間から目を出して、足元に視線をやる。

何かいけない事を言ってしまったのだろうか、と思うと同時、再び腹に一撃。

顎の辺りが引きつるのを感じつつ、涙目でさとりさんに視線をやると、プイ、とそっぽを向かれてしまう。

仕方なしに、こいしさんに向かって話しかける。

 

「その、何か悪かったでしょうか?」

「へっ!? い、いや、そんな事無いよ、嬉しいなっ!」

 

 と言って、バンザイをして喜びを顕にするこいしさん。

ならなんで腹をぐりっとやられたのだろう、とさとりさんに目をやると、すました顔でこほん、と咳払いしていた。

冷たい視線と共に、さとりさんが口を開く。

 

「じゃあ、早速だけど、二人とも始めてもらおうかしら」

「………………うん」

「………………はい」

 

 一歩さとりさんが引き、代わりにこいしさんが俺の目前に出てくる。

そして目を瞑って深呼吸。

前に手を揃えたまま大きく息を吸い、吐くこいしさん。

目を見開く。

エメラルドグリーンの瞳が、俺を率直に見据える。

 

「お願いします、権兵衛」

「はい」

 

 俺もまた、目を閉じ、数瞬考えに浸った。

俺はこれで、こいしさんを幸福にできるのだろうか。

否、出来るはずがない。

俺は“みんなで不幸になる程度の能力”の持ち主なのである、そんな事は不可能だ。

しかし同時に、論理的に言えばこいしさんが心を開いて幸福になるのは確かな筈である。

ばかりか、心を開いて得るのは幸福ばかりではなく不幸もまた待ち受けているのだ、第三の目を開くこと自体はできるかもしれない。

 

 俺は、そこに救いをさえ見出していた。

俺は全く負の価値しか持っておらず、不幸になるだけの惨事ばかり引き起こす最悪の存在では無いかもしれない、と思っていたのだ。

結果的に不幸と言われるようになっても、人はその道を行こうと見出す事がある。

その手助けをできるのだとすれば、あるいは俺の価値は完全なマイナスでは無いのではないか。

 

 呆れた事に、俺はこの期に及んで自分の事を考えていた。

屑である。

下衆である。

最悪な男である。

だがしかし、やるのだ。

決意と共に、俺は目を開き、こいしさんを見据え、そして言った。

 

「こいしさん……貴方は、弱くてもいいのです」

 

 たったの一言であった。

だが、そこに俺は万感の想いを込めた積りだった。

それが果たして届いたのだろうか、こいしさんは目に涙を浮かべる。

 

「……うん、ありがとう、権兵衛っ」

 

 こいしさんが縦に首を振ると、目尻から涙が零れ、宙に浮いた。

それはぽつり、とこいしさんの第三の目に落ち、その表面を伝ってその目に達する。

その瞬間からであった。

ゆっくりと、こいしさんの第三の目が、その瞼を開けていく。

涙が睫毛を伝っていき、目の起伏に捉えられて一瞬溜り、それからこぼれ落ちていく。

その様は、まるでこいしさんの第三の目が泣いているかのようだった。

 

 こいしさんは、頬に涙の跡を作って、俺を見た。

振り返って、さとりさんを見た。

第三の目から触手が伸び、さとりさんを貫いた。

 

「………………え?」

 

 俺が間抜けな声を漏らすと同時、さとりさんの口から冗談のように大量の血がこぼれ落ちた。

さとりさんは信じがたい物を見る目で、こいしさんを見る。

 

「こい……し……?」

 

 触手が鞭のようにしなり、さとりさんを壁に叩きつけた。

ばぁあぁん、と大きな音がし、まるでカラーボールでもぶつけたみたいにさとりさんの血が壁一面に飛び散る。

遅れてさとりさんの体がずるりと剥がれ落ち、床に転がった。

 

「………………え?」

 

 間抜けな俺は、再びそんな声を漏らす事しかできなかった。

そんな風に呆然としている俺へと、こいしさんが向き直る。

さとりさんの返り血を浴びた顔は、先程よりももっと純粋で可愛らしい満面の笑みであった。

特にその瞳は、明らかに狂気を抱えていた。

先程まで透明な、エメラルドのような輝きをしていた瞳は、まるで木々に覆いつくされ闇しか無い森林で微かに覗く緑を思わせる。

 

「ごめんね、権兵衛、ちょっとだけ我慢してね」

 

 と言うと同時、こいしさんの第三の目から再び触手が伸び、俺の三つの手錠を破壊。

自由になる俺であったが、あまりの光景に頭が追いつかず、何一つ行動は起こせなかった。

そんな俺を、こいしさんが抱きあげる。

 

「それじゃあ、権兵衛、此処を離れなくちゃいけないから、いい子にしててね」

「どう、いう………………」

 

 俺が疑問詞を吐くよりも早く、俺を抱き上げたままこいしさんは扉を凄まじい勢いで開く。

ばぁぁん、と、先程さとりさんが叩きつけられた音に似た音がした辺りで、俺はようやく頭が回転し始めた。

何が起きた?

こいしさんが、さとりさんを攻撃して。

血が一杯出て。

 

「な、何で、どうして……?」

「ごめんね権兵衛、もうちょっと此処から離れてからにしてね」

 

 にべもなく俺の言葉を断り、こいしさんは物凄いスピードで飛び始めた。

彼女より身長の大きな俺を両手で抱きしめつつ、地霊殿の外へ向かう。

びょうびょうと風切音が五月蝿い。

長い廊下を飛び出ると同時、掌で掴めそうなぐらい小さな地底の街が眼下に見えた。

 

「あはははは、権兵衛、やったよ権兵衛っ!」

 

 こいしさんは狂気を孕んだ笑みを辞めなかった。

ぐるぐると空中を、その喜びを発散させるかのごとく飛び回る。

その回転についていけなくなって、目を回してしまいそうになった所で、そんな俺の心を読んだのだろう、こいしさんは急に止まった。

慣性ですっ飛びそうになる俺を抱え、ぐっ、と俺の顔を覗いてくる。

こんなにも異常な事態だと言うのに、こいしさんの顔は満面の笑みだった。

まるで花弁が開いたかのように華々しく、頬についた血飛沫はまるで化粧の一部であるかのように思える。

 

 何故、と俺はこいしさんに内心で問うた。

何故、さとりさんをあんな目に遭わせたのですか。

どんな必要があって、全てをなげうって妹を救おうとしていたさとりさんを、攻撃したのですか。

 

「ううん、お姉ちゃんはね、結局私の言葉を認めてくれなかった。

弱くてもいいよ、って権兵衛が言った時、そんな訳無いって思っていた。

これでは……、何の救いにもならないじゃあないか、って思っていたの。

変よね、私は心を開いて、それで大団円じゃあなかったの?

お姉ちゃんは私がどんな言葉を求めても、許してくれるんじゃあなかったの?

お姉ちゃんは、嘘つきだった。

嘘つき、しかもそれだけじゃあなくってっ!」

 

 一旦言葉を切り、こいしさんはぎりぎりと歯を噛み締め、鬼のような形相で地霊殿を睨みつける。

 

「お姉ちゃんは、私から権兵衛を奪おうとしていたっ!

私が自立していくに従って、権兵衛を私から離そうとしていたっ!」

 

 しかしそれは、俺の能力を鑑みればこいしさんの事を思っての事なのではないか。

反射的にそう思う俺に、くすり、とこいしさんが微笑を浮かべる。

血飛沫のある頬が陰影を作った。

 

「それだけじゃあない。

お姉ちゃんは私から離した貴方を、どうしようとしていたんだと思う?

飼おうとしていたのよっ!

自分だけのペットとして、地霊殿の自分しか知らない場所に封印してっ!

権兵衛を、独り占めしようとしていたのよっ!」

「………………え?」

 

 あまりの事態に心の方が追いつかない。

それでは、さとりさんが不幸になってしまい……。

とそこで、俺は理解する。

確かにさとりさんは、俺の周りから不幸を遠ざける事ができるかもしれない。

だが、さとりさん自身を不幸から守る物は、何も無い。

さとりさんは彼女が不幸になってしまえばそれでおしまいの、仮初めの救世主だったのだ。

そして、俺の気づかぬうちに、その仮初めの救世主の時間は終わっていた。

 

 しかも俺は、それを理解できるだけの脳みそを持っていたと言うのに、何故気づかなかったのか。

これもまたすぐに思いつく事であった。

我欲である。

己が幸せになる可能性が残っていると言う希望に縋り付いた、惨めな精神の表れである。

そんな事をようやく理解し、顔を青くする俺に、楽しげにこいしさんは続けた。

 

「そしてお姉ちゃんは権兵衛にとっても嘘つき。

お燐もお空も、不幸になる前に助けられてなんかいない。

二人とも、今となっては不幸になり続ける、坩堝の中に居るわ。

だって、ほら」

 

 と、またもや衝撃的な事実を告げつつ、こいしさんが眼下を指さす。

反射的に魔力で目を強化して拡大して見ると、そこには赤髪の猫らしい女性と黒髪の黒い羽の生えた女性が居た。

血だらけになり、今にも生き絶えそうな二人が居た。

二人はそれでも立ち上がり、猫の女性は鬼のような形相で、鳥の女性は全くの無表情で殴り合いを続けている。

あれが、お燐さんとお空さんだと言うのか。

届かぬと知りながらも、思わず手を伸ばして叫んだ。

 

「馬鹿、な、だってさとりさんはっ!」

「嘘つきだったの。

貴方に私を救わせる為の、嘘」

 

 すとん、と。

今度こそ俺は飲み込めた。

俺は、“みんなで不幸になる程度の能力”の持ち主なのだ。

永遠に呪われ続ける、最悪の能力の持ち主なのだ。

それが口だけではなく、心の奥底から理解できた。

今更になって、やっとの事で。

 

「泣いてるの? 権兵衛」

 

 そうこいしさんに問われて、俺は初めて自分が泣いている事に気づいた。

今後に及んで俺は自分が可愛くて泣いているのだろうか、とふと思う。

ただでさえ最悪の能力の持ち主だと言うのに、いやだからこそなのだろうか、俺は最低の精神の持ち主でもあった。

そんな俺に、にこり、と天使のような微笑を見せるこいしさん。

俺にそんな笑顔を向けて貰える価値など無いのに、と思うが、思わず見惚れてしまうようなその笑みから、俺は目を離す事すらできなかった。

それ程までに、こいしさんの笑みは魅力的で、俺は精神的弱者であった。

 

「そう、権兵衛の心は弱い。

私と同じで、弱い心の持ち主なの。

だからねぇ、権兵衛、同じ弱い心の持ち主同士、傷を舐めあえばいいのよ。

ねぇ、権兵衛、だから私と、ずっと一緒に……」

「と言う訳にはいかないのよね」

 

 声。

ばっ、と振り向こうとするこいしさんのトルクに引っ張られ、回転の外側に浮く俺。

次の瞬間どすどすどす、と肉を貫く音が聞こえた。

直後、こいしさんの口からけぷ、と血が溢れる。

何があったのだ、と新しい声の主の方に視線をやると同時、俺は驚愕した。

赤いリボンに脇出しの巫女服。

博麗霊夢さんがそこに居た。

 

「全くもう、ようやく地霊殿を出てきてくれたのね。

そこまで待つのが最善だと私の勘が告げてなければ、とっくのとうに突っ込んで権兵衛さんを取り返していたのに。

まぁ、お得意の無意識の能力が使えなくなってるみたいだから、これで良かったんだろうけれども」

「こ……紅白ぅうっ!」

 

 咆哮と同時、こいしさんの触手が伸びようとするが、そこに吸い込まれるかのように霊夢さんの放つ針が飛来し、触手を弾いた。

直後、霊夢さんは姿を消した。

瞬き程の間でこいしさんに隣接、雷鳴のような速度でお札をこいしさんの額に張る。

な、と小さくこいしさんの驚愕の声が聞こえた。

 

「じゃあね、さとり妖怪」

「やめ……」

 

 直後、極光。

ぼん、と肉が潰れるような音がし、こいしさんの手が俺から離れる。

次いでこいしさんは墜落していき、俺だけが霊夢さんに抱きとめられた。

慌てて俺はこいしさんへと視線をやるが、顔から黒い煙を出したままで、その様子は分からない。

大丈夫か、と声を出そうかと思ったが、それよりも早く霊夢さんが俺の首筋を打った。

 

「悪いけど、上につくまでは面倒臭いから寝ててもらうわよ」

 

 待って、と言おうとして、その呂律が回らない。

ぐらりと視界が傾き、意識が闇の中へと薄れていく。

最後に一瞬だけ霊夢さんの口元が見えて、それが少しだけ微笑んでいるのを確認するのを最後に、俺の意識は闇の中へと消えていった。

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。