ルナティック幻想入り   作:アルパカ度数38%

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2009/12/16(新月)
月の狂気が最も薄い、最も正気な日。


32-幻想郷

 

 

 暗転。

一瞬だけ無数の眼球がある光景を超えて、俺はすぐに強く腰を打ち付け、その場に放り出された。

一体何処まで広がっているのかも分からない、広い草原の中。

鈍い痛みに尻に手をやり、抑えると、草がチクチクと肌を差す感覚がある。

冬だと言うのに雪の気配の無く見知らぬ光景だが、よくよく辺りを見回せば、遠くに妖怪の山やら冥界の門やらが薄く見えた。

何時もの幻想郷の光景である。

俺がゆっくりと立ち上がり、辺りを見回そうと首を回すと、ぷにっ、と頬に突き刺さる物があった。

驚いて飛び退り、視界を反転させると、そこには宙空に指を差し出した紫さんが、日傘片手に立っていた。

 

「な、何が……いや、どうしてっ!?」

「あら、貴方はあのまま、霊夢と婚儀を終えていた方が良かったの?」

 

 思わず呻き声を上げる俺。

そう、俺の霊的な勘があの場を去ってはならないと告げてはいた。

がしかし、理屈で考えれば、あれ以上霊夢さんと不幸にしないため彼女と離れた事は歓迎すべき事である筈であった。

何も言葉を出せず、硬直する俺に、紫さんはその美しい微笑を向けながら言う。

 

「そう、ね……。まず、何から話しましょうか」

「…………………」

 

 何も言えずに居る俺を尻目に、紫さんは日傘を閉じながら言う。

後ろ手にして背に隠した日傘は、一瞬強烈な違和感を伴ったかと思うと、その場から消え去っていた。

代わりに白磁の手袋に包まれた両手が戻ってきて、何も持っていない事を指し示すように両手を俺に向けて開く。

 

「正体。

まずは貴方の正体から話してみては、如何かしら?

貴方は疑問に思った事は無かった?

そもそも貴方はあの毘沙門天の弟子から、“みんなで不幸になる程度の能力”は“名前が亡い程度の能力”から生まれた事は、聞き知っていた筈。

ならば“名前が亡い程度の能力”とは、“みんなで不幸になる程度の能力”を生み出す最悪の能力の根源と言う、凄まじい能力である事になるわ。

幻想の人妖が持つ能力には、必ずその所以がある筈。

だったら“名前が亡い程度の能力”の所以とは、一体何かしら?

神に相反する能力とは、一体何処から生まれてきたの?

どう、貴方は知っているかしら?」

 

 平常通りの口数の多さで、告げる紫さん。

紫さんも不幸へのカウントダウンが確実に始まっていると言うのに、そんな話でいいのか。

俺は、僅かに迷いつつ、だが結局思ったことを告げる。

 

「……分かり、ません。

何故なら俺は幻想入りする前の記憶が無く、幻想入りと同時に新生したかのような……」

 

 と言いつつ、俺は目を見開いた。

待て。

何故、俺は自身を新生した、などと比喩するのだろうか。

確かに記憶と言う一面から見ればそうなのかもしれないが、俺には体に刻まれた、外の世界で歩んできた歴史がある筈だ。

それが連続していると言うのに、新生した、と比喩するのは、何かもどかしい間違いを侵しているような気分になる。

口をつぐんだ俺に、嬉しそうに目を細める紫さん。

腕を組んで片手を口元にやり、優雅に喋り始める。

 

「そう、貴方のその肉体は、幻想入りした時に初めて生まれた。

何せ貴方は外の世界では、幻想でありながら幻想ではない、それらの隙間に住む存在だったのだから。

妖怪のように人々の幻想から生まれたものの、人間と言う種族であると言う矛盾した存在であるが故に、肉を持たぬただの概念であった存在。

それが人々の中でも次第に幻想になっていくに連れ、貴方と言う概念が幻想入りした。

そうとなれば、貴方は最早完全な幻想の存在。

肉を完全な幻想で作り上げ、幻想の存在として成り立つ事ができたのよ」

 

 そこまで言ってから、たっぷりと溜めを作り、紫さんは俺に告げた。

 

「貴方は、“身元不明者”だわ」

 

 身元不明者。

名無しの権兵衛。

 

「外の世界ではかつて人々の間で身元が分からない事など、ありふれた事だったわ。

身元が確かと言うだけで人を評価する点になるぐらいに、身元不明者と言うのは沢山居た。

勿論死体の身元なんて、普通はっきりしない事の方が多かったわ。

顔でも潰してしまえば、すぐに判らなくなってしまう物だったの。

だから“身元不明者”と言う概念がなりたっていた。

けれど“身元不明者”なんて物は、本当は存在しない物である事は分かっているでしょう?

どんな人間にも生きてきた歴史があり、ただそれが人間に見る事ができないだけで、どんな人間にも身元は存在する。

そう、“身元不明者”は妖怪達と同じ、人間によって生み出された存在だった。

だけれども、“身元不明者”は当然人間でなければいけない。

だから妖怪のように完全な幻想の肉を持った存在となる事はなく、その隙間にある存在として外の世界に存在していたわ」

 

 すとん、と胸に落ちるように理解できる話だった。

俺に人間としての自負があるのなら拒絶してしまう筈の話が、まるで予め用意されていたかのように、簡単に飲み込めてしまう。

その事態そのものが、俺とその“身元不明者”との間を結びつけていた。

 

「けれど外の世界は、進化したわ。

丁度、この幻想郷が元の世界から分かれた頃からかしら。

戸籍が作られ始め、身元がはっきりしているのが普通になり始めた。

科学が進化し、死体からは歯形に遺伝子で身元を調べられるようになってきた。

いんたーねっとと言う電子の海では、簡単に身元なんて分かってしまうようになったそうよ。

勿論、完全に身元不明者が居なくなった訳ではない。

けれど人々の間で“身元不明者”と言う幻想は確実に薄くなり、そしてある日閾値を割り……。

幻想入り、したわ」

「…………………」

 

 沈黙。

新たな事実に動揺するかと思ったが、意外なまでに俺は平静だった。

それどころか、その事実が今何に影響するのだろう、とすら不思議に思ってしまう。

と言っても紫さんの事である、意味ありげでよく分からない所作は何時ものことだ。

そしてまずは、と正体の事を話題にしたのなら、次の話題があるのだろう。

耳に意識を集中し、紫さんの次の話を待ち受けるのに腐心する。

 

「そしてそれ故に、貴方は“名前の亡い程度の能力”を得た。

実を言えば、貴方の“みんなで不幸になる程度の能力”を消す事のできる人妖は、この幻想郷に幾人か居るわ。

私もそうだし、紅魔館の狂った妹なんかがその代表格かしら。

でもそれは所詮対処療法、元となる貴方の“名前の亡い程度の能力”を消さなければ意味は無い。

でなければいずれ、“みんなで不幸になる程度の能力”は復活するわ。

そして“身元不明者”たる貴方にとって、“名前の亡い程度の能力”とは、存在の根幹そのもの。

“名前の亡い程度の能力”を無理に消してしまえば、貴方と言う存在は消えさってしまう」

「……消え去る、だけで済むのですか?」

 

 今度は、思わず俺も口を出してしまった。

当然の事だが、俺如きの存在よりもこの幻想郷に最悪の不幸が訪れる事の方が、余程の大事である。

ならば何故、俺のような卑小な存在を消して、この幻想郷を守らなかったのだろうか。

頭が沸騰するような怒りが湧いてきて、それを吐き出そうとする瞬間、紫さんと目が合った。

真摯な瞳に、吐き出そうとした怒りを、思わず飲み込む。

 

「貴方が幻想入りしてすぐなら、それだけで済んだでしょうね。

だけど貴方が幻想郷の強者を、その精神と“重力を操る程度の能力”で惹きつけてからは、もう遅い。

貴方に惹きつけられた強者達は、貴方と言う拠り所を失えば、その精神の平衡を無くしてしまった事でしょう。

……それに」

 

 と、一旦区切る紫さん。

僅かに強く唇を噛み締め、紫さんは俺から目を逸した。

陽光を体いっぱいに浴びた、青々しい草原に視線をやる。

 

「幻想郷は、全てを受け入れる。

その理想から私が作ってきたこの土地に、最悪の能力者とて、完全に排除すると言う選択肢は採りたくなかったわ」

「……って、はぁ!?」

 

 一瞬そのまま頷きそうになった所で、驚愕する。

私が作ってきたこの土地、と言う紫さんの言をそのまま受け入れるのだとすれば、紫さんこそがこの幻想郷を創りだした妖怪なのだろうか。

そんな俺の疑問詞を置いて、紫さんは続けた。

 

「勿論、だからと言って、最悪の能力を放置しておける筈も無い。

方法が見つからなければ、結局貴方を排除していたのでしょうけれど……。

その方法が、見つかったのかどうか。

今この場で私が貴方と向かい合っている、その事実こそが、それを物語っているでしょう?」

「それは……つまり」

 

 再び俺に視線をやり、唇をペロリと舐める紫さん。

俺は思わず声を漏らしながら、縋るように彼女を見つめる。

先程感じた、俺を何故消し去らなかったのか、と言う怒りなど吹き飛んでいた。

代わりに頭が真っ白になって、その事実だけが俺の頭の中を巡り巡る。

ぷるぷると指先が震えてきた俺に、紫さんは断言するように告げた。

 

「この幻想郷で、この私にだけは——、貴方の“みんなで不幸になる程度の能力”を完全に消す事ができる」

「あ…………………」

 

 思わず、俺は泣き崩れそうになった。

これでやっと救われるのかと思う反面、また嘘なのではないかと懐疑心が持ち上がる。

しかし今までの話の通りなら、紫さんが俺に嘘をついている可能性は絶無だ。

“身元不明者”の話は俺自身が真実だと確信しているし、その後の紫さんの話にも、嘘の気配は見受けられなかった。

それでもさとりさんに霊夢さんと二度期待を裏切られ、また相手を不幸にしてしまった経験から、反射的に俺は、そんな筈は無い、と思う。

そんな信用できるか分からない方法よりも、幻想郷を創りだしたと言う紫さんに、俺を封印する場所も作ってもらうべきだ。

そう俺が口を開くよりも早く、紫さんは言った。

 

「私の能力は、“境界を操る程度の能力”。

物と物の隙間を無くせば消滅し、物と物の隙間を作れば創造する。

創造と破壊の能力であり——、当然、“みんなで不幸になる程度の能力”をも破壊できるわ。

そして」

 

 と、一旦区切り、息継ぎする紫さん。

俺は呆然としながら膝を落とし、震えながら彼女を見つめていた。

 

「そして貴方の“名前の亡い程度の能力”を、貴方を幻想郷に受け入れつつ無くす事ができる。

貴方と他の名前のある物との隙間を無くし、融合させると言う方法でね」

 

 ついに俺は脱力し、尻を足の上に落とした。

俺は。

俺は、救われるのだろうか。

俺は、誰かを幸せにできるようになるのだろうか。

そんな思いが目頭に集まり、涙となって零れた。

頬を伝い、顎からぽつりと膝に落ちる。

 

「勿論、何と融合させてもいいと言う訳ではないわ。

貴方と親和性のある物でなければ、貴方の“名前の亡い程度の能力”が打ち勝ってしまい、名前の亡い物となってしまう。

だから、貴方の残る“重力を操る程度の能力”と親和性の高い——」

 

 紫さんはぱっ、と手を広げ、その場でくるりと一回転した。

レースでふんだんに装飾されたスカートの裾が浮かび、そしてやがて落ちる。

満面の笑みで、紫さんは言った。

 

「この大地――幻想郷と、一つになってもらいますわ」

 

 え、と小さく俺は呟いた。

確かに、俺の“重力を操る程度の能力”と親和性の高いのは、この大地そのものである幻想郷だろう。

だが、俺が自我を持った状態で残ると思っていたからか、躊躇が僅かに残った。

そんな壮大な物に、俺のように卑小な物が混ざっても良いのか、とも思う。

いざ“みんなで不幸になる程度の能力”が消えた時を思うと、不幸を実感した皆から受ける悪意に足踏みした。

それを永遠に離れられない土地として受ける事を想像すると、震えが走る。

だが。

だけれども。

 

「もし、そうなれば——、俺の“重力を操る程度の能力”で得ていた好意は……」

「この幻想郷に移ります。

そう、そうなれば、幻想郷の有力者達がよりこの幻想郷を愛する事になる。

そしてそれは、貴方が出来る唯一の贖罪でもあります」

 

 紫さんはそう告げ、その白い手袋に包まれた手を伸ばす。

紫さんの告げる言葉に、心に残る淀みは消えた。

後にはただ、静謐な波立つ事のない静かな心だけが残る。

まるで走馬灯のように、俺のこの幻想郷で過ごした思い出が脳内を過ぎ去った。

 

 次々と移り変わる光景に、ふと俺は里人に火刑にかけられそうになった時の事を思い出す。

そういえばあの時も、こんな白い手袋が伸びる光景を幻視したのだった。

いや、他にも幾度か、そんな光景を見た覚えがある。

恐らく紫さんはその度に俺の生死の境界をいじって俺を存命させ、俺が幻想郷中の有力者から関心を引き出すまで死なないよう努力したのだろう。

霊夢さんですら、紫さんの掌の上で踊っていたに過ぎないのだろう。

目的は恐らく、最終的に俺が幻想郷と一体化した時、より多くの有力者の、幻想郷への愛情を増加させる為に。

 

 最早紫さんの言葉は疑いようが無かった。

後はただ、俺が頷き手を伸ばせば、それで全てが終わる。

目を閉じ、俺は深呼吸をしながら、一年と無かった人生を思い出した。

未練が無いとは到底言えなかった。

けれど、これからこの幻想郷となり、贖罪に生きる事に躊躇は無かった。

 

 頷き、手を伸ばす。

紫さんの細い手を、手放さないで済むよう、確りと握った。

 

「さよなら、権兵衛さん」

 

 紫さんの声を最後に、俺の視界が薄れていく。

全身が大きな粒子の集まりとなり、その粒が次々に幻想郷の何処かへと流れていった。

ある物は風に吹かれて消えていき。

ある物は足元に落ちて地面に消え。

ある物は目の前の紫さんに吸い込まれるように消えていき。

ある物は目の前の草に溶け込むように消えていった。

 

 次第に意識が薄れていく。

視界が光に満ちていき、音が聞こえなくなる。

触れていた筈の紫さんの手の感触もなくなり、膝下が触れている草原の感覚もなくなった。

俺が幻想郷に混ざっていく。

そしてその境界もゆっくりと無くなっていき、同一の物となっていった。

 

 

 

 ***

 

 

 

 七篠権兵衛が、粒子となり風に吹かれ、幻想郷と一体化していく。

肌色と黒い髪に瞳を構成していた粒子が、七色の粒となって飛散していくその光景は、まるで虹が幻想郷に溶け込んでいくような美しい光景だった。

そんな光景を眺めながら、紫は少しだけ回想する。

 

 紫はこの幻想郷について、ただ管理するばかりではなく実際に足で確かめる事も必要だと思い、時折散歩をしている。

七篠権兵衛が、“身元不明者”が幻想入りしたのも、そんな時であった。

“身元不明者”は未だ幻想の肉を持っておらず、正に紫がその場に出くわしたのと同時に幻想の肉を持つ事となった。

自然、紫が不意に正体の知れぬ“身元不明者”に持った幻想、紫の持つ理想がその幻想の肉を編む事となる。

紫の理想は、この幻想郷そのもの、全てを受け入れる存在である。

故に七篠権兵衛となった彼は、紫の理想通りの人格となった。

全てを受け入れる心の広さ以外にも色々と特徴的な人格であったが、それはいわば紫の趣味である。

 

 まるで理想の男が向こうから歩み寄ってくる、と言う事態に、思わず紫は足を止め、男の正体を思索した。

そして紫は、すぐさま男が“名前が亡い程度の能力”の持ち主であり、すぐに“みんなで不幸になる程度の能力”を開花させる、最悪の能力者となるであろう事を推測する。

正直言って、紫は最初その場で権兵衛を消し去ろうか迷いに迷った。

如何に幻想郷は全てを受け入れると言っても、幻想郷が不幸で満ちてしまうのは許せない。

しかし、目の前の男はただの男ではなく、紫の理想が反映された、全てを受け入れる心さえ持った男なのである。

故に紫は少しだけ躊躇し、その躊躇が紫に天啓を与える事となった。

“重力を操る程度の能力”を残して幻想郷との隙間を無くせば、この男を最高の方法で処理できると気づいたのだ。

しかもそうすれば、一時的に幻想郷は不幸に満ちるが、最終的には皆がこの土地をより愛するようになると言う、最高の結果になる。

当然その為には、権兵衛を幻想郷中の有力者が好きになる事が好ましく、また、権兵衛にも自分から幻想郷と一体化したいと願うほど絶望してもらわなければならなかった。

 

 無論、それは難事である。

紫は権兵衛の生と死の境界に幾度か手を出して権兵衛を延命してきた。

最も大変なのは、里人が相手の時だった。

里人にあまり能力で手を出すと自然な人間の感情が得られず、妖怪の存在を危うくする事になる。

その為できるだけ他の妖怪が動くよう背後で糸を繰らねばならなかった。

だがしかし、紫はその難事を成功させた。

霊夢が多くの作業を自発的にやっていた事も、成功の一因だっただろう。

結果的に、幻想郷の殆どの有力者がより幻想郷を愛するようになると言う、最高の結果が得られたと言える。

 

 もしかしたら幻想郷創始以来かもしれない難事を解決できた実感に、紫は肩の力を抜き溜息をついた。

精神を安堵が覆ってゆき、それと同時に少しだけの寂寥感が紫の心に差す。

最中は表情は兎も角内心では必死だった紫だが、終わってみれば、意外と楽しい作業だったのかもしれない。

なにせ紫にとっては、理想の男の人生を好きに弄ぶ作業でもあったのだ。

幻想郷を見れば分かるように、紫は大切な物を独占したいと思う方ではなく、どちらかと言えば皆で共有したいと考える方である。

そう思うのならば、権兵衛を皆に愛してもらう作業と言うのは、紫の権兵衛に対する愛情表現だったのかもしれない。

そんな事を想像しながら、くすりと安堵の笑みを浮かべ、紫は思いっきり両手を広げた。

そのまま体を傾かせ、重力に従い草のカーペットに背を預ける。

草に触れ、土に触れ、これが幻想郷であると同時、権兵衛でもあるのだと思うと、紫は愛しさで胸がいっぱいになるのを感じた。

この通りの事を幻想郷中で感じているのだとすれば、それ以上に素晴らしい事なんて無いに違いない。

 

 そう思いつつ、紫は少し顔を傾けさせる。

土で頬が汚れるのも気にせず、紫はこの大地に、幻想郷に頬ずりをした。

草が頬をくすぐるのに、思わずにやけてしまう。

達成感に満ち溢れ、紫はもう少しだけの間此処でゆっくりしていようと思った。

なにせ権兵衛が幻想郷に入って以来、休む暇もない工作の日々だったのだ。

といっても、生まれて一年も経たずに権兵衛は幻想郷と一体化したのだ、妖怪にとってみれば然程長い期間では無かったが。

 

 そんな事を思いつつ、紫は服が汚れるのにも構わず、ごろりとその場で転がった。

口元に土がつき、紫はそれを手で払おうと思う。

しかし実際に手で払ってみた時には、既に土はそこについていなかった。

どうしたのだろう、と思うと同時、紫は気づく。

今私は、一体何を咀嚼しているのだろうか。

口を開き、恐る恐る舌に触れた手を出してみると、それは土色に色を変えていた。

八雲紫は、土を食していた。

 

 一度自覚してしまえば、それは止まる事が無かった。

愛しいものが自分の口腔を通って中に入ってくるのだと思うと、止められない。

次々に紫は土を食し、草を食していった。

紫の中に僅かに残る冷静な部分が、何故、と叫ぶ。

一体何が起こっているのだ、と。

残る精神力の殆どを使い、紫は自身を地面から引き離し、空を見上げる。

空には太陽が光り、雲ひとつ無い青空が広がっているばかりである。

しかし紫の瞳は、その他にもう一つ、新月の今日には絶対に見えない筈の月の力を感じた。

瞬間、紫の思考に電撃が走る。

残る権兵衛の能力。

“月の魔法を扱う程度の能力”。

些事と思って放置した能力が、幻想郷と一体化する事によって強化され、あの月と同じ最上の狂気をこの幻想郷に宿したのではないか?

 

 紫の疑問詞は、しかし解決される事なくその衝動に流されていった。

胸を満たす暖かな感情が、この幻想郷を食すると言う悦楽が、紫の体を突き動かす。

紫は両手で土を掘りおこし、それを次々と口元に運んでいった。

止まることなくその光景は続いていく。

 

 

 

 ***

 

 

 

 幽々子は、机の上の皿に置いてある肉を、箸で掴む。

血抜きさえされていない生のままのその肉は、血を滴らせながらその真っ赤な断面を見せていた。

それをゆっくりと運び、口の中に入れ、咀嚼する。

幽々子は、そのあまりの幸福さに、破顔した。

 

 西行寺幽々子の理想には、確かに権兵衛が必要である。

博麗神社の結界を破れず、しかしそれが時間制限のある物だと分かりると、仕方なしに権兵衛を求める女性陣は解散した。

今力を使いきってしまえば、同じ女性陣に背後から撃たれる可能性もあったからである。

幽々子はそうして白玉楼に帰り、その後も、白玉楼で権兵衛を手に入れる方法を模索し続けていた。

そんな瞬間である。

権兵衛がこの幻想郷に、そしてそこに住まう幽々子自身と一体化したのは。

 

 当然、幽々子は最上の快楽を感じた。

求めても求めても手に入らなかった権兵衛がついに自分と一体になったような感覚を得たのである、喜ばぬはずがない。

しかし同時に、幽々子は更に先にある悦楽について気づいてしまった。

幽々子が求めるのは、権兵衛がただ一人居るだけの光景ではない。

もう一人、妖夢もまた一緒に居る光景なのだから。

 

「幽々子様、見てください、ほらっ!」

 

 幽々子は肉を咀嚼しつつ、机の反対側を見据える。

そこには満面の笑みを浮かべた妖夢がおり、自分の腹に刀を突き刺し、削ぎ落していた。

そしてその肉は妖夢の手によって幽々子の前にある皿に運ばれ、そして幽々子の箸を経過して口に入る。

 

「私、知らなかったっ!

自分を切るのが、こんなに楽しいだなんてっ!」

 

 叫びながら感涙し自分を切る妖夢に、大声をあげちゃって、はたしない、と思いつつ幽々子は妖夢の肉を口にした。

これによって、幽々子と権兵衛と妖夢とがここで一体となっているのである。

正に史上の悦楽であった。

妖夢も新しい切る快楽を得る事が出来て、二人ともこれ以上無い程に幸せだった。

 

 

 

 ***

 

 

 

 永遠亭から少し離れた、迷いの竹林の上空。

いつも通りに蓬莱山輝夜と藤原妹紅は宙に浮き向かい合っていた。

二人と永琳ら永遠亭の住人は、他の幻想郷の有力者と力を合わせて霊夢の張った結界を解除しようとしたものの、不可能であった。

歯噛みしつつ後数日で結界が解除されると分かった所で、他の有力者と別れ、永遠亭に一旦戻る事にする。

そんな中、近くに居を構える妹紅は輝夜と同行する事になり、予定調和と言うべきか、すぐさま口論になりこうやって殺し合いを始める事となったのだ。

 

 風がびょうびょうと哭きながら二人の間を駆け抜ける。

殺意が瞳から電撃のように走り、物理的現象とすらなり、二人の間に火花が散った。

 

「殺してやるよ」

「あらあら、物騒な言葉ねぇ」

 

 二人の間ではお決まりとなったセリフを互いに吐きつけ、全身から憎悪を集める。

空間が歪みかねない憎しみを、先に解き放ったのは妹紅であった。

不死鳥の炎が輝夜を狙って飛翔、その炎の舌で血肉を焼こうと直進。

それを輝夜は手に持った扇を振って暴風を顕現、圧倒的熱量を風で散らし、火の粉とする。

その火の粉の一つを指ですくいとって舐めて見せる輝夜に、妹紅は顔を引くつかせながら突進。

拳で輝夜を狙うが、輝夜の手は包むように穏やかに妹紅の手を取り、そのまま投げ飛ばそうとする。

 

「だぁぁぁっ!」

 

 しかしそれには妹紅も慣れた物。

ゴキリと音を立てて肩の関節を外し、可動域の制限を解除。

空中を大きく回転しつつ輝夜の肩に蹴りを見舞う。

それに感づいた輝夜は防御に回ろうとするが、僅かに遅かった。

妹紅の稲妻のような蹴りが炸裂、骨を打ち砕き、血管を破裂させ、妹紅の顔に血飛沫を散らす。

だが、輝夜もただでは妹紅を離さない。

一瞬にして強化した常識外の膂力で、妹紅の右腕を引っこ抜く勢いで引く。

それに妹紅の腕は耐え切れず、二の腕の部分でぶちりと千切れた。

勢いで妹紅はすっ飛んでいき、輝夜の顔に血飛沫が散る。

 

「あら、繋がっていたら好きなだけ弾幕を食らわせてあげたのに、意外と謙虚ね」

「人の腕をもぐのに夢中な奴とは違ってな」

 

 軽口を叩き、妹紅は顔についた輝夜の血を舐める。

同時、輝夜もまた顔についた妹紅の血を舐めた。

二人は電撃が走ったが如く、硬直する。

互いの血は、いつの間にかあの権兵衛を思わせるような、濃厚でいて口当たりの良い、どんな美酒をも上回る味をしていた。

 

 もっとこれを飲みたい、食べたい。

欲望のままに、二人はふらふらと近寄っていく。

至近になると同時、二人は相手の腹にさっくりと手を差し出した。

そのまま相手の腸を掴みとり、引き出す。

まるで痛みを感じていないかのような顔で、そのまま互いの腸を食いちぎった。

 

 脳裏に走るは、まるで天使の雫のような柔らかで濃密な味。

それに引き寄せられ、二人は互いの無限に再生する臓腑を引きずり出し、ガツガツと食べ始める。

その光景は、正に互いの尾を噛み合うウロボロスの蛇のよう。

その眼下では永琳と鈴仙、てゐらが盃を掲げ、落ちてくる血や臓物の欠片を口にする。

全員の表情はこの上ない悦楽に満ちており、これ以上ないほど幸せであった。

 

 

 

 ***

 

 

 

 流石に冬となると、太陽の畑の向日葵はその姿を消してしまう。

そんな中に、疲れ果てた幽香の姿があった。

幽香は他の有力者の助力で限界まで強化した身体能力で霊夢の結界を破壊しようとしたのだが、結局破壊は不可能だった。

もっとも肉体を酷使した幽香は、その足のまま、花の世話すらする事なく家の中に帰り、ベッドの上で横になっていた。

 

 幽香は、優しい自分になる為に権兵衛の事を求めていた。

勿論純粋に権兵衛が好きと言う部分が一番なのだが、そういった理由があるのは確かである。

だから権兵衛が手に入らない今、不服だが優しい自分になるため、どういった事をすればいいだろう、と何時も考えている。

優しくなる事によって自分が更に魅力的になり、権兵衛に対するアピールにもなるのだし。

 

 と言っても、幽香が優しくなれるのは、花に対してだけである。

人妖神仙に対しては、権兵衛以外に優しくする気には到底なれない。

しかも特に好きな花である向日葵が目に見えない今、更にその気分は落ちていた。

というか、むしろ権兵衛にだけ特別と言う事で権兵衛の独占欲を刺激するため、基本的にこのままでいいんじゃないかとすら思えてきて、幽香は欠伸をした。

 

 そんな折であった。

幽香の頭に、天啓が降りた。

目を見開いた幽香はすぐさまドアを開けて家を出て、太陽の畑の真ん中に立つ。

それからゆっくりと手を伸ばし、地面と水平に。

もう片手にある物を持ちその上に重ね、大きく深呼吸。

次の瞬間、幽香は向日葵の種を自分に右手の甲に埋め込んだ。

 

「………………っ!」

 

 思わず声にならない悲鳴が上がるのを、歯を噛み締めて無視。

そのまま続けて幽香は、己の手に埋め込んだ向日葵の種に能力を行使する。

すると向日葵の種は、まるで早回ししているかのように成長。

幽香の中の養分を糧にして、その大きな花を咲かせる。

 

「……やったっ!」

 

 実験の成功に、思わず幽香は歓声を上げた。

そう、幽香は花が近くにあれば、優しくできる。

かといって地面に無制限に花を生やしてしまえば、そのアフターケアなどで色々と苦労する事になり、割りに合わない。

ならば自分に花を咲かせて常に持ち歩けば、常に優しくできるのではないかと思ったのだ。

 

 実際幽香は、これがあれば、権兵衛のたまにある神経をえぐるような発言にも、寛容になれるのではないかと思った。

あぁ、なんて幸せなんだろう、と思いながら、思わず幽香は仰向けにその場に倒れた。

すると右手の向日葵が急成長、種を幽香の体中に落とす。

その種達はまたもや幽香の能力によって急成長、幽香はすぐさま急造の向日葵の畑となった。

然程力は使わず、このまま寝転んでいても十年は持つ程度である。

 

 あぁ、なんて幸せなんだろう、と幽香は常に自分に寄り添ってくれる事になった向日葵に感謝する。

好きな時に優しくなれる向日葵を体に生やす方法を覚えた幽香は、これ以上ないほどの幸せの予感に、身震いすらしたのだった。

 

 

 

 ***

 

 

 

 紅魔館。

権兵衛を救出できずに戻ってきたレミリアは、あまりにも恐ろしい出来事に、自室に篭って震えていた。

何せレミリアにとって自分をさらけ出せるたった二人の人間、霊夢と権兵衛が二人きりになって外の世界と断絶してしまったのだ。

二人がお互いを特別に思い、自分をなんとも思わなくなったら、どうだろうか。

霊夢はまだいい。

それはいつも通りと言う事と対して違わないからだ。

問題は、権兵衛が自分の前で、霊夢と特別と称する光景である。

その光景が、レミリアの瞼の裏で焼き付いて離れなかった。

 

「嫌だ……っ! 権兵衛は、私の特別なのっ!」

 

 言って、レミリアはベッドの上で自身を抱きしめる。

自分すら騙せない、陳腐な嘘であった。

レミリアにとって権兵衛は特別でも、権兵衛にとってレミリアは特別ではない。

冷たい真実を理解していた体は、あまりの恐ろしさに震えが走る。

それを解消しようとして、レミリアは体を起こした。

あの日権兵衛に馬乗りになったのと同じような、膝をつき尻を落とした姿勢になり、パジャマを脱ぎながら、小さく息を吸う。

息を止める。

レミリアは手を伸ばし、自身の肩をえぐった。

 

「——っ!」

 

 激しい痛みに顔をしかめつつ、レミリアはそこから血をできるだけ手にとって集める。

それから裸身に血を塗りたくり、何時か権兵衛の血で行ったように上半身を血で染めていく。

せめてあの日の感覚を思い出せはしないかと言う、寂しい作業であった。

しかし、レミリアの予想に反し、これがなんだかそそる物がある。

気づけばレミリアは集中して自分の前半身に血を塗り終えていた。

なんでだろうな、と思いつつ、首を傾げると同時、電撃がレミリアの中に走った。

レミリアは権兵衛の血を吸った事がある。

ならばレミリアの血の中に、権兵衛の血の成分があると言う事と同意義ではあるまいか。

 

「——そうかっ!」

 

 思わず声をあげて納得してしまうレミリア。

理性がそれだけではないかもしれない、と告げるぐらいに、レミリアの血は権兵衛の香りを伴っていた。

自分を権兵衛の血が包んでいるのだと思うと、レミリアは昇天してしまいそうになるぐらいの幸せに浸ってしまう。

途端、ガチャリ、と音を立てて、部屋に誰かが入ってきた。

 

「レミリア、様?」

 

 はっと見ると、咲夜である。

あまりの幸せさ加減に、部屋に入る伺いにとりあえず了承してしまったのだろうか。

でもそれがどうでもいいぐらい幸せなレミリアに、咲夜は吸い寄せられるように近づき、レミリアを抱きしめる。

その体温がレミリアに権兵衛の暖かさを思わせて、レミリアはとてもとても幸せだった。

咲夜もまた同じように、レミリアに強烈に権兵衛を感じており、これ以上ないほどに幸せな気分であった。

 

 

 

 ***

 

 

 

 幻想郷の上空を、萃香は一人漂っていた。

結界を殴ろうにもすり抜けようにも不可能だった萃香は、それから一人博麗神社の上空をさまよっている。

霊夢の結界内に侵入が可能であろう友人から、何らかの連絡が無いかと待っていたのだ。

しかし未だに連絡は無く、既に数日萃香は待ちぼうけのままだった。

今、この瞬間までは。

 

「——成程ね、紫」

 

 萃香は一人、上空で呟いた。

そう、萃香は紫と友人である。

故に他の妖怪よりは紫の事を熟知しており、その思考を理解していた。

それ故に紫が権兵衛と幻想郷との隙間を無くした瞬間、その行為を悟ったのであった。

 

「——紫の他には、私だけだ」

 

 と言うと、萃香の身に溢れんばかりの歓喜が漂う。

そう、権兵衛が幻想郷と一体化した事を確信しているのは、萃香だけだ。

他の連中は、権兵衛を求めているのにすぐ近くにあるという事実に、権兵衛を求める感情を失っていくだろう。

権兵衛の事を過去の思い出にし、代わりに幻想郷への愛情を深くすることだろう。

だが、萃香は違う。

事実を完全に理解している為、権兵衛の事を何時までも思う事ができる。

ばかりか。

 

「私も幻想郷中に疎になれば、権兵衛と同じ事ができるっ!」

 

 それは史上の悦楽であった。

あの連中は権兵衛の事を愛し続ける事ができないのに、自分はそれができる。

あの巫女辺りは勘付くかもしれないが、幻想郷と一体化するまで疎になれるのは、萃香だけである。

 

「あは、あはははははっ!」

 

 哄笑と共に、萃香は自分を限界まで疎にし始めた。

萃香の姿が、小さな粒子の集まりとなり、風に吹かれて幻想郷中に消えてゆく。

やがて萃香の姿は無くなり、目に見えないほど疎になった萃香が幻想郷中に存在する事になった。

権兵衛と同一になれた萃香は、勿論これ以上ないほどに幸せだった。

 

 

 

 ***

 

 

 

 その瞬間も変わらず権兵衛の骨を舐めていた文であったが、突然の襲撃を受けた。

いきなり小屋を吹き飛ばすような攻撃を受け、文は咄嗟に権兵衛の骨だけ守って上空へ避難。

霊力の源には、心当たりがあった。

 

「椛ぃぃっ!」

「文ぁあっ!」

 

 絶叫と共に、文は天狗団扇を構え、椛の剣を受けた。

しかし権兵衛の骨を避けて椛の盾が殴りつけるように突進、文の顔面を打つ。

片手に権兵衛の骨を抱えた文は避けきれず、衝撃に吹き飛ばされた。

そのついで風を操り椛と距離を取り、憎悪に満ちた顔で椛を睨みつける。

 

「あら、権兵衛さんのファンに死ぬ寸前まで嬲られてた犬コロじゃない」

「黙れ、この盗人がっ! 権兵衛さんの骨を返せっ!」

 

 そう、椛は元々巡回の天狗の一人である、権兵衛が接触できる可能性は元々低いとされ、権兵衛を愛する女性陣によって私刑を受けていたのだ。

同じような立場でありながら、上手くそれを避けた上に権兵衛の骨まで手に入れた文に、椛は血が滲むほどに歯を噛み締める。

雄叫びをあげて文へと向かっていく椛と、それに応ずる文。

 

 二人の格は大きく違う。

烏天狗の中でも最上位に近い文と、一介の白狼天狗である椛とでは、天と地ほどに力が違う。

しかし全快するまで力を蓄えていた椛に対し、食事すらも投げ捨て権兵衛の骨を愛で続けた文は力が衰えており、条件が悪い。

二人の間を血風が舞う。

それでも椛は権兵衛の骨を避け、文は権兵衛の骨を盾にせずに居るままである。

 

 次第に二人の血飛沫が空中へ舞うが、それは文が操る風に乗って、その場から離れない。

血の匂いが濃くなっていき、二人はそれに応じて徐々に攻撃の手を納めていった。

 

「……これは……?」

「権兵衛さん……?」

 

 二人は、まるで権兵衛に包まれていくような感覚を覚えていた。

手を止めた文の所為で血が落ちそうになると同時、その感覚が薄れるのに、慌てて風を操り文は血を拾いあげる。

吹き荒れる風で球状に血が舞う中、文と椛は、先ほどまでの憎悪が嘘であるかのように近寄った。

勿論、この権兵衛に包まれるような感覚を、より濃くする為である。

その為ならば、二人は憎い相手の事などどうでも良かった。

手と手を合わせ、二人で権兵衛の骨を持つ。

 

「もっと血を濃くすれば……」

「……うん」

 

 これ以上の感覚を得るにはより大量の血が必要であろうと、二人は同じ結論に達した。

互いの武器を互いの首に沿わせ、同時に引く。

一瞬の静謐。

血が噴水のように二人の首から吹き出し、風にゆられ空中を赤く染める。

 

 恍惚とした表情を浮かべながら、より濃密に権兵衛に包まれているような感覚を得て、二人は幸せだった。

互いの血を止めようともせず、ふらつき落ちそうになりつつも、二人はこれ以上ないほどの幸せを感じていたのだった。

 

 

 

 ***

 

 

 

 その日もアリスは、家の人形全てに権兵衛の名前の刺繍をしている所だった。

丁度終盤にさしかかり、さて、次はどの人形に権兵衛刺繍をしようか、と思った時に、ふとアリスは思い出した。

権兵衛原寸大人形の事である。

苦い思い出が蘇り、アリスは気分転換をしようと紅茶を入れ、自分自身にした刺繍を撫でながら、紅茶を飲む事にする。

 

 しかし紅茶の味を楽しむ最中も、アリスの頭の中から権兵衛人形の事は離れなかった。

あれはアリスの中では黒歴史として設定されており、権兵衛のあの暖かな愛情を人形で得られるなどと思った、誠に恥ずかしい事件である。

忘れたい事の方が却って忘れられないと言う普遍的な現象に、アリスは機嫌を悪くしつつ権兵衛の刺繍を続けた。

しかしそうするうちに、家にある全ての人形に権兵衛の名前を刺繍し終えてしまい、残るは権兵衛人形のみとなる。

 

「……一応あれでも私の作品だし。

見るだけ見ておきましょうか」

 

 言って、アリスはあの日のあと強引に物置に突っ込んだ権兵衛人形を引きずり出し、丁寧に埃を払い、陰干しし、改めて権兵衛人形を見てみた。

確かに、権兵衛を想起する部分があるのは確かである。

しかし本物には遠く及ばない。

素材を厳選してできる限り近い物にする事はできても、同一の物にはできないのだ。

人形として操作性も重視して作った物なら、なおさらの事である。

さっさと権兵衛の名前の刺繍をして、もう一回物置に仕舞おうと思い、アリスは権兵衛人形に刺繍を始めようとした。

人形の肌は樹脂なので、仕方なしに服裏に刺繍をする事になる。

アリスは権兵衛人形を椅子にでも座らせて作業をしようかと思ったが、そこまでする必要もないか、と床に寝かせ、その上に跨って作業する事にした。

 

 無言で権兵衛人形の着物の帯を解いていく。

権兵衛人形の樹脂の肌が顕になり、上半身が見えてくる。

流石に頬を赤く染めながら、アリスはこほんと咳払いをし、服裏に刺繍を始めた。

勿論、脱がせた服を持って椅子に腰掛けやる物なのだが、その時アリスは、何故かこの体勢のまますべきだ、と思って、権兵衛人形に跨ったまま作業を続ける。

 

 作業を続けるうちに、なんどか権兵衛人形に触れる事があり、その度にアリスは思わず顔を赤くした。

まるで急に権兵衛人形に意思が宿ったかのように、その肌が暖かく感じられたのだ。

勿論もう一度触ってみれば、常温の樹脂のままであるのだが、何となくそう感じる事は一度や二度では無かった。

どうしたのだろう、と思いつつ、アリスは権兵衛人形の体に触れて確かめてみる。

勿論権兵衛とは似てもつかない感触だが、確かめなければいけないから、と言い訳しつつ、権兵衛人形の上半身の様々な所にアリスは触れた。

 

 そうこうしているうちに、権兵衛人形の顔以外の部分は確認し終えてしまう。

それからアリスは権兵衛の頬やら目やらに触れてみたが、何となく権兵衛のような感じはするものの、同一ではない、と判断を下した。

しかし徐々にそれが同一のものに近づいているのに、アリスは戸惑いを覚える。

最後に残ったのは、権兵衛人形の唇である。

結局アリスが触れていない為、感触を確かめようが無い部分。

しかしアリスは、それでも確かめるだけ確かめてみよう、と、唇に触れようとし、辞めた。

代わりに吸い寄せられるようにアリスの顔が権兵衛人形に近づき、やがて唇が唇に触れる。

 

「……権兵衛、さん?」

 

 その感触に、思わずアリスはそう漏らした。

まるで権兵衛のような暖かな感覚。

何時しかとは真逆の結果が出たのに、戸惑いを覚え、もう一度確かめてみよう、とアリスは再び権兵衛人形にキスを落とした。

暖かで甘酸っぱく、心の奥がとろけそうな味。

何度も想像した通りの権兵衛の唇の味に、アリスは思わず涙をこぼした。

権兵衛そのものは、強者達の取り合いになっており、アリスにはおこぼれをもらうことしかできない。

しかしこの権兵衛人形相手であれば独占できるのだ。

そう思うとアリスは自分を止められなくて、後で後悔すると分かっていながら、何度も権兵衛人形にキスを落とす。

刹那的であると自覚していながら、アリスは幸せだった。

これ以上ないほどに、幸せだった。

 

 

 

 ***

 

 

 

 畳の上に正座し、三柱の神々は、なんとも言えない顔でその場に座っていた。

神奈子、諏訪子、そして早苗の三人である。

紫の隙間に封印されていた三人は、権兵衛が博麗神社に結界で囚われると同時に解放。

他の人妖の面々と協力して結界を打ち破ろうとしたができず、結局時間切れを待って一旦守矢神社に戻る事にしたのだ。

 

 道中、三人は無言だった。

何せ三人ともが互いに最悪の裏切りを働いてしまい、権兵衛を狙う女性が他にもおり潰しあうのは得策ではないと理解している今でさえ、三人は心の底では憎み合っている。

神奈子は自分の権兵衛への思いが醜い物だと暴露されたが故に。

諏訪子は自分の権兵衛への思いが勘違いだとされたが故に。

早苗は二人が自分を裏切り、自分が信ずるのは権兵衛以外に居なくなってしまったが故に。

それでも三人は、徒党を組まねば他の勢力に負けてしまうと分かっていた。

そしてその相手は長年の付き添いであるこの三人以外には居ないだろうと言う事も。

 

「……仲直り、しよっか」

 

 諏訪子が口火を切った。

その言葉に、耐え難い怒りを感じつつも、神奈子も早苗も、軽く頷く。

一度壊れてしまった人間関係は、容易には修復できない。

これは仲直りしたと形式だけでもしておき、なるべく連携して動く為の冷たい論理の言葉であった。

 

 三人は自然、互いに肩を組み頭を近づける。

吐く息が感じられる程近くになり、冬だというのに互いに少し汗をかくぐらいになった。

まるで他の二人の息が毒息であるかのように顔をしかめえる三人だったが、口に出さない程度の冷静さは残っている。

代わりに互いに小さく溜息をつき、その息が吹きかかるのにより顔をしかめるばかりだ。

 

 その時、三人の頬に隣の女性の汗が張り付く。

汗がゆっくりと流れて行き、唇へと行きつき、その塩味を感じさせた。

と同時、三人は目を瞬いた。

天上の甘露のような味わいに、権兵衛の汗の匂いを思い出す。

 

 そう、権兵衛。

あの男は最悪の能力を持ってしまい、しかもそれを解消する事は神である三人には難しい。

しかしそれでも三人は形は違えどあの男を愛していた。

故にそれを感じさせる互いの汗を求め、三人はそれぞれの頬に、示し合わせたように同時に舌を伸ばした。

 

 神奈子は諏訪子に。

諏訪子は早苗に。

早苗は神奈子に。

三人の頭は紐の代わりに舌を使った、数珠つなぎのようになる。

三人は会えばそれだけで権兵衛を苦しめてしまうと知っていた。

それ故に会わずにこうやって権兵衛を感じられる事は、何よりの至福である。

今三人は、それ以上無いほどに幸せだった。

 

 

 

 ***

 

 

 

 人里では、全ての里人が目から光を無くし愕然としていた。

その中心で、一人だけ献身的に里人を集めながら、その世話を続ける女性がいる。

里人はその女性だけに反応し、他の里人の行動はまるで眼に見えていないかのように行動していた。

女性とは、上白沢慧音である。

嬉しそうに里人の世話をする慧音は、今最高に幸せだった。

 

 慧音は、権兵衛を手に入れられないであろう未来や、大切な里人が虐殺かそれ以上に不幸な目に遭う未来を思い、絶望していた。

権兵衛の代わりに天秤にかけるものを持っていたのは慧音だけだったし、里人の不幸は幻想郷の有力者の会議で決定していたからだ。

更に決定打として、霊夢が権兵衛を結界に囚えた。

そうなれば慧音は最早里人を救う事で、権兵衛の代わりにするしかない。

そう思って里に戻ってきたのだが、里には最早慧音の居場所は無かった。

権兵衛に騙され洗脳されている事になっていた慧音は、里人によって権兵衛の呪いが消えるまで牢屋に閉じ込めよう、と言う事になっていたのである。

流石にそれは適わぬ、と逃げた慧音であったが、その時突然、慧音に天啓が下ったのであった。

 

 権兵衛はその歴史を喰えば、慧音に依存せざるを得ない状況になった。

なら、里人全てにそれを行使してみたら、どうなのだろうか。

思いつくと同時、慧音の体は自然に目前の里人の、他者との関わりの記憶全てを食っていた。

結果、里人は慧音の手が無ければ何もする事ができない、赤子のような存在に変わっていた。

里中の人間をこの里人のようにしてしまえば、里人は慧音を頼らざるを得ないのではないか。

そう思った慧音は、里人全てから他者との関わりの記憶を、事務的な物を残し奪った。

一応妖怪に対する感情は無ければ幻想郷が成り立たなくなるので、同じ人間同士の営みだけである。

 

 結果は出た。

全ての里人は、慧音に心の底から依存した。

最早慧音がいなければ、何もできない里人たちに、慧音は独占欲を刺激され、心から微笑んだ。

慧音は里の女王となったのだ。

しかも誰一人傷つけあう事もなく、全員を平等に愛する事ができる楽園の、である。

 

 冬であるから皆食料は貯めてあるので当分は問題無いし、その間に全員を一人だけで農耕ができるようにするのも可能だろう。

そして妖怪の記憶を消していないが故に、人間が妖怪を恐れる事により、その感情を食べて生きる妖怪達の食糧事情も心配あるまい。

最早何の心配もなく、里は慧音を中心に回っていた。

しかも、である。

しかも里人は、皆何処か権兵衛に似た面影を見せるようになっていた。

愛しい人の面影を残す人々の世話をするのは、なんて幸せなのだろうか。

これ以上ないほどの幸せに包まれ、慧音は満面の笑みを浮かべながら会話に飢えた里人の世話を続ける。

 

 

 

 ***

 

 

 

 命蓮寺の面々は、博麗神社の結界が破れないと分かると、連れ立って寺に戻っていった。

とは言え、その様子は仲良しだった頃とは程遠い。

聖、星、ムラサにナズーリンにぬえ、そして何も分かっていない一輪と雲山。

それら四組に別れ、道中互いに会話のないままであった。

寺にたどり着くと、一言もないままに全員が顔をあわせた。

 

 全員を何かを超越したような超然とした笑みで見る聖。

罪悪感に憔悴した星。

憎悪に煮えたぎった顔しているムラサにナズーリンとぬえ。

話を聞かされないままついてきた、何も分かっていない一輪と雲山。

全員が全員、なんとも言えない表情のまま、再び殺し合いが始まろうとした、その瞬間である。

はっ、とムラサの頭に、電撃が走った。

他の全員を無視して寺の内部に突っ込んでいき、それを疑問に思った面々もまた、顔を見合わせる。

 

「……一体何なんでしょうか、姐さん」

「行ってみましょう」

 

 と言う事で、全員牽制をし合いながらムラサの後を追い、中庭に出る。

中庭には池があり、そしてその上に光り輝くムラサの舟があった。

なんだ、これを心配していたのか、と肩を下ろしそうになると同時、一輪と雲山を除く全員がはっと顔を上げ気づく。

ムラサの舟は、権兵衛が創りだした物。

この命蓮寺で最も色濃く権兵衛が残る物なのだ。

抱きつくようにして自身の舟に飛びつくムラサに続き、聖も星もナズーリンもぬえも、みんながムラサの舟に飛びつく。

 

「や、やめてよ、この舟が沈んじゃうっ!」

 

 絶叫するムラサと、それでも舟を離さない面々を、一輪と雲山は呆然を見つめていた。

その間にも舟の中に水が入ってきて、ムラサと権兵衛の思い出の場所が、ゆっくりと沈んでいく。

それでも誰一人舟を離さないまま水に沈んでいく。

次第に舟の全域が沈みきり、各々の服が水流に揺れる水中で、全員は思わず目を見開いた。

なんだろうか、この感覚は。

そこら中から権兵衛の気配がして、まるで皆は権兵衛の腹の中に居るようだった。

自然、先程まで憎悪に歪んでいた者達の顔も、安らかな顔になってゆく。

舟に掴まった全員が全員とも、幸せそうな表情で水没していった。

これ以上ないほどの幸せを感じながら、水没していった。

 

 

 

 ***

 

 

 

 腹に穴が空いたさとりとこいしの古明地姉妹は、地霊殿で隣り合った寝台で寝ていた。

それを憎しみに満ちた顔のお燐と、一切の表情を無くしたお空が世話している。

世話をしている二人の方もまだまだ怪我が癒えておらず、ベッドで寝ていた方がいいぐらいである。

四人はあれからまだ地上に出る事がないまま、権兵衛が博麗神社に囚われた事を知らないままであった。

 

「…………………」

「…………………」

「…………………」

「…………………」

 

 無言で世話をし、される四人。

さとりは呆然としていた。

こいしがさとりの心を読んだ心をさとりが読む事により、さとりは自身の心を読む事に成功していたのだ。

さとりは、権兵衛に依存していた。

自分がさとり妖怪として誰にも頼らずに生きてきた筈なのに、その矜持はいつの間にか折れていた。

しかも自分は権兵衛に依存していると言うのに、こいしには権兵衛への依存を快く思わなくって。

結果がこれである。

さとりはこいしに謝らねば、と思い、口を開く。

 

「ごめんね……こいし」

「ううん……お姉ちゃん」

 

 自然二人は手を伸ばしあい、ぎゅ、と握った。

こいしもまた、さとりの心の変遷を見て、一瞬で見とったさとりの心の表層だけでなく、内面まで理解できていたのだ。

あの瞬間こいしが激高した事は謝る気になれないが、今から歩み寄ると言うのならば、こいしにとっても是非は無い。

そうやって仲直りする姉妹を、しかしその為に消耗品として使われたペット二人は、複雑な心持ちで見ていた。

そんな空気を打破するように、さとりがふと口を開く。

 

「そういえば、お燐、権兵衛さんを地霊殿に連れてきた時の権兵衛さんの荷物、まだ取っておいてあるかしら?」

「は、はいっ、でも何に?」

「せめて、ここに居る四人でそれを分けようと思ってね。

何があったか忘れてしまったけれど、分けれるような物ならいいわね」

 

 さとりの言う通りにお燐が出ていき、暫くすると両手に小さな布袋を持ってくる。

それを机の上にばらまくと、中には魔法で小さくした紙と筆や巻物など、流石は魔法使いの端くれと言うだけあって書物が多い。

その中で異彩を放つのは、数粒だけの向日葵の種だった。

権兵衛が幽香に持たされた、非常食であり、またお守り替わりでもある物だ。

と言っても、ここの四人にはそんな事までは分からず、必然的に話は向日葵の種に移る。

 

「これ、一体何なのかしら。向日葵の種にしか見えないけど」

「そっか。どうしよう、植えてみる? お姉ちゃん」

 

 ふと、四人の目が合った。

それから視線が、丁度よい感じに空いたさとりとこいしの腹の穴に行く。

まるであしらわれたかのようにぴったりのサイズだった。

それ故にか何故にか、ペットの二人は無言でさとりとこいしの腹の中に向日葵の種を植える。

そしてコップ一杯程の水をさとりとこいしが飲むと、早回しをしたかのように向日葵が急成長。

すぐさま花を咲かせ、大きな葉をぶるりと震わせる。

 

「まぁ、素敵」

「素敵ね、お姉ちゃん」

 

 さとりとこいしが言った。

その顔は悦楽に満ちている。

 

「凄いなぁ、流石権兵衛さんの種」

「権兵衛の種かぁ」

 

 お燐とお空が言い、その言葉に思わず四人は顔を見合わせた。

ならばこの向日葵は、権兵衛の子供のような物かもしれない。

まるで赤子を扱うかのように、優しく古明地姉妹は自分から生えた向日葵を撫でた。

どうやらそれが嬉しかったらしく、向日葵がダンスを始める。

葉を上げ下げしつつ人間で言う腰のあたりを振りまくり、過激に向日葵は踊った。

 

「格好良いね、お姉ちゃん」

「えぇ、お燐、ちょっと灯りを用意してもらえる? この前外の世界の物だって言ってもらったあれ」

「はい」

 

 言ってお燐が持ってきたのは、外の世界の照明とミラーボールだった。

部屋中に小さな光が散乱し、向日葵の影が大きく写る。

ゆっさゆっさとダンスを続ける向日葵を、四人は恍惚とした表情で見つめていた。

お空でさえも幸せそうな表情で見つめていた。

普通、向日葵は踊ったりはしない。

ならばこれは月の力を持つ権兵衛の近くにずっとあったからかもしれず、それならばこれは権兵衛と古明地姉妹との子供とも言えるのではあるまいか。

そんな思いに酔いしれながら、四人はこれ以上ないほどの幸せを感じながら向日葵のダンスを見つめていた。

 

 

 

 ***

 

 

 

 霧雨魔理沙は、幻想郷が狂っていくのを、小さな小屋の中で眺めていた。

魔法の森ではキノコや花々でさえ狂い、妖精もへんてこな踊りをしていたり、自傷を続けたりしている。

その様子に身震いし、思わず魔理沙は何時しかの博麗神社での会議を思い出す。

もし自分があの会議に出ておらず、この異変を感じ取れなかったら、自分もあんな感じになっていたのだろうか。

そう考えるとうすら寒い物があり、魔理沙は背中に生まれた凍土に身震いする。

 

「……止めだ止め、辛気臭い事を考えるのは止めにしよう」

 

 言って魔理沙は窓から目を離し、部屋の中に戻っていく。

もっと明るい事を考えよう、と思って、魔理沙はそういえば、と思いだした。

 

「あの時助けたあの外来人、元気かなぁ」

 

 今年の始め、魔理沙は魔法の森で見つけた外来人と思わしき人間を、里に連れていった事がある。

気絶したままだったので、その名前すらも聞くことは無かったが、元気だろうか。

と言っても、幻想郷は今こんな事態である、元気で居る可能性は少ないか。

顎に手をやりながら思い出していると、不意に唇に指が触れる。

思わず舌を突き出し、魔理沙は自分の指を舐めてしまった。

それが思いの外美味しく、魔理沙は思い切って甘噛みしてみる事にする。

一瞬家の外の幻想郷の発狂を思い出し、躊躇するが、自分はこの異変に関わっていないのである、と言う思いが魔理沙に躊躇を捨てさせた。

ごくり、と生唾を嚥下しつつ、徐々に魔理沙の顎に力が込められていく。

指に歯形がつき、次第に血が通らず紫色になり始め、そしてついには僅かながら皮膚が裂け始め、そして——。

そんな風に自分の指を傷つけながらも、魔理沙は幸せだった。

だって自分だけは、この異変から逃れられた。

これはちょっと誇っていいぐらいの事なんじゃあないかと思いつつ、久しく霊夢を出しぬいたような気分になり、魔理沙はこれ以上ないほどの幸せを感じながら指を噛み続ける。

 

 

 

 ***

 

 

 

 未だ結界の解けない博麗神社の中央。

広間に横になって、霊夢は幸せそうに自身を抱きしめていた。

霊夢は一度は紫に怨嗟の声を上げたものだったが、今では満足すらしている。

そう、霊夢の勘は、紫による誘拐を予告していなかった。

逆説的に言えば、紫による誘拐は、霊夢に幸せをもたらす物だったのである。

霊夢は、その鋭い勘で、権兵衛が幻想郷との隙間を無くした事を、直感的に理解していた。

 

 霊夢が権兵衛を好きになったのは、理屈で言えば当然の成り行きだったのだろう。

何せ霊夢が生まれて初めて、空を飛ぶ程度の能力を無効化され、他者の心の地平に足を下ろしたのである。

霊夢にとって、権兵衛が特別なのは当たり前であった。

あとはそれが正か負のどちらの方向に振れるかだったが、全てを受け入れる懐の深さを持つ権兵衛に得る感情は、正しかなかった。

それ故に霊夢は権兵衛に一目惚れした、と言う理屈である。

が、霊夢はそれすらもただの机上の理屈、自分はあの権兵衛のあまりの魅力にやられてしまっただけなのだと思っている。

それが真実なのかは定かではないが、兎に角霊夢は権兵衛の事が好きであった。

 

「くふ、ふふふ……」

 

 思わず込み上げてくる笑いを抑えきれず、霊夢は笑った。

と同時、霊夢は自身の腹を撫でる。

服の上からは分からないぐらい少しだけれども、霊夢の腹は少しだけ膨れていた。

手で腹を撫でると、中で身動ぎするような感覚が霊夢に返ってくる。

博麗霊夢は、想像妊娠をしていた。

 

 例えあのまま権兵衛と夫婦になっていたとしても、魂同士の結びつきはあっても、子だけは孕めないだろう。

まず、その時間がない。

そして魂になった後であれば、新たな生命を宿すには生きた状態にならなければならず、生きていれば霊夢は権兵衛と引き離されてしまうだろうからだ。

対し、今のように幻想郷に権兵衛が溶け込んだ今ならば、こうやって権兵衛の子を孕む事が可能である。

勿論想像上の生き物である、生むことができるかどうかは分からないが、こうやって腹の中に居る事を楽しむことはできる。

 

「権兵衛さん……」

 

 霊夢は、腹の中の想像上の子に語りかけた。

権兵衛は純粋な人間ではなく、幻想の肉を持った“身元不明者”である。

であれば、もしかしたら性交をせずとも、こうやって孕んだ子供を生む事ができるかもしれない。

もしもそうだったら、どんな名前をつけようかな、と霊夢は思う。

権兵衛と再び名付けるのもいいだろう。

二人の名前からそれぞれ文字を取った子にしてもいいかもしれない。

何にせよ、霊夢は兎に角幸せだった。

これ以上ないほどの幸せに包まれ、霊夢は自身の空想の子の事を考えていた。

 

 

 

 ***

 

 

 

 権兵衛=幻想郷は、あの月の光のように、狂ってしまった。

事実幻想郷の面々は狂った様相を呈しており、それは何時までも続くだろう。

けれどいずれ幻想郷の面々は、権兵衛が自分たちの嗜好にあった場所だけでなく、この幻想郷全てにある事に気づけるかもしれない。

この幻想郷全てが権兵衛なのだと気づけるかもしれない。

そうなれば、今のように一つ一つの物に拘泥する状況は無くなり、権兵衛が幻想入りする以前より少しだけ幻想郷を狂的に愛するだけに戻るかも知れない。

全ては可能性の話である。

しかし最早それは、絶対に無いとは言い切れないのだ。

何故ならもう権兵衛=幻想郷には、“みんなを不幸にする程度の能力”は無いのだから。

 

 そんな幻想郷の住人に、一切の不平不満は無かった。

不幸だって勿論なかったし、不安なんて欠片も無かったのだった。

よって皆は自分だけの権兵衛を手に入れ、愛する事ができる。

 

 だからこれで、みんなしあわせ。

 

 幻想郷は少し狂的になったまま、今日も平和に時を刻んでいった。

 

 

 

 

 

 完

 

 

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