ルナティック幻想入り   作:アルパカ度数38%

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07-閑話1

 

 

 上白沢慧音は、憂鬱だった。

慧音には毎月満月の夜には権兵衛と密かな飲み会をすると言う行事があったのだが、今回それはできなかったのだ。

と言うのも、理由は二週間ほど前に遡る。

その日、権兵衛は街に買出しに来ていた。

簡単な位置を把握する術を権兵衛にかけているので、それを把握していた慧音は、何時も通り“偶然”出会おうと思いつつも、急な来客に対応せざるを得ず、動くことがならなかった。

こうなると、常のように権兵衛をつけ回ってその会話の歴史を必要最小限まで喰う事は、出来ない。

とりあえず監視系の術を使って権兵衛を監視しておいたのだが、権兵衛は米屋の理不尽な値上げに、流石に食っていけないと代金の差し出しを拒否した所、盗人と叫ばれ、それを冥界の庭師に聞かれた。

不味い、と思う間もなく、権兵衛は慧音がかけていた術ごと、妖夢に斬られた。

急いで来客を片付け、偶然を装い現場に向かうと、どうやら誤解は解け、近くに居た薬師の弟子に治療され、白玉楼へ連れ去られたのだと言う。

反射的に追って権兵衛を取り返しに行こうと思った慧音であるが、相手は慧音よりも強大な力の持ち主である、下手な手は打てない。

しかも慧音の歴史を食べる程度の能力は、当然権兵衛と会話した相手の力が強ければその相手にもバレてしまう可能性がある為、権兵衛と白玉楼の面々との会話の歴史を食べる事もできない。

何せ、相手は慧音如き朝飯前に殺せる亡霊姫なのだ、慧音には、どうか権兵衛が白玉楼の面々と親密にならないよう願う他無かった。

と言っても、慧音は権兵衛の会話の歴史を食べる事に対し、罪悪感を抱いていた。

故に慧音は、権兵衛に自分だけを見ていて欲しい、他の人間との会話など無かった事にしてしまいたい、と思いつつも、反面、こうやって権兵衛に慧音が邪魔できない知古ができると言うのは、望ましい事なのかもしれない、と思った。

と言うのも、そうすれば権兵衛を独占したいと言う気持ちに諦めがつき、今度こそ満月の夜の飲み会で謝罪の歴史を喰わずに我慢でき、権兵衛に裁いてもらえるかもしれないからだ。

 

 しかし、数日後、そろそろ権兵衛の傷も治ったかと言う頃、兎を伝って慧音の元に手紙が来た。

永遠亭の薬師からの物である。

はて、どういった事か、と首を傾げつつ中身を改めると、そこには驚愕の事実があった。

本意からではないと思われるが、妖夢がもう一度権兵衛を斬った事。

その怪我で、今度は永遠亭に運び込まれた事。

——そしてなにより、権兵衛が輝夜に気に入られ、永遠亭で飼われるようになったと言う事。

 

 ふざけるな、と、思わず慧音は叫んでしまった。

権兵衛は、他の誰のものでもない、私の、私の物なんだ!

それを、よりによって、ペットのように飼うだと!?

許せるものか、必ず取り戻してやる!

怒りのあまり歯ぎしりをし、目には血管を浮かせ、唾を吐き散らしながら叫んだ慧音であるが。

その後、一人では難しいと妹紅の力を借りに行く準備をする次第になって、ふと、思ってしまった。

自分が権兵衛にしている所業と輝夜が権兵衛にしている所業、果たしてどちらのほうが酷いのか。

里人と権兵衛、結局どちらの手も取れず中途半端にしか助けれないと言うのに、自分以外との会話を奪う慧音。

飼うとは言うが、月兎の扱いを見るに、普通の小間使いとして使われる程度であろう輝夜。

——当然、己の方が酷い所業である。

そう思うと、あれ程慧音の中を暴れまわった怒りも、萎んでしまった。

ありとあらゆる気力が萎え、最後にはただ、憂鬱さだけが残る。

だって、私なんかと一緒に居るよりも、このほうが権兵衛は幸せなんだ。

だから、仕方ない、仕方ないんだ——。

そう思って、慧音は権兵衛の奪取を諦める次第となった。

ただ、せめて、一度でいい。

満月の夜、もう一度だけあの二人だけの飲み会をして、今度こそは己の罪を隠さず告白して、その罪を裁いてもらいたい。

それだけ思って、慧音は権兵衛と出会うのをだけ心待ちにしながら、満月までただただ待っていた。

最後の最後、満月の夜に来てくれるかもしれない、と思い、満月の夜は寝ずにずっと権兵衛の事を待っていたのだけれども。

結局、権兵衛とは会えなかった。

 

 心配だった。

もしや傷が酷くて、まだ自由に動き回れる程では無いのだろうか。

もしや永遠亭での扱いが酷くて、外出を許されないような扱いをされているのではないだろうか。

もしや輝夜が既に権兵衛に飽きてしまい、迷いの竹林に権兵衛を放り出してしまったのではないだろうか。

そう思うと居ても立っても居られず、何かしようと思うのだが、思いつかない。

自分のような浅ましい女が権兵衛に会いに行って良いのだろうか?

例え行って良くっても、行って一体何をするのだろうか?

傷が酷いと言うなら慧音にできる事は無いし、永遠亭の扱いに慧音が一体どうやって口をだすのだ。

これがたまたま迷い込んだ里人であったならば兎も角、権兵衛は外来人であり、里から離れて済むはぐれ人間である。

そんなに大切なら何故無理にでも囲っておかなかった、と言われれば、慧音は何も言えなくなってしまう。

そして当然、力尽くでは叶う筈も無く。

唯一意味があるとすれば、権兵衛が既に放逐され竹林を迷っていて、しかもまだ妖怪に襲われておらず、飢えてもおらず、更に偶然慧音が助ける事ができると言う、奇跡に等しい場合に限るのだ。

怖かった。

何よりも自分の無力さを痛感するのが怖くて、慧音は権兵衛を心配しながらも、何一つ実行する事はできなかった。

 

 せめてもの慰めとして、慧音は、権兵衛の家の管理を行っていた。

何故だかほったて小屋の割りには厳かな雰囲気のする場所で、野生動物が近寄らず、妖精なども祝福には来ても悪戯はしにこない場所なので、する事と言えば掃除ぐらいなのだが。

とりあえず、と丁度手持ち無沙汰になった所であった慧音は、今日も権兵衛の家の掃除に行くか、と、戸締りをして家を出た。

満月の前は少し忙しかったので、数日ぶりとなる掃除である。

少し気合を入れながら歩いていると、ふと、慧音に声がかかった。

 

「や、慧音じゃないか。久しぶり」

「む、妹紅か。——行儀が悪いな」

「うっ」

 

 妹紅は団子を咥えて歩いており、見るに暇つぶしに里を食べ歩きしていた所だろう。

その行儀の悪さに慧音の眉が角度を大きくするのを見て、妹紅は慌てて団子を食べつくす。

ほら、もう何も無いだろ、と言わんばかりの妹紅に、慧音はため息をつき肩を落とす。

 

「はぁ。まぁ、今日は説教は無しにしといてやる。が、これからは気をつけるんだぞ」

「あ、ああ。悪かったよ。——って、どうしたの? 説教無しって。何か用事でもあるのかい?」

 

 何でもない——!

反射的にそう叫びそうになる自分を、慧音はどうにか抑える事に成功した。

胸にうごめく黒い感情を押しとどめ、一気に激しくなった動悸を抑える。

そう、慧音は権兵衛の家を掃除しにいこうと言うだけである、何処に隠す事があろうか。

無い、無い筈、だ、と内心呟きながら、慧音は口を開く。

 

「その、何度か話したが、権兵衛と言う外来人の事は覚えているか? 彼がちょっと怪我をして永遠亭に行っている間家を空けているから、掃除しにいってやろうと」

「へぇ。じゃあ暇だし、手伝いに行ってもいいかしら」

 

 やめろ——!

反射的に叫びそうになるのを、辛うじて慧音は抑えた。

と同時、自分の独占欲が己を叫ばせようとした事に気づき、慧音は血が滲まんばかりの力で歯を噛み締める。

惨めであった。

なまじ里の守護者などと高潔そうに呼ばれているからこそ、こうやって自らの醜さを感じると、それが一層醜く見える。

矢張り、こんなに醜い自分が権兵衛の元に顔を出すなど、害悪にしかなるまい。

後一度、権兵衛に裁いてもらうだけにして、二度と顔を見せないようにすべきだろう。

そう胸に決意しつつ、その悲痛さを押し殺す。

 

「そう、だな。狭い家だから人手が必要って訳でもなくて、手持ち無沙汰かもしれないが、それで良ければ」

「慧音にゃ恩がたっぷりあるからね。返せる時に、返しておかなくっちゃ」

 

 じゃあ、頼む。

慧音は笑顔でそう言ったつもりだったが、きちんと表情筋の笑顔を作れていたか、やっぱりやめてくれと口は動かなかったか、あまり自信は無かった。

 

 

 

      ***

 

 

 

 厚い雲が空を覆い、陽光を遮っている。

権兵衛の家は、里の中央近くに位置する慧音の家からは少々遠い。

自然妹紅と二人歩く間言葉が口に上り、話題は権兵衛の事となっていた。

 

「で、その権兵衛だけど、なんだって急に、慧音が引き取るなんて言い出したんだい?

あたしは後から聞いた話しか知らないけどさ、権兵衛って奴、別に食っていくのに困る程の扱いになるってんじゃあ無かったんだろ?」

「そりゃあ……そう、だが」

 

 思わず口を噤む慧音。

勿論引き取った事が結果的に良かった事は疑いようのない事実だが、しかし里の有力者である自分があまり強引に里の総意を無視し、無能な外来人を優遇すると言うのは、あまり褒められた手段では無かったのも確かだった。

さて、どういう経緯だったか、と回想にふける慧音。

 

「自分でも、よく分からないんだ。ただ、どうしても放って置けなかったのかな」

「ふぅん」

「里の会議は数日あったんだが、その幾日目だったかな、丁度私は初めて権兵衛当人と出会ってな」

 

 今でも目を瞑れば、すぐに思い出せる。

恐怖に心が固まり、今にも泣き出しそうな顔のまま、この世の不幸を全て背負って生きているような顔をした、あの幼い顔。

だが、怯えながらも同時、彼は何処か、判決がどのような物でもあろうと最終的には受けようと言う、粛々とした静謐な部分があったように思えたのだ。

里の議論が、要するに、自分は金を負担したくは無いが、かと言って人を見殺しにする悪人になりたくない、と言う言葉ばかり交わされている中、そんな権兵衛の様子は、何処か神聖なような物にすら思えて。

気づけば、慧音は権兵衛を引き取ると、会議で発言していた。

 

「結局、同情だったんだろう。それに、私は自分で思っていた以上に潔癖だったから、なのかもな」

「そう、かな。何か違うようにも聞こえるんだけど」

「——そう、か? 妹紅がそう言うなら、そうなのかもな。私自身、よく分かっていない事だし」

 

 呟き、慧音は目を細める。

初めて権兵衛を見たあの瞬間、思ったのはこの少年を抱きしめてやりたい、と言う思いだった。

慧音は単純に、それを実現させたくて、権兵衛を引き取ると言い出したのかもしれない。

何せそう言った事で、感極まった権兵衛を、慧音は抱きしめる事ができたのだから。

とすれば。

なんと浅ましい事か、と、慧音は自分が情けなくなる。

真摯な悲壮感を抱いていた権兵衛に対し、ただの欲望に身を任せていた自分が、あまりにも恥ずかしくて。

そんな風に自虐の念に慧音が囚われていると、少し言い難そうに、妹紅。

 

「その、慧音はそう言うけどさ。里の評判は、なんかあんまよく無いみたいでさ、慧音を騙しているとか——」

「当然、本人は善人だ。これ以上無いと言ってもいいぐらいの、な」

 

 権兵衛の人の良さと言ったらいくらでも語れる物であり、それどころか度が過ぎていて見ていないと安心できない所があるぐらいであるので、胸をはって慧音は言い切る。

恐らく妹紅は噂の通り、慧音が悪い男に騙されていないか心配なのだろう。

なので権兵衛の人の良さが分かるよう、思い出の中から幾つか逸話を紹介してみせる。

最初、寺子屋のテキスト作りを、とりあえずどれぐらいできる物かと一日時間をやってやらせてみれば、不眠不休で仕上げてきて、ぶっ倒れてしまった事。

目覚めてみれば最初はこんな無様を晒してしまったけど、どうか許して欲しいと言う言で、その小動物系な目に、思わず怒るにも怒れなかった事。

体力が年にしては低めで、井戸水を汲んでくるのにも時間がかかるのだが、それにしても遅いと思ったら、近所のお年寄りを見ていられず手伝っていたようだった事。

寺子屋の子供との遊びでは悪人役にされがちで、子供たちが殴る蹴るするのを痛そうにしながらも笑って受け、時折飛び蹴りなんかの危険な技を使う子供を、身を呈して庇ったりしていた事。

まだまだ権兵衛の思い出は底なしにあるのだが、その辺で妹紅の理解を得られたようであるので、最後にこういって、慧音は締めくくる。

 

「とまぁ、こんな奴でな。悪人どころか、あいつが悪人に騙されないかどうか、こっちが冷や冷やするぐらいだったよ」

「まぁ、権兵衛がどんな奴なのかも、大体分かったよ」

 

 ついでに慧音がどう思ってるのかもね、と、苦笑気味に妹紅。

慧音はそんな妹紅に、はて、と首を傾げる。

慧音は確かに、権兵衛の事を大切な人間だと思っている。

それどころか権兵衛が他人と喋っているのが我慢ならないぐらいに独占したくて、更にはそれに罪悪感があって、裁かれたくもあると言う、複雑な感情さえあるのだが。

しかし、今の会話からそれが通じる所があるだろうか、と首を傾げる慧音に、再び言い難そうに、妹紅が口を開いた。

 

「でもさ、慧音。権兵衛ってのがそんな善人なら、なんで嫌な噂なんか流れてるんだい?」

「——っ」

 

 思わず、口に詰まる慧音。

痛い所を突かれて押し黙ってしまう慧音に、心配そうに妹紅が言う。

 

「いや、別に、権兵衛が善人だって言うなら、それはそれでいいんだ。ただ、噂みたいに慧音が騙されていやしないかと思うと、心配で——」

「私の——」

 

 そんな妹紅の言を遮って、慧音は足を止め、口を開いた。

自然、口の中を噛み締め、瞼は閉じ、中の瞳は太陽があるのであろう中空へと向けられる。

映しだされるのは、暗黒の中、幾何学的な残光の模様だけ。

懺悔する心積もりで、慧音は言った。

 

「私の、所為なんだ」

 

 言って、瞼を開いて視線を妹紅にやると、彼女はぴくん、と眉をひそめていた。

慧音の権兵衛への好意を知ったから、納得が行かないのだろう。

しかし、これは覆し様のない事実なのである。

 

「私は、あまりに権兵衛を優遇し過ぎた。

里の会議では権兵衛の事を無能者の押し付け合いみたいに扱っていたと言うのに、私は強引に権兵衛を引きとって。

仕事の方も、権兵衛がまだ慣れていないだろうって、簡単な仕事だったり、私が手直しできる範囲の仕事だけ任せて、土仕事なんかに触らせなくって。

結局私は、権兵衛に対し、里人の嫉妬を掻き立ててしまったんだ」

 

 他にも方法はあっただろう。

例えば権兵衛には霊力があったのだし、それを指導して、里に有益な力を持っているとしてやるのが、一番簡単だっただろうか。

だが慧音は、それを行えなかった。

下手に力を持って権兵衛が怪我をするのが怖かったのだろうか。

それとも、おぞましい事に、権兵衛に自分を頼って欲しくて、権兵衛が自立できる力を持つのを恐れていたのだろうか。

兎も角、慧音は権兵衛をあまりにも優遇し、里人の嫉妬を煽り続けていた。

その結果が、どうなるとも知らずに。

 

「それじゃあ、権兵衛が慧音の所を出て行ったのって——」

「ああ。里の、総意による物だ」

 

 今度は、妹紅の歩みが止まった。

釣られて慧音が足を止めると、困惑した表情の妹紅が眼に入る。

 

「で、でも、それなら慧音が止めようとすれば、止められたんじゃあ——」

「かもしれない、な」

「かもしれないって、お前、権兵衛の事が大切だったんじゃあないのかっ!?」

 

 そう、妹紅の言う通り、慧音は我侭を通そうと思えば、外来人の一人ぐらい囲う事はできただろう。

だがしかし、それでは意味が無いのだ。

だって。

 

「でも、私は——里のみんなも、大切だったんだ」

 

 その言語に、いきり立っていた妹紅の肩が、下がった。

そう、慧音の権兵衛への思いは、中途半端だった。

いっそ権兵衛をだけ見る事ができれば良かったかもしれないのに、里と権兵衛、両方を手の中に置く事を、慧音は捨てられなかったのだ。

権兵衛には、自分しか見えないよう、会話の歴史を食って独占していたと言うのに。

ならばせめて、権兵衛の歴史を喰うのを辞め、徐々に権兵衛から身を引いてゆくのが筋であると言うのに、それすらもできない。

それならせめて、権兵衛に頼み込むなりなんなりして、一緒に居て欲しいと、土下座でもして頼み込み、里に嫌われようとも権兵衛と一緒に居るべきであるのに、それすらもできない。

だからせめて、慧音は権兵衛に裁かれる事をだけ望んでいるのに、それすらもできていなかった。

 

「それに、権兵衛も、里人に説得されて、慧音さんにこれ以上迷惑はかけられない、って自立したがっていたそうだしな」

「いや、そうだしな——って、慧音はそれでいいのか?」

「仕方ない、さ。だって、私は、権兵衛も里も、どっちも捨てられない、半端者なんだから」

「だからって……慧音は、権兵衛の事が、好きなんだろ!?」

 

 え、と慧音は呟いた。

面を上げて妹紅の方を見ると、若干を息を荒らげた様子で、荒い息遣いの音が聞こえる。

好き。

好き。

私が、権兵衛の事を——好き。

不思議な言葉の響きだった。

たった二文字の言葉だと言うのに、その言語を思い浮かべると、胸の鼓動が大きくなり、頬は紅潮して止まらない。

 

「私は——好き」

 

 口にしてみると、もっと体が熱くなる。

胸が締め付けられるように切なくなり、思わず体を抱きしめたい衝動に駆られ、その通りに慧音は自らを抱きしめる。

すると泣いている権兵衛を抱きしめた、あの日の事が思い起こされる。

自分よりもちょっとだけ小さな背丈。

反して、手を回すと意外に大きく感じる背中。

抱きしめると丁度肩の当たりに権兵衛の顎が乗り、互いの耳に、髪の毛が触れ合う温度。

好き。

好き。

 

「私は、権兵衛が、好き——なのかな?」

「え、と。私には、そう見えたけど——」

 

 面を上げて上目遣いに聞いてみると、困惑気味な表情で、妹紅は言った。

その顔に嘘が無さそうなのを見て、初めて慧音は自分の心を自覚していた。

友人だと思っていた。

庇護すべき相手だと、思っていた。

手のかかる子供に思うような思いなのでは、と、思っていた。

だけれども。

それらを上回る感情が、そこにはあって。

かあぁぁぁ、と、慧音の顔に熱が集まってくる。

 

「私は、権兵衛が好き」

 

 繰り返し、口にする。

すると胸の中にあたたかい物が生まれてくるのを感じ、ほっ、と、その熱量を吐き出そうと深い溜息をつく。

汗が首筋を伝う。

生唾を飲み込み、乾いた口でもう一度言う。

 

「私は、権兵衛の事が、好き——」

 

 権兵衛を抱きしめた時の、腕の感触が蘇る。

肩をつかむ掌の力を強め、ぎう、と更に強く自分を抱きしめた。

 

「そう、だな。うん、そう……かもしれない」

 

 口にする言葉も、もっと自信のある言葉だった筈なのが、切なげな調子になってしまう。

それを心配したのか、妹紅は、優しげな表情で慧音に近寄り、その肩に手を置く。

 

「ああ。だったらさ、諦めちゃ、駄目だろ。里も権兵衛も捨てられなくたって、まだ出来る事は、ある筈じゃないか」

「——ああ」

 

 頷き、己を抱く手を下ろす。

空に視線をやると、曇り空の合間から、陽光の光が漏れでていた。

今まで、権兵衛の事を思うと、あまりにも申し訳なく、更に自分が惨めで浅ましく思える為、権兵衛に裁いてもらう事しか考えられなかった。

しかし今からだって、やる事はいくらでもある。

里人にも、権兵衛を直接嫌っている人物よりも、里の風潮がそうであるから嫌っている、と言う人間の方が多い。

ならば一人ひとり説得して回れば権兵衛と里との間を仲立ちする事もできるかもしれない。

加えて、先に考えた通り、権兵衛に霊力の扱い方でも教えてやれば、術師としても里に貢献させる事ができるかもしれない。

それにはまず、権兵衛を永遠亭から取り返すことが必要だろう。

妹紅を、慧音は正面から見つめる。

 

「そうなったら、妹紅、お前にも力を借りるかもしれないが、構わないか?」

「ま、いいさ。お前には借りがたくさんあるしね」

 

 軽く肩をすくめて答える妹紅に、慧音は破顔する。

今でも、権兵衛を独占したい、と言う思いはある。

今の状況のまま、里に結びつけられるのが自分だけでありたい、と言う思いが何処からか湧いてきて、慧音を支配しようとする。

だが、それもある言葉を思うだけで、吹き飛んでしまい、権兵衛の事をもっと素直に思えるようになるのだ。

好き。

権兵衛が、好き。

まるで、魔法の言葉だな、と、慧音は思った。

心の中で思うだけで勇気が湧いてきて、体が熱くなる。

立ち止まったまま、慧音は晴れ間からのぞく陽光に、視線をやる。

まるでこれからは何もかもが上手くいく、と暗示し祝福するような、暖かな景色であった。

 

 

 

      ***

 

 

 

 そして、暫く歩いて、いつもの通り権兵衛の家の前まで来て。

その光景に、慧音は全身の力が抜けてゆくのを感じた。

思わず膝をつき、ペタンと尻をついてしまう。

口がぽかんと開き、閉める力すら湧いてこない。

 

「これは……酷いな……」

 

 妹紅の声が耳に入るが、まるで意味を成さない。

横をすり抜け歩いてゆく妹紅の後ろ姿が目に入り、それを追って、自然、慧音の視線はその光景を目にする。

——権兵衛の家が、壊れていた。

最早住むことなど出来ない、元の形を少しも残さない形で。

 

「——あ」

 

 意味を成さない言葉が、慧音の口から漏れ出す。

権兵衛と語らった床が、無くなっていた。

権兵衛と一緒に温まった囲炉裏が、無くなっていた。

毎夜気絶した権兵衛に寄り添って寝た布団が、無くなっていた。

一緒に生活していた頃から使っていた箪笥が、無くなっていた。

全て、壊れていた。

それも。

 

「慧音。これ……その、人の手によるものだよ。それも、複数の、普通の人間の」

「——ああ」

 

 言い難そうに言う妹紅の台詞が、慧音の頭の中に入ってくる。

複数の普通の人間。

この周辺に住んでいる複数の人間なんて、限られていて。

それは当然、里の人間たちしか居ない筈で。

先ほど湧いてきた、慧音の根拠のない自信は、粉々に打ち砕かれていた。

何もかもが上手くいくような感覚は既になく、代わりに絶望だけが此処にある。

全身に力がないと言うのに、不思議と声だけは喉の奥から湧いてきて。

 

「——ああぁああああぁぁあっ!!」

 

 叫ぶ。

喉が叫んばかりの声量で。

自分を抱きしめ、掻きむしるようにしながら。

喉から声を絞りきった後には、しかし、重く静謐な沈黙だけが残った。

まるで、慧音の行為全てが無意味であると、あざ笑うかのように。

体の熱量が、目に集まってくる。

それはしばらくの間目尻に集まっていたかと思うと、ぽとり、と地面に落ち、円形の染みをそこに作った。

冷静に考えれば。

慧音には、権兵衛の心配だとか、彼が永遠亭から出る時引きとってやる事とか、考える事はいくらでもあったのに。

最早慧音には、何も考える事も出来なかった。

頭が真っ白になって、先ほどまではあれほどまでに確信を持てた色々な事柄が、何一つ浮かんでこなくて。

ただ一つ。

もう此処で権兵衛に裁いてもらえる事が無くなったのだな、と思うと、慧音はそれが悲しかった。

それをしか、思う余裕は慧音には残っていなかった。

 

 

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