Dye Your Soul Your Color 作:鏡狼 嵐星
それはとても魅力的なこと
ただその場には食べる側と食べられる側が必ず存在する
それはとても、とても怖いこと
見えざる帝国は尸魂界の影の中に存在し、その大きさもまた尸魂界に等しい。
そのため、中にはいくつかの施設が存在し、その中には食事をするためのスペース、食堂のようなものも存在する。現在、その厨房で鍋を振るっているものがいた。
「~♪」
華麗な鍋さばきで具材を炒め、加えられた白いライスがケチャップによってどんどんと赤色に染まっていく。隣のフライパンで溶き卵を広げて焼いていき、わずかに固まったら火から離して、ヘラでオムレツ状にしていく。焼き上がったご飯の上に、オムレツを置き、ナイフで切ると半熟状の中身が広がる。さらに、その上からデミグラスソースをかけるその姿からは熟練さを感じさせた。
「はい、オムライス、お待たせ」
「おう。サンキュー」
バズビーは厨房から皿を手渡ししてきたレヒトに礼を言い、すぐそばにある厨房前の椅子に座った。
「なんだ、トサカヤロー。向こういけよ」
「別にいいじゃねえか。つか、なんだよ、そのサイズ」
ほぼレヒトの真ん前にはリルトットが座っており、彼女の身長をゆうに超える巨大なピザを、切らずに1枚まるごと齧っていた。
「レヒトはたまにしかメシを作らねーからな。食い溜めしてんだよ、邪魔すんな」
「別に邪魔する気はねえよ。場所くらい好きにさせろ」
それ以上口論する気はないのか、リルトットは視線を戻して、ガツガツと食べ続ける。そんな彼女を無視し、バズビーはオムライスをすくい上げ、口に入れる。濃厚なトマトの酸味と牛の旨味、卵の甘み。普段からちゃんとしたものを食べてはいるのだが、レヒトの料理は普段とは違い、その旨味を強烈に感じさせる。材料が良いのか、調理法がいいのか。おそらく後者だろう。
「相変わらずうめえ」
ちらりと周りを見渡す。日常からあまり仲が良いとは言えない
ローストチキンのようなものを片手に何かを叫ぶマスキュリンとそれを褒めるジェイムズ。静かに、黙々と麻婆豆腐を食べる
今、確認したメンバーが陛下の呼び出し以外で一つの場所に集まるなど、基本は考えられないだろう。普段から彼ら全員と仲良くしているのもレヒトくらいのものだ。
「……すげえな」
自分自身はそれができない。最もそうしたい相手にすらもできていない。少し自虐気味になりながらも、オムライスを食べ続けた。
「おい、レヒト。オムライス追加な」
「は~い」
つい先ほどまであったはずの巨大なピザはなくなっており、リルトットが追加のメニューを頼む。レヒトも文句どころか、笑顔を見せながら了承した。よく見れば、ピザが乗っていたであろう皿以外にも何枚か巨大な皿が積み上がっている。まだ食うのかよ、と突っ込みたいバズビーは続きを食べることにした。
「お~、やってるな。俺も頼んでいいか?」
「いらっしゃい、アスキンさん。どうぞ〜」
「じゃあ……って、メニュー多っ! 一人で作ってんだろ!? えっと、ちょっと待ってな。よし、ラタトゥイユとブルギニョンを頼む」
アスキンがバズビーの隣に座り、メニューを見ると、その量の多さにまず突っ込む。厨房に立つのはレヒト一人だが、その手さばきが淀むことはない。よく聞こえるくらい良い返事をしながら、調理場の奥に消えていった。
「しかし、たまにしかない行事とはいえ、人が集まるもんだな。そうだろ、バズビー」
「そうだな」
「おいおい、反応薄いぜ。なかなか見られない光景だし、ここでゆっくりするか」
アスキンは水筒を取り出し、そこからカフェラテをコップへ注ぐ。なんで隣に座るんだよと思いながらも、オムライスを完食したバズビーは皿を持ち上げ、それを片付けようとしようとしたときだった。
「ここが噂のレヒト食堂ね! あたしにも食べさせなさい!」
バンビエッタ・バスターバインが現れた。先程まである程度騒がしかった部屋の中が一気に静まる。
「ん、バンビちゃん、来たんだ。メニューから好きなものを選んでね。あ、アスキンさん、ブルギニョン、お待たせ。リルちゃん、オムライスはもう少し待って」
思わず動きを止めた他の騎士団員とは違い、レヒトは笑顔で対応する。当の本人は満足げな表情をしつつ、リルトットの隣に座り、メニューを見る。しかし、次第に表情が複雑になっていく。
「ねえ、リル。この、ブ、ブッフサレっていうのは何?」
「牛ももを焼いたやつ」
「スープ・ド・ポワルン?」
「ポワソン。魚のスープ」
「白和えってどんな味?」
「胡麻」
メニューを食い入るように見るが、その種類も相当あるようで、バンビエッタは決めきれなかった。
「わかんない! レヒト、一番美味しいものをお願い!」
「好みは人によると思うけど……」
「じゃあ、レヒトが一番美味しいって思っているもので! できれば甘いほうがいいわね!」
「……う~ん、甘いもので、かぁ。ちょっと時間がかかるけど、特別なものは在るよ」
「じゃあ、それで!」
悩んだ素振りを見せつつ、再度、レヒトが厨房の奥に消える。そして、他の騎士団員は残っていたメニューをそそくさと食べきり、部屋を後にし始める。特にドリスコールとベレニケは必死そうだった。
「そんなに急がなくてもいいんじゃねえの? ……うわ、ビビるくらいうまい」
ブルギニョンをパンとともに食べたアスキンがちょっとフリーズした。
「レヒト、俺もその甘い特別なやつをくれ」
バズビーはレヒトが特別というそれに少し興味を惹かれ、皿を片付けた後、再び席に座った。
「ちょっと! 私から奪う気!?」
「ちげえよ。俺も食いたいだけだ」
威嚇するように、歯を見せて表情を険しくするバンビエッタを片目にバズビーは厨房の奥から大量の卵を持ってきたレヒトに尋ねた。
「いいよ。だけど、分けて作ることに向いてない料理だから、皿に出した後で分けてね」
そして、先程のオムライスとはかけ離れた量のライスを炒め始め、同様の調理方法なのにその大きさのせいで別物にしか見えないオムライスを完成させた。
「はい、リルちゃん用オムライスおまたせ。アスキンさんのラタトゥイユも、できたよ」
逆から見れば、リルトットが見えないであろうほどのサイズが彼女の目の前に置かれるが、当の本人は気にすることなく巨大なスプーンでそれを掬って頬張る。少し頬がほころんでいるのを見て、レヒトは嬉しそうだった。アスキンもまた料理の旨さに、机に突っ伏し、うますぎて致命的だぜとつぶやく。
「でよ、レヒト。その特別な甘いものってなんだ?」
「
卵から黄身を取り出し、布でこしたものを白い液体の中に流し込み、混ぜていく。このとき、
「蒼都なら知っているかもしれないけど……、もういないね」
ココナッツの香りがする油をなじませた中華鍋に卵液を加え、お玉でガンガン叩いていく。その調理法にバンビもバズビーも目が行く。珍しかったのか、アスキンも覗くように見ていた。
「ひたすら潰して混ぜるだけの調理なんだけど、うまく纏めるのが難しくて、手間がかかる上に作れる人があまりいない珍しいお菓子なんだ。素材そのものだから、余計な味がなくて美味しいよ」
ただの液体だったはずのそれは、どんどんと粘り気を出していき、最後の方になると、スライムのような見た目に変わっていた。
「はい、お待たせ。皿に付かず、箸に付かず、舌に付かない、少し不思議なスイーツ。召し上がれ」
皿の上で、黄色いスライム状のそれが揺れる。バンビエッタがそれをスプーンで掬い、口に含むと驚いたような表情になる。
「なにこれ、不思議! なんて言えばいいの、これ。表現できない!」
バズビーも、掬って口に入れる。なるほど、確かに説明しにくいと感じた。ココナッツオイルの風味と卵の風味がすること自体は話せても、その食感をうまく言葉にできない。これは食べた人間でないとわからないだろう。
「なんだ、何食ってんだ?」
「オムレツですか? それにしては少し変ですね~」
「いっただきっ~」
いつから来ていたのか、残りのバンビーズ三人がバンビエッタの後ろから、しゅっと三不粘を掬っていく。そして、そのバンビエッタが三人に文句を言っている隙に、アスキンも一掬い持っていき、リルが大半を食してしまう。バズビーはどうにか二口目を食べることができた。
「……なによ! もうないじゃない! バズビー、あなた食べ過ぎじゃない!?」
「俺かよ!? どう考えてもリルトットが食ったに決まってんだろうが!」
「え、そうなの!?」
「トサカヤローが食ってたぞ」
「ほら、みなさい! あなたじゃない!」
ガルルと唸りながら、今すぐ飛びかかろうと構えるバンビエッタ(本日、二度目)。
バズビーは付き合いきれるかと食堂を後にする。この状況でも笑顔を絶やさないレヒトに、食事の礼を告げ、割り当てられた自室に戻ろうと、帰りの道筋を思い起こす。そういえば、現世での任務の際にいい整髪料を手に入れたことを思い出し、後でレヒトに分けてやるかと考えながら肩を回した。
見えざる帝国、その地下。
レヒトは料理をしているときと同様に鼻歌を歌いながら、クローシュを被せた皿を運ぶ。らせん状の階段を降り、ある牢の番をしている
「今回は随分、遅かったね。レヒト」
「やぁ、グレミィ。料理の差し入れに来たよ」
レヒトが皿を前に出すと、それが瞬間移動するように結界をすり抜けて、グレミィの元へ移動し、手も触れていないのにクローシュが取られる。
「……やたら匂いがきついけど、これは?」
「ふっふっふ。今回の料理はハンバーグ付き特製オムライスだ!」
皿の上に乗っているのは、先程のようなオムライスの上にハンバーグがのせられた料理であり、細いように見えるグレミィには少し重そうな料理だった。
「前も言ったけど、こんなに量はなくていいんだけど」
「そう? グレミィなら能力で保存もできるし、いつでも食べられるでしょ? ならたっぷり作ろうかなって」
満面の笑みで言うレヒトに半目で見つめるグレミィだが、諦めたように持っていなかったはずのスプーンでそれを掬って食べる。
「……ハンバーグとオムライスなんて、いかにもリルトットが好きそうな濃い味かと思ってたけど、そうでもないね。でも、もっと食べたくなる味だ」
「オムライスには酸味の強いトマトと特性ピクルスを使ってあるから、そのおかげかな?。ハンバーグはキョフテっていう癖のある料理なんだけど、それに合うように作ったから良かった」
3分の1ほど食べた後、クローシュが自動的に閉じる。グレミィは口元についていたソースを指で拭って舐めてから、正面で彼を見つめるレヒトに問うた。
「で、僕に何のよう? 陛下への文句でも言いに来たのかい? 『狂幻興凶元』とやらのことでも聞きに来た?」
レヒトは少し目を大きく開いたものの、すぐに笑い始め、それを抑え込もうと必死になった。グレミィは少し揶揄ったつもりだったが、その様子に再度半目になった。
「いやぁ、ごめんごめん。陛下から聞いたの? 君ならこの場で秘密にできることはないだろうから、そのせいかな? 別に用はないよ。ただ、僕がみんなと仲良くしたいだけ。君だけはここから出られないわけだから、料理を作って持ってきているって毎度言ってるよね」
「
グレミィのあんまりな言葉に、レヒトは苦笑い。
「別に信頼してくれって言っているわけでもないよ。僕が勝手に君を仲間だと思い、ご飯を作ってあげようって思ったからそうしている。でも、君は僕のことをそう思っているわけじゃないから、君の能力に対処できるように常に僕自身を元の状態に更新し続けている。そんなに難しいことじゃないでしょ?」
「自己満足のために僕を使わないで欲しいなぁ」
「だけど、グレミィはちゃんと全部食べてくれるでしょ?」
過去に料理が持ち込まれたときもグレミィは似た返答を返し、レヒトによって似た返しをされ続けていた。どれだけ貶しても、文句を言っても、レヒトが料理を持ってくることをやめなかった。実際にそう言いながらもグレミィは、料理が乗った皿を片付けようとはしていない。バツの悪そうな顔をしたグレミィは、しばらく皿を見た後、その様子を嬉しそうに見守っていたレヒトに問いかけた。
「……この料理はどうやって作るの?」
「そう言われると思って、レシピを書いてきたよ!」
「…………想像していたけどさ。めちゃくちゃウザいよ、その笑顔」
「酷くない!?」
レシピを嬉々として掲げたレヒトは心外だ、と驚く表情を作る。だが、それを見るグレミィの顔に負の感情は微塵も感じられなかった。
バズビーは現世で手に入れた整髪料の内の1つを手のひらの上で回しながら、レヒトを探していた。
(あいつ、普段から若干、髪が立ってるんだよな。整髪料に興味がなくとも、オシャレに決めたいはずだし、手軽な方が良いはずだ。それにレヒトは一度凝り始めるとやばそうだ。だから、しっかり髪を固定できるやつを選んだが……)
改めて自分の考えをまとめて歩いていた、その時だった。空から青い光が降り注ぐ。一瞬身構えるが、その感触が何度も行われてきた
(あぁ、クソっ。いまだに慣れないぜ)
歩いている廊下から、ちらりと見た外に奇妙なものを見た。
(レヒト……?)
バズビーが歩いている廊下はビルのような建築物の上にあるものであり、周りにはいくつかの巨大な柱が顕在している。柱の間から下を覗くと、他の建築物と囲まれる形で小さな庭があり、そこにレヒトが立っていた。だが、彼には聖別の光は降り注いでいない。それ自体も奇妙なことではあるが、今のバズビーが奇妙だと感じていたのはそこではなかった。
レヒトの顔が完全な無表情だったからだ。
その虚ろな表情に、バズビーは思わず柱の後ろに隠れた。現在の位置はレヒトよりも遥かに高い位置にあり、レヒトが見ている光も他の場所のものであるためか、彼はこちらに気づいていない。
(……怖ぇ)
普段から表情豊かで、笑顔を絶やさないレヒトが感情を失うときは決まって怒っているときだ。バズビーはかつて、ジェローム・ギズバットの件を間近で見ており、その時の彼の行動の凄まじさを理解していた。その実力の高さも相まって、レヒトの前で変に彼の怒りを買う真似をする存在は
(あいつのことだ。力を奪われた滅却師のことについて怒ってんだろうな)
思い起こせば、何度もあったはずの聖別の際、バズビーは彼を見たことがなかった。もしレヒトが聖別のたびにこんな表情をしていたのなら、姿をくらませるのも妥当だ。実際、彼の仲間意識は
(……ちょっと待て、なんでレヒトには聖別の光が当たってないんだ?)
自分なりに彼の表情の理由を考察したバズビーは、次の奇妙な点が気になり始める。聖別は見えざる帝国内の滅却師を強化するために行われる。ユーハバッハによって回収された滅却師の力を振り分けることが目的であり、主に星章騎士が優先的にその振り分けが行われる。他の面々が聖別を受ける中、それを受けていない人物などバズビーは見たことがない。ハッシュヴァルトと
(あいつが陛下の力を受け取ることを拒否してるっていうのか? いや、
「考え事?」
柱にもたれかかって考えにふけっていたバズビーは、横からかけられた聞き覚えのある声に驚き、背を預けていた壁からズレたあげく、足を滑らせて地面に倒れた。なんとも情けない姿を見たせいか、レヒトはパチパチと瞬きをした後、手を伸ばす。
「……なんか、ごめんね?」
「……いや、これは俺が悪い」
伸ばされた手を取り、バズビーは立ち上がる。マントについた汚れを取り払った後、周囲を霊的に探り、誰もいないことを確認してレヒトに問いかけた。
「なぁ、レヒト。お前はなんで聖別で力を分けられてないんだ?」
「……見てたんだ。陛下は僕のこと嫌いみたいでさ。なんでも昔の自分を思い出すんだって」
視線をずらしながら悲しそうにする彼に対し、バズビーは納得できなかった。
「僕は陛下の『ある目的』を達成するために用意された駒なんだ。その目的さえ達成すれば、後はどうなっても構わない。むしろ、その目的を達成した後は直ぐ様死ぬべきと考えるくらいの、ね」
「……それなら尚更、分からねえ。達成が難しい目的なら、より力を与えるべきだろ」
告白された事実をすんなり受け入れられたことに内心では驚きながらも、バズビーは理由が明確にならないことに疑問を持ち続ける。なにせ、ユーハバッハは滅却師から力を奪うことができるのだから、目的を達成した後は力を奪えば良い。目的の達成が難しいなら、力を与えれば良い。単純で、分かりやすい事実だ。
「う~ん、なんと言えば良いのかな? 僕の場合、陛下にとっては力を分け与えること自体に
力を与えない方が良いと判断された滅却師など、グレミィ・トゥミューしかいない。その理由は能力の強さとその危険性及び敵味方を問わないその思考にあった。対して、レヒトはどうか。その有り様に問題があるようには見えず、任務に従順であり、騎士団の中でも高く評価されるほどの実力者。無理やり、彼に力を与える際のデメリットを導き出すならば。
(……力を与えてしまったら、ユーハバッハを超える可能性があるってことか?)
思わず聞こうとしてしまったバズビーに向けて、レヒトは自身の唇の前に人差し指を立てる。そのサインを見て黙るバズビーに、レヒトは逆の手を重ねて霊子で構成された糸を作る。ただ、それは文字を形成していく。
『今は
いつもの子供らしい笑みではなく、何かを企んでいるような大人な笑みを浮かべ、次の瞬間には何もなかったかのように形成したそれを霧散させる。
「……わかった」
「良かった。あんまり喋っちゃダメなことだから」
「悪かった。これ、料理の礼も兼ねて受け取ってくれ」
「これは、整髪料? 使ったことないなぁ」
「教えてやるから、オレの部屋へ来いよ」
バズビーはあえて言葉ではなく、文字として見せてきたことを頭の中で逡巡する。
今は、これだけで。
つまり、レヒトはまだ何かを隠している。だがそれを言ってはならないと、教えてくれたのだ。これで彼の中に待たないという選択肢はなくなった。
(レヒト。お前の価値は今と前とじゃあ、全く違うぜ。今まではユーゴーとの橋掛かりになればいいと思っていた。そのためにお前を利用しようと考えていた。だが、もしかしたら。お前がいれば、ユーハバッハにも……)
現世、空座町。雨が降り止まぬ初夏。
ある河辺の端で、1人の女性が1人の男児に覆いかぶさるように倒れていた。その背中からは大量に血が流れており、到底無事には見えない。
「うまそうじゃのう、うひひ」
そのそばに立つ毛むくじゃらの怪物、グランドフィッシャーは息を荒げる女性に向けて、舌なめずりをしていた。
(どうにか一護だけでも……!)
眼の前の虚にばれないように息子を庇おうとしている彼女は、朦朧とする意識の中で、見えないはずの
「懐かしい男の力を感じたから、急いで戻ってきたのだが。なんとも奇妙な状況だな。これもまた良き」
「んんん? 何じゃお主は?」
グランドフィッシャーはいつの間にか後ろに立っていた少年を見据える。灰色の髪を持つこと以外、外見は何の変哲もない男であり、グランドフィッシャーはこの男が自身を見ていることだけを理解した。
「お前、わしが見えるのか? うれしいのう。今日はわしが見えるものの多い日じゃ。今日は腹を満たせそうじゃわい、くひひひ」
嬉しそうなグランドフィッシャーに対して、少年は頬をかくような仕草を見せ、困ったような表情を浮かべた。
「ううむ、この場ですべてを解決するのは簡単だが……。どうするべきか?」
「怖がるな、小僧。仲良くわしの腹に入れてやるからのう!」
グランドフィッシャーの巨大な手が少年を押しつぶそうと、上から振り下ろされる。
「すまぬ。もう少し待て」
少年は片手で顎を撫でながら、もう片方の手の指先1つで難なくグランドフィッシャーの手を止める。驚いたグランドフィッシャーは体毛を使って攻撃しようとするが、肝心の体毛が少年の体に届かない。長さ的な意味ではなく、彼の体から漏れ出す霊圧に触れた体毛が負けを認めてしまい、ひしゃげていた。
「……ッ!」
グランドフィッシャーは自身の過ちを悟る。触れるどころか、漏れ出る霊圧にさえ逆らえない。現世に潜んで50年以上経ち、数多の死神を見てきたが、そんな馬鹿げた存在を見たことがなかった。眼の前にいるそれは、グランドフィッシャーにとって、過去類を見ない化け物であった。
「ふむ、考えがまとまったぞ。待たせたな……あれ?」
少年が顔を上げたときには、何かしらの液体を撒き散らしながら死にものぐるいで遠くに逃げようとしているグランドフィッシャーが空を飛んでいる状態だった。少年は折角いい感じにまとめようとしたのにと文句を言いたげだったが、そんなことはどうでもいいと女性へと駆け寄る。
「意識はあるか?」
(……誰?)
「返事は無理、か。仕方ない。その抱えている子も、お前も、相当に面白い。治してやるから安心して眠るがよい」
少年の右手が捻じれ、いくつもの触腕へと変質する。倒れた女性の背中に触腕が触れると、その傷に液体のようなものが流れ、それが少しずつ修復していく。
「滅却師の肉体を回復させるのは非常に大変だ。われとは全くもって、相性が悪い」
何本もの触腕が蠢き、瞬く間に傷を癒やしていく。そして、すでに気絶した女性の治療を終えようとしたその時だった。突然、女性が苦しみ始める。
「……おっと? 傷は治っているはずだが。身体機能の弱体、いや循環器が弱まっている。肺、ではないな。心臓に問題が起きているのか」
大半の触腕が液状に変質して女性を包む。その内、触腕の一本が刃を形成し、彼女の背中を切り開く。人間では即死と言えるほどパックリと背中が割れる。しかし、謎の液体に浸された傷から血液が流れ出しても、離れた血管へと蛇のようにうねりながらも到達し、血は彼女の体を正常に回る。開かれた背中から、彼はその中の心臓を覗く。
「ん~、なにか変なものが詰まっているな」
女性の心臓から、小さな銀色の破片が液体の上に流れ出る。彼がそれを液体から取り出すと、血液が血管へと収まり、女性の開いていた傷が閉じる。
「銀? といっても、ただの銀ではなさそうだ」
そういうと、少年はその銀の破片を口の上へと移動させ、それを口にした。しばらくもぐもぐと咀嚼した後、飲み込んだ。
「…………おお? おおお? はははっ、あっはっはっは!!!」
少年はこれ以上ないほどの笑みを見せる。そして、叫んだ。
「ユーハバッハの隠したい秘密、見―っけ!」
【
いやあ、全く、面白いものを見つけたぞ!
は、はい、その通りでございますぅ!
そんなに緊張するな。取って食ったりせんぞ?
は、はいぃぃ!!
むう、これでも霊圧は相当抑え込んでいるのだが。大虚でなければ対抗する気にもならんのか。別に礼儀とかどうでも良いのだがな。まぁ、仕方ない。ところで、お前、名前を何と言う?
グランド・フィッシャーと申しますぅ!
ほー、偉大な釣り人か。うむ、身代わりは立派な戦術だし、良い名前ではないか。
ありがたき幸せぇ!
ところで、お前これからどうするのだ?
またしばらく獲物を釣ることとしますぅ! 邪魔とあらば、彼方の先まで失礼しますので、どうにか命だけはぁ!
そうか。なら一回だけお願いを聞いて欲しいから、しばらくこの場所で活動することにしてくれぬか? あ、あの家族にはわれが言うまで手出し無用だぞ?
しょ、承知致しましたぁ!!
……お願いだぞ。命令ではないのだぞ?
何なりとォッ!
だめだこりゃ。