柔らかな月光が、窓辺より室内に差し込んでいた。
清澄な光が、漆黒の床を四角い窓の形に切り取り、冴えた白に染め上げている。
すらり、と白い指先が鞘を引き抜いて、抜身の刃が月下に伸びる。
暗い地金が月の光に照らされて、深海のような仄かな碧へと変わり、朧の光が刃紋を滑る。
闇夜にぽっかりと浮かぶ、澄み切った望月。
月光浴。
白銀の水面で、暗い瞳の奥底に熾火を残した若者と出会った、あの日――
あれから月齢は一巡し、運命の刻は、残り一月を数えていた。
キィ、と微かに木戸が軋む音が聞こえた。
脇差を鞘に納め、紅い瞳が後方の闇を凝視する。
「――そろそろ、お主が来る頃合いかと思っておったよ」
童女のような透き通る声で、老婆のように少女が嗤う。
少女の言葉に応じるように、闖入者が一歩、闇の中より踏み出した。
あの日よりも更に暗い、漆黒の意志を宿した瞳。
「……ノヅチ」
白銀の巫女、チャクアは、ややもどかしそうに、闇の中に居る青年の名を呼んだ。
・
・
・
「その分だと、流石ここまで難儀したようじゃが。
今宵はなんとか、迷わず一人で登ってこれたようじゃの」
肩で大きく息を吐く青年の姿に、呆れたように悪態を放つ。
清澄な月明りに満ちた空気が、若者の存在だけで、幾分蒸したような息苦しさを覚える。
「にしてもよ、まさかこのような夜更けに、
斯様に大胆な行動に出ようとは、流石に妾も思わなんだぞ。
まあ、お主の如き下賤の輩とは言え、
一人の殿方にそこまで強く想われている言うのも、悪い気はせんがの」
「くだらねえ事を言っている場合か」
短く言い捨てて、ノヅチがチャクアの足元に空の背嚢を放り投げた。
「今すぐにここを発つ。
要るもんがあるなら、そいつに詰めろ」
「なんと、夜這いに飽き足らず駆け落ちかえ?
本当に呆れた男じゃのう、お主は」
「今の自分が置かれた立場、わかってんのか?」
ぎろり、と漆黒の瞳がチャクアの姿を睨み据える。
白銀の巫女は小さく頷き、まるで悪戯がばれた子供のように苦笑をこぼした。
「その様子だと、大方の見当はついとるようじゃな?」
「ああ」
ノヅチは短く言葉を切り、チャクアの顔を正面から見据えた。
眼前の少女の、表情の僅かな変化すらも見逃さぬように。
「五百年に一度の銀剣の儀で、白銀の巫女は剣と『成る』
そのまま巫女は鉱樹の中心に捧げられる……、そう聞いたよ」
「捧げられる、というのは違うの」
チャクアは伏し目がちに視線を外し、傍らの淡い輝きを保つ銀水晶に瞳を向けた。
「鉱樹ジュエトネリコは鉱にして樹……
しかし、生命ある樹と無機物の鉱、両方の資質を保ち続けるのは矛盾を孕む。
そのままにすれば鉱樹は、鉱か樹かいずれかに偏り、やがて最後は生命を失う。
周囲の生態系の天秤と
「…………」
「ゆえにこの世界には、鉱と樹の間を取り持つ調停者が要る。
鉱樹と同じ、悠久の銀と、森の裔の知性。
両方の資質を併せ持ち、鉱樹を調律する存在、白銀の巫女がな」
「贄だろ、そんなのは」
淡々とした少女の言葉に耐え兼ね、ぶっきらぼうにノヅチが言った。
真っ直ぐに突き付けられた舌鋒を受け流すように、チャクアがそっと銀水晶をなぞる。
「ノヅチよ、尖耳族は森じゃ。
鉱樹が朽ち、大森林が終焉を迎えれば、早晩森の民も滅ぶ。
鉱樹が世界を調律する限り、我らも悠久の刻を生き続ける。
鉱樹を慰める剣と成りて、人よりも永い悠久の時を見守り続ける。
単純に、生命の在り方が変わるだけじゃ」
「詭弁だ」
チャクアの言を、一刀の元に斬り落とす。
ふつふつと胸中に怒りが沸いた。
あの傍若無人な少女が、聖人ぶってその身を捧げようとする姿に無性に腹が立った。
臆病で嘘つきな自分を、涙目で叱り飛ばすまでしたこの女が、
詭弁を弄し、自らの心に嘘を吐いて、粛々と運命を受け入れようとする様に裏切りを感じた。
チャクアはふっと微笑をこぼすと、顔を上げ、ノヅチに対し改めて真っ直ぐに向かい合った。
「一命を賭して霊銀を為すのが、そんなにもくだらぬ事か?
お主の持つ、世界を救う星鉄ほどではないが、
妾が打つのは正真正銘、鉱樹五百年の未来を救う伝説の剣じゃぞ?」
「くだらねえさ」
「古の時代、東方では名工の妻がその身を大窯に投じ、
後に乱世をも治むる神刀を鋳したというの」
「…………」
「剣は凶器。
そうであろう、ノヅチ。
古今も東西も正邪も問わず、あらゆる聖剣、魔剣の類には血生臭い伝承が付き纏う。
お主がこれまでに鍛えた剣とて、
今頃はどれほど無辜の民の血を吸うておるか、分かったもんではあるまい。
それを――」
「道具は、あくまで只の道具だ」
チャクアの言葉を遮って、強い口調でノヅチが云う。
「包丁や鋸と同じ、人を斬る為の刃物に過ぎねえ。
刀は人を斬る為に存在するが、人を殺してまで求めるほどの道具じゃねえ。
道具の出来に迷信や犠牲を求めるのは、扱う槌振りの怠慢だ」
槌振りとしての矜持を篭めて、絞り出すように言葉を紡ぐ。
ノヅチに槌を教えた亡父は、鉄狂いであり、鉄に生涯を捧げていた。
誰に強いられたワケでもない、鉄が好きだからそうしたのだ。
ノヅチ自身も父と同じだ。
父が好きで、鉄が好きだから、父の遺言に従っている。
誰に何を強いられたのではなく、それが自分で選んだ道だ。
訳の分からない理屈を強制し、必死の決断から報酬だけを奪い取ろうとする、
ノヅチの潔さに、チャクアは一つ頷いて。
しかしすぐに憐れむような視線を向けた。
「ノヅチ……、お主は今まで世界を回って、何を見て来た?」
「何を……?」
「明日の糧にも窮する乞食が居た筈じゃ。
重い租税に苦しむ百姓が居た筈じゃ。
親を失い鎖に繋がれた奴隷の子が居た筈じゃ。
けれど、彼らの事を見ておらんかったよなあ、お主は?
鉄の事しか見ておらんかったであろう」
「そんなのは」
当たり前の話だ。
誰だって自分の事で精一杯だ。
ノヅチは別に聖者ではない。
誰も彼も救える力があるわけではない。
自分の手の届く範囲で、せめて後悔しない生き方をしたいと思っているだけだ。
彼ら有象無象の命と、目の前にいる少女の命は、ノヅチの中で等価ではない。
「真に救いを必要しているのは彼らじゃ、妾ではない。
何故に妾の運命だけを見過ごさぬ?
斯様な些事に、自身の未来まで投げ捨てようとするのじゃ?」
「俺の、未来……?」
口中に疑念が走った。
チャクアに指摘されるまで、ノヅチはそんな事にすら気付いていなかった。
自分は今、確かに、今日までの培ったあらゆるものを捨て去ろうとしている。
夢も、鉄も、遺言も、約束も。
尖耳の恩義に泥を塗り、鉱樹の未来を地獄に落とし。
唯一人、目の前の少女を選ぶ生き方をしようとしている。
「――そんなにもお主は、妾の事が好きか?」
「ああ、好きだ」
チャクアが問い、迷う事無くノヅチは答えた。
そう答えると、じくりと心臓が痛んだ。
口にした言葉は、目の前の少女を繋ぎ止めたいだけの勢いだったが、
口にしてみて漸く分かる事もある。
悔しかった。
あれ程に傍若無人で、奔放で、プライドも見識も深い少女が。
『運命』などと言う訳の分からぬ存在に、抗おうともせず蹂躙されていく姿が耐えられなかった。
「そうか……」
と、小さく呟いて、チャクアは静かに瞳を閉じた。
その仕草が何を意味しているのか、ノヅチには皆目見当もつかない。
ノヅチは恋を知らない。
彼女が何を望んでいるのか、自分が何をするべきなのか。
動き出す事も出来ないまま、ばぐん、ばぐん、と異常な動悸が体を揺する。
ぎりり、と奥歯を噛み締めて、緩慢な時間が流れていくのをひたすらに待つ。
「よかろう」
どれほどの時間が経ったものか。
チャクアは一言そう言って、真紅の瞳を再びノヅチに向けた。
「ノヅチ、一つだけ誓うてくれるか?」
「ちかう?」
「ただ一つ、妾の事を想う、と」
「お前の事を……」
「鉄よりも、父親よりも……
無論、あの小娘よりもな」
「それは――」
なんだ。
簡単な話だ。
とにかく何も考えず「誓う」と口にしてしまえばそれでいい。
けれどならば、なぜ彼女は今、この程度の条件を?
「ノヅチ。
言葉と云うのは、一旦形にすると、
当人たちが思っている以上に強い強い力を持つ」
ノヅチの疑念を透かしたように、淡々とチャクアが心胆を語る。
「もしも今、お主が何より妾を想うと言うのであれば……
それだけできっと、妾はこの先、何があっても生きていける」
「…………」
「その言葉が、たとえ一時の気の迷いであったとしても。
尖耳族の仲間、
この駆け落ちが、惨めな末路を迎えようとも。
お主が老いさらばえ、くたばって、妾一人になったとしても……
今、この瞬間の、お主の気持ち。
それだけできっと、妾は何があっても大丈夫だと思う」
真っ直ぐこちらを見つめる、紅玉の瞳。
強い意志を宿した強い光の奥に、どこか不安の翳りを見た気がした。
言葉の力。
分かる気がする。
この誓いを口にしたなら、きっと自分は、もう二度と鉄を打てなくなるだろうという予感がある。
生まれてこの方、鉄を打つ事だけを考えて生きてきた。
今、この瞬間、自分は彼女の事しか考えていない。
あの隕鉄が、世界を救う事はもはや無い。
亡父の遺言も叶わない。
それも仕方ない。
親父殿は、もういない。
だがチャクアはまだ、自分の目の前に確かにいるのだ。
今の自分が、何を優先しなければならないかは明白だ。
『ホー! ホー!』
どくり。
心臓がうねり、息が詰まる。
鉄狂いの歓喜の声が、耳元でガンガンと残響している。
『星じゃ! 星の欠片が降りよるぞ!!』
親父殿。
ぐらり、視界が揺らぐ。
なんで、こんなタイミングで?
消えてくれ。
俺は今から、ただ一人の少女の事だけを想い、彼女を守る事だけを考えて生きていくのだ。
『ボクは……、ボクはもう手遅れだよ。
見たいんだよ、親方が、ノヅチが星鉄を打つ所を』
じくり。
胸が痛む、腸が焼け付くように悶えている。
少女の夢が叶う未来は、もはや無い。
お前の夢は、自分一人で見つけてくれ。
『生まれる! 生まれるのか! でかしたぞミネよ!
儂の子じゃあ、儂の玄翁を継ぐ倅じゃあ!
この子は必ずや天下に鳴り響く槌振りになろうぞ!』
……嘘だッ
こんな場面は知らない、知る筈がない。
本当の俺は、母親の顔すら憶えていないのだ。
こんな幻に振り回されている場合ではない。
今、こうしている時にも、時間は無常に過ぎてゆく。
『いいか?
七日七晩、焼き場に伏せて、それでも儂が来ん時はな……
その時は、お前がそれの続きを仕上げろ!
ゆめゆめ邪な者の手に渡してくれるなよ!!
倅よ! お前の手で、世界を救う剣を打つのじゃ!!』
――親父、殿。
「……泣くな、ノヅチ。
すまぬ、意地悪な事を云うた」
「ぅえ゛」
頭上から、ひどく穏やかな童女の声が響いてきた。
それで漸く、自分の両目から、ボロボロと大粒の涙が零れている事に気が付いた。
見上げると、白銀の少女は再び大脇差を引き抜いて、その地金を愛おしげに見つめていた。
「剣と言うのは、本当に打ち手の心をよく映しよる。
こんなにも愚直で、一本木で、何よりも純粋な鉄の地金……
こんな鉄を打った男が、父親のくれた生き方を、簡単に捨てられる訳が無いではないか」
そう呟いて、少女は刀を収め、白い指先でノヅチの頭をそっと撫ぜた。
「妾も、妾もそなたが好きじゃ……
百十余年も生きてきて、こんな気持ちは初めてじゃ」
「あ゛っうぁ」
じくり。
再び胸に激痛が走った。
彼女を止めなければならないのに、崩れた膝を起こす事すらままならない。
「人は、己の運命を知る事は出来ぬが、運命の意味を変える事は出来る。
そなたに出会えた事で、妾の運命の意味も、確かに変わった。
今宵、そなたが妾のために、自らの運命を捨てようとしてくれた。
それだけでもう、妾は他に何も要らぬ」
いやいやと、ぐずるように頭を振って、差し出された手を振り払う。
違うのだ。
言わなければならない言葉は他にある。
だが声にならない、ただ嗚咽の音のみが洩れる。
そっと少女が膝を突いた。
目線を合わせ、両の掌でノヅチの頬を包み、指先で涙を拭い取る。
「そなたに見てもらいたいのじゃ、妾の全て。
それはもう、鉱樹の為でも、里の為でも、兄様の為でも無い。
妾は……、妾はそなたの剣に成りたい」
そう言って、少女は祈るように瞳を閉じて、
自らの額を、こつん、とノヅチの額に重ねた。
「大好きじゃよ、ノヅチ。
そなたの
ノヅチの意識は、そこで途絶えた――