漆黒の闇の世界に、ぼっ、と
足元の水面がオレンジの炎を映し、底深い碧と混じり合っていく。
ぼっ、ぼっ、ぼっ、と篝火の輪がそこかしこで灯り始め、広大な地底湖の全景が浮かび上がる。
存外に多くの
これ程の人数が集まっても、なおもまばらにしか見えぬ、地底湖全体の広さにも。
鉱樹ジュエトネリコの地下深く。
完全に鉱と化した、幾重もの太い根の柱に支えられた、尖耳族の聖域――
大森林を巡る地下水脈の流れに乗って、初夏に似あわぬ冷たい空気が、ノヅチの肌を撫で付ける。
どれほどの時間が流れた事か。
尖耳の長老と思しき老人が、さっ、と右手を掲げた。
それを合図に各所の蟲篭が一斉に開かれ、無数の
古来より闇夜に惑ろう淡い光で、現世と彼岸を繋ぐ存在と見なされてきた不知火の輝き。
束の間の伴侶を求める蟲たちのワルツが、
暗黒の水面を神秘的に染め上げ、地の底に星屑の大河を作り出す。
静寂の空間に、キィ、という櫂の擦れる音が微かに響いた。
視線の先、地下水脈の一本から、一艘の小舟が姿を見せた。
二名の従者を従えた小舟の舳先には、燐焦苔の灯篭が吊るされ、
先頭に立つ少女の姿を淡い緑に照らしていた。
伝統的な尖耳族の刺繡が施された純白のローブ。
真深に被ったフードに遮られ、その表情を読み取る事は出来ない。
それでも人々は、どこか切実な眼差しで、凛とした少女の立ち姿を一様に見つめていた。
水面を滑る不知火に導かれるように、小舟はゆっくりと湖の中央へと進んでいく。
群体の煌めきはやがて、湖の中心に一つの小島を照らし出す。
小島の中央には『樹』の彩りを残した太い根が、幾重にも絡み合いながら螺旋を描き、
さながら一本の大黒柱のように、遥かな上空まで立ち上っていた。
従者に手を引かれ、少女が小島へと降り立った。
不知火の星屑を供だって、島の中心へと歩みを進める。
根柱の前で足を止め、一呼吸置いて、ゆるりと右手をかざす。
一瞬の間。
少女が何事か呟くと、根柱の中枢から柔らかな光が溢れ始めた。
光は螺旋を内側から押し広げるように膨れ上がり、
絡み合う樹木の隙間から黄金色の輝きが周囲に拡散する。
黄金の光を生み出していたのは、樹木の螺旋の奥深くに隠された、中空に浮かぶ巨大な琥珀。
有史以来、悠久の刻を見守り続けた鉱樹の生命が、当代の白銀の巫女を穏やかに見下ろしていた。
「あの琥珀こそが、鉱樹ジュエトネリコの心臓部。
樹と鉱の均衡を支える、大樹の命、そのものだ」
傍らのウジュが、そう簡潔に説明してくれた。
だがその大いなる奇跡は、ノヅチの心に何の感銘も与えなかった。
ノヅチはただ、黄金の光に照らしだされた少女の横顔を、喰い入るように見つめていた。
少女がフードを下ろし、ゆるりと琥珀に歩み寄った。
そっと差し出された掌が、中空に浮かぶ水面にでも触れたかのように、
とぷん、と琥珀の中に沈んだ。
白磁の指先に導かれるように、何か細長い影が、琥珀の水底より浮かび上がって来る。
少女が右手を引き上げると、黄金の輝きの中に、穏やかな銀の光が重なった。
少女が手にしていたのは、一振りの細身の剣であった。
「先代だ」
ウジュが短くそう言った。
ぞくり、とノヅチの体が底知れぬ悪寒に震えた。
美しい刀身の煌めきは、五百年の刻を過ごしたとは思えぬ冴えた輝きを放ち、
鍔元にあしらわれた白銀の薔薇は、見る者に永遠を想起させる。
けれどノヅチは、銀の花弁の光彩の中に、どこかくたびれたような印象を覚えた。
傍らの従者に銀剣を託すと、少女は身に纏うローブを緩やかに脱ぎ捨てた。
髪留めを外し、柔らかな金属のような白銀の毛髪を中空に躍らせる。
白く、細い、しなやかな少女の肢体が琥珀色に染め上げられていく。
水脈から吹き抜ける風が白銀の髪を揺らし、黄金の光を照り返して虹色の残像を描く。
後方に控えた二人の従者が、それぞれに異なる祭具を差し出してきた。
右手に剣。
左手に玉。
玉は、いつか少女に見せてもらった、
先程の銀剣に比して、更に明るく、白色にも近い無垢なる輝き。
穢れを知らぬ純粋な光が、巫女の掌の上で煌めき揺れる。
剣の方は玉とは対照的に、ひどく暗い地金であった。
倭刀にしては短く、反りが浅く、肉の厚い大雑把な片刃。
漆黒の闇の中、連れ添う不知火の光を微かに灯す。
どくり。
心臓がうねり、臓腑を絞り上げるかのような焦燥が込み上げて来た。
白銀の巫女が手にした刃は、始まりの日に彼女から巻き上げられた、あの
「白銀の巫女は儀式に際し、尖耳としての短い生涯を捧げ、
己の心を映す金属を一つ、選び取る」
声を押し殺し、傍らのウジュが淡々と語りかけて来る。
「霊銀は無垢な赤子のような神聖なる金属。
穢れを知らぬその光は、時に繋がる巫女の魂をも純白に塗り潰しかねない。
故に、規範となる金属が要る。
己の心を、最も強い感情を映す、確かな輝きを宿した金属が」
じくり。
焼け付くように胸が痛み、視界が滲んだ。
そんな鉄を、持っていくのか?
兜を割るためだけに生まれた失敗作を。
取り回しの悪い、大雑把な刃を。
若者の未熟さと愚かさを、灼いて叩いて固めただけの鉄塊を。
自分は何も出来ない。
今、目の前で繰り広げられている、忌まわしい茶番をぶち壊す事も。
生涯を賭した儀式に臨む少女に対し、まともな鉄を捧げる事すら。
無力さと嫌悪感の余り、瞳を閉ざしてしまいたかった。
けれど、そうすると少女の重ねた百十余年が、本当に全部、無駄になってしまうと知っていた。
ちらり、と振り返る少女と目が逢った気がした。
あの日と同じ
少女の唇が微かに動き、何かを囁きかけたような気がした。
このまま時を閉めてしまいたかった。
この瞬間が永遠であって欲しかった。
触れられなくても構わない。
たとえ声が届かなくても、何も聞こえなくても構わない。
今、この瞬間を以て、世界の終焉としたかった。
幻想は解ける。
少女はついと視線を外し、鉱樹の心臓と再び向かい合った。
微かに俯き、手にした玉と、剣を、胸元に押し抱き。
やがて、意を決したように顔を上げ、巨大な琥珀目掛け一直線に飛び込んだ。
少女の勇気を受け止めるように、琥珀が揺らぎ、両手を広げた。
とぷん、と――。
少女の腕が、顔が、体が、白銀の髪が、琥珀の海に沈んでゆく。
やがて少女の全身は、すっぽりと琥珀の中に包まれていた。
瞳を閉じ、両胸に剣と玉と掻き抱いて、少女はゆっくりと体を丸めた。
母親の胎内で眠る赤子のように。
琥珀の中で動きを止めた少女に対し、白銀の髪の毛だけが、
ざわざわと、別の生物のように律動していた。
銀の髪が広がり、うねり、少女の体に絡みついて、徐々にその全身を覆い隠していく。
いつしか少女の姿は、銀毛の繭の中に完全に埋もれてしまっていた。
「琥珀の海と銀の揺り籠の中で、白銀の巫女は夢を見る。
白銀の繭を夢で満たして、己を溶かして霊銀と交わる。
幼虫が蛹を破り蝶となるように。
気の遠くなるような長い時間をかけて、やがて巫女は、鉱樹を支える剣へと変わっていく」
そう語るウジュの声色には、どこか自分に言い聞かせるような悲しさが混じっていた。
だが、ノヅチは言葉の意味すら理解できないでいた。
ノヅチは瞬き一つせず、琥珀の海に消えゆく少女の影を、喰い入るように見つめ続けていた。
やがて樹木の螺旋は収束を始め、琥珀は元の根柱の中へと消えた。
不知火の群体は螺旋階段を巡るように上方に舞い上がり、そこから四方の水脈に向かい拡散した。
地底湖から星屑が潰え、辺りを囲む篝火の、まばらな灯りだけが残された。
「あの娘はきっと、強い剣になるだろう……」
そう祈るように、ウジュが小声で呟いた。
五百年に一度の銀剣の儀式は、つつがなく終焉の時を迎えた。