山猫亭はヤサ市街の外れに居を構える、昔ながらの大衆酒場である。
一階のホールを食堂、二階を安宿に割り当てた構造で、金の無い旅人御用達の店となっている。
私室に荷物を置いたノヅチとタタラが階段を降りると、こちらに気付いた件の鷲鼻の男が、
気分良さげにジョッキを掲げて卓を叩いた。
「やあやあ、こっちでさあ旦那方!
へへ、すいませんが先に飲らせて貰ってますぜ」
「いや……、なんでアンタが居るんだよ?」
「まあまあ、固いこと言いっこなしにしましょうや。
今日の出会いを祝して、この場はあっしが奢らせて頂きますよ」
男は訝しげなノヅチの視線を愛嬌で流し、手慣れた所作で給仕に注文をすると、
卓に着いた一同の前の方に改めて向き直った。
「申し遅れましたがね、あっしはヒウマンっていうケチな行商人でさあ。
これでも銭の気配については、多少の鼻が利く方でしてね。
嬢ちゃんと旦那方の話、こっちにも一枚噛ませてくださいよ」
「……俺の顔を見て銭の香りがするってんなら、
その自慢の鼻、一度取り換えた方がいいんじゃないか?」
「まあまあ、いいんじゃないの親方。
タダで奢ってくれるって言うんならさ」
ノヅチの邪険な態度を嗜めながら、タタラが卓の上の肉料理を取り分けていく。
そうして小皿を差し出すと、ちらりと悲し気にノヅチを見上げて呟いた。
「……正直、ボクもうガッカリだよ。
親方が自分の腕前を、金貨三枚くらいにしか見てなかったなんてさ」
「……悪かったよ」
「冗談だよ。
親方は可愛い女の子が困ってるのを見過ごせない
あっけらかんと毒を吐いた後、タタラは少し真面目な顔をして、視線を褐色の肌の少女に向けた。
「ええっと、それで……、
レインさん、だったっけ?」
タタラの呼びかけに対し、レインは一つ頷くと、手にしたマグカップを卓に置いた。
「ウチの親方の腕を買いたいってのは、一体どういう話なの?
そっちの白鞘だって、十分すっっっごい業物だと思うんだけど」
「私も、ヤサの市中でこの子以上は望めないと思っている」
タタラの言葉を肯定し、少女は視線を、卓に立てかけた白鞘の倭刀に落とす。
「相手が人なら、これが最上の得物……、けれど、私の敵は人間じゃない」
「その言い草だと、敵は魔物か何かって事か?」
ノヅチがちょっと小首を傾げる。
確かにこれが三百年前、かの魔王が大軍を擁し地上侵攻を目論んでいた時代には、
そんな怪物もいたと言う。
大木を振り回す一ツ目の巨人だの、突風を巻き起こす大鷲だのを相手にしては、
打刀一本では話にもなるまい。
だが、そのような神話世界の怪物たちは、魔王の死と共にあらかた討伐され尽くし、
現在地上に残っているのは、それこそ
繁殖力だけが取り柄の小賢しい雑魚ばかりとなっている。
人を殺せる刀ならば、殺傷能力はそれで十分な筈だ。
「……
ポツリ、とレインが呟いた。
その一言に、左右のタタラとヒウマンが一様に顔色を変えた。
「リビング、アーマー? なんだい、そりゃ?」
「旦那……、ご存知ないんで?」
一人だけ話についていけていないノヅチに対し、
呆れたように溜息を吐いて、ヒウマンが話を引き継いだ。
「魔王の鎧ってのは、この辺りの地方で語られる伝承の一つでさあ。
三百年前、魔王の死により主を失った大鎧が意志を持ち
現代でも生き血を求め、夜な夜な各地を徘徊している……、てね」
「その話は、私も冒険者たちの噂で聞いたよ。
新月の晩に全身鎧姿の殺人鬼に襲われた人間が、もう何人も居るんだって」
「けどそんなのは、しょせん噂話の類じゃないのか?
よしんば本物の殺人鬼が居たとして、そりゃ単なる鎧マニアの変態だろ」
「……旦那、周りを見て、何か気付きませんかい?」
神妙な顔付きのヒウマンにつられ、ノヅチが訝しげ周囲を見回す。
そこには一見、何という事のない酒場の喧騒があるだけである。
だが言われてみれば、これほどの大都市、それも飯時にしてはちらほらと空席が目立つ。
客層にしても、身辺に武具や荷物を置いた冒険者風の者が多く、
地元の住民と思しき人間は見当たらない。
「今宵は新月。
地元の人間は噂を恐れて、夜は表に出たがらねえ。
いきがってるのはこの騒動で名を上げたがってる無頼漢ばかりでさあ」
ヒウマンの言葉に頷きながら、ジョッキを一口あおる。
どうやら魔王の鎧とやらの騒動は、
ノヅチが考える以上に深刻な事態ではあるらしい。
だがこんな剣呑な噂話と、目の前の小柄な少女との関連性が今一つ見えてこない。
彼女の口ぶりからすれば、レイン自身に実際に魔王の鎧と相対した経験があるという事なのか?
あるいは……。
ふと、そこでノヅチはレインの変貌に気が付いた。
先程までカップを握りしめ、色素の薄い瞳をこちらに向けていた少女が
今はすっと目を細め、聞き耳でも立てるかのように油断なく周囲を見渡していた。
「……しばらく、この場を動かないで」
不審を質す暇も無く、ゆらりとレインが立ち上がった。
白鞘を掴んで身を翻すと、客たちの間をすり抜けるような淀みない動きで店外に消えた。
「え、ええっ?
ちょ、ちょっと待ってよレインさ――」
我に返ったタタラが、慌てて少女の後を追おうと立ち上がった。
次の瞬間――
――ドワォ!!
不意に入口から爆音が轟いた。
店内の空気がビリビリと震え、周囲がたちまち色めき立つ。
間を置かず、絶叫、悲鳴が外より届き、ヤサの市中に混乱が拡大し始めた。
・
・
・
ようやくノヅチたちが駆け付けた時、正門は既に戦場となっていた。
城塞都市ヤサが誇る大門は、破城槌でも打ち込まれたかのように外から放たれ、
瓦礫と木っ端が城中に散乱していた。
壁に叩き付けられ、あるいは深手を負って地に伏した衛兵たちの呻きに、鮮血の跡。
地に落ちた篝火をズン、と踏みしめ、重厚な鉄塊が橙に染まる。
黒い鎧であった。
光なき闇夜の中、篝火の照り返しを受け、黒い胸甲が仄かに深海の青に染まる。
鋼鉄の巨躯は常人を遥かに凌ぎ、傍目には羆や
右手には巨体に比するような大雑把な剛剣を握り、
血を
そして光無き鉄仮面の見下ろす先には、油断なく白鞘を抜いたレインが居た。
「レイン!」
息を切らしてノヅチが叫ぶと、それを合図にしたかのように大鎧が動いた。
剛剣が旋風となり、その巨体からは思いもよらぬ疾さで打ち下ろされた。
ドウッ、と一撃が地面を叩き、土塊が瓦礫ごと派手に中空に舞い上がる。
レインの足捌きは軽業師のように円を描き、死の一撃を辛うじて外した。
鞘を捨て、踵を返して身をよじり、手にした白刃を大鎧の背に向ける。
跳躍、その瞬間、信じ難い速度で大鎧が動いた。
ギン、と鈍い音を立て、白刃と剛剣が交錯した。
だが、彼我の目方が違い過ぎる。
弾かれ、体勢を崩した少女の頭上から、更に執拗な袈裟斬りが迫る。
止むを得ず白刃を掲げ、野獣の一太刀を真っ向から受け止める。
再び金属音が交錯し、レインは膂力のまま、物も言わずに跳ね飛ばされた。
中空に舞い、二回三回と地面に転がり、華奢な身体が砂に塗れる。
「レインさん!」
先行していたタタラが叫び、大地を蹴った。
驚くべき跳躍力で大鎧の上を取り、抜け目なく拾った
「リャアッ」
短く吠え、豪腕を鉄仮面目掛けて振り下ろした。
ガンッ、と鉄のひしゃげる音が響いた。
頭部が弾け飛ぶほどの
いや、次の瞬間、大鎧の頭部は文字通り弾け飛んでいた。
がらんどうの鉄仮面が大地を跳ね、彼方の城壁でガシャリと音を立てる。
直後、首を失った大鎧がぐるりと向き直り、タタラ目掛けて大盾を振るった。
「へ……、ぎゃん!」
一瞬、虚を突かれたタタラは受け損ね、強かに大盾を浴びて地面に潰れた。
昏倒する少女に止めを刺さんと、首無し鎧が大上段に剛剣を構える。
「タタラァ!」
ノヅチが必死で叫び、両者の間に割って入った。
だがもう遅い。
剛剣の一撃は自分の体ごと、タタラの胴を真っ二つに両断するであろう。
南無三。
念仏を唱えながら、無我夢中で胸中の小刀に手をかける。
必死の為せる業か、思いもよらず体が動いた。
なんで自分がそんな事をしているのか、ノヅチ自身にも分からなかった。
――瞬間、凄まじい閃光が視界を奪った。
粘液の海に溺れるような、ひどく緩慢な時間の中、
ノヅチは白色の光に悶える首無し鎧の姿を見た。
思考が巡る暇すらなく、突如地上に溢れた月光は、眼前の全てを真っ白に塗り潰し……。
ノヅチが小刀を完全に振り抜いた時、既に光は潰え、辺りには闇夜が戻っていた。
「……何だってんだ、一体……」
遅まきに、どっと全身から汗が噴き出した。
大きく肩で息を吐いて、全身の疲労と脅威を排出する。
大鎧の姿は影も形も無い。
ただ周囲に残る破壊の痕跡だけが、悪鬼の実在を証明していた。
「……随分と、おっかない刀を持ってますね、旦那」
いつの間にか横に居たヒウマンが、他人事のように呟いた。
その視線を追いかけると、右手の先では、
新月の僅かな明かりを蓄えた
刀身に手を合わせて鞘に納め、這うようにしてタタラの元に向き直る。
瞳孔と脈拍に異常の無い事を確認して、ほうっと一つ安堵の息を吐く。
残念ながらノヅチの方は、腰が抜けてまともに歩けそうにもなかった。
「見た?」
体に塗れた砂を払い落しながら、褐色の少女、
レインがこちらに近付いてきた。
「あれが魔王の鎧……、私の敵」
「あれが……、か」
淡々とした少女の言葉に、不承不承ノヅチが頷く。
この少女と鎧の関係は謎ばかりだが、
少なくとも
常人を遥かに凌ぐ巨体に膂力、更には首が取れても意にも解さぬ凶暴性。
あの怪物を対人用の武器で屠るのは、
剣の素人であるノヅチの目から見ても不可能に思えた。
「あれは鎧という骨格を纏った憎悪の塊。
普通の剣ではまともに太刀打ちできない。
貴方の護り刀と同じような、特別な執念を宿した刃が要る」
レインはそう静かに語り、それから少し寂しそうな顔をして、
視線を手にした白刃に落とした。
「この子じゃ無ければ、受太刀ごと斬られていた。
……ごめんなさい」
その謝罪の意味に、ノヅチが大きく眼を見開いて愕然とした。
ノヅチが二年の時を掛けた無銘の打刀は、わずか二合で完全に打ち砕かれ、
今や峰で辛うじて原型を支えるのみとなっていた……。