――その日、男は初めて、聖賢という存在を知った。
穏やかに自分を見つめる、澄み切った青の瞳。
人の悪意を疑う事を知らぬ、ごく自然な佇まい。
陽光を孕んでそよぐ、金色の髪。
生まれが悪い。
宿命が悪い。
この身に脈々と連なる血統が悪い。
全て違った。
正道を目指す黄金の意志。
一日たりとも弛む事無く、積み重ねられた努力の跡。
他者の痛みを己の糧に変えられる器。
何もかもが、足りなかったのだと気付かされた。
単純に自分の中に、暗闇を抜け出すだけの志が欠けていた。
「――それでも、時間の全てが無駄だったわけでは無いでしょう?
鍛えた武器も修めた技も、使うのは人の心次第です」
諭すように、年下の青年が言う。
彼の言葉が、自分の魂を日の下に引き戻す物だと理解してる。
「貴方の力を、僕たちに貸しては頂けませんか?」
そう言って、青年が右手を差し出してきた。
じわり、と涙が滲んだ。
彼が言う通り、確かに、重ねた時間は無駄では無かった。
それがたとえ忌まわしき力であったとしても、
これからは彼の行く道を掃き清める、露払いくらいにはなれるだろう。
深々と
今日から自分は、彼の一振りの剣となるのだ。
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「ノヅチ」
傍らのレインに肩を揺さぶられ、そこでノヅチは目を覚ました。
「
「ああ、すまねえ」
そうレインに謝り、両頬を叩いて火床の様子を睨み据える。
古鉄を投じる前とは言え、木炭を熱している最中に眠りこけるなど、
普段のノヅチならば考えられぬ事であった。
「……何が見えた?」
目尻に残った涙を拭い、鞴を受け取る。
「青い目をした、立派な青年が居たんだ。
彼の為になら、俺は死んでもいいと思ったよ……」
「それはきっと、私の祖父の記憶。
彼が後に、救国の勇者と呼ばれる青年と出会った日の出来事」
「勇者?」
「後に魔王を退治する勇者と、彼の仲間の一人、
紅の剣士が初めて出会った時の物語」
「…………」
ちらり、とノヅチの脳内に疑念が走った。
勘定が合わない。
伝説に謳われる勇者が魔王を退治したのは、三百年も昔の出来事だ。
だが今は、火床の様子の方が大事だった。
赤々と燃え上がる炎を見据え、頃合いと判断し、手元の
笊の上には、小割にした赤錆の成れの果てが盛られている。
その金属は、砕かれてもやはり、断面までもが紅く染まっていた。
「レイン」
一掴みの鉄を投じ、更に炭を重ねながら、ノヅチが少女の名前を呼ぶ。
「何か手伝える?」
「いや……、さっきの続きを聞かせてくれ」
「今?」
「ああ、今だ」
火床の火勢から目を反らさず、ノヅチが応えた。
本来ならば雑音に囚われず、炎の色と鉄の沸く音に集中しなければならない工程だ。
だがノヅチの師は、鉄を打ちたければ良く鉄を識れと、生前よくそう言っていた。
今、この鉄が血の色に染まったルーツを知る必要がある。
ノヅチは直感的にそう感じていた。
レインは一つ頷くと、ノヅチの傍らに膝を突いて、訥々と語り始めた。
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かつてヤサの猟犬と呼ばれる魔剣士たちは、
己が身に宿る闇の力を制御する術を求め、山野に籠り修行を重ねていた。
闇を知ろうとする者は、闇と交わり、時に敗れて魔道に落ちる。
闇を以て、闇を制す。
正道とかけ離れた異形の剣士たちは、それゆえ世間の人々から忌避され、
大半の者が歴史の表舞台からほど遠い、社会の影に従事する所となっていった。
暗殺、斥候、破壊工作――
魔王軍の襲来により、一族の大半を失った「彼」もまた、
生き残った幼子たちを養うべく、裏仕事を続けながら、各地の戦場を転々としていた。
彼が、後に勇者と呼ばれる青年と出逢ったのは、その頃の話である。
勇者と出会い、彼は再び陽の下へと戻って来た。
研鑽を重ねた自らの力を、正道を行く勇者の為に役立てられる事を知った。
勇者に仕え、彼の剣になろうと心に固く誓った。
「――けれど、最終的に、彼は心酔する勇者を裏切る事となった」
事が起きたのは、魔王殿での最終決戦の渦中であった。
戦いの最中、仲間たちとはぐれた彼は、どこをどう歩いたか、
魔王殿の宝物庫に辿り着き、そしてそこで、
漆黒の甲冑。
禍々しき装飾を施した大鎧。
光届かぬ深海のように、世にまつろう負の感情を幾重にも塗り重ねたかのような、底深い黒。
一目見て彼は直感した。
この忌まわしき大鎧を魔王に纏わせてはならない、と。
そして同時に、自分がここに辿り着いた理由にも。
闇を以て闇を制す。
己の魔剣士としての力があれば、この鎧に纏わりつく、悪しき邪念を封じる事が出来る。
この鎧の力を我が物と出来たなら、魔王を倒す大いなる助力となれる事だろう。
一族の無念も報われ、ヤサの猟犬は栄光の名として後世にまで刻まれよう。
……気持ちがはやる余り、彼は、初歩的な過ちを犯した。
大志と責務の奥底に、慢心と我欲の
その弱さを、魔王の鎧に逆襲の牙を突き立てられた。
鎧の封印は不完全に終わり、彼は以後、月が欠ける度に鎧の放つ殺人衝動に苛まれる事となる。
死闘の果て、勇者は魔王と相討ち、残された彼は仲間と再会する事もなく、
二人の子供を伴って、再びヤサの修行場に籠った。
魔王の鎧に囚われた彼の心は、鎧の力を封じるどころか、
月毎に心身を襲う狂気を抑えるだけで精一杯となってしまった。
魔王の鎧の封印は、彼の二人の息子の成長に託す他に無くなった。
長男は父に似て正義感が強く、神経質なほどに己に厳しい男だった。
次男は父兄に比べ繊細で、日に日に狂気に駆られていく父の姿に耐えられず、
一度は山を下りたが、やがて伴侶を流行り病で亡くした事に絶望し、
幼子たちを連れて再び帰って来た。
長男が猟犬の業を修め、次男が鎧を抑える為の刀を打つ。
個々の才覚に合わせ役割を分担する。
鎧の封印は時間の問題に思えた。
けれど敵もまた人類を震撼させた、おぞましき魔王の置き土産。
親子が鎧の対策を研鑽する間に、鎧もまた息を殺し、一族の急所を探っていた。
一見、真面目で隙が無いように見えていた長男の欠点。
それは皮肉にも、彼自身の正義感の強さの中にあった。
長男は心の奥底で、魔王の鎧に心の隙を突かれた父親を恨んでいた。
狂気に憑かれ、日に日に衰弱していく父の姿を軽蔑していた。
勿論、父親の弱さ、苦しさは、彼自身も十分に理解していたし、
常ならばそれは何の問題も無い、本人ですら自覚していない、小さな小さな虚穴だった。
相手があの『
とある新月の夜、惨劇は起こった。
取るに足らない口論から、鎧の仕掛けた悪意の罠が解き放たれた。
父と息子は、互いの刃の下に斃れ。
後には力無き槌振りの次男と、彼の子供たちだけが残された……
・
・
・
「――こうして、全ては終わった筈だった。
残された次男……、私の父は、無力と絶望と憎悪の中、
次第に精神のバランスに、異常をきたし始めていた。
けれど、彼は狂乱に満ちた世界の中で、一つの奇策に思い至った」
「奇策?」
「闇を以て、闇を制する。
父は敢えて狂気の世界に身を置く事で、鎧への憎悪を極限まで引き出し、
殺意と執念で打ち鍛えた、真の妖刀を仕立てようと企んだ」
「真の妖刀……、
それが、あの赤錆の前身か」
ノヅチの断定に、レインは一つ頷いて、そこで再び口を閉ざした。
ほうっ、と大きく溜息を吐き出す。
鉄は今や、存分に沸いた。
今頃火床の奥底では、真っ赤に蕩けた鉄が血溜りの如く滴り落ちている筈である。
「レイン、もう一つだけいいか?」
火勢を睨み据えたまま、ノヅチがレインに再び問うた。
「魔王の鎧は、骸を抱えて坑道に消えた、と言ったな?
あの鎧は、今も長男、屍となったお前の叔父さんの執念で動いているのか?」
ノヅチの問いに、レインは静かに首を横に振った。
「あの日、祖父が身命を賭して放った一太刀は、
魔王の鎧を、叔父の体ごと存分に斬り裂いた筈だった。
今、あの鎧を動かしているのは、彼の意志とは別の人間の情念」
「別の、人間?」
そこでレインは一度言葉を切り、ある種の覚悟を宿した瞳で、火床の奥を睨み据えた。
「鍛冶師の息子、ヴィレジ。
私の弟、私の、過ち――」