30話「伏魔殿」
――日輪が欠ける時、冥府の門は解き放たれ、地の底より魔界の王が現れる。
古来より、日蝕は洋の東西を問わず不吉の象徴と見做され畏れられてきた。
太陽が呑まれ、日光の恵みが潰え、当たり前の日常が覆る時。
人々の心は波立ち、不安が広がり、その綻びに付け入るように邪なる者たちが蠢動する。
有史において、三度、日蝕にまつわる記録が為され、
その度に闇の世界の住人たちは現れた。
地獄の君主、夜と混沌の支配者、魔王――
いくつもの呼び名があれど、それらの名が意味する所は同じである。
『魔王』が最後に人類の前に姿を現したのは、約三百年前。
かつての伝承をなぞるかのように、魔王は日蝕の訪れと共に
強大なる魔物たちの軍団を率い、地上を混乱に陥れた。
拡大する戦火の中、やがて人類は、太陽の如き神剣を携えた勇者を得て、
魔界の軍団に対し決死の反抗戦を開始、
凄惨な攻防の末、勇者と魔王は共に斃れ、世界には再び平穏がもたらされた。
一つの伝説が終わり、現代に至る復興の歴史が始まっていく。
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「――ですが旦那、本当に『魔王』は死んだと思いますか?」
濃厚な霧が立ち込める中、船頭を務めるヒウマンがポツリと尋ねた。
「魔王と勇者の最期は、誰が見届けたのか?
魔王の死体はどこに葬られたのか?
それらを語る史書は世界のどこにも存在しませんぜ。
かつて三度、太陽が欠け、その度に魔王が出現したと言うのならば。
四度目の日蝕が無いと、誰が証明出来るんですかい?」
「……そんな事よりよう」
鷲鼻の長話に辟易したものか、ノヅチが煩わし気に体を起こした。
反動で小舟が僅かに揺れ、ヒウマンが慌てて櫂を取り直す。
「この沼沢の先に、本当にお前の主が居るってのかよ?
信じられねえ、皇都から水路で五日の距離だぜ」
「旦那、平時の潜伏先なんてのはそんなモンですよ。
難攻不落の城砦なんて、普段使いにゃ不便で目立つだけさ。
何より情報が早いってのが良いね」
言いながら、ヒウマンが鼻歌交じりに櫂を手繰る。
いつしか川幅は徐々に広くなり、それに比例するかのように、霧はいよいよ白さを増していく。
ちっ、と短く舌打ちして、ノヅチは湿り切った鼻骨の包帯を擦った。
「この辺の大沼沢は、普段からこんな有様でしてね。
動乱の時代には、政府に抗う好漢悪漢たちが巨大な根城を築いたなんて伝説もあります。
隠れ家には打ってつけの立地って事だ」
「いいのかよ、そんな所に俺達を案内して?」
「役人に
アンタ、本質的には人間よりも、我々の側にずっと近い。
だからあの剣精の嬢ちゃんみたいな
「はあ? そんなワケあるか!」
「まっ、どっちにしたって同じ事だ。
あっしら同族の手引きが無い限り、この霧の中を抜けて、
口論を打ち切って、ヒウマンが櫂を漕ぐ手を緩めた。
舟足が徐々に遅くなり、霧の向こうに、ぬっ、と巨大な何かが影を為す。
広大な中州に現れたのは、苔生した石造りの砦であった。
かつての川賊たちの拠点の跡か、外壁は所々崩れて朽ち、
半ば倒壊した木製の見張り台が入口を塞ぐ。
造り自体は頑丈そうだが、とてもまともな住人の暮らす拠点とは思えなかった。
「……こんなお化け屋敷が、魔界の君主の隠れ家だってのかい?」
「表向きはね、本当にただの廃城なんですわ。
中に入るには少々手順が必要でしてね」
半ば朽ちかけた桟橋に小舟を止めると、
ヒウマンは手にしたカンテラに、何かしらの粉粒を投じ始めた。
ぼふん、と
黒い霧が廃門を包み、やがて霧の先に真新しい格子戸を形どり始めた。
ちらり、とノヅチが後方を見やる。
視線の先では大荷物を抱えたタタラが、なぜかふくれ顔でノヅチを見ていた。
「タタラ」
「やだ!」
「まだ何にも言ってねえよ!」
「親方が戻って来なかったら、舌噛んで死んでやる」
「…………」
「どうせ死ぬなら一緒がいい!」
そう言いきって、涙目でこちらを睨み付けてくる少女に、困ったように頭を掻く。
やはり道中、力づくで下ろしてくるべきだったかと後悔もしたが、
そもそもの話、
第一、魔界の君主が一介の槌振りを呼び付けるなどと言うのは、
当然、腕の方を見せろと言う話であろう。
鍛冶仕事となれば、どうしたって相槌が要る。
「ハッハッハッ、
そんな辛気臭い顔しなくたって大丈夫ですよ、旦那」
主従の口論を横目にして、ヒウマンが笑いながら門扉を開いた。
「ウチの主殿は、世間の噂よりもずっと気さくなお方ですんで。
きっと旦那も気に入られると思いますよ」
「……地獄の軍団を率いて地上を混乱に陥れるような輩が、
気さくなお方なワケないだろ」
「そいつを言われちゃ形無しだが、大丈夫!
きっと旦那とならウマが合いますって」
頼りない気休めを言いながら、ヒウマンが門の奥へと消える。
やがて、黒い霧の中から右手だけを出して、ちょい、ちょいと二人を手招きした。
はあ、とノヅチは溜息を一つ吐き、傍らのタタラの頭を一つ撫でて門に向かった。
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霧を抜けた先には、まるで別の空間が広がっていた。
大理石の柱が並ぶ吹き抜けのフロアー。
中央には多様に水勢を変える噴水があり、その奥には二階まで届くほどの木扉を構える。
左右には華美になり過ぎない程度に彫像や調度品の類が並び、さらに奥まで細い回廊が続く。
一見、皇都近郊のそれなりに華美な貴族の佇まい、といった光景に見えた。
自分たちの居る場所が、川賊たち無頼の拠点の跡、という前提を除けばの話だが。
「改めて、ご挨拶させて頂やしょうか。
我らが主、魔王の別荘にようこそ。
人間がここに招かれたのは、旦那方が初めてですよ」
そう言ってヒウマンは大袈裟に一礼して見せると、正面の大扉に二人を促した。
「偉大なる魔界の王が第一の部下、ヒウマン。
ただ今戻りました」
気取った名乗りを上げながら、ヒウマンが扉をトン、と叩くと、
大型の門扉がたちまち手品のようにひとりでに開き始めた。
(おいおいおいおい)
扉の先に広がる光景に、思わずノヅチが内心で鼻白んだ。
視線の先にあったのは、隠れ家にしては大仰過ぎる謁見の間であった。
薄暗く、やけに長い赤絨毯をつかつかと進む。
両側に等間隔で配置された篝火が自動で灯り、足音がだだっ広い空間に反響する。
……正直、反応に困る。
仮に、今ここに居るのが、数々の死闘を乗り越えた人類の勇将であったなら、
それなりに緊迫感をもたらす演出であったのかもしれないが。
宿なしの槌振り一人を相手にするには、いささか演出過剰に過ぎる。
やがて、ちょっとした祭壇のような造りの玉座まで辿り着くと、
ヒウマンは片膝を突き、壇上の主に対し、恭しく頭を下げて見せた。
「閣下、仰せの通り、
「――で、あるか」
ヒウマンの言上に対し、壇上の主は気だるげに紫煙を吐くと、
くぐもった声でそう応えた。
(女……?)
二人のやり取りを見ていたノヅチが、思わず目を丸くして顔を上げた。
壇上、今どき黄金の
悪鬼天魔の名を欲しいままにする地獄の君主には不釣り合いな、細身の美女であった。
天昇る龍の刺繍をあしらった、東方風の黒のマンダリンドレス。
独特の細く歪んだ
金色の豊かな毛髪は頭の上で大胆に束ね、紅に染めた前髪を一筋垂らす。
ド派手なアイラインに彩られた銀色の瞳が、薄汚い槌振りを値踏みするように見下ろしている。
女はだいぶ
魔界の王と言うよりは、奇抜な演出が大好きな芸姫の類に見えた。
訝し気なノヅチの視線に気づいたのであろう。
女はドレスの裾をこれ見よがしに翻して脚を組み直すと、
僅かに身を乗り出して名乗りを上げた。
「余が『魔王』である」
「…………」
「地獄の君主、千の夜の支配者、殺戮と混沌の盟主――。
余を例える呼び名は幾つもあるが
最もシンプルで分かり易い『魔王』の名を、余は大層気に入っておる」
「……イズノハ、ノヅチだ。
槌振りをやっている」
『魔王』を名乗る女の、よく分からない自己紹介に対し、
ノヅチはひどく面白みのない挨拶で応じた。
無論、ノヅチとて馬鹿ではない。
こちらを見下ろす銀の相貌から放たれる殺気の鋭さは、痛いぐらいに感じている。
後方に控えたタタラの肩が、微かに震えている。
蛇に睨まれた蛙、とはこの事であろう。
目の前の女が本物の地獄の君主であるかはともかく、少なくともその気になれば
自分達の命など容易く刈り取れるくらいの実力者なのは間違いない。
それだけに、この女の
どう返したものか、態度を決めかねてしまうのである。
そんなノヅチの居心地の悪さを気にした風も無く、
魔王は一人頷いて、更に言葉を重ねてきた。
「ヒウマンから事の次第は聞いておる。
貴様が余のお気に入りの
「……?」
「壊し……、くっ、カカッ!
カーッカッカッカッカッカッカッ!」
会話の途中で、魔王が突然、破顔した。
呆然とするノヅチたちを置き去りにして、謁見の間に甲高い笑い声が響き渡る。
「カーッカカッッ!!
貴様ッ何だ、そのふざけたツラはッ!
余のお気に入りをぶっ壊してくれた、男の面を拝んでやろうと思ったのに、
誰が
「……ッ! うっせえバーカ!
こっちはテメエのお気に入りにやられたんだよ、この
流石にノヅチもキレた。
人を喰ったような魔王の態度に対し、鼻骨を覆う包帯を指し示して怒りを露わにする。
タタラが後ろでオロオロと首を振っているが、もう知った事ではない。
よくよく思い返してみれば、ノヅチの鼻骨を潰したのは、
怒り心頭に達したノヅチは、自らの記憶を都合よく書き換えてしまっていた。
「カカ、いやいや、人の子にしてはよくやっておるわ。
あの大鎧に遭遇して、鼻の一つで済んだのだからな」
「……槌振りに用があるって言うのは、腕の話じゃないのか?
用があるのが顔だけだって言うなら、俺はもう帰るぜ」
「短命の者どもは相変わらず、話を急ぎ過ぎていかんな。
顔も悪ければ言葉も悪い」
「なんなら育ちも悪いんでな。
なにせ死んだ親父殿は、鉄の打ち方以外、何も教えちゃくれなかったよ」
礼儀知らずの魔王は、ノヅチのその返しだけは笑わなかった。
急に真面目な顔をして頬杖を組み、ノヅチの顔をまじまじと見据えながら言った。
「……
大層な鉄狂いであったと言うのう」
「……!
知ってるのか、親父殿の事を?」
「噂程度にはな。
そうでなければ、貴様如きをわざわざ呼び付けたりするものか?」
ノヅチの反応に満足したのであろう。
魔王は手にした煙管をトン、と叩いて灰を落とすと、
おもむろに腰を上げていった。
「少し散歩でもしようか?
ついて来い、特別に余の別荘を案内してやる」