掌に乗せた一握りの鉄片を呆然と見つめる。
あのヤサでの喧騒の夜、眼前で剛剣を振りかざした悪鬼の名残は何処にも無い。
手にした鉄片からは、人の魂を苛む深海の如き暗さが綺麗さっぱり抜け落ちていた。
「こいつは、しくじっちまったのか?」
「いや……、おそらくはこれが、この鉄の本来の色合いなんでしょうね」
ぽつりと疑念を洩らしたノヅチに対し、ヒウマンが横から覗き込んで答えた。
「あっしも目にしたのは初めてだが、
文献によれば
魔力を帯びやすい特性を持ち、その性質を自在に変える、とも」
「魔力を帯びる……、だとすれば、
あの大鎧に宿っていた黒色の
ヒウマンの言葉を受け、蒼色の鉄を改めて睨み据える。
魔力を付与すると言うのならば、この鉄を鍛えるのは本来、錬金魔術師の領域なのだろう。
魔術の魔の字も知らぬ槌振りが、あの鎧の脅威にどこまで迫れるものか。
だが、魔術云々の話は別にしても、この鉄の鮮やかな蒼には魅力を感じている。
魔王の鎧の暗い地金は、側に在るだけで生気を削がれるような感覚があったが、
この鉄の蒼さには、見る者に可能性を感じさせるような高揚感を憶える。
「それでどうする、親方。
このまま鎧を全部、ガンガン
「いや、取り敢えず試しに一振り打ってみてえ」
タタラの問いかけに対し、ノヅチがちらりと舌を覗かせた。
鉄を握る右手が、ふるりと一つ震える。
打ち手をその気にさせる良い鉄だ。
親父殿が見れば、手を叩いて破顔していた所であろう。
ふっ、と
鉄と火と槌さえあれば、今、自分の置かれた状況など、どうでもよくなってしまう。
槌振りはきっと、そういう生物なのだろう。
・
・
・
「よう、励んでおるか、二代目」
数日後。
あてがわれた鍛冶場に、えらく上機嫌なオーナーの声が響いた。
対し、鉄を見つめるノヅチの顔はみるみる内に暗く沈んでいく。
別にノヅチは、この傍若無人な館の主の性根が嫌いなワケではない。
こいつが人類にとって忌むべき仇敵である、という一点にさえ目を瞑るなら、
表裏のある商人や慇懃無礼な貴族どもよりは、よっぽど好ましい手合いとまで思えている。
だが、だからと言って、うっかり機嫌の一つ損ねれば、
首を落とされかねないような相手の側には居たくない。
まして今は作刀も終盤、火造りに入っている。
倭刀の
……あるいは、この場にタタラが残っていなかった事こそ、幸運と捉えるべきなのか。
一方、唯我独尊な魔王の方は、そんな槌振りの繊細な心など気にする筈もない。
これでもかという程に豪勢な
「阿呆か、折角の一張羅が穴だらけになるぞ」
「カカ、まあ気にするでない。
余は金糞をマトモに浴びるほど、どん臭くはないわ」
ぶっかけてやろうか。
ノヅチは魔王の言葉に苛立ちを憶え、しかしすぐに目の前の灼けた鉄に視線を戻した。
確かに自分は、まだまだ未熟だ。
これが亡父、サイヅチであったなら、背後にいるのが魔王であろう巨竜であろうと、
手にした槌と鋏から、意識を割いたりしないであろう。
心を鉄に寄せ切れていない、槌振りとしての純度が低い。
ノヅチの微妙な心理の変化に気が付いたのか、
魔王は無駄口を止め、肩口からそっと刃を覗き込んだ。
手鋏に咥え込まれた白熱する鉄塊は、熱心な手槌によって打たれて延び、
徐々に小刀の姿に整えられつつあった。
ふへっ、と魔王の口元に微笑が浮かぶ。
「なんじゃ、随分と執着しておると思ったが、
随分と可愛らしい得物を拵えておるではないか?」
「打つ前に言ったが、こいつはまだ試作だよ。
なにせこっちは、魔蒼鉄なんて洒落た代物を鍛えるのは初めてなんでな」
「……で、その刃渡りをどこまで伸ばせば、親父殿の背中に届きそうなのだ?」
嘲るように、魔王が言った。
父の鍛えた黒鋼と、今、ノヅチが執心している魔蒼鉄。
聡明なる魔王の中では、打ち鍛えるまでもなく、既に優劣がついていると言いたいのだろう。
「その、魔王の鎧だがよう」
「うむ?」
「鎧の由来、仕手が何者なのかは伝わっていないのか?」
「さて……、魔界でも由緒ある大鎧とだけは知られていたが。
だが、それがどうした?」
「解体してみてわかったよ。
あれを世に送り出した奴は、とんでもない職人だ、感服したよ」
率直にノヅチが、先人への敬意を述べた。
当初ノヅチの頭には、あの大鎧の打ち手は、鮮やかな蒼を暗黒に塗潰した恐ろしき魔術師、
というおぞましい先入観だけしか無かった。
だが、実際に颪した鉄を間近に観て、初めて気が付く創意もある。
「あの大鎧に使っていたのは、単一の魔蒼鉄じゃないな。
実際に魔力を放つ指先を覆う、籠手の地金は原石に近く。
対し、兜や胸甲といった急所を守る部分には、鋼を混ぜて強度を底上げしてやがった」
「ほう?」
「見事なモンだよ。
魔力を帯びるという鉄の特性を踏まえた上で、
鉄の短所を補う術を、魔術以外に求めている」
合金。
鋼を混ぜると一口に言っても、実際にそれを為すのは並大抵の事ではない。
最適なる素材と配合の比率、颪方の工夫を求め、世の刀工はその生涯を費やすものだ。
魔蒼鉄を颪し直して見えてきたのは、単なる魔術師の枠を超えた純真なる探究者の姿であった。
「ふむ……、そこまでは余も流石に気付かなんだが、
しかし一介の鎧打ちの工夫が、刀工の貴様に関係あるのか?」
「大有りだよ。
折れず、曲がらずを標榜する俺たち刀工にとっちゃあ。
この自由自在な鉄は正しくうってつけだ」
言いながら、目の前の鉄を打ち付けると、まさに響くような手応えが返ってきた。
柔軟な
合金によって奔放に性質を変える魔蒼鉄は、魔力を帯びるという特性を抜きにしても、
倭刀に用いる事でその真価を開花できる鉄に思われた。
魔王は暫く、そうしたノヅチの訥々とした説明を辛抱強く聞いていたが、
その内に、ふへら、と邪悪な笑みを浮かべて呟いた。
「成程な。
だがそれならば、足りぬのは鉄ではなく、貴様の腕の方か」
「……何だと?」
「カカ、
その素晴らしい鉄をどう鍛えればよいか分からぬと、正直に言ったらどうだ?」
魔王の言葉に対し、ノヅチは思わずむっつりと押し黙ってしまった。
今、手の内にあるこの鉄に魅力を感じている、というのは嘘ではない。
倭刀に向いた素材に加え、魔力を帯びる特性には、
確かに古今の刀工の常識を超える可能性を感じている。
だが、その可能性というのは、あくまで人類が扱う武器としての範疇に留まるものだ。
先日、目の前の魔王が垣間見せた規格外の膂力に対し、そのような小細工が必要であろうか?
魔王の怪力を活かすのに最適な武器があるとすれば、ひたすらに重く、長く、頑丈な得物、
それこそ亡父の鍛えた、あのバケモノ野太刀、という結論になるのではないか?
人の子が怪物を討つ為に鍛え上げた一振りを、誰よりも使いこなせるのが、
よりによって人類の脅威たる魔王、というのは痛烈な皮肉ではあるが。
むっつりと押し黙ってしまったノヅチに対し、魔王は再び意地悪い笑みを浮かべると、
その耳元に顔を寄せて、そっと囁きかけた。
「ノヅチよ、今晩は時間を空けておけ」
「なに?」
「余が何たるかを知りたいのだろう?
貴様には余の、とっておきを見せてやろう」
慮外の言葉に振り向くと、魔王は既に踵を返し、鍜治場から姿を消し去っていた。
ざらり、と久方ぶりに心胆を削ぎ落すようなざらついた予感を覚えた。
正直、そんな命がけの晩餐会に付き合いたくはないが、
元よりノヅチに断る権利などは与えられていないのだろう。
何より、現状を打開する術を見つけられねば、遅かれ早かれ、ノヅチは殺される。
鉄を打つには、誰よりも鉄の本質を知らねばならないように、
魔王に相応しい武器を打つには、虎穴に入り、魔王の何たるかを知らねばならないのだろう。
「鉄、冷めてるよ」
いつの間にか室内に入ってきたタタラが、ぽつりと呟いた。
我に返ったノヅチが、慌てて鉄を
「親方……、せめて真打を鍛えるまでは死なないでね」
心ここに在らず、と言った風のノヅチを見下ろしながら、
複雑な表情のタタラがしみじみと嘆息した。