星鍛目録ー野槌と隕鉄ー   作:いぶりがっこ

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34話「夜会」

魔王が夜会に指定したのは、沼沢を望む風雅な楼閣であった。

 

朱色の木柱に支えられた東方風の伽藍。

壁は無く、満月を映した静謐な水面を一望できる。

 

ひゅう、と涼やかな夜風が緩やかに吹き抜け、日中の疲労を奪い去っていく。

風流な光景を前に、ここが何処か、何者の棲家なのかも思わず忘れてしまいそうになる。

 

「カカ、ようやく来たか、槌振り。

 余を待たすとは、大した男よのう、貴様は」

 

楼閣の中央から、気だるげな女の声が聞こえた。

銀の瞳から向けられた視線が、緩みかけたノヅチの意識を現実に引き戻す。

月下に映る声の主を見定め、そして思わず鼻白んだ。

数刻ぶりに姿を現した館の主は、すっかり()()()()を終えた後だった。

 

黒を基調とした打掛を大胆に着崩した東島(アズマ)の装束。

真っ赤な帯を胸の前で結び、鮮やかな金襴が花鳥風月を描く。

艶やかな金髪を奔放に結い上げ、お気に入りの煙管(キセル)を得意げに燻らせる。

 

長い隠遁暮らしとは言え、幽世(かくりよ)での生活はそこまで退屈なのだろうか?

目の前の女は、世界を震撼させた魔王と言うよりは、

やはりただの派手好きな遊女にしか見えなかった。

 

「まま、いいから早う、座れ」

 

妙に上機嫌な声に促され膝を屈すると、膳の上には不釣り合いなグラスが置かれ、

彼女はそこに、なみなみと葡萄酒を注いできた。

訝し気に見上げると、魔王はニコニコと笑みを浮かべ、無言でノヅチを促す。

 

透明なグラスにたゆる、血のように赤い液体――

ちらり、と嫌な予感が脳裏をよぎった。

過去、ノヅチは異性の酌で呑んだ酒に関して碌な記憶が無かった。

 

だが、元より今の状況下で、ノヅチに選択肢は無い。

目の前に居るのは、その気になれば容易く自分の頭部を叩き潰せる女なのだ。

見すぼらしい槌振り一人を苛めるために、このような手の込んだ罠を仕掛けはすまい。

なけなしの悪魔の良心に期待を篭め、ノヅチは一息にグラスを呷った。

 

――美味い酒、だったと思う。

正直、西方の酒の善し悪しなど分かる由もないノヅチであったが、

少なくとも口当たりで分かるような違和感は無かった。

ほう、と小さく安堵を吐いたノヅチを嘲るように魔王が嗤った。

 

「カカ、嗜みの一つも分からぬのか?

 今宵は折角、余の秘蔵の逸品を用意してやったと言うに」

 

「……生憎と、育ちが悪いんでな。

 酒の味も、こういう場での教養もねえんだ」

 

「まあ拗ねるな。

 余の方とて、貴様に教養など初めから求めてはおらぬ」

 

そう言って、魔王は膳の前に一振りの剣を置いた。

グラスを下ろしたノヅチの目に真剣な色が宿る。

 

「肴の代わりだ。

 貴様にはこちらの方が愉しめよう?」

 

魔王の言葉を受け、手にした剣を鞘から引き抜く。

灯の下、鈍い光を備えた刃が露わとなる。

 

西方の伝統的な幅広の長剣。

使い込まれた渋い地金に視線が吸い込まれる。

 

いい鋼だ……、とは思う。

西方の武具に疎いノヅチの目にも、手にした鋼の確かさは分かる。

 

だが、それだけだ。

かつて小人族(ドワーフ)の工房で見たドワーフ鋼の大剣のような、

手にした者の魂を震わすほどの、煌びやかな高揚感は無い。

 

年季の入った、丁寧に鍛えられた長剣、本当にそれだけの剣。

天下の宝物を蔵一杯に蓄えた魔王が、殊更にひけらかす程の代物には思えない。

なぜ魔王は今、この剣を自分に見せようとしたのか……?

 

(……いや)

 

ふっ、と微かな違和感を憶えた。

物足りないのは、単に地金の格の問題なのだろうか?

 

目の前の古びた長剣には、ただの量産品と割り切るには惜しいような見落としを感じる。

それは、長年培った知識や経験とは一線を画する、何とは無しの霊感の領域。

鉄自体が、何らかの秘めたる力を発揮できていないようなもどかしさ。

 

父ならば、この胸を蝕む焦燥感を、どう例えるであろうか?

或いは……

 

「……この鉄は、()()()()()()()()()()()()()()?」

 

ぽん、と思いもよらぬ言葉が口を突いて出た。

理屈も根拠もない軽薄な一言。

しかし、何故か今のノヅチには、それが一番正解に近い表現に思えた。

 

ちらり、と先日の朽ちた魔王の鎧(リビングアーマー)の姿が脳裏に浮かんだ。

目の前の剣は、目立った瑕こそ無いものの、あの鎧の風体にどこか似ている。

この長剣を構成する、決定的な何かが失われてしまっているのではないかと思えた。

地金から本来の剣気が抜け落ちてしまった、抜け殻のような刃。

 

「死んでいる、か。

 中々に面白い言葉を使うではないか」

 

ノヅチの評に対し、魔王は一瞬、目を丸くしたが、

すぐに不敵な笑みを浮かべ直してグラスを掲げた。

 

「その剣の真の名は『聖剣ソルスティア』

 三百年前、余の命を極限まで追い詰めた、人類史上最強の一振りよ」

 

「聖剣……ソルスティア……?」

 

慮外の言葉を、呆然と口中で反芻する。

ソルスティア。

西方に住まう者の中に、その剣の名を知らぬ者は存在しない。

 

かつて、偉大なる勇者がその命と引き換えに、魔王を退けたと謳われる伝説の聖剣。

数々の伝承、詩人の賛美に包まれた奇跡の正体が、今、ノヅチの目の前にあると言う。

 

「これが、世界を救った剣……?

 幻の『神鎮鉄(オリハルコン)』を鍛え上げた、世に二振りと存在しない奇跡の刃……?」

 

魔王の言葉を受け、手にした剣を改めて覗き込む。

だが、どれほどに目を凝らし所で結論は変わらない。

いささか気になる所はあれど、伝説に名を刻めるほどの大層な鉄とは思えない。

 

「正直、どうもピンと来ねえ。

 こんなありふれた剣が、本当にお前を死の淵まで追い詰めたっていうのか?」

 

「カカ、貴様自身が言うたではないか?

 その剣を構成する神鎮鉄は、既に死んでおるのだよ。

 悪しき者の野望を砕き、この地上にただ一人の主を失った時、聖剣は役割を終えた。

 今、貴様が手にしておるのは、かつての記憶の残骸よ」

 

そう嘯いて、そっと地金をなぞる魔王の瞳に、奇妙に澄んだ輝きが宿るのをノヅチは見た。

 

「――かつて、人類の叡智が練った神鎮鉄を、

 剛力無双の豪傑が、七日七晩かけて鍛え上げ、

 穢れ無き聖女の祈りを神秘に代えて、鞘へと納めた奇跡の剣。

 その刀身には日輪の輝きが漲り、灼熱の斬撃は破邪の気に溢れ、

 あらゆる悪逆を一刀の下に葬り去る」

 

ふるり、と刃をなぞる魔王の指先が微かに震えた。

思わずノヅチがはっ、と顔を上げる。

 

震えていた。

地上の悪逆を統べる天魔を自称する女が、己が身を襲った戦いの記憶に震えていた。

じっとりと額に滲む汗に前髪が張り付き、

だが口元には相変わらず笑みを浮かべ、瞳には熱っぽい輝きすら宿る。

 

「偉大なる英雄王生誕の時代より、三度。

 日が欠ける度に、余は地上に降り、人類と干戈を交えて来た……。

 だが、余が心の底から死を覚悟したのは、三百年前のあの一戦だけだ」

 

「…………」

 

「分かるか、ノヅチよ?

 魔界の君主を自認する余が、初めて畏れというものを知ったのだ!

 命儚き人の仔が、手に手を取り合い、命を繋ぎ、

 やがて一つの奇跡となって、強大な敵を打ち破る。

 あの偉大な勇者の振う聖剣の煌めきが、どれほどに美しく! 恐ろしかったか!

 その剣の全盛を知らぬ貴様には、到底理解できよう筈があるまいなッ!」

 

饒舌な台詞は仇敵への賛美に変わり、

女の瞳は熱病にでも浮かされたかのように潤いが満ちる。

魔王の豹変を、ノヅチはただ茫然と見届ける事しか出来ない。

 

まるでいつかの亡父のようだ、と、場違いな思考が脳裏をよぎる。

だが、そんな上機嫌な魔王を見ている内に、細やかな疑問の一つが氷解した。

 

「……だから、なのか?」

 

「何だと?」

 

「勇者たちの紡ぐ奇跡が見たかったから、そんな理由で、

 三百年前、お前はあの大鎧を纏わなかったっていうのか?」

 

「カカ、そう熱くなるな、槌振りよ」

 

問い掛け、というより糾弾に近いのノヅチの言葉に対し、

魔王は先程までの興奮が嘘のように平静を取り戻していた。

 

「言ったであろう?

 アレは余にとって武具ではなく、玩具よ。

 人は武具を纏って、初めて魔物と五分――。

 生まれついての強者である余が、最強の鎧に身を包むのは、フェアではない」

 

そう飄々と言い放つ強者の姿を、ノヅチが憮然と睨み据える。

三百年前の人類側の勝因が、対等の戦いを望む魔王のプライドにあったと言うのならば、

その傲慢を責めるのは筋違いであろう。

 

もしも目の前の女が、用心深く、人の光に微塵も興味を持たぬ冷血漢であったなら、

おそらく人類は敗れ、ノヅチはこの世に生を受ける事すら無かったかもしれないのだ。

 

(だが……)

 

だが、それならば……。

槌振りとしての自分は、どこに足場を固めれば良いのだろうか?

 

「余に見合う業物を一振り仕上げろ」と、魔王は言った。

だがその魔王自身は、本物の武具など一切必要としていない。

 

父の黒刀も、あの魔王の鎧すらも、

彼女の中では「替えの利かぬ玩具」としてのみ価値を有している。

 

人斬り包丁に過ぎない倭刀に、もしも美醜があると言うならば、

それは剣という存在が、仕手にとっての牙である、という一点に尽きるであろう。

 

ただ生き延びる為に牙を剥き、必死で爪を振るう獣の姿が美しいように、

人の戦う意志を鋼に宿した剣の姿は、それだけで見る者の心を惹き付ける。

だが爪や牙をも凌ぐ強大な力を有する魔王は、弱者の輝きなど初めから必要としていない。

 

ノヅチは鍛冶屋だ、玩具屋ではない。

弱者の為の牙を鍛える槌振りが、この眼前の絶対強者に対し、

一体どのような輝きを与えてやれると言うのであろうか?

 

「――もっとも、類稀なる絆の力で余を退けた人類だが、

 その後の歴史は、何とも冴えないものであったかな」

 

ノヅチの心理を知ってか知らずか、魔王が一人、手酌で語り続ける。

 

「あの素晴らしき勇者は、己が一命と引き換えにして余を退けたが。

 親友を失った戦士はその後、諸陣営の思惑に揉まれた挙句、下らぬ戦争で命を落とし。

 穢れ無き聖女は権力者の神輿となるのを拒み、市井の一員として慎ましやかな生涯を終え。

 元より偏屈であった人類の叡智は、戦いの後、二度と人々の前に姿を見せる事は無かった」

 

「…………」

 

「死に損なった猟犬の末裔は……、と。

 彼奴と魔王の鎧の顛末については、貴様も既に知る所であったか」

 

そう言って、くつくつと笑いをこぼすと、魔王は聖剣を鞘に納めた。

かつての聖剣を鍛えた英雄たちは既に無く、故にこの剣が奇跡を取り戻す事は二度と無い。

おそらく魔王は、そう言いたいのであろう。

 

「結局の所はのう、ノヅチよ、人類には余が必要なのだ。

 地上を覆い尽くすほどの巨悪と絶望が無ければ、人々は心を一つに出来ぬ。

 絶えず命の危険に曝されていなければ、喉元の熱さが過ぎてしまえば、

 人の仔は真にかけがえのない存在を、容易く忘れ去ってしまう」

 

「無茶苦茶だろ、それは」

 

いかにも人外の君主らしい、傍若無人な物言いに、さしものノヅチも反駁した。

漂泊の槌振りが二十年、辛うじてこれまで生きてこれたのは、

決して自身の才能に依る所ではない事をノヅチは知っている。

 

自身を支えてくれた者、道を示してくれた者。

旅先で出会った、様々な人たちの、尊き想いの実在をノヅチは知っている。

 

「お前らにとっちゃあ三百年なんぞ、大した時間でも無いかもしれないが。

 人々はその間、子を為し、育て、先人たちの想いを今日まで必死に継いで来たんだ。

 その営みが繋いだ三百年がくだらないなんて、俺にはとても言えねえよ」

 

「凡人にはな。

 だが、平和と言う名の停滞は、尊き花々を無惨にも泥水の底に引きずり込む。

 その憐れな犠牲の代表格が、かつての英傑たちであり、

 最も身近な例が、貴様の親父、出乃羽才槌だ」

 

不意に突き付けられた鋭い視線に、じくり、と胸が軋んだ。

 

亡父、サイヅチは、確かに共同体の輪の中で生きられるような人間では無かった。

そして、そんな狂人の才能を誰よりも評価しているのが、目の前の人外である。

「乱世に生まれるべきだった」という彼女の評が、サイヅチという人間を端的に現している。

 

「ノヅチ、余に仕えよ」

 

眼前の魔王はそうさらりと言って、空になったノヅチのグラスを再び満たした。

 

「平穏な時代の倭刀など、所詮は壁の飾りでしかない。

 何よりこうして、余に悪態を吐けるたわけ者は、人里にも稀であるからな」

 

「断る!」

 

身勝手な魔王の物言いを、ノヅチは一言で斬って捨てた。

一瞬、死を覚悟したが、魔王はさして気にした風でも無かった。

 

「生憎と俺はお前が考えてるほど、人間を嫌っちゃいねえよ。

 この世界には友人も居れば恩人だっている。

 彼らに顔向けできないような生き方をして、

 それで大業を為したからって、何になるって言うんだ?」

 

「カカ、随分と大層な物言いだが。

 ならば貴様は今の自分の立場を、どう先人に言い訳するつもりだ?

 己が命惜しさに悪魔に魂を売り渡すのが、まっとうな槌振りの生き様か?」

 

「……正直、成り行きを見て、どこかで脱走(フケ)るつもりだったさ。

 お前が、親父殿の黒刀を持ち出すまではな」

 

そう言い返すノヅチの瞳に、真剣な色が宿った。

少なくとも、彼女が亡父の名を出した事により、

ノヅチの中で、魔王と相対する意味は変わった。

 

「悔しいが、今まで出会った人間の中で、

 お前ほど親父殿を評価してくれた奴はいねえ。

 そのお前が、父を超える倭刀を打てというのなら、それは俺に課せられた試練だ。

 誰に言われたワケじゃねえが、勝手にそう思わせてもらう事にしたよ」

 

「カカ、下らぬな。

 天命だの試練だの、人の子はいつも世界を窮屈に縛り、

 さもそこに己の生まれた意味があるように言い訳しよる」

 

「何とでも言え」

 

魔王の嘲りで満たされたグラスを、今度は躊躇わずに飲み干した。

親父の義理には応えるが、それ以上、人類の敵には与しない。

言うべきことは、それで全て伝わったであろう。

 

「おい、ノヅチ――」

 

魔王の呼びかけを遮って、すっくと身を起こした。

瞬間、ぐらりと視界が揺らいだ。

膝から力が抜け、体が傾ぐ。

 

「っと」

 

崩れかけた体を、魔王に優しく抱きかかえられた。

ふわり、と甘い腐臭が鼻腔をくすぐる。

世界が薄桃色の蒸気に満たされ、どうしようもなく胸が滾り、思考が回らない。

 

「カカカ。

 貴様は本ッ当にどうしようもない阿呆よのう。

 魔族の呉れた盃を、馬鹿正直に飲み干す奴があるか?」

 

「なん……だと……?」

 

(ドラッグ)を司る鬼の王、煩悩と色欲の権化、第六天の主。

 色々と名はあれど、欺き、愛し、欲し、求め、惑わし堕とす事こそ魔界の王の本懐よ。

 ノヅチよ、貴様の気高き信念、古の賢者のように貫き通す事が出来るかのう?」

 

「ふ――!」

 

ふざけるな、と開きかけた口中を二本の指で優しく塞がれた。

呂律が回らず、顎に力が入らない。

チカチカと視界が明滅し、世界が幾重にも遷ろい始める。

 

どくり、と煮え滾る心臓が屈辱に震えた。

こんな形で(みさお)を奪われ、魔界の主にかしずくなど、死んでも御免だ。

だがどうすればいい?

 

雌を抱き、仔を無し、生命を繋ぐは遍く全ての獣の本能。

桃色の景色の中で、魔王のはだけた上着から、柔らかな大ぶりの果実が揺れる。

ノヅチの子槌は、既に臨戦態勢に入っていた。

三千世界の色欲の主に抗うには、ノヅチは余りにも女を知らない。

 

身動き取れぬ肉体に反し、五感は繊細に冴え渡り、敏感に刺激を求めて騒めく。

指先一つ動かせぬ状況下で、必死に過去の記憶を探る。

 

考える、その行為を止めた瞬間、ノヅチはたちまち快楽の波に押し流されてしまうだろう。

今この瞬間、必死に思考を巡らす事だけが、辛うじて人を人たらしめている。

とりとめの無い記憶の波が、ふわふわと揺れるノヅチの心に浮かんでは消える。

 

偉大な魂を宿した、金髪の青年。

心震わす、竜の胎のように巨大な、小人族の大窯。

おっぱい。

天高くそびえ立つ、鉱と樹の交じり合った、巨大な古木。

紅の空を映すような、赤錆た戦慄の刃。

凄い膝。

蕩けるような、果実の匂い。

振り下ろされた剛剣の唸り。

喉を責める柔らかな指先。

刃を突き付ける真っ直ぐな少女。

「ホー! ホー!」

古斧の黒く美しい地金に、すべすべした白い肌。

隕石が、甘く、吐息が――

 

 

――清澄な満月の輝きで満たした、静かな湖畔。

 

 

爪先から水面を滑る、水鏡の波紋。

月明かりの舞台に照らし出された、白く華奢な体。

 

月光浴。

軽やかに踊る、少女の姿。

 

月の光を孕んで千々に煌めく、霊銀(ミスリル)の髪。

紅玉(ルビー)の輝きを閉じ込めたような、どこまでも澄んだ瞳。

 

この世界に、ただ一人の君。

網膜の底に焼き付いた、消す事の出来ぬ、唯一無二の少女――

 

 

「おい」

 

不意に耳元に、地の底から響くような重苦しい声が届いた。

間を置かず、魔王の二本の指先から伸びた爪が、どす、どすっと音を立て、

ノヅチの頸の両脇を突き抜け、床板を貫いた。

 

「貴様……、今、よもや他の女の事を考えておったか?

 他の女を想いながら、余の体で至そうとしておらなんだか?」

 

「…………」

 

詰んだ。

 

掠めた首筋に熱いものが走り、じわり、と血玉が浮かぶ。

静かな殺気を前に、一瞬で酔いが醒めた。

ノヅチの子槌も大人しくなった。

 

思考がまともに回らない。

おかしな言い訳などをした瞬間、自分の頸はすっ飛ぶ事になるだろう。

 

終焉。

理不尽。

 

死――

 

「こン畜生ッ!!」

 

どくり!

心臓が吠えるままに、ノヅチは叫んだ。

 

瞬間、魔王の指先は二匹の蛇に変わり、ノヅチの頸筋をしゅるりと締め上げ、

そのまま床板に叩きつけてきた。

首が締まり、息が詰まる。

それでもノヅチは喉が潰れんばかりに叫んだ。

 

「ふざけるなッ! こんなッ こンな非道い事をしていいハズが無いだろッ!!

 人間には越えちゃいけねえ一線があるンだ!

 そこを踏み躙られたら、殺しあうしか無いじゃねえかッッ!」

 

「何を青臭い事を……?

 たかだか快楽を貪り合うだけの繋がりに」

 

「ああ、そうだろうよ!

 手前(テメエ)らクソどもにとってはなあッ!

 生殖なんぞ、ただの行為で、遊戯で、本能の一部に過ぎねえだろうよ!

 だが人の子が、そこにどんなかけがえの無い意味を求めているか、

 化物どもには分からねえだろ!」

 

首元を締め上げる大蛇に抗い、身を乗り出して必死に喚く。

こうまでも決裂してしまった以上、自分は次の瞬間には殺されているだろう。

だからこそ抗い、足掻き、最後の最後まで喚いてやる。

 

自分が何に怒っているのか。

魔王に殺された者たちが、何を抱き、思っていたか。

目の前の傲岸不遜は考えた事すらないだろう。

 

思い知らせてやる。

俺の最期は、何千年生きても忘れられないような()()()()にしてやる。

 

「何が手と手を取り合う奇跡だッ! 人の絆の美しさだッ!

 手前は所詮、薄汚く浅ましいだけの化物だ!

 胸を裂き、血の一滴まで捧げつくしたい相手がお前にいるのかッ!

 想い人に触れ合えぬしんどさ、切なさが手前に分かるのかッ!

 分からねえだろ! 何千何万年生きた所で、化物風情に人の心が理解できるもンか!」

 

「…………」

 

「この莫迦!阿呆ッ!悪魔!外道!大たわけ!

 鬼畜!屑!天魔!あばずれ!淫売!下種(ゲス)売女(バイタ)!腐れ女陰(ホド)ッ!

 手前に出来るのは、人様が大切にしてる宝物を、平気で踏み躙る事だけだッ!

 搔き集めたガラクタの山の中で、一生お山の大将でも気取ってろッッ!!」

 

呂律の回らぬ舌先で、ありったけの生ゴミを目の前の女に投げつけた。

もはや語彙も尽き、何の罵倒も思いつかない。

はあ、はあ、と大きく息を吐き、どうにでもしろと大の字になる。

空っぽの肉体を撫ぜる夜風と、沼沢のせせらぎが妙に心地よい。

 

どれほどの時間が流れたであろうか。

予期していた処断の時は、一向に訪れなかった。

訝し気に体を起こすと、首元の大蛇がだらり垂れ下がった。

 

「……で、あるか」

 

魔王は俯き、ノヅチから視線を外し、力なくそう呟いた。

二匹の蛇をしゅるりと指先に戻し、はだけた上着を戻し始める。

 

一体、どうしたと言うのであろうか?

 

今、ノヅチの眼前に居るのは、すっかりしおらしくなってしまった只の女だ。

かつて幾度となく全世界に喧嘩をふっかけ、

その度に人類を破滅の極限まで追い詰めたという天魔の姿は微塵もない。

 

「ほれ」

 

魔王が袖口から鼻紙を取り出し、ノヅチの前に差し出してきた。

慌ててごしごしと両眼を拭い、受け取った鼻紙に、ぶひゅうっ、と哀しみの残滓を吹き出す。

 

一息吐いて顔を上げると、魔王はノヅチの小刀を手にしていた。

さきほどの擦った揉んだの中で、いつの間にか板間に転がってしまったのだろう。

 

反射的に奪い返そうと、伸ばしかけた右手を止める。

目の前の女は、人の命も感情も顧みない糞だが、目利きとしては悔しい位に誠実だった。

 

そっと鞘を引き抜くと、青白い光が魔王の顔を照らし出した。

かのヒウマンが「おっかねえ」と評した退魔の光を、怯む事無くねめつける。

 

「小癪な小娘め……」

 

しばらくの間、魔王は刃を睨み続けた後、

そうぽつりと呟いて、ノヅチに小刀を投げ返してきた。

 

「いいだろう、槌振りよ。

 その霊銀の護り刀に免じて、貴様の貞操だけは勘弁してやる」

 

「一体、何の話だ……?」

 

「世の中には、童貞にしか打てない太刀もあろうという事よ。

 今の未熟な貴様がサイヅチの業に比肩しうるとすれば、その一点のみだ」

 

魔王はそれだけ言い残すと、そのまま振り返りもせず楼閣を後にした。

閑散とした夜会の跡を、涼やかな風が虚しく吹き抜ける。

 

「何だってんだ、一体……」

 

小刀を胸元にしまい直して、ぽつりと一つ、愚痴をこぼした。

じっとりと額に汗が滲む。

気が抜けたせいか、再び悪酒の揺り戻しが来たようだった。

ノヅチの意思とは無関係に、女たちの顔が浮かび、容赦なく心を搔き乱す。

 

先刻の、力無くうな垂れてしまった、女の横顔。

百戦錬磨の大魔王が、なぜ人の子の罵倒如きで、あのような表情を見せたのだろうか……?

 

 

『――ノヅチ、一つだけ誓うてくれるか?』

『――ただ一つ、妾の事を想う、と』

 

 

「うぶっ!」

 

唐突に、いつぞやの少女の言葉が脳裏をよぎった。

瞬間、凄まじい吐き気が込み上げ、堪らずノヅチは欄干に走った。

 

「うガッンゲェッ!」

 

喉を焼く胃酸を、嫌悪感もろとも水面に吐き出した。

欄干にもたれかかり、力無く板の間に膝を突く。

 

酒に酔った訳でも、媚薬に当てられた訳でもない。

自分を慕う女の情を、一方的に踏み躙った罪悪感に耐えられなかった。

 

「バカか……」

 

口元を拭い、必死で頭を振るう。

そうだ、あの時とは状況がまるで違う。

踏み躙られたのも、犯されそうになったのも自分の方だ。

そもそも奴は人類の仇敵、数多の無辜の命を奪い続けた唾棄すべき悪魔ではないか。

 

だが、全ては言い訳だと心が言っている。

魔王がどれほど残虐な女であろうとも、自分が彼女を傷つけたという事実は消えない。

貞操の危機が呼び起こした、鮮烈な少女の想い出は、容易には消えてくれそうに無かった。

 

だのにまだ、ノヅチの肉体は媚薬の影響に震えていた。

切ない記憶と裏腹に、肉体は繋がる相手を求めて夜啼きしていた。

 

自分は浅ましく、どこまでも惨めなケダモノだ。

心と体がバラバラで、どうにかなってしまいそうだった。

 

「チキショウッ」

 

ノヅチは一声叫ぶと、上着を脱ぎ棄てそのまま欄干を踏み越えた。

月下の沼沢にザブンと飛び込み、闇夜の水底に体を沈める。

 

身を切るような冷たい水が、ノヅチの体に纏わりついた熱を奪い、慰める。

焼け付いた鉄が水船の中で刃となるように、ノヅチの心が急速に冷え、鋼となっていく。

 

そうだ。

今の自分に感情はいらない。

身も心も冷徹な、鋼の太刀に為れば良い。

暗く冷たい水底で、槌振りとしてのノヅチの頭脳は、急激に回り始めていた。

 

完全無欠に見えていた、魔王という女の、重大な弱点。

魔王の為に打つべき太刀は、それを補う為にこそある。

父の鍛えた黒刀は、魔王の名に相応しい大太刀だが、魔王の為にあつらえられた太刀ではない。

攻略の糸口はそこにある。

 

水底から見上げると、水面には青白い満月の光が揺れていた。

ノヅチにはそれが、一握りの光明に見えた。

 

 

 

 

 

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