白砂の上に、言いようのない緊張感が満ちていた。
四方を囲む壁は高く、四角に切り取られた晴天から、眩い陽光が照り付ける。
屋外にありながら、息の詰まるような圧迫感を覚える。
ボルディノ要塞。
皇都より二日の距離にあり、東方から迫る敵勢を喰い止める要衝である。
もっとも、魔王軍の攻勢を退けた三百年前に、要塞は拠点としての役割を終え、
現在は政治犯を都から隔離するための監獄として機能している。
今、ノヅチが居るのは要塞の一角。
かつて兵たちがその技を磨いた訓練場の跡であり、
今は曰くつきの囚人を人知れず処すための刑場であった。
ちらり、と傍らに立つ黒衣の青年を上目で見やる。
青年の額にはやはり汗一つ無く、ただ無謬の瞳を刑場の中央に向けている。
先日より一尺伸びた黒鞘の柄に、処刑人を示す白銀の鈴が鈍く光る。
鍛え終えた新刀を見せた時も、青年は無言であった。
ノヅチは一瞬、何かをしくじったかと思ったが、すぐに思い違いに気付いた。
準備は為った、と言う事だ。
ただ一人の恩人を斬るための、全ての条件が整ったのだ。
それでノヅチは無理を言って、処刑人の一行に、ひそかに加えてもらったのだ。
今さら侯爵家に恨みがある訳でも、父の死の真相に迫りたい訳でもない。
ただ、見届けるべきだと感じていた。
常に何者をも斬れる倭刀を目指しているノヅチであったが、
誰を斬るかが定められている刀を打ったのは、初めての事なのだから。
「刻限だ」
監査役の役人が横目を向けると、傍らの老司教が静かに頷いた。
刑場を見つめるノヅチの体に緊張が走る。
「これより、処刑を執り行う」
監査役が高らかと宣言すると、まず、大柄な獄吏が姿を現し、
その後ろに、簡素な身なりの受刑者が続いた。
受刑者の背丈は、前を行く獄吏の半分ほどしかない。
刹那、鉄槌でぶっ叩かれたような衝撃がノヅチの頭部に走った。
刑場に向かう罪人の姿は、遠目にも幼い。
ルヴェン侯爵家最後の当主は、ようやく十を過ぎた頃の少年だった。
(おのれッ!)
カッ、と頭が真っ白になり、勢いのままノヅチは体を起こそうとした。
瞬間、脊椎に煮えた鉛でも流し込まれたかのような激痛が走った。
息が詰まり、声一つ立てられない。
震える五体を抑え、かろうじて首を回すと、肩口を処刑人の白い右手に抑えられていた。
元は東方の神医が編み出した技で、五体に点在する龍脈を抑える事で、
興奮した患者を制圧する技術であったという。
激痛に抗い、必死で顔を上げると、マニングは哀し気な瞳を向け、無言で首を振った。
知っている目だ。
その哀しみの色を、ノヅチはかつて、確かに見た事があった。
一族の掟に背いてまで、ただ一人の妹を救おうとしていた、
運命に最後まで抗おうとして、救いきれぬ存在を知ってしまった者の瞳である。
国家反逆罪は大罪だ、その累は一族に及ぶ。
残酷な話ではあるが、そうしなければ禍根を残す。
愚かな仏心を見せた結果、戦乱に塗れ、一族郎党を滅ぼされた物語など東西に暇が無い。
偉大な勇者と魔王の死より三百年。
哀れな犠牲者たちの無念の涙を吞み込みながら、人の世はこうして太平を維持してきた。
それでも、忍びなかったのであろう。
侯爵家にまつわる罪人全てが処されてなお、少年だけは最後の最後まで残された。
傍らのマニング以外にも、少年の助命を嘆願する声もあったのかもしれない。
全ては終わった後である。
最後にしゃしゃり出てきた刀鍛冶に、この処刑をどうこうする資格はない。
感情のままに暴れれば、ノヅチは死に、マニングはその責を負い、
少年は改めて断頭台の露と消える事であろう。
マニングが最後まで拘り続けた、せめてもの一太刀も無駄になる。
剣は凶器。
自分の打った刀が、いつか、どこかで、このような惨劇を繰り広げている事を知りながら、
それでも刀を打つ事を止めなかった槌振りに、何を止める資格があろう。
『真に救いを必要しているのは彼らじゃ、妾ではない。
何故に妾の運命だけを見過ごさぬ?』
かつて、白銀の巫女がそう言った。
ノヅチにとって、あの少女の命と、目の前の少年の命は等価ではない。
ノヅチが己の全てを捨ててでも抗うべき場面があったとすれば、三年前、あの鉱樹だった。
少年の何を救うべきか、それを決める役目はノヅチではない。
ノヅチの体から力が抜けたのを確認すると、青年は右手を離して視線を戻した。
刑場ではちょうど老司教の説法が終わろうとしている所だった。
「何か、最後に言い残す事はありますか?」
司教が問うと、少年はちらり、とこちらに視線を向けた。
「おそれながら、処刑人の倭刀を見せていただけないでしょうか?」
「倭刀を? しかし、それは一体……?」
受刑者の思いもよらぬ要望に対し、老司教は戸惑いの声を漏らした。
対し、少年は初めから用意していた原稿を読み上げるように、たどたどしく声を発した。
「私の祖父は、贋作の古刀を売り捌いて人々の嘲笑を受けたと聞いております。
恥ずかしながら、私も本物の倭刀を目にした事がありません。
鍛冶を修めるルヴェン家の名折れゆえ、せめて今生のうちに、
人を斬れる本物の倭刀を見ておきたいのです」
少年の台詞が終わると同時に、マニングは動き始めていた。
監査の役人が慌てて制止しかけたが、ややあって、挙げかけた右手を下して頷いた。
受刑者の小さな手が長刀を得た所で、何を変えられる訳でもない。
咎なき咎人のささやかな願い、叶えてやって何が悪い。
マニングは臆する事無く少年の前に歩み出ると、恭しく片膝を突いて太刀を掲げた。
おそるおそる、少年は太刀を受け取ると、固唾を呑んで黒鞘を引き抜いた。
銑鉄刀特有の、落ち着いた黒色の地金が蒼穹に晒される。
瞬間、張り詰めていた少年の瞳が、ぱっ、と輝いた。
「
甲高い、生気に満ちた嬌声が刑場に響いた。
物分かりの良い大人しそうな少年が、不意に年頃の童子に変わった。
呆然とする一同を置き去りにして、少年は熱に浮かされたように瞳を煌めかせる。
「宵闇の地金に、刃境を滑る星海の
すごい、何もかも図録で見た通りだ!」
溌剌とした少年の声に、思わずノヅチも瞠目した。
少年が先ほどから捲し立てているのは、刃紋の呼び名である。
焼き入れの時に刻まれた、焼き刃の姿を評しているのだ。
焼き入れ……、加熱とその後の冷却により、鍛えられた鋼が締まる。
その際、塗土を厚く重ねた峰の部分は粘り強い黒色となり、
急冷された刃先の部分は硬く冴えた銀色となる。
この時の塗土と、炎の色、水温の塩梅で、刀身には様々な刃紋が生じる事となる。
もっともノヅチ自身は刃紋の研究に熱心では無く、普段はシンプルな直刃を好んでいた。
焼き刃の仕上がりが倭刀の切れ味に直結する事は弁えていたものの、
それ以上に、過度に見栄えに固執する余り、刀の本質を見失ってしまう陥穽を恐れた。
そんなノヅチが、今回だけは刃紋の仕上がりにこだわった。
生涯にただ一度、愛する者を見送る刀。
ただ実用のみを求めるならば、断頭台と変わらない、と処刑人は言った。
ならば受刑者の為の刃とは、どのような姿であればよいのか?
星の光が欲しい、とノヅチは思った。
宵闇のような漆黒の地金と、真昼の如き白刃の煌めきの狭間。
叢雲の切れ間から僅かに覗いた、星屑のような魂の標が欲しいと思った。
それが先人の古刀の姿に似たのは、ただの偶然である。
「藤久院聶厳? それとも三峰畝原?」
興奮の余り、少年は立場も忘れ、身を乗り出してマニングに尋ねた。
口を突いて出てきたのは、いずれも古刀の全盛期に名を為した名工たちの名前である。
単純な座学だけなら、少年の見識はノヅチすらも凌ぐかもしれない。
それでようやく思い至った。
侯爵家など肩書ばかりで鎚一つ握れぬ一族と侮っていたが、目利きだけは本物だったと。
市井に埋もれた亡父の作を見つけ出すくらいには。
少年も世が世なら、名門の業を復興させた名工として、その名を刻んでいたのだろうか?
「古刀ではありませぬ」
興奮冷めやらぬ少年に対し、マニングは鷹揚を抑えた声色で静かに答えた。
「これは今作、それもこの皇都で打たれたばかりの新刀です」
「そんな! 噓でしょ?
古典の技術が途絶えた現代に、こんな暗い地金を打てるはずが……」
「打てます」
思いもよらぬ回答に困惑する少年に、マニングは更に力を込めて言った。
「
今作において、彼ら父子に比肩する者はございませぬ」
マニングの言葉に、少年はしばらくの間、両目をぱちぱちと瞬かせていたが、
やがて得心が言ったかのようにコクリと一つ頷いた。
「はは……、すごい、凄いな……。
今の時代に、こんな地金を打てる人が、本当に居るんだ……!」
「…………」
「こんな刀を……、僕も打ってみたかったなあ……」
熱に潤んだ少年の瞳から、涙が一つ、はらりと零れた。
傍らのお人好しな老司教が、堪らず咽いだ。
救われた。
何一つしてやれないノヅチに対し、少年の言葉は亡父の魂を救ってくれた。
ノヅチの心に残っていた、最後のわだかまりが氷解した。
天下の侯爵家の当主がその業を認めてくれたのだ。
亡父も涅槃で大笑している事であろう。
「ありがとう、アサ」
長刀を再び鞘に納めると、少年は大人びた声でマニングに感謝した。
アサ、と言うのが、処刑人になる前のマニングの本名であろうか。
マニングが視線を傍らに向けると、監査役は一つ頷いて右手を掲げた。
「では、只今より刑を執行する」
役人の宣言を受け、少年は刑を受けるべく、その場に跪こうとした。
その動きを、マニングが右手で制した。
「侯爵殿は、どうぞ御心のままに」
言いながらマニングが外套を脱ぎ捨て、その身を深く大地に沈めた。
思いもよらぬ動きに、ざわり、と一瞬、空気が揺れる。
異な光景であった。
通常の処刑ならば、頭を垂れた受刑者の背に処刑人が立つ。
無論、確実に一撃で首を斬り落とす為であり、殊更に罪人を貶める為ではない。
だが今、マニングは少年の目の前で深々と頭を垂れていた。
傍目には、幼き主人の前に跪く騎士のような風景に見えた。
(居合――!)
周囲に緊張が漲る中、東島出のノヅチだけはマニングの意図を理解できた。
抜刀術。
剣術が戦場技術から護身術に変化する過程の中で、
帯刀した状態から最速で抜き放つ太刀捌きを求めた術理である。
それでようやく分かった。
マニングは初めから、罪なき主に頭を下げさせるつもりなど無かったのだ。
あの太刀に細かな注文を付けた理由も今なら分かる。
あの立ち位置から少年の首を落とそうと思ったならば、
確かに刃は一尺長くなければならない。
地金の硬さも反りの深さも、十分な鞘走りを得る為に必要なものだ。
――だが、
(長過ぎる!)
ノヅチが内心で臍を噛んだ。
通常の居合の術理に則るならば、あの刃は抜き放つには明らかに長過ぎる。
無事に刃が抜けたとしても、そこに気を取られれば忽ち剣速が鈍る。
速度の乗らぬ片手斬りなど、威力としては不十分だ。
真正面から対主の頸を抜けるワケがない。
(無理だ――!)
――ちりん
静まり返った刑場に、鈴の音が一つ響いた。
痛いくらいの静寂の中、一同がそれを理解するには、更にしばしの時を要した。
誰一人、見止める事が出来なかった。
ただ一度きりの太刀行きは、鈴の音すらも置き去りにした。
処刑人の刃は既に鞘より抜き放たれ、振り抜いた右手の先で真横を向いていた。
少年は微動だにすらしていない。
刃には血糊一つ見当たらない。
失敗したのか、誰もがそう考えた。
だが刃の軌道を考えれば、少年はどこかしら斬られていなければおかしい筈だ。
更に長い沈黙が流れた。
やがて少年の首筋に、つ、と細い線が一筋横切った。
ようやく事態に気付いた少年が恥ずかし気に笑い、次いで静かに瞳を閉じた。
それを合図にしたかのように、少年の体が前方に傾ぎ、ゆっくりと崩れ始めた。
すぐさまマニングが立ち上がり、手にした外套で少年の体をくるむように抱きかかえた。
誰一人、声一つ上げられない中、処刑人は少年を大地に横たえると、
ゆっくりと背筋を伸ばし、監査役に向き直り改めて一礼した。
ルヴェン侯爵家最後の当主の処刑は、刑場を血に染めることなく終わりを迎えた。