ノヅチが瞳を開けた時、視線の先にはタタラの背中があった。
灯の落ちた山小屋。
静寂の室内に、ショリショリと、刃を研ぐ心地良い音だけが響いてくる。
ピンと伸びた、少女の背筋。
彼女の背に、何か伝えたいと思い、結局何も出来ないままに口を閉ざす。
真っ直ぐに剣を正眼に構えた、達人の間合いの内に立ち入れぬように。
今の彼女の小さな背には、余人を寄せ付けぬ職人の
自分の鍛えた剣は、全て、彼女に砥がせると決めていた。
六年前、
彼女はいつも自分の味方であり、互いの夢を共有する相方であった。
だから自分の刀はタタラが砥ぎ上げ、彼女の目で最初に確認してもらいたかった。
だが結局の所、自分は彼女のひたむきな背中が好きだっただけなのだろう。
『だったらさ。
ボクは……、ボクはもう手遅れだよ。
見たいんだよ、親方が、ノヅチが星鉄を打つ所を』
大盤鉱窟を発つ際に言った、彼女の言葉が甦る。
だが実際の所、彼女の仕事に酔っていたのは自分の方だった。
少女のひたむきさは、あの聖剣を仕上げるのに、絶対に欠かせぬものであったと今なら分かる。
ショリショリという、心地よい音を子守歌に、ノヅチは再び瞳を閉じた。
今の彼女に対しノヅチが出来るのは、仕事の邪魔をせず、体を休める事しかない。
ノヅチが再び瞳を開けたのは、木扉を叩く乾いた音が聞こえたからだった。
毛布代わりの
タタラが扉を開けると、粉雪と共に一人の少女が入って来た。
雪に塗れたフードを脱ぐと、鮮やかな蒼穹の髪が室内に踊った。
少女とタタラは、暫く何事か話していたが、やがてタタラは一振りの長剣を差し出した。
少女が鞘を引き抜くと、一際、柔らかな光が室内に溢れた。
窓からの僅かな陽光を刀身に宿す、白昼の残月のような細やかな光。
少女は白刃を鞘に納め直すと、何度もタタラに頭を下げ、次いでノヅチの方に視線を向けた。
毛布代わりの外套を目深に被り、狸寝入りを決め込み様子を見る。
すぐにタタラが割って入り、戸惑う少女の背を押し始めた。
誰が来ても、何が起きても絶対に自分を起こすなと、タタラにはそう厳命していたのだ。
少女は後ろ髪を引かれるように、何度もこちらをチラチラと確認していたが、
やがて扉の前で向き直り、ノヅチに向けて深々と一礼して、そのまま山小屋を後にした。
「……彼女、もう行っちゃったよ、親方」
そうタタラに呼びかけられた所で、ノヅチはようやく体を起こし、大袈裟に一伸びして見せた。
ノヅチの動きに合わせ、バキボキと関節が悲鳴を上げる。
先ほどは寝た振りだったが、叶う事ならあと一日ほど、泥のように惰眠を貪りたかった。
大きく一つ欠伸をするノヅチの姿を、タタラが悲し気に見下ろしていた。
しばし、無言。
やがて大きく息を吐いて、咎め立てるようにタタラが呟いた。
「親方……、本当にこれで良かったの?」
「今更、わざわざ確認しなくたって、お前の腕は信頼してるよ」
「そういう事じゃ無いでしょ!」
ノヅチのふざけた返答に対し、タタラはふくれっ面で地団駄を踏んだ。
・
・
・
タタラを伴って外に出ると、既に粉雪は止んでいた。
雪化粧に染まった白一面の世界の中、小さな足跡が点々と麓まで続いている。
少女の姿は、もはや見えない。
それでようやく、全てが終わったのだと実感が湧いてきた。
結局、デザイアには、自分と魔王の関係を伝える事が出来なかった。
彼女に失望、あるいは軽蔑される事が怖かった訳ではない。
ただ、形にした言葉が力を持つ事をノヅチは恐れた。
これ以上、彼女たちに待ち受ける運命に対し、余計な干渉をしたくない。
運命に介入するのは、自身の持ち得る全てを託した、あの一振りだけで十分だ。
おもむろに、手にした甕の蓋を開け、直に口付け流し込んだ。
ぶるり、と一つ体が震える。
銀世界で呑むような酒では無かったが、それでもじきに、体も温まって来る事だろう。
最終的に残ったのは、この酒甕一つであった。
隕鉄も、
あの日、泰山の麓に隕石が落ち。
それから世界を彷徨い続けた、放浪の成果の全てを、蒼い髪の少女が持って行ってくれた。
不安になるほどに、体が、心が軽かった。
目の前の一面の雪化粧のように、頭の中も真っ白であった。
今の自分を縛る物も、依るべき標も、もはや、何も無い。
……いや。
最後の大仕事が残っていた事を思い出した。
両肩が、ずしり、と重くなったような気がした。
「タタラ」
傍らの少女の名を呼びながら、首筋にかかった革紐を外して軽く放った。
ぱしり、と、手の内に収まったそれを見て、タタラの体が、びくん、と震えた。
細やかな古代文字の刻まれた、冴えた輝き放つ指輪。
五年前、二人が大盤鉱窟を旅立つ契機となった、小人族の霊銀の指輪であった。
「魔王軍との戦いは、いよいよ佳境に入ろうとしている。
全ての人類が一丸にならなきゃ、この窮地を乗り越える事は叶わねえ」
言いながら、実に下らない言い訳をしている、と思った。
けれど、大事な話だった。
今の彼女に、絶対に伝えなければならない事だった。
「大盤鉱窟に帰れ、タタラ。
今の世界には、槌振りとしてのお前の力が必要だ」
「……親方、は?」
泣き出しそうな表情をこらえ、かろうじて、呻くようにタタラが問うた。
勘の鋭い彼女ならば、おそらくもう、全てを察しているだろう。
それでも次の言葉を待ってくれる健気な姿に、ずきり、と心が痛んだ。
ふう、と大きく酒気を吐いて、ノヅチは真っ直ぐにタタラを見つめ、言った。
「俺はもう、二度と槌を握らねえ。
打つべき物は、全て打った」
第六章、これにて終了です。
次回最終章の予定です。
再開までしばしお待ちください。