ピション、と冷たい雫が鼻の頭を叩いた。
たちまちノヅチが跳ね起きて、寝ぼけ眼で辺りを見渡した。
もっとも、この薄闇の世界には昼夜の別も無い。
頭上を見上げれば、天井間際に空いた通風孔よりわずかに光が差し込んでおり、それでかろうじて日中だと分かった。
ボロボロの
瞳を閉じると、地上の物音が耳元まで届いてきた。
銃口に促される団体の足音。
すすり泣く人の声。
何事か諍いを始める男たちの会話。
半狂乱になった女の悲鳴。
騒がしい事だ。
大きく溜息を吐き出しゴロリと寝返りを打つ。
もっとも彼らは自分とは違う、特別な囚人たちである。
自分のように雑にほったらかしにされる事はないだろう。
彼らの辛気臭い空気が、地下まで降りてこないのだけは、せめてもの救いであった。
北辺での魔王軍との決戦より、およそ一年。
魔王の死により、地上に残った魔物たちも統制を失い、各地では順当に掃討が進んでいるという。
尊い勇者の犠牲により、世界は救われた。
人類は苦難を乗り越え、ようやく輝かしい復興の時代が始まった。
筈なのだが、この監獄までは、そのような喜ばしい話題も届かない。
ボルディノ要塞。
皇都に続く東方からの経路を塞ぐ要衝に在り、先の大戦においても魔王軍の猛攻を支え切った皇国の盾である。
現在は平時の役目に戻り、皇都に留め置けぬ特別な囚人たちを収監する監獄となっている。
かつてノヅチは、死刑執行人の一団に混ざり、この地でとある少年の最期を検分した事があった。
その彼も今は監獄の住人として、検分される時を待つ身であった。
・
・
・
――ちりん
通路の奥から、不意に鈴の音が聞こえた気がした。
怪訝に体を起こすと、鉄格子の向こうに小さな灯が見えた。
網膜を焼く洋灯の光を片手で遮り、来訪者の姿を忌々しげに見上げる。
黒い男であった。
黒の山高帽に、黒の外套、男の姿は闇に溶け込み、白い面立ちだけが洋灯の光に浮かび上がる。
黒塗の鞘に納められた倭刀の柄には、不釣り合いな白銀の鈴が煌めいている。
刑罰の公正さを示す無垢なる銀は、皇都の処刑人の証である。
マニング・マウンライルド。
ノヅチと旧知の青年であり、当代随一と業前と目される死刑執行人であった。
不意の死神の到来に、ノヅチはパチパチと目を瞬かせ、ポツリと口を開いた。
「こいつは驚いたな……。
まさかアンタが来てくれるとは思わなかったよ」
「…………」
「へへ、だがまあ、アンタの腕なら断頭台より確かだ。
「……これが告発書に見えるようなら、貴方も相当、ヤキが回ったって事ですよ」
「おほ!」
マニングはしばしの間、薄汚れたノヅチの姿をまじまじと観察していたが、やがて大きく溜息を吐いて、手にしたバスケットを掲げて見せた。
たちまちノヅチが喜色満面、格子越しに差し出されたバゲットをひったくるように受け取る。
「正直、安心するより呆れましたよ。
まるで貴方は独房の主だ。
ここに放り込まれる人間というのは、もう少し、しおらしい表情を作るものでしょう」
「望みがあればな、悩みもすれば悔やみもするだろ。
だが生憎と天下は泰平なこって。
流れ者の槌振りなんぞ、生きてても死んでても同じ事さ」
マニングの言葉に軽口で応じながら、手にしたバゲットに齧り付く。
浅ましい話だが、死を恐れぬと気取った所で腹は減る。
ちょいちょいと指を振るノヅチの催促に合わせ、マニングが葡萄酒の瓶を差し込む。
水代わりに流し込むには勿体ない上物だったが、今のノヅチにはそれを惜しむ余裕も無い。
ようやく胃の腑が満たされ人心地つくと、ノヅチ改めて顔を上げた。
「ふう、とにかく助かったよマニング。
こういう時、持つべき者は友人だな」
「そういう台詞は、もっと大事な友人に対して言ってあげたらどうです?」
「なに?」
言葉の意味を掴みかね、放り込まれた林檎を思わず取りこぼした。
マニングが洋灯を向けた方を見やると、壁際では険しい表情のロッカがノヅチを見下ろしていた。
どきり、とノヅチが内心委縮する。
「やあ、若旦那――」
「何をやってるんです! あなたはッ!!」
不意に怒声が爆発し、反射的にノヅチがビクン、と肩を竦める。
「再三警告はしていた筈ですよ!
僕の手紙を読んでなかったんですか?」
「手紙、ああ、手紙ね、見たよ、いや……」
憤怒の形相の若旦那に対し、ノヅチはいかにも気まずそうに言葉を濁し、拾い上げた林檎の埃を払い始めた。
そう、確かに彼の言う通り、今日のような事態になるのは初めから明白だったのだ。
ロッカから警告の手紙が届いたのは、先の戦争の傷跡も癒えぬ秋口の事であった。
手紙には昨今の皇都の不穏な情勢が綴られ、ノヅチが拘束される可能性を上げ、しばらく都を離れるべきと、丁寧にも幾許かの路銀まで包んであった。
尋常ならざる文面に、さすがにノヅチも慌て、急ぎ山小屋を発つべく荷物をまとめようとしたのだが、そこでふっ、といつもの悪い癖が出た。
持っていく荷物など、何も無い。
当代の勇者の為に聖剣を打ったあの冬以来、ノヅチは一度も槌を握っていなかった。
山小屋の食料が尽きたその後は、木の実や魚や山菜を取り、時に炭焼きの真似事で小銭を稼ぐなどして、ただ死なないだけの暮らしを続けていた。
槌を振れない槌振りなんぞ、生きている価値は無い。
そんな自分が今更になって、あくせくと生き汚く動き回るなど、実に馬鹿げた事ではないか?
それでいっそ、自身の最期を見定めてやるつもりになって、貰った路銀を酒代に変え、のうのうと逮捕の時を待ち続けたのだ。
個人の心情はともかくとして、長年の友情に泥を塗った事だけは間違いない。
煮え切らないノヅチの態度に対し、ロッカはずいと歩み寄り、格子の隙間に顔面を押し付けるようにして言った。
「今すぐにでも、ここを出ましょう。
あなたほどの人間が、こんな所に閉じ込められてて良いワケがない」
「出るったって、無理だろ、そりゃ……。
ただの喧嘩や掻っぱらいなら、こんな所にブチ込まれたりしないよ」
そう言って、ノヅチは困ったように頭を掻いて、目の前の林檎に齧り付いた。
「知ってるんだろ、俺の罪状?
警告をくれたのは君じゃないか」
ノヅチの反論に対し、今度はロッカの方が言葉を失った。
ふうっ、と傍らから溜息がこぼれ、押し黙ってしまった両者に代わり、壁際のマニングが次の台詞を引き継いだ。
「――昨年の魔王城での戦いの後、
もぬけの空となった玉座の間から、一振りの倭刀が発見された」
「…………」
「折れた刃の
魔王に与する者は、国家に反逆するにも等しい……、極刑が妥当ですね」
「ロクでもない話ですよ、まったく。
一時の政局の安定のために、罪なき人々を陥れるなどと」
「政局?」
憤懣やる方ないと言ったロッカの言葉に、思わずノヅチは首を傾げた。
自分の罪の方はともかくとして、それが国家の運営にどう関係するというのだろうか?
「先の戦乱は、いわば魔王軍の侵略に対する防衛戦。
勝利した所で得る物は無く、戦後処理の苦難が残るばかりです」
ノヅチの疑念に答えるように、再びマニングが口を開いた。
「税への不満が蔓延すれば、それに乗じて民衆を先導しようとする輩も出て来る。
共和主義者や不平貴族、過激な異教徒にテロリスト……。
国家運営を阻む不届き者を、魔王の信徒と『認定』しては見せしめとする。
恐怖政治の類ですが、斯様に政情が不安定な時期には有効でしょうね」
「それが上の団体様って事かい?
ようやく魔王を倒した後がこれじゃあ、先が思いやられるな」
「……随分と他人事のように言いますね。
貴方だって被害者の一人なんですよ。
後ろ盾のない異邦人ほど、面倒の無い生贄は、他にありませんから」
「絶対に許される事じゃないですよ、こんなのは。
あなたが鍛えた聖剣が無ければ、世界は闇に包まれていたと言うのに。
誰も真実を知ろうとしない。
世界を救った英雄を、ありもしない罪で弑そうというんだ」
「……ああ」
そこまで説明されて、ようやくノヅチにも合点が言った。
ようするに、二人は誤解しているのだ。
確かに今の皇国は最低かもしれないが、それはノヅチの現状とは、何の関係も無い話なのだ。
一瞬、次の言葉を告げるのを躊躇った。
だが、己の立場も顧みず窮地に駆け付けてくれた友人たちに対し、不実を働く訳にはいかない。
「二人には悪いが、残念ながら身に覚えがありすぎる。
確かに俺は四年ほど前、魔王を名乗る女の為に、倭刀を一振り仕上げたよ」
「――!」
「ば、馬鹿な!?
何を、一体何を言ってるんです、ノヅチさん」
思いもよらぬ告白を受け、二人が一斉にノヅチの方を振り返った。
立ちはだかる鉄格子をすがるように握り締めたロッカに対し、ノヅチは静かに首を振った。
「事実さ。
その金で親父殿の仕事場を買い戻したんだ」
「そんな……、なぜ、何故なんです?
あなたほどの槌振りが、よりによって、魔王などと!」
何故?
そう問われ、ノヅチの次の言葉が止まった。
一体、何故あんな事になったんだったろうか?
率直に思い返してみれば、単に脅されていたから、という話になろう。
それも自分一人の命だけではない。
ともすれば相方の命まで奪われかねない窮地であった。
正直にそれを告白して、泣きながら友人たちに謝罪すれば、彼らは許してくれるだろうか?
いや、だがしかし、自分は金を受け取ってしまっている。
自身の作に絶対の自信があったから、思い切りふんだくってやったのだ。
あまつさえ、茎に銘まで刻んで来た。
力尽くで脅されて仕方なく打った、などとは口が裂けても言えまい。
……いい加減、正直になるべきだと思った。
ノヅチが魔王の刃を鍛える気になったのは、そのような表面的な理由ではない。
「ヤツは……、魔王は、親父殿の作刀のファンだったんだ」
「えっ?」
「言った通りさ。
この地上でただ一人、あの女だけが、流浪の刀工、
不世出の鬼才と、乱世に生まれるべき槌振りとまで絶賛したよ」
「…………」
「俺にはそれが嬉しくて、同時に激しく嫉妬したんだ。
俺だって
だからアイツに認められたくて、全身全霊で鍛え上げたんだ。
魔王の為の倭刀をな」
「それは……、けど、だけど……」
「わかっただろ?
俺は、俺の鍛えた剣で、自身の唯一の理解者を殺し、
同時に俺の剣を信じて戦った、何の罪も無い少女の心を裏切った!
それが俺の全ての罪だ。
今さら罰から逃れようとは思わねえ」
「だけどッ!」
ダン、とロッカの拳が石畳を叩いた。
突然の剣幕に、思わずノヅチも閉口した。
崩れ落ちる青年の懐から、一本の短刀が、カラン、と音を立てて大地に転がった。
「……だけど、そんなのは、どうしようもないじゃあないですか?
剣の罪は、仕手にこそある。
剣、それ自体に善悪なんて、あろうハズが無い……」
青年が震える手で、短刀の鞘を抜き放つ。
たちまち澄み切った蒼穹のような刃が現れた。
惚れ惚れするほど、良い鉄だ。
この牢獄では、あの日の空ももう見えない。
「あなたの……、あなたの剣は、美しい……」
胸中の言葉を絞るようにして、かろうじてロッカが呻いた。
鮮やかな蒼の地金の上に、ボロボロと大粒の涙が落ちる。
いいじゃないか。
ノヅチの中で、ストン、と何かが腑に落ちた。
親父殿の時は、一人だった。
その最期を知る者も、自らの作の評価を知る術すらも持ちえなかった。
鉄格子を挟んで、ノヅチはドカリと
「君がそう言ってくれるなら、俺にはもう、他に何もいらないよ」
「…………」
「ありがとう、友よ」
ノヅチの言葉を受け、静寂の監獄に、再び嗚咽の声が洩れ始めた。
皇都の死神は独房の壁に体を預け、向かい合う槌振りたちの姿を、無言で見つめ続けていた。