夜半。
ノヅチは来訪者の気配を感じて瞳を開けた。
夜、と言ってもこの牢獄では、昼夜の違いなど無いの同然なのだが。
随分と来客の多い一日だ。
ノヅチとしては、後はもう粛々と涅槃に向かうつもりになっていたが、見定める、と決めた以上、来客を拒むべきでもないだろう。
どの道、こんな場所では逃げ道もない。
一つ溜息を吐き出して、
だがしかし、今更自分に来客など、一体何者だろうか?
じっ、と鉄格子の向こうを睨み据えると、通路の奥に
緑の光を上下に揺らし、ノヅチを誘うかのように、徐々に牢獄に近付いてくる。
「唯一の理解者、と来たか。
何とも思歯痒い限りよな」
闇の向こうから、からかうような女の声が聞こえてきた。
その声にも、その口調にも、確かに聞き覚えがあった。
だが、イメージが重ならない。
ノヅチの胸中で、漠然とした不安だけが広がっていく。
「だが、悪い気はせん。
たとえ相手が薄汚れた野良犬であろうと、な」
「――ッ!? デザイア!!」
ゆらり、と燐焦苔に照らし出された面立ちに、ノヅチは驚愕の声を上げた。
反射的に身を乗り出し、だが次の瞬間、何か得体の知れない違和感に威竦められた。
蒼穹の色を宿した柔らかな髪に、まだあどけなさを残した顔立ち。
目の前に現れた少女の姿は、記憶に残る勇者の面影、そのものであった。
しかし、何かがおかしい。
牢獄を見下ろす少女の瞳からは、歴戦の勇者の気高さも、片田舎の農夫の素朴さも感じられない。
気圧されるように半歩下がったノヅチの姿に、少女の口角がニィ、と上がる。
「ほう、察したか?
そんなナリになっても、嗅覚だけはマトモなようだな」
「お前……?」
「やれやれ、旧友をからかうのはそのくらいにしておきなさいな」
少女の傍らで
視線をそちらに向けると、見覚えのある鷲鼻が愛嬌のある笑みを浮かべていた。
「どうも旦那、お久しぶりで」
「ヒウマン」
思いもよらぬ旧知の姿に、ノヅチの口からポツリと呟きがこぼれた。
だが、それで線が繋がった。
一つ深呼吸をして、眼前の少女を、改めてまじまじと観察する。
「…………魔王、か?」
「カカ」
確認するようにノヅチが問うと、少女がいかにも邪悪に嗤った。
・
・
・
「影打のソルスティアとは、やってくれたものだな。
三百と七年ぶりの豪酒、堪能させてもらったよ」
ノヅチが自身を認識したと見ると、少女の姿をした魔王は、いかにも上機嫌に口を開いた。
懐からその可憐な姿とは不釣り合いな
じっ、とノヅチが険しい視線を向けると、魔王は困ったように首を振った。
「気にするな、気分の問題だよ。
この姿になってからは、長らく禁煙中の身でな」
「…………」
「おい」
不満そうなノヅチの姿を気にも留めず、魔王が傍らのヒウマンに声をかける。
ヒウマンは小さく頷くと、二人の前に一本の刃を差し出した。
「教皇庁の蔵からチョロまかすのは、流石に骨が折れましたぜ」
言いながら布地を解くと、たちまち蒼穹の地金が獄中に姿を見せた。
鮮やかな刃は半ばで断たれ、刃先にはいくつもの刃毀れが生じている。
柄は失われ、剥き出しとなった茎には『野槌』の銘が刻まれていた。
無惨になった刃の姿に、ノヅチの表情が一層険しさを増す。
「十合。
あの聖剣の煌めきに対し、十度まで持ち堪えてみせた。
見事な物だな」
「…………」
「そんな顔をするな、しくじったのは余の方だ。
あの月影を前に少しでも邪念を抱けば、たちまち斬られると分かっていたというに。
当代の勇者の剣の余りの冴えに、ついつい焦り、欲が出た」
「…………」
「一息に勝負を決めてやろうと、刃がドス黒く染まった所を、すっぱと両断されたわ。
そこからはもう、かろうじて相打ちに持ち込むだけで精一杯よ」
「……それでお前は、どんな手を使ったのか知らねえが。
傷ついた己の肉体を捨てて、目の前の勇者の体を乗っ取った……って事か」
「ああ、正に紙一重というやつよ。
一手、わずかにでも遅れれば、余の魂は滅びゆく肉体諸共、灰へと還り。
致命傷を負った勇者の体もまた、すぐに骸と化していた事であろう。
全ては貴様の鍛えた剣が、土壇場まで持ち応えてくれたおかげよな」
「フッざけんなこの
不意にノヅチが爆発した。
ガシャン、と全身を浴びせるように鉄格子にぶつかり、魔王目がけて両手を伸ばす。
ノヅチの魔の手をひらりと外し、おどけるように魔王がステップを踏む。
「カカカ!怒るかノヅチ!
槌も、夢も、人としてのまともな暮らしすらも捨て、こんな暗がりでイジけておった貴様にも、
まだそのような人間臭い感情が残っておったのだなあ!」
「ああ、怒るさ!
こんなザマを見せられてキレないヤツがいるかッ!
残酷なのも、我儘なのも、傲慢なのも全部許す! 魔王だからな!
だがテメェがここまで生き汚いヤツだったとは思ってもみなかったぞ!」
「むしろ感謝せい!
余が今日まで惨めに生き延びてやったおかげで、
今宵はこうして、貴様の窮地を救ってやれるのだからなあ」
「五月蠅えッ! だったらとっととここから出しやがれ!
お前なんかもう友達じゃねえッ!
俺のこの手でブッ殺してやる」
こうして魔王はしばしの間、口汚く暴れ狂うノヅチの姿を面白そうに見つめていたが、その内ふっ、と寂し気に苦笑をこぼした。
「なあノヅチ、一つ機嫌を直してくれよ。
余の事はまあ、どうでもいいが。
この可愛い顔に万一傷でもつけられたら、デザイアが嫁に行く時に困るではないか?」
「……何だと?」
「生きておるよ、デザイアは。
そうで無ければ、たとえ魔界最強の魔王ありと言えど、
赤の他人の肉体を、急場凌ぎで維持など出来るものか」
「本当か?」
ノヅチが半信半疑で問うと、魔王はこの女らしからぬ不器用な笑みを作り、自らの心臓を指し示して言った。
「魔王に引導を渡した事で、デザイアは勇者としての使命を全うしたのだ。
それで精神の均衡を失ったせいかな?
器の方はとうに完治したと言うのに、一向に目を覚ましてくれん」
「それは……、大丈夫、なのか?」
「まあ、後は時間の問題だろう。
彼女が再び目を開けた時、どこまで記憶が残っているのか?
ただの平凡な農家の娘に戻るのか、そこまでは分からん。
だが余の方は、いずれデザイアの意識と完全に同化し、彼女の影となるのであろうな」
「…………」
「貴様の勝ちだ、ノヅチ。
魔王の敗北宣言を受け、ノヅチの体から力が抜け、糸が切れたように尻餅を突いた。
何もかも失ったかと思っていた肉体から、深い安堵の吐息が漏れた。
「魔王と勇者を殺した罪……、これでチャラになったな。
分かったらとっとと獄から出て、さっさと風呂に入って来い。
こんな所に長居しておっては、デザイアの鼻が腐り落ちるわ」
頭上からかけられた魔王の言葉に、蕩けかけたノヅチの心金が再び冷えて固まった。
確かに、今、目の前にはデザイアが居て、魔王が居る。
だがそれはノヅチにとって、当事者二人の懸命さが報われた結果に過ぎない。
結果的に二人は命を拾っただけで、魔王を斬った罪も、勇者を裏切った罪も、ノヅチの中で消えてしまった訳ではない。
事が全て、収まる所に収まったからと言って、ノヅチは自分の背負った罪を、今更下ろすつもりにはなれなかった。
「おい、どうした、またダンマリか?
昔の馴染みで来てやったというに、すっかりイジケ返りおって」
「…………」
「フン、すくたれ者め。
次の剣を打つのがそんなに怖いかね?」
「……なに?」
「図星であろうが。
罪だの罰だの偉そうに嘯いておったが、貴様は結局、自分の才能を顧みるのが怖いだけよな?
もう貴様の手元には、親父殿の星鉄も、あの小娘の霊銀も、何も残って無いものなあ。
所詮貴様は、抜群の原石と星の巡りに恵まれただけで、何の一つも為しておらん。
次の倭刀を必死こいて鍛えた挙句、あの聖剣の足元にも及ばぬを確認するのが怖いのだろう?」
「吠えたな!」
魔王の安い挑発に、ノヅチがたちまち食って掛かった。
反射的に身を起こし、鉄格子の隙間から額を擦り合わせんばかりにして叫んだ。
「だったら言わせてもらうがなあ!
魔王! なんだテメェ、あのしょうもないザマはッ!
人類に仇なす魔物の群れが、たかだか千やそこらの砲門如きに鎧袖一触とはどういう了見だ」
「…………。
勝敗は兵家の常、とは、東方の名将の言であったかな?」
「悪魔風情が人間様の言い訳を使うンじゃねえ!
おかげでこっちは商売上がったりだよ!
あれ以来、皇都の名のある職人たちは、粗方鞍替えしちまって、
今じゃあ政府の工廠相手に顎で使われてるっていうじゃねえか」
ノヅチはそこまで捲し立てると、再びどっかと胡坐を掻いて、乱れた呼吸を整えながら言った。
「もう、そんな時代じゃねえだろ。
戦争は火薬と鉛玉の量が決めてくれるさ。
あの親父殿の黒刀を振るえるような英雄も、振るうべき怪物も、何処にも残ってやしねえ。
こんな世の中に槌振り一人、生きてる意味なんぞ何処にある?」
「吐いたな」
「ああ」
「それで全てか」
「……ああ」
魔王はしばし沈黙を保ち、両肩で息をするノヅチの姿を見下ろしていたが、その内に呆れたように首を振った。
「ノヅチ。
もしもこの世が下らないと言うのならば、それは貴様が物を見ようとしないからだ。
良い話題が消えたと思うのは、耳を閉ざしているからだ。
有史以来、人の世の移り変わりを眺め続けて来た余が言うのだぞ。
この世界はまだ、貴様が思っているほど捨てたものではないわ」
そう言うと、魔王は
真新しい白鞘に包まれた、均整の取れた脇差。
らしからぬ魔王の神妙な態度に、思わずノヅチも息を呑んだ。
とくん。
鞘から刃を引き抜いた瞬間、心臓が一つ震えた。
燐焦苔の仄かな緑に照らし出された、厳かな深く暗い色の地金。
その渋い風格は、かつてノヅチが模した
しかし、何かが違う。
ノヅチが鍛えた大脇差が、あくまで先人の編み出した厳粛な鉄に倣っていたのに対して。
眼前の刃からは先達の風格を伝えながら、なお内から湧き上がってくるかのような、瑞々しい力強さを感じる。
率直に言ってしまえば、六年前に自分が鍛えた鉄より、遥かに良い。
この鉄は何者なのか?
目の前の鉄と、かつて自分が鍛えた
場所も、時間も、立場も忘れ、槌振りに戻ったノヅチの瞳が、眼前の地金に注がれる。
(……
長らくの間、じっ、と刃を検分した後、ノヅチは漸くその結論に思い至った。
しなやかで粘り強い心金の外を、硬く鋭い皮金で包む東島の技法。
目の前の刃は、ノヅチが聖剣を打ち直す際に試みたように、先人の残した銑鉄の皮金の内側に、何か別の心金を宿している。
そこまで思考を巡らせた所で、すぐにノヅチは心金の正体にも辿り着いた。
小人族自慢の大窯で沸かした、あの輝くようなドワーフ鋼だ。
かつてノヅチが幾度も挑み、おそらくは伸び代が無いと断念した小人族の新鋼。
あの煌びやかな
どくり。
絞られ、悶え狂うように、ノヅチの心臓が一層激しく哭いた。
この刃は、自分がこれまで歩いて来た道程を知っている。
過去の記憶に学び、その一歩一歩を丹念に検証し、そして今、ノヅチには辿り着けなかった次の頂を目指している。
『――分かるの、刀の気持ち?』
いつだったか、鍛錬の最中にそう問われた事があった。
『――いいや、俺がそう思いたいだけさ』
適当に、あしらうようにそう答えた。
鉄の声が聞こえる人間などいる筈がない。
ただ一人、死んだ親父殿を除けば、だ。
たとえ自分には聞こえなくとも、達人が鍛えた本物の刃には、人の世の常識を超えた情念が宿る。
それを疑った事だけは一度も無かった。
今、ノヅチにもはっきりと聞こえた。
この倭刀は、自分に逢いに来たのだ。
魔王が刃を持って来たのではない。
刃に宿る必死の想いが、魔王と少女を引き合わせ、今、ようやく自分の下まで辿り着いたのだ。
じわり、と視界が滲んだ。
山小屋が、一面の雪化粧に染まったあの日。
少女は何も言わなかった。
言わなかった事、言えなかった事、言いたかった事の全てを、目の前の鉄に叩き付けてきた。
世界の命運にも、勇者と魔王の戦いにも背を向けて。
少女は一人、故郷を旅立つ時にそうしたように。
ノヅチの喉元にだけ届く刃を、歯を食いしばって打ち続けてきたのだ。
「二世野槌」
ボロボロと大粒の涙をこぼす囚人を見下ろしながら、ポツリと一言、魔王が呟いた。
「死んだ槌振りの事なぞ忘れて、自身の作にはちゃんと自分の銘を刻め、と。
あやつにはそう言ってやったのだがな……。
なにも強情で偏屈ばりな所まで、師に寄せずともよいであろうに」
「…………」
「おい、ようやく自分の罪を思い出したか、クソ野郎。
何が勇者と魔王を殺した、だ。
今の貴様には死罪すらも生温いわ」
「……ま……魔王…………さ、ま」
「あん?」
ギリリと奥歯を噛み締めて、目尻を拭ってノヅチが居を正す。
抗う心を捻じ伏せるように、体を震わし頭を下げる。
「自分が間違っておりました。
どうかこの憐れな槌振りをお救い下さい」
「……そうきたか」
額を地面に擦り付けるノヅチの姿を見て、魔王の瞳が童女のようにキラキラと輝き始めた。
いそいそとブーツを脱ぎ捨てて、雪のように白い脚を格子の隙間に差し込み、そのままノヅチの後頭部をグリグリと踏み付ける。
「なんだよノヅチ?
育ちが悪い、頭も悪いと聞いておったが。
どうしてどうして、貴様にもヤケにしおらしい所があるではないか?」
「…………」
「カカカ!
良いぞノヅチ、余は大変に満足である。
かの英雄王との邂逅より幾星霜。
余は今宵ほど、これまで生きてきて良かったと思うた事は他に無いわ!」
「……おい、誰がそこまでしていいっつった?
デザイアの体で破廉恥な真似をするんじゃねえ」
「黙れクソが、貴様如き人間のゴミ屑は、
尊き勇者様の御美脚の下で未来永劫反省しておれ」
「茶番をやってる時間はありませんぜ」
二人のやり取りを横目に、ヒウマンは針金を取り出すと、錠前を手品のように外してみせた。
ようやく出られるかと思い、ほっと安堵の息を吐き出すノヅチを尻目に、なぜか二人は、ズカズカと牢獄の中に入って来る。
「いや、何やってんだお前ら、出るんじゃねえのか?」
「是非に及ばず」
そう短く言い捨てると、魔王は部屋の隅に身を寄せるようにうずくまった。
「……本当に何してんだ、お前?」
「残念ながら時間切れだ、貴様のせいでな。
お前も出来るだけ壁に寄って、衝撃に備えておいた方がよいぞ」
「もう少し、分かるように説明しろ」
「天文学の分野において、我ら魔族は、人類よりも高度に進んだ見識を得ておる。
と、言うのは知っておるな、ノヅチよ。
それこそ数百年単位で生じる日蝕の周期を予見できる程度には、な」
「……ああ」
(一年もズレていやがったがな)
と、毒吐きたくなる気持ちをかろうじて堪え、ノヅチが適当に相槌を打つ。
「だが、それがどうした?」
ノヅチが問うと、魔王は白い指先をピンと天に向け、事も無げに言い放った。
「今宵、隕石が再び落ちるぞ、もう間もなく。
場所はこの要塞の中庭だ」
・
・
・
皇紀1084年、夏――
この年、泰山での災害より、およそ十二年ぶりに隕石の飛来が確認された。
落下地点は皇都の東方、ボルディノ要塞の中心部であり、落着時の衝撃により同施設は完全に崩壊、機能不全に陥った。
凄まじい破壊の爪痕とは裏腹に、人的被害は奇跡的に軽微で済んだものの、その僥倖が却って後の混乱を生む事となる。
当時ボルディノ要塞は、政治犯や反乱分子といった危険思想を持った人物を収監する監獄として使用されており、隕石落着後の混乱の最中、数多の囚人たちが脱獄し、反乱騒ぎへと発展した。
彼らの行動は、度重なる紛争と天変地異、不景気などを要因とする社会不安と結びつき、皇国各地での大規模なデモ行動へと繋がる事となっていく。
勇者と魔王の死より一年、皇国の統治は未だ、風雨に揺れる木の葉の上にあった。
だが、当時の人々がこの噂をあまり信じていなかったというのは、騒動以後、市場に出回るようになった贋作刀の数から見ても明らかである。
いずれにせよ、この一連の事件により『魔王の刀を打った妖刀鍛冶』は、
『魔王の刀を打った罰で、隕石が頭に当たって死んだ男』へと生まれ変わり。
後世、多くの作家の手によって、その謎に満ちた生涯が面白おかしく語られる所となっていく。
『星鍛目録』は、流浪の刀工ノヅチの生涯を描いた冒険譚である。
彼の旅路はその時々、歌い手の気分、作家の筆次第でいかようにでも変化する。
実際に後世に伝わる作例に言及する事もあれば、各地に散らばる聖剣魔剣の伝承に、一方的に首を突っ込む事もある。
だが、それら法螺話が『星鍛目録』を名乗る上で、外してはならない
星鍛目録は、星の巡りに振り回された、とある槌振りの物語である。
物語は1072年の隕石の飛来と共に幕を開け、84年の落着をもってお開きとする。
星が落ちて、その後の事は誰も知らない――