「…どうして、そんなやり方しか出来ないんだ」
そう言って去っていった葉山の、独白ともつかない零れ出た言葉に思いを馳せつつ、背を付けた壁からズルズルと崩れ落ちる。
体中がずっしりと重く、思うように動かない。
まるで汚泥に纏わりつかれたかのようだった。
…どうやら想像よりも少しばかり、俺という人間は打たれ弱かったらしい。
「はぁ…」
揺れ動く自身の心情を抑えつつ、やるべきことをやるため、見届けるべきものを見届けるため、立ち上がろうとしたそのとき、
「…あんた、何やってんのさ」
呆れたような、悲しさを纏ったような言葉が頭上から落ちてきた。
* * *
「はぁ…」
演劇も終わり、特にすることもなかったから引き受けた教室の見張り番をしながら、外を眺める。
体育館で最後のイベントが行われているとはいえ、未だ教室棟内や内庭にも、ちらほらとせわしなく動き回っている生徒たちがいる。
その顔は一様に、疲れを見せているものの充実した満足感ともいえる表情を見せていた。
ふと、窓にうっすらと映る自分の顔をみる。
はっきりとは見えないその顔は、口角が上がり、同じような表情をしている気がして、意識して無表情を保ってみる。
昨年と違い、今年の文化祭は本当に大変だった。
急遽衣装係を任ぜられ、その作成や微調整、本番も壇上脇で出入りする出演者の衣装直しを行った。
思い返してみても、何故引き受けてしまったのか分からない。
体には疲れがたまっているし、自宅での徹夜作業の影響による寝不足もあり、頭も少し回っていない。
ただ…海老名を筆頭としたクラスメイト達と相談しつつ、懸命に作業していたこの数週間が充実していなかったかといえば…
「まぁ…悪くはなかったかな…」
らしくない言葉を発してしまった自分に苦笑しつつ、のんびりと過ごしていると、バタバタと廊下を走るせわしない足音が近づいてきた。
心地よい余韻を邪魔された気がして、若干の不満を抱きつつ顔を向けるとそこには予想外の奴がいた。
「はぁ…はぁ…川崎…よかった…」
「比企谷? あんたなんでこんなとこに…」
比企谷八幡。バイトに関わる諸々の一件で多少なりとも世話になった、奉仕部員の男子高校生。
あの一件からは、同じ予備校で時々顔を合わせるくらいで特に深い関わりもなかったけど、今文化祭では確か実行委員の一人だったはず。
こんな企画もない教室に来るような用事はあまり考えられないけど…
そんなことを考えていると、呼吸を落ち着けた比企谷が言葉を発した。
「お前、前、屋上にいたことあったよな?」
「は? あんたいきなり何言って…」
「いいから!」
掛けられた言葉の意味が理解できず、その意味を問い返すと、思いがけず強い口調で遮られてしまった。
一瞬イラっとしてしまったが、その顔が余りにも真剣で、尚且つ苛立ちを感じさせるものだったから、言葉に詰まってしまう。
「…すまん、文実の件でちょっと急いでてな」
黙ってしまった私に、比企谷が声をかける。
その声には、申し訳ない、という感情がにじんでいたが、表情は先ほどと変わらなかった。
緊急事態、ということなのだろう。ちゃんと答えてあげなきゃ。
「うん、大丈夫。屋上だよね、うん、いたよ」
「だよな、あれ、どうやって入ったんだ?」
「入り方なら、そのまま入れば大丈夫。あの中央階段からの屋上入口、鍵が壊れてるんだよね」
「そのことって有名か?」
「あたしが知ってるくらいだからね、女子の間じゃ結構有名だと思うよ」
その言葉を聞いて、考え込む比企谷。今まで見たことのない真剣な表情に思わず見入ってしまう。
比企谷、こんな顔もするんだ…
そうこうしているうちに、考えがまとまったのか、比企谷が顔を上げた。
その表情が先ほどより明るくなったような気がして、少しほっとする。
「参考になった?」
「あぁ、ばっちりだ」
そう言うとすぐに比企谷は駆け出して行った。おそらく屋上に向かうのだろう。
何だかよくわからないが、まぁ役に立てたようで良かった、そう思っていると予想外の言葉が耳に飛び込んできた。
「サンキュー! 愛してるぜ川崎!」
「……?」
瞬間、思考が停止し、そして、それから間もなく沸騰した。
* * *
え? あいつ何言ってんの? え? 愛してる? え? 本気? いやいやそんなわけ、てかいま思い返したら、ここに来た時「よかった」って言ってなかった? え? 私に会えてよかったってそういう意味? え? ホントに? そんなわけなくない? なんなのあいつほんとになんなの!?
何分巡らせたか分からない思考を何とか落ち着けつつ、私は一つの答えを出した。
「…聞き出してやらないと」
そうだ、人の心をこんなかき乱しやがってあの馬鹿、絶対許さない。
何であんなこと言いやがったのか、必ず聞き出してやる。
恐らくもっと冷静であれば、あいつのあんな真剣な顔をじっくり見ていなければ、文化祭の準備で徹夜しておらずもっと頭が回っていれば、こんな判断は下さなかっただろう。
しかし、それらを踏み越え、下してしまったこの判断が、これからの比企谷八幡と川崎沙希の関係を決定的に変えていく。
* * *
屋上の扉の前に辿り着くと、向こうから複数の人の気配と声がした。
何でこんな時にこんなに沢山の人がこんな場所に…?
そう考えを巡らせていると、すすり泣く声が聞こえ、思わず扉に耳を当ててしまう。
「…ど、皆に迷惑かけちゃったから合わせる顔が…」
「落ち着いて相模さん、大丈夫だから」
この声は、葉山? それに会話の内容から察するに、どうやらこの泣いている奴は相模らしい。
相模といえば確か、今年の文化祭の実行委員長だったはずだ。
そんな奴が何でこんな所に…?
それに、声からして他にも女子生徒がいるようだけど、比企谷の声は聞こえない。
まさか、あいつ屋上にいない? それか葉山に任せた?
あいつの性格からして、確かに任せそうではあるけど…
「大丈夫だから、戻ろう?」
「うち、最低…」
葉山はなんとか相模を励ましているが、どうにも事が進展しているようには感じられない。
聞こえてくる相模の声は、妹の京華が拗ねた時の雰囲気にそっくりだ。
相模が心を落ち着けるにはもう暫くの時間がかかるように思えた、がしかし、そんな考えは唐突に聞こえてきた声で水泡に帰した。
「あぁ、本当に最低だな」
* * *
それから聞こえてくる言葉はまぁ酷いものだった。
落ち込んでいる相模をさらに責めるような言葉の数々。
しかも、その言葉は扉越しでも感じられるほどの悪意に満ち満ちていた。
何で比企谷がこんな言葉を相模にかけているのか、全くわからなかった。
ただ、相模の反応を聞くに、比企谷が言っていることの全てが的外れ、ということでもないことは分かった。
比企谷の言葉に耳を傾け、扉前から動けずにいると、その言葉が遮られ、壁に何かが叩きつけられる音が聞こえた。
「比企谷、…少し黙れ」
葉山だ。どうやら、比企谷にこれ以上喋らせないよう、体と言葉で止めにかかったようだ。
思わずほっと息を吐いてしまう。何故だかわからないけど、比企谷のあんな言葉をこれ以上聞きたくない、という思いが胸に渦巻いていたから。
「…っ」
比企谷のその漏れた声は、笑っているのか、それとも単に壁に押し付けられた痛みから出ているのかは分からなかったが、先ほど聞こえた言葉に宿っていた悪意は消えているように感じられた。
「葉山くん、やめよ、もういいから! そんな人ほっといて行こ? ね?」
「…あぁ、早く戻ろう。雪ノ下さん達も待ってる。先に相模さんと一緒に体育館へ向かってくれるかい?俺もすぐに向かうから」
「…? うん、分かった…」
会話から扉に向かってくることが分かり、反射的に脇に積んであった机の下に身を隠す。
意図していなかったとはいえ、盗み聞きをしてしまっているこの状況はあまりにも分が悪い、内容も内容だし…
扉が開くと、すすり泣く相模が女子二人に支えられるようにして出てきた。二人はぶつぶつと、先ほどの比企谷の言葉への不満と悪意をこぼしながら階段を降りていく。
何とも言い表すことの出来ないもやもやを胸に抱えていると、葉山の声が聞こえた。
「…どうして、そんなやり方しか出来ないんだ」
怒りと悲しみを滲ませた葉山のその言葉は、じんわりと私の耳に深くこびりついた。
そうして、扉から出てきた葉山は階段を降りていく、かに思われたのだが、何故か周りを見渡し始める。
そして、机下に隠れている私と目が合った。
思わず声が出そうになったが、葉山が自身の口に指を当ててそれを制する。
どうやら、扉越しの私の気配に気づいていたらしい。
そして、扉の奥、いや、壁の奥に目線をやると私を見つめて、一度深く頭を下げた。
そして、少し微笑むとそのまま階段を降りて行った。
言葉はなかったが、私には葉山の伝えたいことが分かった気がした。
あいつを頼む、と。
* * *
「…あんた、何やってんのさ」
「川崎…? お前、何でこんなところに…」
川崎沙希。小町の周りを飛び回る羽虫、もとい川崎大志からの依頼で関わった、現在の関係でいえば、同じ予備校に通っているクラスメイト、というだけの人物。
そんな人物が、こんなタイミングで現れたことに一瞬思考が停止する。
「あんた、何か焦ってるみたいだったし…そ、それに最後にワケわかんないこと言い捨てて行ったから…って、今はいいでしょ、そこは!」
「お、おう…」
動揺したり、キレたりせわしないなこいつ。
ヤンキーじみた風貌も相まって超こえーよ、迫力満点だよ。
…しかし、まぁなんだ。よく分からん部分もあったが、要はここに来る前に、屋上のことを尋ねた俺の様子を見て心配してついてきてくれたらしい。
なにそれ、超世話焼きだな。オカン属性持ち? 三浦とキャラ被ってない? 大丈夫?
とそんな益体もない思考を巡らせていると、再度川崎から声がかかった。
「で、何やってんのって聞いたんだけど」
「…ちょっと疲れちまってな、屋上でサボってただけだよ」
分かっている。川崎が求めている言葉はこれじゃない。
そもそもこのタイミングで声を掛けてきた時点で、おそらくは先ほどの相模や葉山とのやり取りを聞かれていたのだろう。
盗み聞きとは、なんともまぁ趣味の悪いことだが、先のセリフからして偶々鉢合わせてしまったのだろうから致し方あるまい。
…しかし、聞いていたとしても、川崎にできることは何もない。
俺が川崎にしてほしいことも、何もない。
下手に川崎に行動されると、川崎にまで被害が及ぶ可能性がある。
つまりは、ここはワンピばりに『何もなかった!(ドンッ)』するのが正解というわけだ。
川崎も、オカン属性を発揮してなんとなく付いてきただけで、俺に対する思い入れなどあるまい。
俺がぼっち生活で培ったこの「触れるなオーラ」を感じればそのまま退いてくれるだろう。
川崎本人も、このオーラよく使ってるし。
スタンド使いが惹かれ合うように、ぼっち同士は引かれ反発するもの。完璧な理論だ。
「は?」
「ヒェッ…」
あれ~? 完璧な理論だったはずなのに何故こんなことに?
つーかやっぱめっちゃこえーよ、
キレた時のセリフまで同じとか三浦とキャラ被りすぎだろ、変な声出ちまったよ。
そうして小動物ばりにプルプル震えていると、目の前に何かが差し出された。
「はぁ……ん」
「……?」
「なにボーっとしてんのさ、立ちな、ほら!」
「お、おう」
どうやら、俺が立てるように手を貸してくれたらしい。
思いがけない行動に、普段なら絶対に握らないその手を思わず握ってしまった。
その手の温度を感じる間もなく、かなりの力で引き上げられる。
美人な上にパワーまであるとかこいつ無敵か? 絶対に逆らわないようにしよう…
「…すまん、助かった。」
「別にいいよ…行かなきゃなんでしょ?」
「はい?」
「だから…声かけたとき、立ち上がろうとしてたじゃん」
「あ、あぁ…」
これは驚いた。てっきり、質問責めに遭うものだとばかり思っていたが、どうやら深くは聞かないでいてくれるらしい。願ったりかなったりである。
ありがたくその言葉に乗じて、この場を立ち去ろうと言葉を発する。
「じゃあ、俺仕事に戻るから…」
「待ちな」
「…なんだよ」
背中から聞こえてきた声に振り返る間もなく、自分の体に手が触れる感触があった。
え、なに? お金ならないよ! ほんとだよ!
「服、着崩れてる上に汚れてる。整えてやるから、暫くじっとしてな」
「お、おう…」
そういうと川崎はテキパキと俺の身だしなみを整えていく。何この子、最高の衣装さんじゃん…
このまま芸能界でも働けるのでは?
カメラにチラ映りして、『何この美人衣装さん!?』などとネットで話題になるタイプ。
何なら、俺が拡散するまである。あの衣装さんはわしが育てた…
体に触れる手やかかる息、川崎との距離の近さに感じるむず痒さをしょうもない思考で打ち消していると、あっという間に作業は完了した。
「…はい、オッケー、出来たよ」
「おう、有難う…助かった」
「ん」
そうして、今度こそ体育館へ向かおうと足を動かそうとしたときに、背中に軽い衝撃を感じる。
振り返ると、どうやら背中を川崎に軽く叩かれたらしかった。
なんだよ、虫でもいたのかよ、それとも俺が虫ってことですか? 八幡泣いちゃう。
「……」
不満を目で表しつつ、その行動の意図を言葉なく尋ねる。
川崎は目が合うと、安心したかのようにフッと息を吐いた。
「大分、マシな顔になったね」
「はい? 何で急に外見貶されてんの俺? 何? 新手のカツアゲ手法?」
「…殴るよ?」
「すいません、何でもないです…」
「…まぁ、今は何であんなことをしたのか、とかは聞かないよ。ただ、さっきまでのあんたの顔はなんというか…らしくなかったからね。今のほうがあんたらしいよ。」
「…そうかよ。」
俺らしさ。他人の考えるそれを聞かされるなんて、普段なら反発してしまうことのはずなのに、何故かこの瞬間はすんなりと受け入れることが出来てしまった。
「今日の帰り、校門で待ってるから。そこで話は聞かせてもらうからね。そら! 行ってきな!」
「え? 痛って!」
川崎のその言葉に疑問を呈する暇もなく、先ほど軽く叩かれた背中が、更に力一杯叩かれた。
あまりの衝撃にたたらを踏みながら、屋上の扉を開く。
「…じゃあ、行ってくるわ」
「うん、行ってきな」
ただの行動の報告と承認。互いの顔も合わせない、ただそれだけのやり取りだったが、今はそれが何よりも心地よく感じた。
背中に感じる痛みともつかない熱を感じながら、体育館へ向かう。
座り込んでいた時に感じた、体中に蟠るような重みは、もう、なかった。
* * *
扉がしまり、遠ざかっていくあいつを見送る。
どうだろうか。変に思われなかっただろうか。いや、変ではあったかもしれないけど…でも…。
座り込んでいたあいつを見たときに感じた感情。同情とも憐憫ともつかないあの感覚。
ただ一つ言えることは、あいつをあんな顔にさせたままではいけないと感じた、ということだ。
葉山に託された――私の思い違いかもしれないけれど――ことは果たせたのだろうか。
わからない。わからないから、まだ終わりではないのだと、そう思った。
* * *