ガールズ&パンツァー 7人の戦車長   作:俳吟

19 / 22
決勝 大洗女子学園戦(終①)

『一度後退してください!』

 

 擱座したⅢ突を残し、3輌は元来たカーブへと急いで後進した。今や先頭となったポルシェティーガーが後ろ向きに曲がるその最中、敵の砲声が彼女たちの耳を襲う。放たれた徹甲榴弾は道路を真っ直ぐに飛び、ぎりぎりでかわしたポルシェティーガーを掠って山の斜面へと着弾。重く鈍い衝撃と、それとほぼ同じくして爆発が起き、黒煙と砂塵がその周辺に舞い散った。

 

 みほはそのときの大音響を受けながら、右手に掛けているキューポラの縁を強く握りしめた。正面から挑むには敵が強大すぎることを、彼女はよく知っている。大洗の戦車では勝負を仕掛けること自体が無謀であることも。そして何よりも、それを覆すための有利な位置取りをとることがこの狭い山道の中ではできないことを、彼女は認めざるを得なかった。

 

 しかし、ここで引き返すことはできない。勝つためには何が何でもあの戦車を倒すしかない。それも、一刻の猶予も許さず速やかに。

 

『前進! 照準、敵車体装甲!』

 

 敵弾が発射されてから直ちに、後進を止めて前進する。相手の装填する時間内に撃破すべく、彼女たちは道を塞ぐJSー3と再び対峙した。ポルシェティーガーはカーブの外側から、Ⅳ号戦車と八九式中戦車はⅢ突の陰に車体を隠すようにしながら、それぞれの砲身を50m先の敵戦車へと向ける。狙うは傾斜が厳しいものの可能性はある、比較的装甲の薄い車体前面110mm。

 

『撃て!』

 

 轟音とともに、3輌は一斉に火を噴いた。八九式はともかく、ポルシェティーガーとⅣ号戦車から放たれた硬芯徹甲弾はまだ希望はあった。跳弾される可能性の方が高いとはいえ、敵戦車が楔型装甲の傾斜が緩む昼飯時の状態のままでいてくれれば、上手く当たれば貫通判定が出せる程の威力はある。みほはそれに賭けた。

 

 ただ、相手は勿論その弱点を知っている。知っているからこそ、あえてそうして攻撃を誘っていたのかもしれない。JSー3は、照準がつけられようとした時から動き出していた。右の履帯が少しだけ動き、大洗側の砲撃が来るまえには真正面に正対した状態がとられる。この場合の車体装甲は実質220mm以上の、まさに鉄壁となる。当然、3発の射弾は敢え無くすべて弾かれた。

 

 攻撃は失敗した――そうして次に来るのは無論、122mm砲による反撃である。敵の砲身はゆっくりと動き始めた。その狙う先はこちらから見て左側、Ⅲ号突撃砲のさらに先――Ⅳ号戦車砲塔。

 

『っ、後退!』

 

 彼女たちは再度後ろに下がり、敵の砲撃から隠れようとする。しかし今度は無傷とはいかなかった。敵の装填速度が、先ほどよりも早かったのだ。JSー3はⅣ号に逃げられると判断したのか、すぐさまポルシェティーガーへと砲口を向けなおし、焔をあげる。後進する重戦車も今度はかわしきれず、飛来する砲弾は砲塔前面基部に命中。装甲を穿つように炸裂した。

 

 その爆発、その衝撃を間近にして、みほの表情は蒼くなった。自動車部の人たちは無事だろうか――まず考えたのはそれだった。そして同時に、彼女の指揮官としての冷静な思考は、僚車の損傷具合に警鐘を鳴らし続けた。いくら200mmにまで強化したポルシェティーガーの砲塔前面装甲とはいえど、25kgもの射弾、それも脆弱部への命中弾が、何らの影響も及ぼさないはずはない。被撃破となる可能性も十分すぎるほどあり得る。みほは次第に後進速度が遅くなるその車体を、固唾を呑んで見つめた。

 

 やがて相手の射線から外れるカーブ手前で3輌は停まり、少ししてポルシェティーガーの中から車長のナカジマが出てきた。車体の上に立って、何か大声をあげながら直撃をうけたところを見ている。が、すぐに首を振ると、Ⅳ号の方に向き直って喉元のマイクに手をかけた。その表情は険しく、厳しいものだった。

 

『西住隊長、砲塔がやられました! 旋回装置破損、俯仰装置故障!』

『直せますか!?』

 

 みほは素早く返した。

 

『旋回装置は歪みが酷くて直せません! 手動での操作も不可です!』

 

 その報告に、みほは愕然となった。旋回操作ができない――それはすなわち、正確な射撃が事実上できないというのに等しい。撃破と判定されるよりは遙かにましとはいえ、この状況で大洗唯一の88mm砲が使えないというのは、あまりに痛手といえる。

 

『に、西住隊長。ここは引いたほうが――』

『ダメです! すでに挟み撃ちになっています、活路はここだけです!』

 

 彼女にしては珍しく語気を強め、その提案を一蹴する。もうそんなことができる段階ではないことを、彼女は身にしみていた。この国道469号線の東富士演習場から市街地訓練場までの区間は山間部の一本道となっており、また敵の本隊は間違いなくこちらに向けて急行している。もし今引き返したとしても、次はARL-44を先頭とした敵3輌と鉢合わせしてしまうだろう。貫通力200mmを優に越す90mm砲と120mmの傾斜装甲、さらに背後に2輌を控えたその本隊を前にしては、この狭い道路内での勝算は絶望的に希薄であった。

 

『でも、このままでは……』

 

 無線に乗った八九式からの磯辺の声は、自信なげにほそって消える。みほは味方を鼓舞するかのように、語を継いだ。

 

『何か、何か手があるはずです。ここで諦めるわけにはいかないんです。絶対に……』

 

 あるいはそれは、自らにいいきかせるようでもあった。彼女は周囲に目をやった。道路沿いは密集した木々と傾斜があり、迂回することなどできず、完全に機動戦を封殺されている。やはり正面から仕掛けるしかない――状況は限りなく悪いが、彼女はそれでもまだ望みを捨てようとせず、突破する方法を片っ端から模索していた。

 

 そしてその姿勢は無駄にはならなかった。みほの言葉に触発されたのか、大洗のメンバー全員が諦めようとはしなかった。彼女たちは気持ちを奮い立たせると、それぞれが打開策がないか検討し始める。

 

「敵の弱点は、他にないのでしょうか」

 

 Ⅳ号戦車の車内では、華が誰にともなく聞いた。

 

「……車体中央上部のペリスコープがあるところ、あそこは60mmです。でも、角度が75度の急傾斜になっていて、狙うにはショットトラップしかありません」

 

 優花里がそれに応えた。華は考え込むように目を閉じたが、やがて小さくかぶりを振る。砲身または砲盾に当てれば可能性は有るとはいえ、彼女の腕を持ってしてもそのショットトラップは狙ってできるものではない。最後の手段にはなるだろうが、華としては僅かでも勝算の高い方法をとりたかった。

 

「あとは……砲身の上、ほんの少し見える砲塔の天板が底面と同じく20mmのはずです。ただ、ここも80度の傾斜があって、正面からでは……」

 

 声は次第に小さくなる。いくら装甲が薄いとはいえ、急傾斜のうえに仰向け気味に撃つ必要がある天板を狙っても、角度が浅すぎて弾かれてしまうだろう。そして彼女の知る限り、正面を向いたスターリン戦車の弱点は他にない。優花里は急速に湧いた闘志が、すぐになくなってしまうように感じた。

 

 ただその言葉は、この状況を打開する最初の一押しとなった。

 

「天板20mm……」

 

 会話を聞いていたみほは小さく呟くと、突然車長席に戻り、静かに指示を出した。

 

「優花里さん、成形炸薬弾はまだありますか」

「はい!」

「華さん。次は敵の天板を狙ってください」

 

 少し間があった。成形炸薬弾は徹甲弾とは違い、砲弾内部の炸薬により超高速の液体金属を噴射する化学エネルギー弾である。信管が作動さえすれば目標に凄まじい高圧を叩きつけられるため、どんな距離でも貫通力は一定であり、またその性質上ある意味では角度に強いといえる。今の場合では、斜面効果によりただ弾かれるだけの徹甲弾よりも、装甲に侵徹する可能性が高いのは間違いない。

 

 しかしそれは、必ずしも相手に有効弾を与えられるということを意味するものではない。華は困惑気な表情になって、みほに聞き返した。

 

「狙えますが……その弾では、当たっても貫通出来ないのではありませんか?」

 

 彼女の疑問も尤もだった。20mmの天板といっても、80度の傾斜がかかっていれば見かけ上は115mmにも達する。対してⅣ号が撃てる成形炸薬弾は最大100mmの貫通力しか持たず、効果はないと言わざるを得ない。ちなみにポルシェティーガーがこの砲弾を積んでいないのも、攻撃力が低いのでわざわざ積む必要性がなかったからである。仮に続けて同じ所に命中できるなら話は違ってくるが、さすがにそんなことは相手が許してくれないだろう。

 

 みほは勿論、そのことを理解している。今のままでは撃破などできはしない。そう、今のままでは。彼女は華の疑問には応えず、ただ黙って頷くと、今度は車内通話を通して言った。

 

「麻子さん。Ⅳ号をⅢ突の上に乗せられますか」

 

 彼女はそこで言葉を切った。その言葉の意味、その驚愕がすみずみにまで行き渡るのを、静かに待つかのようだった。彼女の意図していることを、ここにいる全員がくみとることができた。

 

「そういうことか……」

 

 麻子は呟いた。天才の名をほしいままにする彼女にとっても、みほの案は突拍子もないものである。戦車の上に戦車を乗せるなど、一体誰が思いつくものであろうか。だが確かに、それが出来さえすれば、計算上は敵に貫通判定を出すことができる。麻子はなるべく平静な声で、素っ気なく言った。

 

「このままだと無理だ。いくら速度を上げたとしても、ただの衝突事故で終わるぞ」

 

 車内に一瞬、落胆の空気が漂う。しかし彼女は、高揚を抑えきれず、ほんの少し笑った。

 

「だが、障害物でもあって車体を上向かせられれば……可能性はゼロじゃない」

「それで十分です」

 

 みほは穏やかに微笑んだ。不幸中の幸いというか、ここなら障害物には事欠かないし、可能性が低いのは元よりのことだ。僅かにでも残っているのなら、賭ける価値は十分にある。――そうと決まれば、急いで他の車輌に指示を出さなければならない。みほは咽喉マイクに手をかけた。

 

『レオポンチームの皆さん――』

『おっと、みなまで言わせないよー』

『囮役ってことだねー。引き受けたよ』

 

 みほの声を遮るように、ポルシェティーガーからナカジマと操縦手の声が入る。その口調は、完全に作戦のすべてを理解している声だった。

 

『こちらアヒルさんチーム、障害物の設置は任せてください!』

『作業が終わり次第、Ⅲ突の前に停めてⅣ号を受け止めます。思いっきりアタックしてください!』

 

 八九式中戦車に乗っている磯辺とその操縦手も、つづけて言った。さらに間髪入れず、別の声が無線に入ってくる。

 

『カバさんチームだ、こっちの心配はしなくていいぞ!』

『我らの屍を越えて行け!』

 

 Ⅲ号突撃砲からだった。こちらもまた、Ⅳ号の車内の会話を聞いていたかのような口振りで、いかにも彼女たちらしい激励だった。みほは今から説明しようとしたことを先に言われ唖然としていたが、そこに沙織が声をかけてくる。

 

「今の話、無線機で流してたの」

「やるならさっさとやるぞ。時間がもったいない」

 

 麻子も車内通話を通して言った。彼女の言うとおり、方針が決まったなら一刻も早く始めなければならない。そのことを全員が理解してくれている。……みほは少しの間、言葉に詰まった。これほどまでに皆の気持ちが一つになれるとは、彼女自身考えていなかった。今の皆なら、きっとこの作戦を成功させることができる。

 

『それでは――行きます。パンツァー・フォー!』

 

 彼女は万感の思いを込めて、号令を発した。

 

 

 

 

 

 

 それから一分もかからないうちに、その戦闘はすべて終わった。

 

 昼飯時の角度を取り直して道を塞いでいたJS-3の前に、ポルシェティーガーは再び姿を現した。先ほどまでとは異なり、速度を落とすことなくⅢ突の横を通り過ぎて、勢いよくJS-3へと接近しようとする。それに対し、122mm砲は冷徹にその砲塔基部へと照準を合わせた。慌てて横にずれて回避しようとしたポルシェティーガーも、この片側1車線の山道のなかでは避けきることはできない。直撃弾を受けると今度は白旗をあげ、道路横に生い茂る木々の中へと突っ込んでいった。

 

 衝突音と木々の倒れる音が断続的に響く中、次に動いていたのは八九式中戦車だった。彼女たちは砲声があがる直前からⅢ突の右後方について、砲塔を道路脇にある高木の一本に向けた。ほとんど間断なく撃ち込まれた2発の砲弾は、その木の根本に命中し、舗装の上へと倒れさせる。その間に八九式は砲煙を漂わせながら急加速、左旋回し、Ⅲ突の前に車体を停めた。木が完全に倒れるのと、八九式が動きをとめたのは、ほぼ同時であった。

 

 準備はすべて調った――最後の仕上げと言わんばかりに騒音をあげたのは、Ⅳ号戦車である。おそらく少し下がってから走り出して速度をあげたのであろう、猛スピードでカーブを曲がりきると、Ⅳ号の履帯は倒れていた木に勢いよくぶつかった。車体は上向きになり、速度を保ったままⅢ突の後部に激突、辺りに金属音を響かせながらⅢ突を乗り越そうとして、八九式の車体に当たりそこで停止した。2輌に支えられるような不安定な状態ではあるが、Ⅳ号は戦車の上に乗ったのだ。そしてⅢ突の車体分の高さを得たⅣ号は休むことなく砲身の照準を合わし、間もなく衝撃に揺れた。

 

 成形炸薬弾は狙いを違わずに飛んでいった。その行く先はJS-3の砲塔、八九式に照準を合わすため真正面を向いた砲塔の天板へと的中する。彼女たちがここまでして得られたのは、2度の角度である。たったの2度――しかしその2度は、見かけ上115mmであった天板の厚さを96mmにまで減ずることができる。命中した砲弾による高圧をうけると、装甲は耐えきれずに貫徹。JS-3につけられた判定装置は貫通と認識し、審判に試合続行不能を宣言させた。

 

 JS-3は白旗をあげて停止した。その目の前には、Ⅳ号と八九式の姿があった。最初にこの地点に来たときには4輌あった大洗女子学園の戦車も、残りはもうその2輌しかない。だが彼女たちは切り抜けることができたのだ。試合はまだ、終わることなく続いていた。

 

 

 

 

 

 

『そう、ですか』

『ごめんなさい……。不甲斐ない結果に、終わってしまって』

 

 JSー3の窮屈な戦闘室の中で、共産主義は無線の声に力なく応えた。

 

『いえ、怪我がなくて何よりです。あとはお任せください』

『……うん、お願い』

『ええ。必ず』

 

 通信を終えると、車内は静かになった。あの耳を聾する発射音も、あれだけ騒がしかったエンジンの音も、今はもうなくなっている。だが、外の方からけたたましい騒音が響き、それと同時に車体が揺れ動くのを感じると、彼女はため息をついて車長ハッチへと向かった。

 

「終わっちゃいましたねー」

「うん……」

 

 すでにハッチから身体を出している砲手に応えながら、その前の隙間からひょこっと顔を出す。久方ぶりの外の開放感を味わう彼女の目の前には、つい今し方まで砲撃戦があった山道と、JS-3の砲塔にある取手に掛けられた牽引ケーブル、そしてそれを繋いでいるⅣ号戦車の姿があった。ちなみに八九式中戦車も、Ⅳ号の後ろで同じくケーブルによっておのおのを繋いでいるはずである。ここからだと、その車体がちょっとだけ見える。

 

 右側車線にいる相手の戦車が一際大きく排煙をあげて後退すると、それに伴い自車も右前方へと動く。相手は道を通せんぼしているスターリンをどかそうと牽引しているのであった。重装甲を持つにしては軽量な45tというJS-3の重さが、ここでは仇となった。マウス並とまではいかなくても、もう少し重ければ本隊の到着まで時間を稼ぐことができたかもしれない。

 

 やがて戦車1輌が通れるくらいの幅ができるまで移動されると、大洗の戦車はケーブルを取り外して前へ進み始める。そしてこちらとすれ違うとき、先頭のⅣ号の装填手ハッチからグデーリアンが身体を出して、「またいつか、一緒に試合しましょう!」といいながら手を振っていた。共産主義は小さく手を振ってそれを見送ると、ぽふっ、と砲手によりかかった。

 

「また、か……」

 

 彼女はこれまで、その機会はもう来ないだろうと思っていた。大会が終われば受験勉強が待っているし、今進学を考えている大学も戦車道をやっていないところばかりである。将来のことはまだわからないが、社会に出ればますます遠ざかるだろう。ここで最後という気持ちも秘かに抱いて、この決勝戦に挑んでいたのだ。

 

 だがこうして終わってみると、こんな所でやめたくないという気持ちが抑えられなくなっていた。この窮屈な、けれど乗員が一心となって動かす戦車から離れるというのが寂しく感じられ、まだ乗っていたいと無性に思った。チームにあまり貢献できないままやられてしまった悔しさが、もう一度という思いを渇望させた。なによりも、今見たばかりの相手の作戦が、何故だか一層それを強くした。

 

「また、戦いたい」

 

 その言葉は、音となってすぐに消える。それでも彼女の心の中には、いつまでもくすぶるようにして残っていた。

 

 

 

 

 

 

 山道を走る3輌の最後尾に位置する四式中戦車の中では、隊長が大きく息をついた。相手は2輌撃破され、残りの2輌は市街地へ向かっている。まだ有利である――有利ではあるが、こうなってしまったこと自体が問題なのだと、彼女は思った。

 

「人を必要以上に追い込むのは、賢明ではない。……高くつきましたね」

 

 ささやくように自然と口から出た声は、幸いにもエンジン音にかき消された。その教訓を再確認するのにスターリン戦車1輌という損失は大きすぎるといえよう。包囲網の中に追い込もうというのだから、やるとしてもヤークトパンターと一緒にして最低でも2輌編成にしなければならなかったのだ。でなければ心を挫くどころか、相手は死兵となって猛烈に反発してくる。こんな常識的なことを考慮できなかったとはあまりにも迂闊である。彼女はもう一度深くため息をついた。

 

 追い込むといえば、と彼女は不意に思った。相手は元より追い込まれているのだ。試合の始まる前から、面白くもないことに政治的な事情によって。隊長は今日の対戦相手に関する噂を知っていた。その話はちょっとした情報通には広く知られており、九割方間違いないだろうということだった。

 

 相手はここで負ければ廃校になる。文部科学省は学園艦の統廃合の方針を打ち出しており、まだ正式には公表されていないが、その予定のリストの中に大洗女子学園が含まれている。それで今年になって戦車道を復活させて、廃校を免れるために優勝を目指しているという。――本当だとすれば、相手は一体どれほどのものを背負っているのだろう。生徒だけでなく、学園艦に住む3万もの人達の命運が、彼女たちの双肩にかかっているのだ。その重さは、想像するに余りある。

 

 隊長も、相手に対する同情心は持っていた。それで手を緩めるようなことなど勿論しないが、心痛察する心は持っている。そして相手の立場になって考えることも出来た。もし彼女が大洗の立場にあったなら、それこそ必死になって戦うに違いない。全力で、可能な限り手段を問わずに。自分たちだけでなく後輩やその他の人達にも関わることだ、プレッシャーに潰されない限りはそうするのが当然であろう。

 

 今戦っているのは、つまりはそういった相手であった。どこまでも心を折らず、最後の最後まで勝利を諦めない死兵。加えて相手の指揮官は常に冷静で、こちらの読みなど平然と上回ってくる。まだ3対2とリードを守っているが、果たしてこのまま勝てるだろうか――

 

『……隊長ー? ねぇ、隊長ってば』

 

 止めどなく彼女は思考を巡らしていたが、呼びかけられていることにようやく気がつき、無線をとった。

 

『はい、すみません。何でしょうか』

『こない返事が遅れるなんて、どうかしたん?』

『大丈夫? ちょっと元気ないみたいだよ?』

『少し考え事をしてまして。それよりも、何かありましたか』

『えっとね。一応確認なんだけど。まさかここで、時間切れを狙いましょうなんて言わないよね』

 

 隊長はまたすこし考え込んだ。今日の試合では意図的に時間切れによる一騎打ちを避けようとしてきたが、もう手段は選んでいられないのではないか。怖いのは連携をとられて各個撃破されることであって、一対一で戦うのであれば勝てる自信はある。彼女はじっと目を閉じた。こんな答えは望んでいないかもしれないが、きっとわかってくれる。意を決すると、再び目を開けた。

 

『そのつもりはありませんでしたが……こうなった以上は、そちらの方が良いでしょうね』

『だめだめ。それはあかんで』

『もう。そんなだから隊長は隊長なんだって』

『……せめてわかるように言ってください』

 

 ぶーぶー、という追加の抗議の声を受けながらも、彼女はめげなかった。今の彼女にとって重要なのは、少しでも勝算の高い戦い方をとって、このチームを優勝に導くことである。穏やかな口調のまま、もう一度諭すように言った。

 

『確実に勝つならその方がベターです。ここまで来て万が一のことがあれば、それは――』

『なんや、もしかして自信ない?』

 

 ぴくっ、と眉が動く。平素あまり怒らない隊長に地雷となるような言葉があるとしたら、まさに今回のこれがその一つだったかもしれない。彼女は先ほどまで考えていたことをつい忘れて、一気に逆の方向へと感情を膨らませた。自信がない? たかがⅣ号と八九式を相手にして、この私たちが? ――他の誰かから指摘されると、実際に近いことを思っていたとしても癪にさわるものがあったのだろう。彼女は外には出さないまでも、その獰猛な本心を荒れ狂わせた。

 

 ただ、それでもなんとか、彼女は自分の想念を振り切った。今の彼女の立場はあくまでチームの隊長であり、フラッグ車の車長である。気持ちを落ち着かせるように深呼吸すると、再度無線に向かって言った。

 

『……市街戦の難しさはよく知っているでしょう。まして相手はまだ2輌、しかも先に入られています。はっきり言えば危険です』

『知ってるけどさ。でも、たとえ無謀だとしても、ここは行くべきなんじゃない?』

『2輌だけならどうにかなるわ。大体あんな戦い方を見せてくれるんなら、うちらも負けとられんのとちゃう?』

『そうそう。こんな気持ちで時間切れまで待つなんて、耐えられないからね』

 

 口々に言う二人の言葉の裏に、どうあってもこれは譲れないという強い意志を感じ取ると、隊長もとうとう諦めた。こうなると梃子でも動かないことは十分身にしみている。それに彼女自身、二人に感化されたのか怖れはもうなくなっていた。残ったのは自尊心にも似た、一種の誇りであった。

 

 負けられない。相手があの性能に見劣りする戦車であそこまで戦えるというのなら、なおさら負けるわけにはいかない。彼女は今度こそ決心が付いた。相手は死力を尽くしてくるだろうし、大洗の隊長は自分よりも格上なのだろうが、それがなんだ。こちらもここまで勝ち上がってきているのだ。簡単にはやられはしない。――彼女はそう気持ちを新たにする。そして、差し当たってしなければならないことに思い当たり、早速指示を出した。

 

『全車、停止してください』

『隊長!?』

 

 四式中戦車が速度を落として停まると、前の2輌も慌てて同じようにとまる。そのハッチからは物言いたげにこちらを見ている二人の顔が見えたが、彼女は意に介さずにつづけた。

 

『各自エンジンと足回りの点検を。ここまでの走行で整備が必要なはずです。万全の態勢でなければ勝てません』

 

 既に10キロ以上もの距離を走行した戦車に対する当然の指示だった。大戦時の戦車というのは頻繁に、時には頻繁すぎるほどに整備を必要とするものである。特に走行に関わる部分は、鉄の塊を動かすのだから故障が発生しやすく、未然に予防するためにも適時小休止を入れて点検しないといけない。これから強敵と戦おうというのだから、なおのこと必要な措置といえるだろう。

 

『……オッケー!』

『任しといて!』

 

 快活な返答があってからすぐに、各車の乗組員が外へ出始める。山麓を走る道路の真ん中で、転輪のナットなどを叩く点検ハンマーの音が、しばらく鳴り響いた。

 

 

 

 

 

 

 日が傾き始め、空の青さが徐々に黄色みがかってくるように見える頃。3輌は国道469号線を走り終えると、それまでの山間の風景から一変する、住宅やテナント等が建ち並ぶ現代的な都市空間の中へと入った。富士山麓の緑の中に突然現れるこの場所は、東富士演習場の区域の一つ。戦車道の試合にも対応した、国内最大級の市街地演習場である。――おそらく時間的にも見て、この決勝戦の決着がつけられるであろう場所でもあった。

 

 国道から入ってすぐには住宅団地を模した地帯がある。鉄筋コンクリートで造られた長方体の集合住宅が幾つも並び、それぞれの間には一般的にある公園施設はないものの、十分な間隔がとられている。そこを抜けて停弾提を下りると、いよいよ碁盤目状に区画された市街地の中へと入っていく。建物にひびが入り、ところどころのガラスが割れている無人の市街地は、演習場にしてはあまりに広く、また都市部をそのまま再現したかのように複雑極まりない。

 

 3輌は今、その市街地を進んでいた。先頭にARL-44、次に四式中戦車、P40の順に一列縦隊となって、街の中心に近い幹線道路を通っている。ゆっくりと、而して慎重に。交差点に出くわすたびに一度停止して、辺りの状況を伺っていく。そして、彼女たちが進む道路沿いの建物の屋上には、そこを自在に飛び移る一人の少女の姿があった。

 

『こちら偵察班です。敵影見当たりません』

『了解です。各車、前進してください』

 

 高所から道路を偵察する少女の報告を受けて、隊長は交差点を通過するよう指示を出す。再び前を進む戦車の速度はやはり遅く、最大でも時速10kmほどである。最近の戦車運用の知見には、市街地は高速で機動するのが原則というものがあることを隊長は知っているが、今回はあえてそれを外している。戦術的な利をとるよりも、個人の能力を最大限に活かす方法を選んだのだ。お互いの数が少ない今の状況では、この方がより有効だろうと彼女は考えた。

 

 ただいずれにしても問題なのは、敵の居場所がまったくの不明ということである。どこかで待ち伏せしているのかもしれないし、あるいは突然襲撃が来たとしてもおかしくはない。そうしたことに警戒しながら、この広い市街地の中にいる敵を手探りで見つけようとするのは、余人が見る分よりも骨が折れる作業であった。

 

『わかってたけど、神経戦だね。これは』

 

 少し疲れたような声が、無線に乗った。

 

『うー。やっぱりちょっと、もどかしいかも』

『まあまあ。服部ちゃんおるから不意打ちはないで。でも、すぐに見つかると思うたんやけどなぁ』

『エンジンを切って潜んでるのかもしれませんね。近くには動いていませんから。焦らず、警戒をつづけてください』

 

 隊長はごく自然な口調でそう言った。彼女はハッチから顔を出して、ヘッドフォンの片側を押し上げている。先頭を走るレジスタンスは振り返ってその様子を見ると、真似してヘッドフォンを外してみたが、すぐに諦めて元に戻した。

 

『うん。こういうときはほんと頼もしいよね。私はそこまで分からないし』

『え? これくらい回転数下げてくれるなら分かりませんか?』

 

 建物を飛び回っているP40通信手から、不思議そうな声が入る。素の口調がでたのか、関西地方らしい発音の仕方が少し残っていた。

 

『……服部ちゃん。ふつうの人には分からないの。いい?』

『先輩、そうなんですか?』

『せやなー。正直、これでもちょいときついもんがあるわ』

『すみません、今は私語を控えてください』

 

 無線はまた静かになり、ほとんどが事務的な会話ばかりになる。隊長も今度ばかりは、通信規律を厳密にせざるを得なかった。もはやそんな余裕がない状態の現れであり、またどんな些細なことでも見逃しはしないという彼女なりの本気の現れでもある。3輌は遅々とした速度で、そのまま都市部の風景の中を進み続けた。

 

 それが起こったのは市街地も半ばに差し掛かったほどであろうか。中層ビルもいくつか見える、片側2車線の大きめな道路に入ってすぐのところで、3輌はその時停止していた。一度高い建物に上って広範囲を索敵してほしいという指示を受けたP40の通信手が、建物の中に入ろうとしたちょうどその時のことだった。

 

 彼女は不意にぴたっと動きを停め、建物に入るのをやめた。そしてまだ敵影もない道路の前方へと向き直る。伊賀流忍道の家元の娘として育てられた少女の感覚は、常人のものよりも鋭く研ぎ澄まされている。通信手は手に持っていた無線機を口に近づけた。

 

『こちら偵察班。前です、前』

『右前方、来ます』

 

 隊長は間髪入れずに言った。戦車長として恵まれた彼女の感覚にも、その兆候ははっきりととらえられていた。二人の報告を受けたARL-44は少し前に出て、僅かでも後ろの2輌を隠そうとする。砲塔は真っ直ぐを向いたまま。視界にはいかにも街中の幹線道路といった直線の道路が広がり、車などもないのでかなり遠くまで見通せる。何もいない――まだ何も見えない。しかしやがて、それはほとんど不意に現れた。

 

 300mほど先の一つ離れた交差点の右側から、1輌の戦車が姿を見せた。大胆にも側面を晒し、砲塔はこちらを向き、交差点にちょっとだけ入って直ぐに止まる。焦げ茶色の塗装に当時のドイツらしい角張った形状。車体後ろにあるフラッグは隠れているが、見間違うはずはなかった。

 

『Ⅳ号!』

 

 レジスタンスが叫ぶのと、2輌の間に砲弾が交錯するのは、ほぼ同時だった。恐るべきことに、先に着弾したのはⅣ号の徹甲弾だった。躍進射撃でのこの照準速度は恐るべきとしか言いようがない。飛来する弾丸はARL-44の正面装甲に当たり、ただ跳ね返る。次の瞬間に90mm砲は火を噴いたが、その着弾と、敵が即座に後退していたことが災いし、車体前部を掠っただけに終わってしまった。

 

 決定的なチャンスをものにできなかった彼女は思わず眉を寄せたが、すぐに気を取り直した。かくれんぼの時間はもう終わり、これからは狩りの時間。彼女ははやる気持ちを抑えて無線をとばした。

 

『すぐ逃げたね』

『何か、誘われとる気もするけど……』

 

 パスタは慎重な姿勢を崩さなかった。相手がわざわざ危険を冒して姿を現したからには、絶対に裏がある。ましてまだ八九式中戦車の居場所がわかっていないのだ。――ここまであからさまであれば彼女にも分かる。おそらく相手の狙いは四式中戦車、こちらの追撃に乗じてフラッグ車を狙い撃とうというのだろう。あいにくチトは紙装甲と揶揄されても仕方がないくらい装甲が薄く、側背面は八九式でも脅威となりえる。

 

 果たして彼女の懸念は当たっていた。大洗はまさにその狙いを持って、八九式を潜ませていた。先の砲撃音に紛れてエンジンを吹かし、今はもう臨戦態勢に入っている。隙を見せればすぐさま襲いかかってくるに違いない。そうした動きを察知していたのは、やはりこの二人であった。

 

『隊長、今』

『ええ、分かっています。……意外と近かったですね』

 

 P40の通信手の声に、隊長は微笑をたたえて頷いた。そして、

 

『二人とも、行ってください。私たちは八九式を片付けます』

 

 迷いなく命令を発した。

 

『……うん、任したわ』

『気を付けてね』

『そちらも。……御武運を』

 

 偵察班が戻るのを待って、P40とARL-44はⅣ号の後を追い始めた。やがてその大きめの通りの上には、1輌のみが残ることになる。四式中戦車は隠れることもなく、護衛のないただ1輌となってそこに留まった。

 

 

 

 

 

 

 必勝を期す大洗女子学園が、その隙を見逃すはずがなかった。選抜隊の動きは彼女たちに全て見られていた。通り沿いにあるビルの一つに潜んで道路を見ていた優花里は、2輌が動き出すと同時に勢い込んで無線機をつかんだ。

 

『釣れました! アヒルさんチーム、今です!』

『わかりました!』

 

 報告を受けた磯辺はすぐさま八九式中戦車を発進させる。彼女たちが潜んでいたのは住宅街のうちの一軒、大きめの自動車が入れるガレージの中。そこから抜け出すと、1輌くらいしか通れそうにない狭い路地を進み、目標のいる大通りの方へと急いだ。目指すべきはただ一つ、フラッグ車である四式中戦車。

 

 大洗は最初からこれを狙っていた。僅か2輌しかない今の戦力では、厳戒態勢にある敵に勝負を挑んでも勝ち目はない。どうしても分断して各個撃破する必要がある。そして、彼女たちは知っていた。敵のフラッグ車は表立って攻撃に移ることは殆どしない。撃破されれば負けになるというルール上当然の動きではあるが、後がない大洗女子にとってそれは、またとないチャンスをもたらしてくれるように見えた。

 

 大通りに続く路地へ入ると、短砲身の57mm砲は9時方向に回される。砲弾は既に装填されており、弾種は成形炸薬弾。55mmの貫通力は心もとなく感じるが、四式が相手なら側面は確実に、背面でも直角に当たれば貫通判定を出せる。加えてこの八九式中戦車の乗組員は精鋭揃い、命中精度は群を抜いていた。敵の背面を狙うように大通りへ向かう彼女たちなら、本来であれば間違いなく、勝負を決する活躍をすることが出来ただろう。

 

 ただ、あえて言うなれば――惜しむらくは、今回は戦う相手が悪かった。

 

『アヒルさんチーム、待ってください! 今敵が動きました、そちらに正面を向こうとしています!』

 

 優花里の焦った声を聞いたのは、八九式がちょうど路地内の最後の交差点を抜け、もうブロック塀に囲まれた直線道路を進むだけとなっていたときだった。磯辺は訝しんだ。向こうもエンジンは止めていないはずなのに、何故気付かれたのか――だがそれを考える暇はなかった。彼女はこの時、決断をせまられてもいた。一度引くか、このまま勝負を挑むのか。

 

 気付かれた以上、既に奇襲は失敗したと見なさなくてはならず、次の機会を伺うのが常道ではある。しかし彼女には、その選択を躊躇する理由があった。敵の四式がこちらに気付いたタイミングは図らずも絶妙な頃合いで、もはや後戻りできないところまで八九式が来ていた時であった。仮に引くとして八九式が隠れようとすると、その際には一度停まってから後進して交差点へと戻らねばならず、それだけでも時間がかかる。そして磯辺の類まれなる直感は、そうなったときの勝算を瞬時に弾いていた。殆ど間違いなく、敵の四式は直ちにこちらへと移動してきて、後進中の八九式を狙い撃つだろう。逃げ切るまでの時間的猶予は、おそらくない。彼女は意を決した。

 

「全速! アタック!!」

「はい!!」

 

 八九式は速度を落とすどころか、ますますスピードをあげた。本来装備されている6気筒ガソリンエンジンでは時速25kmくらいしか出せないはずだが、傍目には明らかにその速度を越え、なおも加速している。尤も、より高性能の代物に換装していれば有り得ないことではない。ともかく12tほどの車体には不釣り合いの馬力をもって住宅街を駆け抜けると、八九式は一気に大通りへと躍り出た。

 

 その瞬間、磯辺は敵のフラッグ車の姿を確かに見た。50mほど先にある淡い緑色に塗られた車体、ハッチから顔を出している車長の姿、それまでの日本戦車に比べて長砲身の主砲、そしてその砲口――車内は直ちに反動に揺れた。微塵も走行速度を落とさずに発射された射弾は敵の角張った車体に当たり、火焔を上げる。正面70mmへ命中しても残念ながら効果はないが、高速の行進間での命中弾は彼女たちの腕前の高さを証明している――しかし、報いはあった。

 

 ほぼ同時に放たれた敵の砲弾は、八九式を捉えていた。その車体側面のど真ん中を照準して撃たれた徹甲弾は、八九式の急加速により大分狙いが逸れたものの、履帯を巻き込みながら後部尾体へと命中。試合続行不能にはならなかったが左の履帯が完全に切れてしまい、八九式は道路の中央で車体を旋回させるはめになった。

 

 勢いよく、強制的に信地旋回するその戦車の車内で、彼女たちは悲鳴をあげる。操縦手が無我夢中でブレーキを踏むも、それまでの加速がたたり、結局一回り回転してようやく停まった。キューポラから外を覗いていた磯辺も、さすがにその衝撃を受けては立ち続けることなどできず、それまで踏み台にしていた弾薬箱の上に尻餅をつく。だが、不屈の闘志を持つ彼女はこの程度では諦めない。すぐに立ち直ると、壁に掛けていた砲弾を無造作に掴み取り、左側にある砲尾の尾栓を開けた。

 

「……履帯狙えーッ!!」

 

 磯辺は叫びながら、左拳で榴弾を叩き込んだ。元はバレー部である彼女には、チーム戦における今の役割を誰よりもわかっていた。もう寸分の望みもなくやられるのは確実である。でも、まだⅣ号がいる――彼女たちが信頼してやまない、西住隊長の乗るⅣ号戦車が。ならばこんなところで諦めるわけにはいかない。最後にほんの少しでも、時間を稼いでみせる――それは今の磯辺たちが出来る唯一のことであり、また希望でもあった。

 

 装填が完了すると、砲手は一瞬躊躇したが、即座に肩当ての機構で照準を合わし、引き金を引いた。発射の衝撃と、それを上回る敵弾からの衝撃は、間もなく同時に訪れた。

 

 

 

 

 

 

 轟音の余韻が残る中、八九式に白旗が上がる。道路に履帯を広げ、その先に転輪を数個散らし、傾いたまま停止したその車体からは、猛々しいエンジン音はもう聞こえない。周囲には静寂が立ち込める――けれどもそれは、長くは続かなかった。

 

 キャタピラの軋む音と、まだ生きているエンジン音が近づいてくると、磯辺はハッチを開けて顔を出した。周囲の状況を確認し、彼女は言葉をなくす。目の前にまで来た四式中戦車は正面に一つの弾痕を残すものの、他に目立った損傷はない。履帯も、当然のように連結されている。だが彼女を愕然とさせた原因は、それだけではなかった。信じ難いことに、八九式の砲身の根本から煙があがっていたのだ。

 

 今なお濛々と上り続ける黒煙は、ちょうど砲身横にある照準器の近くから出ていた。いかに優れた砲手といえど、これでは照準のつけようがない。何でこんなものが、と磯辺は呆然としていたが、理由はすぐにわかった。間近になった四式のハッチには同じように敵の隊長が身体を出していて、柔和な顔のまま、穏やかに口を開いた。

 

「盲射でこの精度。本当にあなた方は侮れませんね」

 

 その心からの賛辞を、しかし磯辺は受け入れることが出来なかった。彼女の視線は、彼女の心は、相手の手元に釘付けとなっていた。話しながらも敵の隊長は手を動かしていて、左手には半ばで折れた拳銃を持ち、右手は円筒状のものを銃身へと入れている。そうして装填が終わったのか、折れていた状態から戻されたそれを見たとき、彼女はすべて悟った。

 

「し、信号銃……」

 

 あの時だ。あの旋回が終わった直後に、信号弾が放たれていたのだ。思えば対峙した瞬間から、目の前の相手はこちらを窺っていた。八九式がまだ生きていると判断したその瞬間に、発砲したに違いない――磯辺はそれを理解した途端、憤りが湧いてくるのを感じた。やがて、彼女らしからぬことではあったが、その激情を叩きつけるように相手に向かって叫んだ。

 

「今日は、正々堂々とするって話じゃなかったんですか!」

 

 そう思うのは無理もないことではあった。信号銃を目くらましとして利用するなど、常軌を逸している。そんな手を、小細工はしないと公言している相手が使ってくるとは、普通は思いも寄らない。またそうでなくても、あと少しで勝てるというところで、せめてもの反撃すら叶わなかったのだ。八つ当たり気味であっても、そう言いたくなるのは至極当然のことだろう。

 

 ただその言葉は、何の効果もなかった。相手の隊長はきょとんとするだけだった。そして不思議そうに――心底不思議そうに、首を傾げた。

 

「ええ。ですので、今回は正々堂々と受けて立たせていただきました。……ルール上は、問題ありませんよ?」

 

 磯辺は絶句した。敵のフラッグ車はそんな彼女の様子を気にかけず、団地方面へ向けて去っていく。八九式中戦車はただ1輌だけとなり、白旗をあげたまま大通りに取り残された。

 

 

 

 

 

 

「みぽりん、アヒルさんチームがやられたよ!」

 

 飛んできた砲弾をすんでのところで躱したⅣ号のキューポラで、みほはその報告を聞いて顔を顰めた。もう大洗側はこのⅣ号戦車を残すのみ、対して敵はまだ3輌もいる。状況はいよいよ厳しく、敗退の二文字がいよいよ頭の中に浮かんでくるようだった。

 

「――そこを左折!」

 

 路地から路地に入った直後に、90mm砲が吼える轟音と、ヒュンっという徹甲弾の飛翔音、そしてその着弾により住宅が破壊されるときの衝撃が、すぐ近くから同時に伝わってくる。相手との距離はすでに間近で、気を抜くことは許されない。どうやってこちらの動きを把握しているのか、追っ手の2輌は正確に、最短距離をもってⅣ号を追撃していた。こうなれば急いで敵のフラッグ車へと向かいたいところだが、この状況ではままならない。

 

 それでもなお、みほの目には力がこもっていた。彼女は流れゆく風景をみつめた。両脇に一戸建ての住宅が立ち並んでいて、道路は1輌が通れるほどの幅しかなく、敵の射線からは容易に逃れられるが、これではこちらも攻撃できない。危険でも、もっと広い場所に出る必要がある。彼女はまだ勝つつもりでいた。絶え間なく操縦操作を続けている麻子も、いつ砲撃してもいいように集中力を切らしていない華も、戦闘室に上がってきて装填手席についた沙織も、勿論今は偵察に出てここにはいない優花里も、誰一人として諦めようとはしなかった。

 

「次の通りで勝負を仕掛けます!」

 

 みほは号令を発する。彼女たちは一縷の望みを賭けて、反撃を志した。

 

 

 

 

 

 

 逃げるⅣ号を追う2輌は、5mほどの距離で連なって住宅街を走っていた。路地を曲がるたびに敵フラッグの姿を見つけては、前を走るARLー44から轟音が鳴り響く。

 

 せっかく2輌いるのだから分かれて追った方がいいのではという考え方もあろうが、二つの理由からそれは出来なかった。まず一つに同士討ちの危険がある。このような市街地では分かれるとすぐに互いの位置がわかりにくくなり、下手をすれば誤射してしまうだろう。そしてもう一つは、Ⅳ号の行く先の見当がまったくつかめないことである。二手に分かれた方が効率がいいとしても、どこに先回りすればいいのかわからなければ、空振りになってしまうこともありえる。今のⅣ号戦車の動きはそれほど、ただ闇雲に逃げ回っているだけにしか見えなかった。

 

『ほんと、どこに行くつもりなんだろ』

 

 レジスタンスが疑問の声をあげた。

 

『隊長のところに向かうどころか、どんどん離れてくし。また罠でも仕掛けてあるのかなぁ?』

『どうやろか』

 

 パスタは判じかねた。

 

『でも、確かにどこかで反撃に移るはずや。気ぃ抜いたらあかんな』

 

 そう言い終わるのとほぼ同じくして、また前方から砲声が轟く。が、これも成果は上がらず、住宅に弾丸が叩き込まれただけに終わる。もう彼我の距離は100mも離れていないが、そこから差を詰めることができないでいた。最初はこちらを撒こうとして複雑な進路をとっていたものの、それでは近道をとられると気付いたのか、今は射線が通りそうになったときに限り曲がるようになっていた。操縦手の技量と戦車の走行性能はほぼ互角のようで、付かず離れずの距離が保たれている。

 

 尤もその状況も、次の曲がり角へ来たときに変わることになった。その路地に入ったとき、咆声は響かなかった。走り続ける戦車の砲身が向く先には、大きめの通りへと繋がる1本道と、その交差点付近に漂う白い煙があった。Ⅳ号の姿は、当然見えない。無線にはやや呆れ混じりの声が流れた。

 

『まーた煙幕だね』

『無駄やっちゅうのになー。……服部ちゃん?』

『ちょっと停まってください。こちら偵察班』

 

 P40通信手の声を受けて、2輌は速度を落として静止する。二人は少し意外そうな顔はしたが、特に口を挟むことはしなかった。

 

 パスタの隣、長方形の天蓋から並んで身体を出している通信手はヘッドフォンを外したまま、じっとした。本来なら車体右の席にいるはずの彼女だが、今は砲手と一時的に交代している。少しして、前方の煙を見据えたまま、彼女は確信を持って言った。

 

『まだそこの交差点、右にいます。待ち伏せです』

『ふむふむ、そうきたか。榴弾装填』

『2発撃ってくれへん? その間にうちら回り込むし』

『いいよー。よろしくね』

 

 P40は後退して曲がり角まで戻り、そこで元来た道へと向き直って引き返す。広範な索敵範囲を持つこの通信手を相手にしては、大抵の奇襲はそもそもが成立せず、逆に利用される。重戦車は十字路へ差し掛かると今度はそこを左に曲がり、通りへ続く舗道に入った。ここを走り抜けると、敵フラッグ車の背後をとることができる。

 

 速度を上げはじめると、折よく遠雷のような砲声と炸裂音が離れたところから響きわたった。ARL-44から放たれる榴弾は先の交差点へと着弾し、白煙を散らして射界を確保するだろう。また同時に、発射と爆発の衝撃はP40のエンジン音をかき消し、より安全に、確実に背後を狙うことに貢献する。そしてⅣ号が逃げようにも、前後の交差点を抑えられた状態ではそれも出来ない。車長の二人が勝利を確信したのも無理はなかった。

 

 誤算だったのは、敵が予想外に早く対応していたことがまず一つ。Ⅳ号戦車は最初の着弾から動き始め、煙幕をまき散らしながら後進をしていたのだった。本来なら通信手がその動きを察知するのだが、あいにく発射音が轟く中ではそれも難しい。結果としてP40と敵フラッグ車は交差点でいきなり出会うことになった。

 

 次に二つ目として、パスタが砲手の役目を代理したことが挙げられる。無論彼女とて、いざとなれば兼任することもあるから、腕前としては問題ないものを持っている。だがやはり専門外であることは否めず、いつもの砲手に比べれば偏差射撃の技量がいささか劣っていた。90mm砲は交差点中央を横切るⅣ号戦車へと照準を合わしたが、その未来修正に時間を要し、結局かなりの角度がついて砲塔側面を狙うように撃ち込まれた。

 

 ここまでならまだ撃破できていただろうが、真に最もたる誤算は他にあった。敵の技量が、あまりにも高かったのだ。Ⅳ号は後進しながらも、咄嗟にP40を向くように旋回した。その瞬時の判断、あるいはそうなるだろうという読みに基づくものか、どちらにせよそれは絶妙と言うに尽きた。放たれた徹甲榴弾は先に着弾するが、射角が浅くなってただ弾かれる。ここで選抜隊側の作戦は完全に瓦解した。

 

 それでも彼女たちはまだ幸運だったといえよう。煙幕に隠れる前に発射された敵の砲弾は、こちらの砲撃の影響か狙いがぶれていた。1時の方向から斜めに飛来する射弾は車体左前部のフェンダーを貫通し、履帯越しに上部転輪に的中。それを車体から弾き飛ばす。――P40がこの試合で受けた、最初で最後の被害であった。Ⅳ号戦車はそのまま道路を蛇行しながら後進し、煙の中に消えていった。

 

「……しくったか」

 

 パスタは悔しげに顔を歪め、ため息をついた。操縦手上がりの彼女には相手の腕前の高さがよく分かる。完敗やな、と彼女は心の中でつぶやいた。

 

 だが、まだやられたわけではない。気を取り直すと、すぐに無線で状況を報告した。

 

『ごめん、取り逃がした! うちはしばらく走れへん!』

『怪我はありませんか!?』

 

 隊長の声が即座に問い返した。

 

『そっちは問題ないけど、上部転輪が一個飛んだ! 今から修理に入るわ!』

 

 そう報告すると少し間があった。そしていつもの、というにはやや淡泊な口調で、指示を出す声が流れた。

 

『レジスタンスへ、P40の修理を手伝ってください。こちらはその間の時間を稼ぎます』

『了解!』

 

 操縦手を一人だけ残すと、パスタは他の乗組員を連れて下車し、左側面へと回った。そこで彼女たちは嫌なものをみた顔になって、一様にうめく。交差点にARL-44を停め、工具を持ったレジスタンスを含む五名が駆けつけて来たのは、三人が思案に暮れていたときだった。

 

「大丈夫!?」

「大丈夫やなかったわ。見てこれ」

 

 パスタはレジスタンスにそれを指し示した。外れた上部転輪は四つあるうちの最も前、起動輪の横にあるものだった。予備のものを付けるには、一度短めだが装着されているサイドスカートを取らないといけないだろう。それは別にいいのだが、問題はもう一つあった。一緒に履帯も切れていて、起動輪と転輪の間に垂れ下がっていたのだ。

 

 鉄で作られている履帯は当然重い。これを連結し直さないといけないが、今のままでは前の起動輪へとかけ直すことは難しく、さりとて広げて直すのも時間がかかる。パスタたちがどの手順で手をつけていいか悩んでいたのも、ある種仕方がない一面はあった。

 

「これは……珍しいところに当たったね。色んな意味で運がいいかも」

「撃たれた時点で悪すぎやろ」

「あは、確かにね。でも起動輪がやられなくて良かったよ。破損したら試合中じゃ直せないし」

「そうやなぁ……」

 

 目の前の大きな起動輪を眺めながら、パスタは同意した。転輪や履帯は予備のものを車体に積んでいる。が、さすがにこの起動輪の本体と歯車のスペアは持ってきていない。大きさと重さもさることだし、そもそもこれが壊れた場合は直す暇もなく撃破されていることが大半なので、そこは割り切っていたのである。今回は直撃しなかったが、そのほとんど真横に飛んできたことになるので、そういう意味でも運がよかったと言えた。

 

 レジスタンスは興味深そうに被害状況を確認していたが、すぐに段取りをつけたようで、

 

「面倒でも一度広げた方がいいかな。このままだと直すのにも狭いし、分担すれば早く終わるよ」

「手伝わせてしもうてごめん。恩に着ます」

「いーのいーの。お互い様だって」

 

 P40は履帯が外れないように注意しながらほんの僅かに信地旋回すると、慎重に前進して、左の起動輪に巻かれた履帯を地面に下ろした。そして切れた前端まで取り外し終えると、今度はゆっくりと後進。舗道の端から端までを斜めに渡るようにして履帯を広げて、最後に再び少しだけ前進する。これで作業の準備が整った。

 

 成り行きで陣頭指揮をとるレジスタンスは破損した履板の交換を前後二人ずつ、サイドスカートの取り外しを四人と割り当て、早速作業を開始した。その後は予備転輪をつけ、ワイヤーと起動輪を使って履帯を巻き上げるとともに、連結して張りを調整すれば復帰となる。正味10分もかからない、と彼女は言った。

 

 パスタはレジスタンスと一緒になって、後端のひしゃげた履板の取り外しにかかった。破損部から二枚目の三枚目の間、連結ピンの孔にハンマーを当てて、そこをレジスタンスが金槌で叩く。1回、2回と叩いて反対側の抜け止めを外すと、今度はその露出した連結ピンにハンマーを当てる。

 

「時間を稼ぐ、って言ってたけどさ」

 

 不意に、レジスタンスが口を開いた。金槌は休まず動かされ、何回か叩いた後にもう一つの抜け止めが外される。

 

「言うてたけど?」

「今向こうって一対一なんだよね。本当に稼ぐつもりあるのかな」

 

 カランッ、と連結ピンが外れて、路上に転がる。それを拾って破損した履板をどかすと、代わりに新しい履板を置く。二人は同時に、声をひそめて笑った。

 

「やられたねー」

「ほんまに」

 

 連結ピンを入れて、抜け止めを打ち始める。彼女たちの決勝戦はまだ終わっていない。早く追いついて一緒に相手を倒そうと、二人は修理を急いだ。

 

 

 

 

 

 

 いまだ市街地の中に留まっている四式中戦車の車内で、隊長は車長席に座り、考えことをするように目をつぶっていた。

 

 この時点ですべきことなど、彼女は当然わかっている。今考えていることが、図らずも隊長という任に就いた者として、言語道断の案であることも。――けれども、逸る心はどうにも抑えられそうになかった。"強大な敵が接近したときにどう対処するか"、この問いにヴィットマンはなんと答えたか。――隊長は目を開けて戦闘室の左を向き、定位置に立っている装填手と砲手に話しかけた。

 

「無粋なこと聞くけど。ここで逃げようって言ったらどうする?」

 

 問われた二人はお互いの顔を見合っていたが、間もなく顔を緩め、同時に隊長へと向き直った。

 

「インターコムの調子悪いので、そんな命令聞こえませーん」

「こっちもでーす」

 

 両手でヘッドフォンを押さえながら、冗談口を叩くように二人は言った。

 

「私のもダメね。違うところに行っても命令違反じゃないから」

「あらあら。これは仕方ありませんね」

 

 操縦手と通信手も、同調するように車内通話でつづけた。機械の不調により聞こえなかったとは、故意に命令に背く際の常套句である。ただ、彼女は咎める気にもならなかった。もう心は決まっていた。

 

 先の問いに、ヴィットマンはこう答えたという。"全速で突進し、これを叩く"と。隊長は、――佳枝は、微笑みを浮かべた。そしてあどけなささえ感じられるような笑顔となって、号令を下した。

 

「戦車前進。決着は私たちの手でつけるよ」

 

 

 

 

 

 

「優花里さん、乗ってください!」

「はい!」

 

 速度を落としたⅣ号の車体上面に、優花里は飛び移る。そうして装填手ハッチから車内に戻った彼女に、みほはいきなり聞いた。

 

「四式はどちらに向かいました?」

「団地方面へ向かってました。今どこにいるかは、わかりませんが……」

「まずはそこを目指すか」

「はい、お願いします」

 

 Ⅳ号は再び速度を上げ、住宅街の中に入った。麻子は視界が制限されているにもかかわらず、団地へと最短ルートをとって、この狭い道中を迷うことなく進ませる。地形を熟知し、また戦闘時においても自ら最良の動作を選定できる彼女は、まさに理想的な操縦手と呼ぶにふさわしい。

 

 みほは麻子の腕に全幅の信頼を寄せ、全神経を周囲へと集中させる。まだARLー44は生きており、もし追撃を諦めていなかった場合は、どこかで対峙することになるだろう。尤も、みほはその心配がないことを知っている。唯一問題なのは、敵のフラッグ車の居場所を速やかに突き止めなければならないということであり、彼女は些細な痕跡でも見つけだそうと努力した。

 

「四式はどこかに隠れているか、もう逃げ出してる。早く追いつかないと――」

 

 僅かに焦りを滲ませて、みほは呟いた。用心深い敵の隊長の考えることなど、手に取るように分かっている。仕留めきれなかったP40の修理を待ってから、再度攻撃を仕掛けようというに違いない。ARL-44はその間の護衛をしているだろうし、四式は時間を稼ごうとするはず。大洗が勝つには、そうなる前に探し出して倒すしかない。みほはそう確信を持っていた。

 

 だからこそそれは、殆ど不意打ちとなった。突然、みほは酷い胸騒ぎに襲われた。周囲を見返し、それでも不安は消えず、車内通話で次の指示を出す。

 

「……麻子さん、少し速度を抑えて」

 

 麻子は何も言わずに従い、スピードを落とした。結果として低速で走った時間は10秒にも満たなかっただろうが、十分こと足りた。あるいは長すぎたのかもしれない。

 

 みほはヘッドフォンをずらし、周囲の音に耳を澄ませる。まず聞こえるのはⅣ号のエンジン音。戦車道で使われるエンジンは当時のものより静穏性に考慮されているが、やはり低速時でも80dBは出る。地下鉄の車内と同レベルの騒音は、敵の戦車が出す音をある程度隠してしまうだろう。この状態で他の音が聞こえるとしたら、それは余程近くからと見ていい。――そうしてみほはその音を捉えた。5時方向に微かに混じるその音を聞いたとき、みほの心臓はドクンと鳴った。

 

 いる。

 

 敵は近くにいる、今まさにこちらを狙っている――みほは後ろを振り返った。道は真っ直ぐで、非常に見通しが良い。右は住宅が建っている。偶に路地があり、今し方三叉路を通過したばかりである。そして左は、ずうっとブロック塀が立ち並んでいた。演習場内のためか、高さは3mもある。その向こう側は、空き地――状況は、既に切迫していた。

 

「西住殿? なにか――」

「そこを右折! 急いでください!」

 

 Ⅳ号は直ちに急加速し、間近の交差点へと急ぐ。その後ろでは、突如猛々しいエンジンのうなりが聞こえ、次いで爆発音とともにブロック塀の一区画が吹き飛んだ。破片の崩れ落ちる音が収まらないうちに、姿を現した四式中戦車の主砲が振り回される。

 

 発射の轟音が響きわたったのは、殆ど直ぐのことだった。

 

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。