ガールズ&パンツァー 7人の戦車長   作:俳吟

20 / 22
決勝 大洗女子学園戦(終②、そして)

 主砲が発射の反動で後退すると、空薬莢が勢いよく吐き出された。

 

 それは砲尾後ろに備え付けられたかごの中に入り、既に数秒前に入っていた榴弾の空薬莢にぶつかった。同じくして、主砲が元の位置に戻り、砲尾は尾栓を開いたまま次の装填を待ち受ける。発射速度を早める上で決定的な役割を果たす自動開閉機構は、当時のものをそのまま再現したにも関わらず、良好に機能していた。

 

 轟音が収まり戦闘室内に再び静寂が保たれたのは、何秒くらいであっただろうか。――誰かが不意に、溜息をついた。それを切っ掛けにして、装填手は金縛りから解けたかのように動き出し、弾薬箱の徹甲弾をむんずと掴み取る。そして同時に、目の前の砲手の背中を睨みつけた。

 

「だーかーらー! もっと考えて、撃ちなさいって、言ってるでしょうが!」

「これが考えた結果なんですー!」

 

 砲手も振り向いて、負けじと怒鳴り返した。

 

 先の砲撃は惜しいことに、Ⅳ号の砲塔を掠っただけに終わってしまった。無論これは相手の見事な判断力に帰するものであり、無駄弾に終わったのは砲手の責任ではないだろう。むしろ瞬時に標的が交差点を曲がろうとしているのを見て取って、それでも照準をつけることが出来たその技量は褒められてもいい。ただ、砲弾の管理と装填を担当する装填手が大人しく納得するかというと、それはまた別の問題である。

 

 ぎゃーぎゃーとわめく二人の声を聞いて、佳枝は苦笑する。彼女は周囲を確認し、車内通話で前進を指示すると、一度戦闘室内に引っ込んだ。

 

「慌てない慌てない。相手は強いんだから、じっくり構えていかないと」

 

 揺れ始めた車内の中で、佳枝は穏やかに言う。まだむくれている二人を見ながら、「第一、」と無邪気に続けた。

 

「せっかく一騎打ちで戦うんだもの。簡単に終わったら興醒めだよ」

 

 四式中戦車はブロック塀の破片を踏み砕いて路地に入り、速度を上げて近くの三叉路を曲がった。長砲身の57mm砲に、それに見合った小さめの砲塔。正式には試製チト一号車と呼ぶべき戦車は、再び姿をくらませた。

 

 

 

 

 

 

 二つ目の広い交差点で反転したⅣ号戦車は急いで道を引き返した。砲撃を受けた地点まで戻り、もう四式の姿が見えないことを確認すると、後を追うようにして住宅地の道路へと突き進む。

 

「待ち伏せとは、敵ながらやりますね!」

 

 優花里の声は、焦燥と感嘆で上ずっていた。

 

「でも、どうやってこちらのルートを見分けたんでしょうか」

「私たちが団地に向かうと読んでたと思う。……向かうように仕向けたのかな」

 

 みほは考え込むように言った。敵はまたも裏をかこうとしたのだ。先ほど優花里が見たという動きはブラフだったに違いなく、こちらが最短ルートをとることでさえ計算済みだったのだろう。気付くのが後少し遅れれば危うかった。

 

 だが相手にとって、この失敗の代償は大きい。

 

「いずれにしても、これが最後のチャンスです」

 

 みほは思わず口角を上げた。彼女の知る限り、今日の試合で敵が犯した唯一の、そして致命的なミス。Ⅳ号が必死になって探しているところへ、わざわざ近くにまで現れてくれたのである。このチャンスを逃すつもりは、みほにはさらさらなかった。

 

 さらに言えば、これまで頭痛の種であった敵方の戦車の性能がもう問題とならなくなっている。相手のフラッグ車である四式中戦車は、75mm砲ではなく試製57mm戦車砲を積んでいるはずだった。実際に開発されたものの三式中戦車の主砲を下回る火力しかなく、本採用にはならなかった代物。それはⅣ号H型の正面装甲を貫くことは出来ず、逆にこちらの長砲身の75mm砲は正面から撃破可能である。側背面はどちらにせよ弱点となるが、見通しのきかない市街戦でのこの差は勝敗を左右する程のものと言えよう。

 

 Ⅳ号はその性能差を活かし、積極的に交戦しようと路地を邁進した。速度は時速35kmを超え、フルスピードで住宅街を走り抜ける。このような高速機動は周辺警戒が粗雑になってしまう欠点はあるが、今回は逃げる相手を捉えることが重要だった。何よりも、敵の標的にされないためにはこれが最も効果を発揮する。仮に敵が側面から攻撃しようと待ち伏せしていたとしても、その場合は至近距離からでなくては命中させられず、それぐらい近づいていれば事前に察知する自信はみほにはあった。距離が離れれば離れるほど察知しにくくなるが、そんな遠くからの、市街地を移動する目標への見越し射撃など、通常は出来るはずがない。

 

 通常であれば。

 

(……えっ?)

 

 みほはまたしても、あの嫌な予感に表情を変えた。あの冷や水を浴びせられたような、どうしようもない嫌悪感。目の前には交差点があった。なんの変哲もなく、敵が潜んでいるように思われない。たとえ射線に入ったとしても、この速度のまま突っ込めば、その距離では捉えることは不可能だろう。――通常であれば。

 

 撃ってくれれば位置がわかる。そうなれば後は追撃するだけでいい。しかし、もしこの予感が正しければ? ――ブレーキはもう間に合わない。左右どちらにいるかは目視では不明である。みほは咄嗟に、直感的に号令した。

 

「9時、急旋回!!」

 

 Ⅳ号は交差点を急激に左折した。その途端、みほは敵の姿を見ることができた。それはいくつも先の交差点にあって、車体を半分ほど路地に隠し、後ろの半分は斜めになるようにしていた。砲塔と砲身はこちらを向けており、既に砲煙が漂っている。そして相手と自車の間、間近に迫った敵弾までもが、やけにくっきりと脳裏に残った。

 

 約100m先から放たれた徹甲弾はⅣ号の車体正面に命中し、爆炎を上げた。

 

 

 

 

 

 

「残念。……事前に気付かれたみたい」

 

 急加速で高まるエンジン音の中、キューポラから顔を出している佳枝は何事でもなさそうな様子で車内通話を入れた。左手でヘッドフォンを押さえ、右耳の方はずらし、視線は遠ざかっていく交差点を見据えている。

 

「本当に勘が良いようですね。あちらは」

 

 そう応えたのは通信手だった。彼女は「ふふ、」と小さく笑う。

 

「これはいつまでも遊んではいられませんね」

「ええ、そのようです。――次、曲がって」

 

 チトが角を曲がろうとしたその時、先の交差点にまで到達したⅣ号が一瞬だけ見え、次いで75mm砲からの射弾が近くの建物に着弾する。相手はもう完全にこちらの位置を掴んだのだ。2輌と1輌が別の場所で繰り広げていた追撃戦が、奇しくも今度は形勢を逆転した形で再現される格好となった。――それでいい、と佳枝は思った。それでこそ罠にはめることができる。

 

 Ⅳ号から逃げるように移動する最中、佳枝は右手でポケットから地図を取り出した。射線をかわしつつ適当に住宅地の中を巡って両脇の建物を丁寧に確認していく。ある通りに入った際に、一軒の住宅に目を付けた。それはほぼ立方体に近い2階立ての、民家としてはありふれている形式のものだった。ただこれまでの演習などで傷ついたのか、周囲の建物と同じく壁にひびが入っている。

 

 通り過ぎていくそれを横目にして地図をもう一度見返し、彼女は微笑む。目当てのものを見つけた佳枝は、すぐさま車内に指示を出した。

 

「榴弾、遅発。次に徹甲弾。2発とも行進間だけど、大丈夫?」

「楽勝ですって。肩慣らしはもう十分です」

 

 肩当ての照準機構に手を掛けながら、砲手は誇り高く答えた。大戦時の日本戦車に乗る照準手の常として、彼女も当然、この機構の取り扱いに熟達していた。これは砲塔の旋回装置とは別に組み込まれていて、砲身を肩だけで簡単に動かせるようになっている。その可動範囲は左右で大体10度ずつ。熟練の砲手の手に掛かれば照準速度は一段と早くなり、また行進間射撃の精度をある程度補正することができる。

 

 そしてこの車輌に限っていえば、さらに特有の工夫があった。一つをあげると、光学装置を本来付けられるはずだった4倍率から2.5倍率と低くしている。品質は最高のものを使用しているとはいえ、その倍率では射程はどうしても短くなるが、逆にそれだけ近くのものを広く見ることが可能ともいえる。――そう。このチト車は近接戦に特化するようカスタマイズされているのだ。この方針は何も砲手関係の装置に限ったことではなく、操縦、装填などにも細微にわたって徹底されている。これらの工夫により、こと一騎打ちになれば、市街戦は彼女たちにとってホーム戦とすら呼べる。

 

 佳枝は砲手の返答に笑みを深めると、相手の位置を求めて耳を澄ませた。今の場合、近すぎても離れすぎても困る。きちんと付いてきてくれていることを確認すると、彼女は軽やかに命じた。

 

「全速。安全運転でね」

「いいわよ。しっかりつかまってなさい」

 

 操縦手はエンジンを吹かし、一気に加速させる。チトは路地を左折、また左折し、一本隣の通りへと入った。

 

 

 

 

 

 

 敵がその最初の左折をしようとしていたとき、Ⅳ号はようやくその通りに入ったところだった。わずかに見える四式を追って、Ⅳ号は走り続けていた。――前にもこんなことがあったな、とみほは思った。あの時は雪が積もる中、同じく村の中を逃げるフラッグ車を追っていた。ただ決定的に違うのは、あの時には味方がいて待ち伏せしてもらったが、今はもうそれが出来ないということだった。

 

 予想よりも厄介なことになったと気付いたみほは、相手に命中弾を与えるための手段をいくつも検討していた。住宅の中を突っ切ってのショートカット――これはリスクが高すぎる。世間一般に考えられているよりも、家屋は戦車にとって障害になりえるものだ。もしもどこかで引っかかってしまえば立ち往生するしかない。では、敵の動きを予測して先回り、あるいは待ち伏せ――これも出来ない。あちらの進路には規則性が感じられないし、そもそも相手にとっての最善手はずっと逃げ続けて距離をとることである。第一、Ⅳ号を完全に停止させない限り、こちらの位置は絶えず把握されてしまう。

 

 市街地で勝負をつけるという彼女の戦略に誤算があったとすれば、まさにこの点にあった。

 

「――おかしいよ、どうやってこっちの動きを読んでるの!?」

 

 車内通話に沙織の声が乗る。車内では先ほどからその話題で持ちきりだった。

 

「やっぱり、何かいんちきしているのでは……」

 

 華が結論付けるように言った。八九式がやられた時や2輌に追われている時もおかしかったが、先の砲撃はその違和感を決定づけた。見えない車輌への偏差射撃など、Ⅳ号の動きを逐一監視でもしなければできるはずがない。だが、この広域な市街地全域に偵察員を配置することは不可能である。何らかの不正、たとえば外部の人間から観戦用スクリーンの戦術画面の映像を送られているといったことを疑うのは、自然の成り行きだろう。

 

「ううん、いんちきじゃないよ」

 

 しかしみほは、そんな行為によるものではないと推測できていた。審判が何も言わないのなら、もはやそれしかない。

 

「……ちょっと信じられないけど」

 

 同じようなことはみほにもやれるし、先ほどブロック塀の奥から奇襲をうけた直前にも実際している。ただその範囲が異常としかいいようがなかった。とはいえ、広い世の中にはそんな芸当ができる人がいたとしても、おかしくないのかもしれない。

 

「相手はエンジン音を聞き分けてる」

 

 その言葉の意味が及ぼす衝撃は、突如前方で起こった爆発に取って代わられた。

 

 通りに建ち並ぶ住宅のうち左側にある一軒の前壁が突然吹き飛んで、道路へと倒れ込んだ。それからすぐに、支えをなくしたかのように2階から崩落し、がれきの山となって道に塞がっていく。その民家だった場所は地図上では背後に広い庭付きの家があり、隣の通りから容易に射撃できることが、みほの脳裏に漠然とよぎった。そして敵の狙いも、また。

 

「ブレーキ!」

 

 Ⅳ号はがれきを前にして急停止した。停止せざるを得なかった。その残骸は車体程の高さとなって道路を閉塞しており、Ⅳ号では突破できそうにない。仮に乗り越えられたとしても、かなりの時間を要するだろう。そんな猶予はない。停止後、みほは即座に指示を続けた。 

 

「6時! 回避、榴弾!!」

 

 端的というには要約しすぎていたが、全員その指示を理解できた。麻子は直ちにバックギアに切り替え、Ⅳ号を反時計回りに信地旋回させた。だが、通りの幅が狭いため背面に住宅が当たり、車体は道路に残ったまま動かなくなる。前進と後進を繰り返して切り返すが、思ったように進まない。このままの状態でいるのは、あまりに危険であった。

 

 敵の狙いは明白にわかっている。この場で釘付けにして背面あるいは側面を撃つつもりなのだ。すでに四式は回り込もうとして全速で走っていることだろう。それまでに車体を隠さないと、ほぼ間違いなくやられてしまう。

 

 再度勢いよく後進して住宅に押し込もうとするが、馬力があと一歩及ばず、エンジンがうなるだけだった。ただそのとき、優花里の装填が間に合った。着発信管の榴弾はすぐさま最大俯角で発射され、その反動と爆風圧がⅣ号を後押しし、車体を一気に住宅にめり込ませて、側面の露出面積をほとんどなくす。

 

 敵弾は左から飛来して車体正面付近を通り過ぎ、がれきに着弾して破片を辺りに飛び散らせた。

 

「――追撃してください!」

 

 立ち直りは早かった。Ⅳ号は急速に右の履帯を前進させて道路に復帰する。道を塞ぐがれきを背にして、彼女たちは敵の後を追った。

 

 

 

 

 

 

 楽しい。

 

「あれを回避してみせますか……!」

 

 はずんだ調子で、佳枝はつぶやいた。さすがに今の攻撃は自信があったのだ。狭い街路に閉じこめられてしまえば戦車は身動きがとれない。それでも回避してみせた相手の技量に、彼女は尊敬の念すら抱いた。

 

「それでは、次はどうでしょうか!」

 

 チトは背面から煙幕を射出した。白い煙が路地に充満し、背後は全く見えなくなる。そのまま少し走った後、幹線道路へ続く通りへと右折した。

 

 これでⅣ号を撒くことができたなら重畳であった。一度でも自車の位置を秘匿すれば、あとはいくらでも奇襲のチャンスがある。一方的に相手の位置を把握できるというのはそれだけの有利性があるのだ。とはいえ、Ⅳ号がここで逃がしてくれるような相手だとは、チト車の誰も思っていない。

 

 急旋回した際の履帯のきしむ金属音が少し離れたところで生じたのを、佳枝の耳は捉えた。次いでガソリンエンジンの爆音が響く。相手は煙幕に入る前の交差点で右折し、チトと平行するように幹線道路を目指しているに違いなかった。遮蔽物のない広い道路内で両車が鉢合わせするのは、もう避けられないだろう。後進ギアが1段しかないチトに急いでバックしろというのは酷である。

 

「徹甲弾装填、次弾も同じ。目標アーチ」

 

 佳枝は淡々と指示を下し、装填手は粛々と弾薬を込める。他の乗組員も、すでに臨戦態勢に入っている。操縦手はかっとばし続け、このチトの最高速度である時速45キロを出していた。

 

「スモーク全開!」

 

 チト車は一足先に幹線道路に入り、左に旋回しながら煙幕を張った。両側四車線の舗道にまたがるまでに煙が立ちこめ、チトはさらに旋回を続けて左車線に戻る。そこでゆるやかな右旋回に転じ、砲塔を後ろに向けながら道沿いを走った。

 

 ダダダッと、煙の向こう側から機銃音が響き、佳枝は頭を引っ込めた。キューポラの点視孔からは、中空に糸をひいたような曳光弾の軌跡が右車線にあざやかと描かれ、それが徐々に左車線へと近づいてくるのが見えた。その同軸機銃に数秒当たってしまえば、即座に75mm砲弾が飛んでくる。だからといって、ここで交差点を曲がって避けるのは本末転倒である。勝利を得るには、多少の危険は冒さねばなるまい。

 

 チトは右旋回を急にし、道路をUターンしようとする機動をとった。Ⅳ号からの機銃が1発2発当たるが、気にする必要はなかった。銃弾の当たる音を首尾よく聞いて、Ⅳ号の砲手が主砲の発射トリガーを引いたとしても、その間に1秒程の誤差は生じる。それだけあれば、高速で旋回するチトは射線から外れることができるだろう。要は速く動き続けることが肝要であり、機動こそが戦車にとって最大の防御となるのだ。そしてこの旋回の最中に、57mm砲は反撃の狼煙をあげた。

 

 漂っている煙幕から外れて、左車線側にやや仰角がつけられて照準が合わされる。正確には路側に立てられた1本の鋼管、交差点の案内表示板を支える門型の標識柱へと砲口を向けて、チトは轟音を響かせた。厚さ6mm程度の鋼管といえど、初速800m/sを超える徹甲弾にとっては紙も同然である。標識柱には拳ほどの貫通孔ができ、その耐力を失った。

 

「そぉい!」

 

 すかさず装填手が次弾を装填する。砲手は今度は反対車線側の標識柱に素早く砲身を振って、同様にぶち抜いた。真ん中に穴が開いた2本の支柱には支える力など残っていない。鋼管は座屈を起こし、標識板と道路をまたぐ鋼材を呆気なく地表にまで倒す。Ⅳ号が煙幕の中から飛び出してきた頃には、それらは簡易なバリケードと化していた。

 

 突然視界に現れた障害物を前にして、Ⅳ号は急激に速度を落とした。だがその時には、もうチトは歩道に乗り上がり、砲塔を道路に向けていた。装填手はすでに3発目の徹甲弾を尾栓にたたき込み、いつでも発射できる態勢を整えている。――57mm砲の利点はここにある。自動開閉機がある以上、装填速度は砲弾の重さに左右される。この砲の場合は約3kgと75mm砲のそれの半分程度であり、揺れる車内での装填動作においてこの差は決定的なものとなる。結果的に無駄な開発であったと言われるが、敵陣地に強襲して速やかに制圧するという元々の設計思想から見れば、開発者がこの砲の実用化にこだわったのも至極自然といえよう。

 

 砲手はその主砲の発射トリガーに指をかけ、照準器から流れゆく風景を見据えた。操縦手の相変わらず荒っぽい、しかし適切な位置取りをする運転を頼りに、数秒後にⅣ号が視界に入るのを待っていた。相手は障害物の辺りで側面を晒しているはずだし、この至近距離では難しいことを考えずとも楽に当てられる。

 

 ただ、相手の腕はこの期に及んでも卓絶としていた。Ⅳ号を捉えたときに彼女が見たのは、標識であったものに突っ込んでいる車体と、その正面装甲であった。おそらく瞬時にこちらの意図を読みとって、咄嗟に車体を急旋回させたのだろう。その判断、その反応速度は、まるでひとつの精密機械のようですらあった。

 

 2輌の砲門が開き、砲弾が飛び交った。チトの徹甲弾はⅣ号の砲身真下に着弾し、にぶい音が響きわたる。Ⅳ号からの反撃は、走り抜けるチトの背後を通り過ぎた。両車ともすぐに次の砲弾を装填するが、二撃目は放たれることなく、チトは煙幕の中に隠れて、そのまま住宅地の路地へと戻っていった。

 

「うわー、危なかったですー! もうちょっとずれたら、やばいところでした」

「全くね」

 

 砲手の焦ったような声に、佳枝は落ち着いた声音で応えた。今の攻防はかなりギリギリであり、相手を撃破することもできなかったが、それでも収穫は多かった。特にⅣ号の射撃のタイミングを掴めたのは大きい。これで次は正面から仕掛けても勝算がある。それに、弾かれてしまった砲撃も、決して無駄にはなっていない。

 

「でも、今のはいい音がしたよ」

 

 佳枝はくすっ、と笑い、引っ込めていた頭を戻して周囲を確認すると、今度はどうやって攻めようかと作戦を練り始めた。

 

 

 

 

 

 

 Ⅳ号は壊れた標識柱に横からぶつかった車体を復帰させると、四式の後を追って道路を引き返す。だがその戦闘室内では、慌ただしい空気が漂っていた。

 

「砲塔、動力操作できません!」

 

 華の悲痛な声に、みほの背筋が凍った。電気系統の故障――彼女はすぐに応急処置を指示した。

 

「優花里さん、懐中電灯を出してください!」

「はい、電池ですね!」

 

 優花里が華に電池を渡すと、それは砲手席左にある小さな箱に入れられる。ドイツ戦車の主砲は大抵が電気発火式で、発射には電気が必要となるのだ。ティーガー戦車にあるようなこの非常用回路のバッテリーは、準決勝での故障を受けて自動車部によって念のために取り付けられていた。

 

「発火装置はこれで良いですが、砲塔は手動で動かすしかありませんね……」

「動きながら電気回路を直すのは、ちょっと難しいですからね……。自動車部ならともかく」

 

 華の言葉に、優花里が答えた。その声にはどこか落ち込んだような響きがあった。電気系統の故障自体はそんなに珍しいことではない。戦車は見かけによらずデリケートな部分があり、たとえ貫通されなくても、敵弾からの衝撃によって諸々の故障が発生する。ただ、それが切羽詰まったこの状況下で起こったのは、不運としか言いようがなかった。

 

 みほもまた、現状の不利を実感していた。ただでさえ車体を旋回しにくい地形なのに砲塔の旋回までもが速やかに出来ないとなると、ますます敵を倒すことが難しくなる。なおかつ、敵は練度が高く、容易に撃破できそうにない。ことここに至って、彼女は何故四式が危険をかえりみずに攻撃してきたのかを悟った。相手は一騎打ちに絶対の自信を持っているのだ。僚車が揃うまでもなく、勝負を片づけられるという自信。

 

 絶対的な自信――

 

「……麻子さん。入り口の団地地帯まで戻ってください」

 

 周囲を警戒しながら、みほは自然とその考えを口にしていた。麻子が驚いたように聞き返した。

 

「いいのか? もし相手が追ってこなかったら」

「他に手がありません。……それに、多分来てくれると思います」

 

 みほは静かに言った。

 

「敵は一騎打ちで勝負をつけたがっています。ちょっとぐらい不利な地形になるとしても、こちらを追いかけてくれるはずです。相手の気が変わらないうちに移動しましょう」

 

 それはまだ、望みのある選択であった。4階立てほどの集合住宅が建ち並んでいる団地地帯ならここよりも見通しは利くし、車体を旋回させるのにも十分な広さがある。性能に劣る四式だけが相手であれば、今の損傷状態でも互角以上に戦える。残りの2輌から遠ざかる場所でもあり、増援までの時間を僅かながら稼ぐこともできるだろう。

 

 麻子が応えた。

 

「団地だな」

「諦めない限りは負けない、だもんね」

 

 沙織が重ねるように言った。

 

「相手が来たら、ほんの一瞬でいいので視界に捉えさせてください。確実に撃破してみせます」

「装填ならお任せください! いくらでもやってみせます!」

 

 華と優花里も、誓いをたてるように続けた。

 

「……ありがとう」

 

 みほの声は小さな、けれど確かに聞こえるものだった。Ⅳ号は四式から離れるように進路を変えた。

 

 

 

 

 

 

 絶えず相手のエンジン音を聞き取っている佳枝は、その動きをいち早く察知した。

 

「こちらから離れてる。……団地に向かってるね」

 

 彼女は誰にともなく言った。その声は車内に状況を伝えるものであり、考えをまとめようとするものでもあった。

 

 フラッグ車を倒すしか道がない大洗が追撃を止めたのは、こちらを誘い出そうというものだろう。おそらく砲塔旋回部の故障、もしくはそのように見せかけているのかもしれないが、いずれにせよ有利になる地形で戦おうという狙いに違いない。それに対する最善手は一つしかないが、彼女はここで少し迷った。

 

 冷静になるならこの時をおいて他になかった。時間は十分すぎるほど稼ぎ、P40の修理はもうじき終わるはずだった。相手がいくら強くても、数の有利を覆すのは至難のわざである。あと少しだけ待てば必勝の体勢ができるのに、ここで単独で追撃するのは愚策でしかない。隊長として、何よりも欲しがっていた勝利を、みすみす捨てる行為でしかないのだ。

 

 ただ。彼女の個人としての望みは、また別にあった。

 

「あっちの人、広いところなら勝てるとでも思ってるんですかねー」

 

 砲手が呟く。佳枝はそれを聞いて、うなづいた。

 

「そうらしいね。確かめてみようか。……いつものあれやるよ。よろしく」

「先輩、お願いしますー」

 

 二人の声に、操縦手が呆れたようにため息をついた。

 

「はいはい。あんたたち、ほんとに無茶ばっかり言うわね」

「いいじゃない。出来るでしょ?」

「勿論よ」

 

 

 

 

 

 

 時刻はすでに夕方。陽光は殆ど黄色みがかったものへと変わっており、団地の住宅を染めていた。1970年代までには全国で多く建てられたような、2階立てから4階立ての低層住宅が密集しているこの地帯は、停弾提の上にあって街並みを一望に見下ろすことができる。その眼下に見る景色に突如、路地を疾走する1輌の戦車が現れた。

 

 市街地の中を停弾提と平行になるように駆け抜けながら、チトは砲塔を3時方向に廻した。仰角はほぼ最大、交差点で団地が見えるたびに射撃音を轟かせる。幾度となく発煙弾が撃ち込まれて、低層住宅の間には白煙が漂い、その煙は風に乗って停弾提を包み込んだ。

 

 チトはまんべんなく煙幕が張られたことを確認すると、提体にある通路を登って団地内に突入する。有視界は30m以下、といっても奥の方は煙が漂っていないはずなので、まずは登り切った後にすぐ右折し、直列で並んだ長方体の住宅を横にして走る。こうした限定的な視界の中で頼りになるのは、やはり聴力である。過信しすぎてはいけないし、オットー・カリウスも指摘するとおり戦車兵には視力の方が求められるものだが、それでも近づいてくるエンジン音というのは最上の警告音となり得るのだ。

 

 背後から機銃音が鳴り、煙の中に曳光弾が飛来してくるよりも前に、佳枝は住宅と住宅の間に入るように指示し、射線から免れる。思っていたよりもⅣ号が積極的に攻勢をしかけてきたのは意外だったが、これは状況的な余裕のなさからいってやむを得なかったのであろう。大洗側からすれば時間がかかりすぎると増援が来る以上、待ち伏せといった消極的な作戦はとりにくかったのかもしれない。ともあれこれで、互いの位置がはっきりとなった。

 

 チトは煙幕から抜け出して、再び射線を逃れるように団地内の通路を駆けめぐる。先ほどの追撃戦を繰り返すようだが、この団地には障害物に変えれそうなものはない。住宅同士の間隔が広いし、建物自体も鉄筋コンクリートで造られていて強固である。ここでⅣ号の側背面をとろうとするのはかなり難儀だが、それでも彼女たちには勝算があった。

 

「発煙弾装填。次、徹甲弾」

 

 その通路に入ったときに、佳枝は命じた。両脇には通路に沿って4階立ての住宅があり、進行方向の先にはそれと直角で建てられた住宅が立ちはだかるように見える。そしてその間には、T字に分かれた通路があり、直角の住宅に日が当たるように計算されたのだろう、十分に広いスペースがある。チトの旋回性能からいえば申し分のない場所だった。

 

 チトは蛇行しながら、濃密な煙幕を張った。Ⅳ号との距離は縮まってしまうが、今の場合、それが狙いでもある。ひとしきり出した頃にはⅣ号の同軸機銃が吼え、チトは左に曲がって住宅を盾にした。それからすぐに右旋回に戻してUターンし、砲塔は3時方向に廻す。まもなく煙幕を突破するⅣ号の視界に入るが、そのとき、決戦の火蓋は切られることになる。

 

 非力な57mm砲で戦ってきた彼女たちは、格上の戦車への戦い方を当然心得ている。履帯を切れ、動きを止めろ。砲塔を狙え、旋回装置を壊せ。砲身を壊せ。機銃で光学装置を壊せ。転輪の隙間からシャーシを狙い撃て。もしもそれらが無理ならば――

 

()()狙ってよし」

 

 広い通路の左側を走るチトの右前方に、住宅の間から飛び出してきたⅣ号が現れ、こちらの姿を認めてか急停止した。相手の砲手なら、通り過ぎようとするチトの側面を撃つことは容易だろう。Ⅳ号は車体ごとやや左旋回し、75mm砲が照準を合わせるかのように静止する。その一瞬を狙って、57mm砲は行進間で火を噴いた。

 

 砲弾は75mm砲の砲口に向けて瞬時に飛んだ。大戦時の戦車であれば、その弾丸は戦闘室内にまで侵入し、装填手を挽き肉にする――実際に事例のあったことである。勿論戦車道ではそんなことが起こらないよう、尾栓などに仕込まれた安全装置が作動するはずであろう。その場合は砲身だけが壊れ、審判が判定に悩むことになる。

 

 而して現実は、そのどちらも起こらなかった。放たれた砲弾が75mm砲に近づいたとき、Ⅳ号は同時に砲撃をしていて、2つの弾丸は砲口付近でぶつかった。発煙弾と徹甲弾の炸薬が同時に炸裂して、Ⅳ号の目の前に煙幕が広がる。その間にも、チトは休むことなく時計回りに旋回を始め、Ⅳ号の側面をとろうとしていた。

 

 Ⅳ号は右の履帯を急速に回して信地旋回しようとしたが、予め準備していたチト車の装填はそれよりも早かった。砲手は肩当ての照準機構でその動き始めた履帯に素早く砲身を向けて発砲する。起動輪の近くに当たったそれは履帯を切ってずらし、Ⅳ号は動きを止める。そしてチトはついに側面をとり、装填手は全力を尽くして徹甲弾を尾栓に込めた。

 

 砲手はⅣ号の側面装甲に向けて、優しく引き金を引いた――。

 

 

 

 

 

 

 ……このとき、彼女たちは確かに勝利を手にしようとしていた。いかに非力な57mm砲といえど、30mmの側面装甲を貫くことは簡単である。面積が広い側面に当てることも、同様にたやすい。だが、それは最後まで叶うことはなかった。

 

 突然、左の履帯が切れた。

 

 砲手が引き金を引くその直前、履帯が切れたことによって下部転輪が路面へと落下した。砲手は予期せぬ衝撃に照準をずらしてしまい、砲弾はあらぬところへ飛んでいく。この土壇場で切れてしまったのは、本来なら偶然としかいいようがない。しかし今回のこれは、必然でもあった。

 

 そこは八九式からの砲弾が掠っていたところだった。あの磯辺の最後のあがき、あの砲手のせめてもの照準は、無駄にはなっていなかったのだ。無論、佳枝たちは待ち伏せしている間に点検していたが、連結ピンの金属疲労は目に見えぬ形で残っていた。そしてチトのこれまでの機動により、疲労はやがて限界に達し、ついにこのときに表面化してしまったのである。タイミングは偶然――結果は必然の出来事であった。

 

 予想だにしなかったトラブルに見舞われたチト車であったが、彼女たちは最後まであきらめなかった。操縦手は急ブレーキをかけ、佳枝は叫ぶように砲塔の急旋回を指示し、ギアはニュートラルになってエンジンがうなり、砲手はその出力を頼りに急いで砲塔を廻し、装填手は必死になって次弾を装填する。だがしかし、砲身を振り回したときには、Ⅳ号もその正面装甲と砲口をこちらに向けていた。57mm砲の砲弾は空しく弾かれ、直後に75mm砲の轟音が辺りに響きわたる。

 

『選抜隊フラッグ車、走行不能。よって、大洗女子学園の勝利!』

 

 審判のアナウンスが、試合の終了を告げた。

 

 

 

 

 

 

「……勝ったん、だよね」

 

 ハッチから身体を出して目の前の四式を見ながら、みほは信じられないように言った。さしもの彼女も、あっという間の逆転劇に戸惑いを隠せていなかった。すべては無我夢中の間に終わっていた――彼女はそのままぼんやりとしていたが、そこにいつの間にか車外に出ていた沙織が、みほの上半身に抱きついてきた。

 

「そうだよ、みぽりん! 勝ったんだよ!」

 

 声は歓喜に震えていた。優花里も、華も、麻子も、同じように車外に飛び出て、喜びの声をあげた。それらを聞いて、みほもようやく実感が湧き、微笑みを浮かべる。――これで大洗女子学園は廃校にならなくてもすむ。みんなと離れ離れにならなくてもすむ。そして、こうして一緒に楽しく戦車道をやれるみんなと巡り会えたことが、彼女にとって何よりの幸せであった。

 

 その時、四式中戦車の方から物音がして、みほはそちらを向いた。相手の隊長が一人下車して、履帯を調べている。「やっぱり……」と呟いたようだったが、はっきりとは聞こえなかった。彼女はやがて、すくっと立ちあがると、うつむきがちにこちらに近づき、そして穏やかな顔でみほを見上げた。

 

「優勝、おめでとうございます。御見事でした」

「こ、こちらこそ。ありがとうございました」

「最後までグデーリアンさんの言われた通りでしたね。全く持って完敗です」

 

 黄昏に照らされた、頭に手をやって苦笑する相手の隊長の言葉に、みほは何故だか心動かされた。

 

「……私もです。もしあの時、逃げられていたら。とても勝てませんでした」

 

 それは本心から出た言葉だった。準決勝のプラウダ戦と同じように、本当なら勝ち目はないに等しかった。相手のあの慎重さ、あの用心深さが最後まで続いていたなら、結果は逆になっていたはずである。今も殆ど薄氷をわたるような勝利であり、完勝とはとても言い切れないと、みほは思った。

 

 だが、相手は穏やかに言った。

 

「さて、どうでしょうか。それに、私たちを戦う気にさせたのは、他ならぬ貴女方自身ですよ」

「えっ……?」

 

 みほの疑問の声を気にせず、彼女は続ける。

 

「仲間と協力しあい、最後まで諦めずに勝負を挑み、勝利を掴もうとする。……そんな貴女の戦車道は、私は好ましいと思います」

 

 その真っすぐな賞賛に、みほは心暖まるものを感じた。自分が信じた戦車道を認められて嬉しくなり、改めて礼を言おうとして、

 

――目前の人が平気で偽装戦車を使うような人であることを思い出し、顔が少しひきつってしまった。

 

「あ、ありがとうございます」

「……信じられないって顔されてますね。ちょっと傷つきました」

 

 目をそむけ、悲しげな表情になった相手を見て、みほは慌てて釈明する。

 

「え、ええと、そんなつもりは」

「ふふっ、冗談です。これからの活躍、楽しみにしています」

 

 一転、ほころんで綺麗な微笑みを浮かべた相手は、そういって踵を返し、四式へと戻っていった。その姿は最後まで、凛としたものだった。

 

 

 

 

 

 

「あー、あれは相当無理してるね」

「悔しそうなんだだ漏れやなぁ……」

 

 ARL-44とP40からそれぞれ顔を出した二人は、隊長の姿にそう評価をくだした。数えるほどしか会っていないが、見かけによらず誰よりも自分の腕に自信を持っていることぐらい、二人は把握している。そうでなければ、誰も素直に命令を聞いたりなんかしないのだ。

 

 彼女たちはあの2輌が見える、この広い通路に入ったところで停止していた。修理を終わらせた後に急行したが、ほんの僅かで届かなかったのである。二人は双眼鏡を下ろして観察を止め、揃って大きく息をついた。

 

「終わったなぁ」

「終わっちゃったねー」

 

 どこか他人事のような声に、二人して笑った。

 

「悔しくないん?」

「思ってたよりも、ね。優勝はしたかったけど、これはこれでいいかな、って」

「競争心が足りてへんなー」

「む。そっちはどうなの?」

「うち? ……準優勝なら悪くないやん」

「競争心が足りてないね」

「か弱い乙女ですから」

「じゃあ、そっちとの一騎打ちは私達の不戦勝でいい?」

「それは話が別や」

 

 無遠慮な軽口はもう無意識のうちに出てくるのであり、彼女たちはこれを楽しんですらいた。かたや広島、かたや大阪の高校生は、回収車が来るまでたわいのない会話を続けていた。

 

 

 

 

 

 

 表彰式は観客席の前で行われた。夕暮れに照らされる中、大洗女子学園の面々が一同に整列する。優勝旗を受け取ったみほが観客に見えるように広げると、惜しみない拍手が送られ、選手達を讃えるようにしばらく鳴り響いた。第63回戦車道全国大会は、こうして幕を閉じた。

 

 同じときに、選抜隊は整備場に集まっていた。応急処置の済んだ戦車が入る車庫を後ろにして居並び、隊長はその前に立っている。全国から集まった7校の生徒たちが一同に会するのも、これが最後になるはずである。だが、隊長はそのメンバーの顔を直視できずにいた。

 

「申し訳、ありませんでした……」

 

 彼女は力なく、謝罪を口にした。

 

「勝手なことをしてしまって……」

 

 あの落ち着いた声と姿は、今は見る影もなかった。指揮官として張りつめていた糸が切れた彼女は、本来、どこにでもいそうなふつうの少女である。ただちょっと真面目で、責任感が少しあって、戦車道が好き。しかし今は、仲間に対する申し訳なさで押しつぶされそうな少女でしかなかった。

 

 そんな佳枝の前に、怒ったような表情をして近づく者がいた。消え入るような声や周りの空気を完全に無視して、シャーマンの車長は一気に彼女の目の前にまで来る。そして、そのうつろな顔にめがけて勢いよく腕を振り上げ、

 

 頬をむにー、と引っ張った。

 

「あー、もう! いつまで辛気くさい顔してんのよ!」

「ひゃ、ひゃい?」

「仮にもあたし達の隊長がそんなのでどうするのよ。もっとしゃきっとしてなさい!」

「Umm.これがデレっていうものかしら」

「いっつもツンツンしてるもんねー」

「……何? そこ、喧嘩売ってるの? 言い値で買うわよ」

「そう? なら100ポンドくらいで――」

「いひゃ、いひゃいでふ、ちかりゃいれにゃいで」

 

 例のイギリス人に向けて今大会一番のイイ笑顔を浮かべた少女に、佳枝は涙目で訴えた。頬にギリギリとかけられている握力が既に危険域にまで達している。このままだとまずいことになっていただろう。色々と。

 

 シャーマンの車長は声がした方をちらっと見ると、「ふんっ、」と鼻を鳴らして不機嫌そうな顔に戻り、つかんでいた頬をはなした。

 

「……あそこで勝負を仕掛けない腑抜けだったら、ぶん殴ってたわよ。そんな奴に従うわけないじゃない」

 

 腕を組み、ちょっと目をそむけながら口にするその様子に、他の車長は苦笑しつつ、続けるように言った。

 

「ああ。それに私達もM3にやられたからな。お互い様だよ」

「こっちも市街地に逃がしちゃったから。おあいこ」

「うちも。みんな何かしらミスってるわけやし、そこまで気に病まんでもええと思うよ」

「そうそう。大体さ、最初から一騎打ちの結果には文句なしって決めてたでしょ。今更だよ」

「ええ、そうね。私は中々面白いデータがとれたし、むしろ感謝してるわ」

 

 眼差しは優しかった。他の乗組員も、みな暖かくこちらを見ている。

 

「……ありがとう、ございます」

 

 佳枝は頬をさすりながら、ゆっくりと言った。その目が潤んでいるのは、頬の痛みのせいだけではなかった。

 

 選抜隊の戦いは、こうして終わりを告げたのである。

 

 

 

 ……と、このまま幕を閉じれば綺麗にまとまったといえなくもなかったが。あいにくというか彼女たちらしいというか、話はまだここでは終わらなかった。

 

「でも、これでお別れなのも寂しいね」

 

 ARL-44の車長がしみじみと言った。周囲には、同意を示したのか頷いている生徒が少なからずいる。……戦車道を嗜む者の常として、一緒に戦った仲間意識というのはかなり根強く残るのだ。それは一人だけでは戦うことすらままならないという、他の武道とは違った戦車道特有の感覚から来るものであろう。選抜隊の面々も試合を通じて親交を深めてきたので、今後そういった機会がないのが寂しく感じられても無理はない。

 

 そこに、シャーマンの車長が口を挟んだ。

 

「話したくなったらまた連絡すればいいじゃない。べつに今生の別れってわけでもなし、縁があったらまた会えるわよ。……まあ、あたしらはしばらく連絡とれないでしょうけど」

「え、なんでですか?」

 

 きょとんとした隊長に対し、呆れたような視線が向く。

 

「あんたねぇ……。受験勉強、これからが本番でしょうが」

 

 その言葉に、大半の車長が眉をひそめる。いずれも3年生、進学を考えている彼女たちである。遅れを取り戻すために、明日からでも勉強漬けの日々が待っているのだ。出来ればこの場で思い出したくない話題だったのは間違いない。

 

 ただ、金髪の少女が話に食いついた。

 

「そういえば、貴方達はどこにいくかもう決めたのかしら?」

「私は農業大学でいくつか絞ってる」

「あー……うちはまだ悩んどるわ。美大なんは間違いないんやけど」

「あたしもまだ決め切れてないのよね、本命は。いろいろキャンパスツアーで見て回ってるんだけど」

「ああ、私もだ。工学系で見学はしてるんだが」

「私もまだ決めてないんだよね。同じく工学系なのは確定してるんだけど。……隊長は?」

 

 一人だけ蚊帳の外にいた少女は、問われて不思議そうに首を傾げた。

 

「私は高専なので、受験はしませんよ? 5年制ですから」

 

 来年からはぼちぼち進路を考えないといけませんね、と続けられた言葉は、残念なことに届かなかった。6人はそのままピタリと動きを停めた。

 

「……ちょっと待って。私たちが必死に受験勉強してる中、隊長はのんびりしてるの?」

「いえ、のんびりというわけでは。テスト勉強も結構大変ですし。ね?」

「あんた、今ここで私に振らないでよ……」

 

 空気を敏感に察した四式の操縦手が、うめくように応えた。ちなみに彼女も高専3年生である。こいつは戦車道から離れると途端にこれだ、と彼女は今更ながらに思っていた。もっとも、もう手遅れであったが。

 

「……なあ。どう思う?」

「不届き者よ。少しでも信頼したあたしが馬鹿だったわ」

「長年戦車道してるけど、ここまで不誠実な隊長は初めてね」

「今のはちょっと聞き捨てならんなぁ」

「さすがにこれは、ないよね」

「粛清すべき」

 

 6人は満場一致で判決(ギルティ)を下した。即決だった。受験の苦しみを味わう者同士、テスト勉強が大変などと言ってのける上官を許しておけるはずがない。(八つ当たり)は必須であった。

 

「そうだ! 感謝と恨みをこめて隊長を胴上げしようよ、ちょっと場所を変えてさ」

 

 爆弾的な提案がすぐに出された。

 

「ああ、そういうことね。いいんじゃない?」

「全面的に賛成」

「あっちの表彰式も終わる頃やろうし、ちょうどええな」

「よし。じゃあさっさと移動してやるか」

「……ど、胴上げ……?」

 

 ようやく事態を察した隊長が、思わず後ずさりする。顔はほんのりと赤い。ついでに言えば、彼女の今の服装は選抜隊謹製のパンツァージャケットを上に着て、下は学校のスカートのままである。戦車に乗車して試合するためか、戦車道ではズボン派よりもスカート派の方が多いらしい。

 

「ま、待って。落ち着いて。……冷静になって考えてみてください。準優勝で胴上げなんてしたら、上げた方も上げられる方も、その、おかしいでしょう?」

「あら、だからいいんじゃないの」

「私たちは隊長命令だったからって口を揃えるから。心配しなくていいよ」

「卑劣な……」

 

 予想以上に真っ黒な発想に隊長の顔が引きつった。そうこうしている間にも、他の乗組員たちが簡単なストレッチをして準備をし始める。悲しいかな、車長(せんぱい)の言うことは絶対なのだ。それに彼女たちにしても、今回の案に乗り気な者は少なくない。

 

 隊長はせめてもの抵抗を試みた。

 

「あ、あの。こ、こんなことをいえる立場ではないのはわかってますが、他のことにしてもらえませんか。人前でやるのだけは、どうか……」

「だめ。もう決定したから」

「往生際が悪いわね。早く腹括りなさいよ」

「全くだ。ああ、上げて落とすようなことはしないから安心しろ」

「あと、さっきからスカート押さえて恥ずかしいアピールしとるけど無駄やよ。スパッツ穿いとるやん」

「まあ、殿方の中にはそっちの方がいいって人もいるかもしれないわね」

「どっちにしても情けなんていらないよねー。……じゃあ、覚悟はいい?」

「――っ! と、とにかく! 却下です!!」

 

 そして彼女は逃げ出した。全力で加速し、演習場の草原に向かって瞬く間に走り去っていく。だが、それで諦めるような者はここにはいない。

 

「追うぞ! みんな急げ!」

「全員無線持った!?」

「ん、大丈夫」

「OK.私達は先回りするわよ!」

「私は部員を総動員して出口を封鎖するね! ……あ、全体の指揮はどうする?」

「代行に任すわ! 服部ちゃん、追跡頼むで!」

「はーい!」

「っていうか、そこの四式の4人! 何ボサって突っ立ってんの!?」

「……え、やっぱりこの流れって、私達も走らないとダメなの?」

「当たり前でしょうが。一蓮托生よ」

「むしろ連帯責任ね」

「そんなわけで、指揮よろしく」

「あらあら。……それでは、僭越ながら」

「よーし。それじゃあ、みんな行くよー!」

 

 慌ただしく、されど楽しそうに。各車の乗組員は、後を追って走り始めた。

 

 

 

 

 

 

 1時間に及んだ捕獲作戦の末、星が見えるほど暗くなった頃。疲れ果てた隊長が演習場の片隅で捕獲され、その場で仲間全員に胴上げされて宙を舞ったが、それを知るものは彼女たちだけであった。

 

 

 


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