グラスワンダー。アメリカ育ちの日本好き。柔らかな物腰の中に芯があるウマ娘。
初対面でも人当たりが良くて、とても優しくて、おっとりしたウマ娘。
そんな茶色の大和撫子が、私の前に立っている。仁王のように。
「教えて下さい。テンマちゃん、全力でしたか?」
その顔はニコニコしているが、笑っていないというのは私にもわかる。
彼女は怒っている。多分、本格的にではないけれど、答え次第で不退転になる。
可愛らしい笑顔なのは、そう、まだ不確定なのと、多少培った信頼だろうか。
私は、私は……。
「えっと、本気でしたよ?」
私は、逃げてしまった。
どちらともとれるいい様で、今この場をごまかしたくて。
走ったのは、本気だ。本気でいい勝負を演出した。
全力ではないけれど、本気で走ったのはまた本当だった。
「……私は、全力だったか聞いてるんです」
そんな私の浅知恵も見抜いているのだろう、彼女は追撃をやめない。
どこで間違ったのだろう?彼女は確信している。私が手を抜いていることが。
でもそんなのわかるのだろうか?負けたならわかる。けど私は全部1着だ。
学校よりも、その上のクラブよりも速い子達が集まるこの学園で、1着。
見苦しくもそんな言い訳が出てしまう。
「……でも、実際1位でしたし」
「1位でも!全力でしたか!?」
ついには声を荒げてきた。彼女は大分ゆだってきている。
エリートな学園に来ているとしても、所詮は子ウマだ。いくら成熟しているように見えても中身は子供なのだ。納得できなければ、それが理不尽であれば、たやすく決壊する。
私は怖い。すごく怖い。言ってしまうのが、怖い。
でも、言わずに逃げる事はできないだろう。レースなら、あんなに簡単なのに。
「全力じゃ……全力じゃ、なかったよ」
「そんな……どうしてそんなことするんですか!」
「ごめんなさい」
「あ、謝るくらいなら最初から……!」
言えない。言えるわけない。皆が遅いからだって。
皆が遅くて、私が速くて、それで皆怒っちゃうなんて。
学校で走った事がよぎる。無垢で馬鹿で、勝って勝って勝っちゃったあの日。
すごく勝っちゃうのが悪いことだってしらなかったあの日。
走るのを辞めちゃったあの子達の顔がよぎる。
私と走るのは嫌だって、聞いちゃったあの日がよぎる。
走るのは楽しいけれど、同時にすごく怖い事だって知った。
文字通り私が踏みにじる事ができちゃうんだもの。
勝つとお祖母様が喜ぶ。私も走るのは楽しい。だから手加減する。
おかしなことを言ってるのはわかるけど、上手く言えるとも思わなかった。
「どうして何も言わないんですか……そんなの卑怯です」
何も言わない私に苛つきが増すのだろう、彼女は耳を絞り、その右足は地面をかく。
明らかな怒りのサイン。その足が地面をザリザリ削るたび、私の心も削れていく。
どうしよう、どうしよう。何かしなければ、なにか言わなければ……。
誰か助けてほしい。沈黙が続く中、ふと声が届いた。
「これはなんの騒ぎだい?」
救いの声は、私の耳によく響いた。
俯いた顔をさっとあげる。いつの間にか近くに立っていた人はウマ娘だ。
「私はシンボリルドルフ。中等部で学園祭のサポートをしている」
前髪が白いお姉さんはそう言った。シンボリルドルフ、その名前は聞いたことがある。
駿川さんが言っていた。トレセン学園で生徒会に務め、レースでの実力、政治力、人格はどれも飛び抜けていると。
夢はウマ娘の幸せで、どのウマ娘も幸福になれるよう目指していると。
駿川さんが誇らしげに言った時、私は感動したことを覚えている。
だって、幸せだ。ウマ娘全ての幸せだ。そんなのどうやって実現するんだろう。
そんなとてつもない夢を掲げるということは、彼女は答えを知っているという事だ。
私にはわからない。だって今もこうして責められている。一人のウマ娘が怒っている。
私が勝って、負けた子も幸せで、そんな全てのウマ娘の幸せなんて。
だから、彼女がシンボリルドルフだと知った時、私はとっさに叫んでいた。
「あの、私と勝負してください!」
そう叫んだ時、シンボリルドルフさんは首を掲げた。掲げた後、私の胸元のカードを見てなにやら納得したのかうなずいて、その提案を受けた。
「君が今年の……話はわからないけど、その勝負受けよう」
「全力で走ってください。私も全力で走ります」
「なっ……!わ、私も走ります!」
いきなりの事に困惑してたグラスワンダーも声を上げた。願ったりだ。
きっとシンボリルドルフさんと走る事で答えが出る。彼女もわかってくれる。
「話は終わってません。逃げないでくださいね」
早速レースの準備を始める最中、すれ違ったグラスワンダーはそう言った。
睨まれて、凄まれて、私はすごく悲しかったけれど、しょうがないとも思った。
だからせめて全力で。下手くそで言葉にできないダメな私なりの。
◆
シンボリルドルフが走る。急遽決まった事だったが、どこからか駿川さんが登場してすんなり事は進んだ。
距離は2400m 小学生が走るにしては異例の長距離。
これを提示したのは私だったが、案の定シンボリルドルフさんは難色を示した。
それを私は押し通した。お願いします、大丈夫ですと心配する彼女に卑怯にも頭を下げた。
頑として動かない私と、以外にも後押ししてくれた駿川さんについにはシンボリルドルフさんも折れた。
後は存分走るだけ。簡単な事だった。
【ゲートに入場してください】
シンボリルドルフさんが走るにあたって、さすがに私達3人でとはいかなかったのだろう。
各レースでの成績優秀者、いわば1着のバーゲンセールを詰め込んだレース。
総勢16名の大規模なレースになったそれには、中等部のウマ娘もちらほらいた。
観客も大勢いる。学園祭で大勢走るにあたって各コースに散らばっていた観客たちは、かのシンボリルドルフが走るということですかさず食いついてきた。
本命はシンボリルドルフで、私はおまけ。走る理由なんてどうでもよくて、彼女がどう走るかが重要なそれ。
「中央を無礼るなよ」
どこかで聞いたそれをシンボリルドルフさんは私に言って、先にゲートへとはいっていった。
【8枠1番テンマ】
アナウンスに呼ばれて私もゲートへ進む。ゲートへ入る直前、ちらりとグラスワンダーへ視線を向ける。
彼女は集中していた。じっと前をむいて静かに呼吸を繰り返している。
彼女はやる気だ。本気でこのレースに勝つつもりでいる。
その様子に少々後ろめたさを感じるも、やることはかわらない。勝つことだ。
勝って、そして……。
物思いに馳せる中、全バの入場が完了した。
急速に観客が静まる。聞こえるのは、並び立つウマ娘の呼吸と足踏みのみ。
世界が急激に小さくなる感じがして、ゲートが開いた瞬間、私は跳ねた。
轟々とした空気の膜を突き破れば、後は無音の静寂がやってくる。
全力だ。全力で最初から走る。最初から最後まで突き抜ける。
観客も、ウマも、関係ない。世界は私とそれ以外にになる。
最初の1歩で数m飛んで、2歩目でトップスピードに乗って。
振る腕は規則正しくテンポよく。頭はまっすぐ、首は前傾で。
地面は走るたびに正解を教えてくれる。
ストレートを駆け抜けて、コーナをすり抜けて、またストレートを駆けて。
気づけば、私はゴールを駆け抜けていた。
あっという間だった。本当にあっという間だった。
白滅した視界に色が戻り始め、地面の緑と空の青さが戻ってくる。
キンキンとした空気の音はゴウゴウからやがてビュウビュウと戻ってくる。
周りには誰もいない。遠巻きに観客がいるだけで、周りにも、隣にも。
やっぱり私は1位だった。
【こ、これはなんということでしょう!シンボリルドルフ追いつけない!一体何バ身開いたというのか!】
遅れてアナウンスが耳に届く。後ろ向きに眺める顔は、やっぱり必死というほかない。
シンボリルドルフさんは必死だった。私が1着を担った後も、必死で走っている。
だから、待つ。待って、聞きたいことがある。
数十秒が立った頃、シンボリルドルフさんを先頭にして彼女達はゴールした。
皆息も絶え絶えで、あえいで、えづいて、立っていない。
私はそんな中、シンボリルドルフさんの前に立つ。
信じられない、そんな顔をしたシンボリルドルフさんに私は言う。
「辛いですか?悔しいですか?」
一瞬何を言われたのかわからなかったのだろう、脳が遅れて理解した後、シンボリルドルフさんはキッと眼差しを強めて叫んだ。
「ッ……!悔しいに決まっているだろう!」
あぁそうか、なんで、ともやっぱり、とも思う。
レースは勝負だ。そこに勝ち負けは存在しても、優しさは存在しない。
競争があって優劣が存在する以上、そこに幸せは両立しない。
シンボリルドルフは全てのウマ娘の幸福を願っているといった。
でもそれは夢物語で、こうして負けた彼女はちっとも幸せそうじゃない。
シンボリルドルフはいつも勝つ側だった。だから知らなかったのかもしれない。
彼女は夢の答えを知らなかった。
私はあえぐシンボリルドルフさんを通り過ぎて、彼女のもとへ向かう。
グラスワンダーだ。彼女もまた喘いでいて、汗まみれで手をついている。
私を見上げるその顔には怯えが見えた。不退転とか、そういうのはかけらもない。
私は言わなければならない。
「私、私、速いよ」
一体何を言うのだろう、グラスワンダーはその顔に汗と困惑をにじませている。
「走るの、嫌になるって。私と走ると、嫌だって」
「みんな走るの大好きなのに、ウマ娘なのに、私が走って勝っちゃったら」
「負けてつまんなくて、がんばっても勝てなくて、それで、それで……」
「私が全力で走ると、みんな、辞めちゃうんじゃないかって……」
それが先の問いに対する答えだとわかったのだろう、グラスワンダーはじっとこっちを見つめている。その顔に思案の顔を浮かべている。
私は走るのが好きだ。けど全力で走ると誰も私に勝てなかった。勝てなくて勝てなくて、最後は嫌になっちゃった。だから、私は全力で走らない。手加減して走る。
皆幸せになんて走る以上無理だとわかった。だけど走るのやめたくない、そんなエゴ。
「馬鹿にするな!」
グラスワンダーが吠えた。まだふらつく足でしっかりと立って吠えた。
「レースは公平で、みんな練習して、努力して、お家とか、走りとか、そんなの全部平等で……」
彼女もよくわかってないのだろう、言ってることは支離滅裂で、けど熱があって。
「そんなの、かわいそうだよ……」
「私の意見は変わらないよ」
「テンマちゃんから見れば、私達は遅いよ。がんばってないように見えるかもしれないけど、けど、やっぱり本気じゃないのは悔しいよ……」
「私、負けません」
そう言って、グラスワンダーは私を睨んだ。
ちょっとくらいがんばってもいいのかもしれない、そう思わせる目だった。
秋も中頃、私は友達を失って、ライバルを得た。辛くてもどかしい日だった。
こうして私のトレセン学園訪問は幕を閉じた。