♢蟻塚千夜
千夜が
同僚からは何度も「もったいない」と言われたが、千夜自身はこの選択を全く後悔していない。何故なら、お嬢様に仕えることは千夜の運命なのだから。
コンコンとドアをノックすると、部屋の中から「どうぞ」と答える声が聞こえてくる。千夜はここに来る途中、厨房を借りて淹れてきた紅茶を乗せたトレイを左の掌の上に置いたまま、ドアノブを右手で回し、静かに部屋の中へと入っていく。
「おはようございます、
「いえ、そのままいただくわ。⋯⋯相変わらず千夜の淹れる紅茶は美味しいわね」
紅茶を一口含み、優雅に微笑む麗華を見ると、彼女の専属メイドである千夜も嬉しくなる。しかし、メイドとは感情を表に出さないモノ。努めて冷静を保ちながら、「ありがとうございます」と頭を下げた。
麗華は、優雅にティーカップを揺らしてその薄桃色の唇に紅茶をそっと運ぶ。その一挙手一投足が、まるで一つの芸術作品であるかのように様になっている。この至高の美を目に焼き付けておかねばと瞬きを忘れ凝視する千夜の至福の一時は、ピロンという着信音により唐突に終わりを迎えた。鳴ったのは、麗華のスマホだ。麗華はカップを机の上に置いて、隣にあるそれに手を伸ばし、画面に映るメールの送り主の名前を見て眉間に皺を寄せた。
「⋯⋯またあの迷惑メールですわ。毎回ブロックしているというのに、この方はどうやって送ってきているのかしら」
麗華が言う迷惑メールの内容を、千夜も一度見せてもらったことがある。それは千夜にとって大変不快なモノであった。差出人の名前は、毎回同じ、『魔法少女J』。そして肝心の内容は、麗華の体重と身長とスリーサイズ、健康状態などが書かれた診断書のようなことが書かれている何とも気味の悪いものだ。しかも、そこに記された麗華の身体情報は、千夜がメイドアイで毎日チェックしている数値と全く同じであった。
麗華は、「こんなメール、いちいち気にすることはありませんわ」と言っていたが、実際かなり気持ち悪いと思っているのだろう。今も、メールを見る表情からは嫌悪感が溢れている。
「差出人の名前の『魔法少女J』。もしかして、送り主は私たちと同じ魔法少女なのでしょうか?」
「流石に安直すぎる気もしますけれど、否定も出来ないのですよね⋯⋯。実際、このメールの送り主は、わたくしの魔法少女の時の姿も知っているみたいですし。最初に送られてきたメールにも、『魔法少女ブルジョワ―ヌⅢ世様へ』という宛名で送られてきてましたから」
そう、何を隠そう、北条麗華と蟻塚千夜、二人は魔法少女である。今から約二年前に、二人はそれぞれ、『ブルジョワーヌⅢ世』と『モルジャーナ』という魔法少女になった。
千夜の変身する魔法少女モルジャーナは、露出の多い踊り子風の衣装を着た褐色の肌を持つ魔法少女であるが、その容姿自体は変身前と大差ない。いわゆる普通の魔法少女だ。
しかし、同じ魔法少女でもブルジョワーヌⅢ世は別格である。変身前から高貴な空気を身に纏っている麗華であるが、ブルジョワーヌⅢ世の高貴さと美しさは最早言葉で言い表しようのない域まで達している。
腰まで伸ばされた巻き髪は、朝日に照らされる小麦畑のように黄金色に煌めいて豊饒さを表し、南国の海を思わせる蒼い瞳は、見る者全てを魅了する。あと胸が大きい。桜色の唇は思わず口づけしたくなるほど性的で、立てば芍薬座れば牡丹、歩く姿は百合の花⋯⋯。そして何より胸が大きい。
そんなブルジョワーヌⅢ世の姿を一目見たその瞬間、モルジャーナは彼女に一生仕えることを誓ったのであった。
「お嬢様は魔法の国でもかなりの有名人ですから、このようなストーカーが現れるのも仕方がないことかもしれませんね。だからと言って許す気にはなれませんが」
「魔法の国の連中はただお金目当てで私に近づいているだけ。たぶんこのメールの送り主もその一人ですわ」
麗華が苦々しい顔でそんなことを口にする理由を、千夜はよく知っている。ブルジョワーヌⅢ世の魔法、『お金をたくさん出せるよ』は、メルヘンな魔法少女という存在とは似つかわしくないほど現金な魔法だが、それ故にその尽きること無い財力を求めてよからぬ存在に目を付けられやすい。そういう連中は、ブルジョワーヌⅢ世の美しさではなくその手から湧き出す札束にしか興味はない。自分の敬愛する主をただの金の生る木としか認識してこない相手をどうして好きになれようか。ブルジョワーヌⅢ世が止めていなければ、おそらくモルジャーナは2,3人は殺していた自信がある。
これ以上この話を続けたくないのか、麗華は携帯を机の上に伏せて置き、カップの中に僅かに残っていた紅茶を口に運ぶ。麗華の喉が波立ち、自分の淹れた紅茶が完全に体内に収まる様を満足げに眺めていた千夜であったが、またしても千夜のお嬢様観察タイムを邪魔するように、メールの着信音が鳴る。千夜は思わず舌打ちし、麗華は眉間の皺を深くして、先程伏せたばかりの携帯を手に取った。
その時は、千夜も麗華も、またあのストーカーからメールが来たのかくらいにしか思っていなかった。しかし、届いたばかりのメールを開き、その文面を見た麗華は困惑の表情を浮かべ、千夜に画面を見せてくる。
『明日の夜、この屋敷の宝を奪いに参上するよ!! byキティ・ギル』
⋯⋯どうやら、ストーカーよりも厄介な奴が居たようだ。わざわざ怪盗予告を出してくるとは、このメールの送り主はよほどの馬鹿か、自信家か。どちらにせよ、麗華の住まうこの屋敷に怪盗予告を出した時点で万死に値する不敬行為だ。千夜は、このふざけたメールの送り主を懲らしめることを心に決め、明日に向けて万全の準備を整えることにしたのであった。