認めない子   作:アイらゔU

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第22話 交差する追憶

 

 

探偵・北斗夏樹は、都心から少し離れた古い雑居ビルの一室に事務所を構えている。

かつては警視庁でキャリアを積み、特に凶悪犯罪やサイバー犯罪に関する事件で名を馳せた男だ。その鋭い観察眼と冷静沈着な性格は、同僚から「生きる事件ファイル」とまで称された。

 

とある事情で退職した彼のその後は、ご覧の通り探偵稼業に勤しんでいる。

 

彼は前職での経験をフルに活かし、個人で探偵業を始め、刑事時代に築いたコネクションは未だに健在で、警察内部の協力者、サイバーセキュリティの専門家、さらには法律の専門家までが彼のネットワークに名を連ねている。

必要とあらば、匿名掲示板の書き込みすら追跡し、投稿者を特定することも可能だ。それは彼が持つ「正義感」に基づくものであり、たとえ報酬が高額でなくとも、多くの人々が救いを求めて彼の元を訪れる理由でもあった。

 

だが、その正義感には時折冷徹さも伴う。彼は「正義」を振りかざすつもりはない。むしろ、必要とあらば法律のグレーゾーンを行き来することも厭わない。それが自身が信じた依頼人を救う最善策であるならば決して躊躇わない。

そして、依頼人が家族であるなら。愚かな妹が平気で見捨てた大切な甥であるなら、尚更だ。

無論、盲目的に味方になるというわけではない。線引はしている。それは身内であろうと変わらない。

全てをわかった上で、レイに対して協力は惜しまない様になった。

何より、レイの依頼で………その深淵を知れば知るほど、レイを1人にはさせてはならない、と言う使命感そんな彼が、苺プロの北斗レイと接点を持つようになったのは、偶然とも必然ともいえる巡り合わせだった。

 

 

 

 

 

 

「失礼します」

 

 

レイは、薄く擦りガラスのドアを軽く叩き、夏樹の事務所へと足を踏み入れた。室内は少し古びているが、整然と整理され、どこか無機質な雰囲気を漂わせている。机の上にはノートパソコンが開かれ、その隣には分厚い書類の束が積まれていた。壁に掛けられた地図には無数の赤いピンが刺され、連絡先やメモらしき紙が貼り付けられている。

 

夏樹は背の高いスチール棚の前で書類を探していたようだが、レイの姿を認めると手を止め、振り返った。

 

 

「おっ、来たな珍しい客が。お前が電話じゃなくて直接事務所(ここ)に来るなんて。今日はどうしたんだ?」

「すみません。事前連絡も無く急遽で。でも時間を取って貰ってありがとうございます。ちょっと、話しをしたいことがあって……」

 

 

レイはそう言って、躊躇いがちな表情を浮かべながら椅子に腰掛けた。

話の核心に触れる前に、一瞬だけ視線を漂わせる――壁に飾られた古びた刑事時代の写真や、棚に並べられた分厚い法律書に目を留めながら。

 

「実は……ついこの間の新しい契約の件で相談があります」

 

そう切り出したレイの言葉に、夏樹は少し眉をひそめた。

 

 

「この間っていうとあれか。お前が念入りに頼んできたネットの炎上対策の件か?」

 

 

レイは静かに頷き、続けた。

 

 

「あの時は、どんなことがあっても対応してほしいってお願いしました。でも、実際にリアリティショーはもう終盤。人気もキャスティングの影響もあってか、当初の想定よりも遥かに高まってますが、それでも許容範囲内。最後まで想定外(事故)が起きる可能性が低くなってきて、無事に終われると思いました。だから、少し契約内容を見直したいと思って。勿論まだ終わってませんから、完全に解消したいって訳じゃないですが」

 

 

説明を聞き、夏樹は腕を組みんで目を細めてレイを見つめた。

 

 

「ほう。つまり、予防線としての契約は維持しつつ、具体的な対応は様子見でいい、ってことか?」

「……そうなりますね。もちろん、費用の件はこれまで通り支払います。僕も演者側。危険がないとは言い切れないので……少しでも保険を残しておきたくて」

 

 

夏樹は無言で頷いた。その表情には、レイの慎重さと覚悟を見抜いたような鋭い光があった。

 

夏樹とレイは家族も同然だが、仕事関係となれば依頼人と探偵の関係だ。公私は分ける必要があるのは解っているが、やはり親代わりじゃなくても家族であると言うなら複雑なのは変わらない事で………。

 

そんな時に、一役買ってくれるのが夏樹の相棒である存在。

 

 

「……にゃーん」

 

 

部屋の隅で丸くなって寝ていた本物の猫――三毛猫の「ティア」だ。

気付けば、いつの間にかレイが座っているその膝の上に乗り、鳴き声と共にゆっくりと顔を上げていた。自然とレイも見下ろしているので視線が交錯する。

ティアはレイの目を一瞥すると、ぷいっ、とそっぽ向き、そして膝の上で眠りの体勢に入った。

それが、やや緊張感あるこの空気を和やかにしてくれるのだ。

 

 

「ティアもレイの事が気がかりらしいな。お前くらいだぞ? そいつが身を任せるなんて」

「あははは……まあ、この子とももう付き合い長いですし? 体のいい寝床扱いされてるのかも」

「ばーかたれ。似たような依頼人やら連れやらはいるっつーの。……そんで、そん時はいつもクールだ。若しくは我関せずで寝てる。そこまで許すのはお前くらいだ」

 

 

夏樹が苦笑交じりにそう言うと、レイは微かに口元を緩めた。

 

 

その後も暫くは談笑だ。

 

主にレイの事に限り、ではある。守秘義務のある探偵業を追い逸れと話す訳にはいかないので、夏樹に関してはだらしない私生活~の暴露系ばかり。でも、それでは面白くない、との事で大体レイの話で盛り上がるのだ。

 

あの一大ブームメントを巻き起こしたアイドル、アイがまさかの養母になり(表向き? は苺プロのミヤコだが)、話題性は事欠かない。

何より、レイが幸せそうならそれだけでも夏樹にしては十分過ぎる。笑っていて、幸せそうならそれで十分———。

 

 

「それにしても侍らせてんなぁ、よっ色男。うちのティア(ヤツ)まで篭絡しちまうたぁ、こりゃ天性もんだ」

「あの、リアリティショー(・・・)ですからね?? ティアの事は普通に僕が玩具になってるだけなので良いですが、今ガチの方はショー(・・・)ですからね!!」

 

 

顔を赤くさせて手をぶんぶん振る所を視ても……いい具合に青春が出来ていると思える。それもまた、嬉しい。あまりにもレベルの高い青春だとは思うが、このレイと言う男のスペックを鑑みたら、別に違和感などは無い。

失いかけていた人生を、取り戻し、今があるならそれで十分———と、夏樹は思っていたのだが、一頻り笑って揶揄った後、レイをじっと見つめていった。

 

 

「それで? ……まだ、何かあるな?」

「えっ?」

 

 

その心の奥底まで見透かされる様な視線に、レイはほんの一瞬だけ動揺をみせた。

これまでの揶揄う様な仕草から一変したその視線と雰囲気。如何なレイとて、完璧に完全に隙なく演じる事なんて出来る訳がなく、その動揺を見事に見破られてしまった様だ。

 

でも、だからと言ってレイは何かを言う訳じゃない。

 

 

「別に————もう、話をした事が全部、ですよ」

「そうか?」

 

 

夏樹はわざとらしく肩をすくめてみせた……が、その視線は依然として鋭い。

 

 

「別にオレは心を読めるわけでもなけりゃ、先を見据えてる(・・・・・・・)訳でも無ぇ。……でもな、お前さんのその顔を視るだけで大体解るんだよ。……なんか、また(・・)抱え込んでねぇか?」

「あ、いや、……そんなこと」

「ばーか。面向かった時にこのオレに隠し事なんざ出来るかよ。前にも言ったろ? 説得力ってもんが違う」

「ッーーーー」

 

 

そう、以前にも夏樹に見破られた事があった。

それはレイにとってもショッキングだった事件の事だ。……間接的とはいえ、心底憎んでいた(・・・・・・・)とはいえ、自分が齎したものの結果をまざまざと見せつけられた結果、如何に精神年齢がそこそこあったとしても、肉体はまだ幼い。精神が肉体に影響……ではなく、肉体そのものが成熟している精神に影響を及ぼした、と言えば良いだろうか。

そこを夏樹は見逃さなかった。アイの時は悔しいと言う気持ちが第一に来たが、不思議と夏樹に対してはそう言った感覚は無かった。

 

 

夏樹が培ってきた真似できない技術、経験の結晶。

刑事時代に積み上げてきた。嘘を付くヤツ、隠し事をしているヤツ、逆に隠せないヤツも含めて幾星霜。見てきて積上げられた彼の()は、ファンタジー要素など欠片も無い、純然たる人が積み上げてきた結晶に敬意を払いたかった、と言う気持ちの方が強かったのかもしれないし、それ以上に……温かかった(・・・・・)から。

そして何より『離れていても、家族』だと言ってくれた。何よりも嬉しかったし、この人なら————と思い、レイは全幅の信頼を寄せて、協力を仰いだ(・・・・・・)。いや、助けを乞うた(・・・・・・)のだ。

 

 

レイはこれまでの事を思い返しながら……膝の上で寝息を立てるティアの身体にそっと触れ、温もりを感じながら……漸く口を開いた。

 

 

「……例えば、の話だよ」

 

 

言葉を選ぶ様に、ゆっくりと紡いでいく。

 

 

「―――もしも、僕がやってきた事が全部無意味だったとしたら? って考えたら……少し、怖くなっちゃった。みたいな感じです」

「無意味?」

 

 

事の根幹部分に触れる気は夏樹には無い。

流石に以前の依頼内容、今も継続して行っているあのヤバい案件に関しては、何かしようものなら身体を張ってでも、と思っているが今回のそれは心の問題だと瞬時に理解した故に、明らかに自分の話を例え話に置き換えている様に見えても、そこには触れない様にした。

 

 

「うん。……例えば、大切な人を、大切な人達を守る為に出来る事をしてきたつもり……だった。先回りして、手を回して、最善の道を選ぶ努力をしてきた。……でも、結局何も変わらず、止めようとしたのに(・・・・・・・・・)同じ道を進んで、辿ってしまう様な………」

 

 

例え話だ、と言っているレイの声は震えている。

あの時のレイを視ている様だ。

 

でも、レイは直ぐに顔を上げた。震えていた姿はまるで嘘だったかの様に表情をやや明らめて夏樹の目を真っ直ぐに見て告げる。

 

 

「全部例え話、だからね? 本当はそこまで重たい話じゃないから。でも、その———やっぱりさ、女の子たち()の話も絡んでくるから……。脚色入ってるし、脚本家としての裏方も出来そうな気がするよ」

 

 

明るく笑顔でそう言うレイの姿を見て、夏樹はとある人物を思い浮かべた。

 

 

———なるほど、()が上手くなる訳だ。

 

 

嘘に嘘を重ねて、それが本当になる日を夢見て。

ある種、神懸かってるとまで言える【嘘の瞳】。

夏樹はそれを知っている。知った。

 

だから、今の夏樹には付け焼刃に過ぎない。

 

 

「レイ」

「!」

 

 

夏樹の声は、とても優しかった。

それを聞いたレイは、……昔の事を思い返してしまう。

あの時と、同じ声色だった。

 

 

「オレから言えるのはただ1つだけだ。……お前は1人じゃない。全部背負わなくて良いんだ」

 

 

そう言うと、夏樹は立ち上がってレイの方へと歩み寄る。

そして肩にそっと手を置いた。暖かい掌の感触が、嘘と言う鎧を被っているレイの本心に少しだけ届く。そんな気がした。

 

 

「……ありがとう、ございます」

 

 

否定する事もなく、また嘘を重ねる訳でもなく、レイはただただ頭を下げ続けるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

夏樹はレイを外にまで見送る。

これ以上は向こうの家族が心配するとの事。確かにレイの胸ポケットに入っていたスマホは何度か振動をしている所は視ているから、恐らくそれが家族からのもの、なのだろう。

 

 

「……これからも苺プロ、そんでもって星野家には頭上がらないな」

 

 

デスクの傍に飾られている写真。その中にレイの成長過程もあった。

そのどれもが楽しそうだった。表情は色んな種類があるが……間違いない。写真越しでも十分に解る程に、レイは楽しそうで、幸せそうだったのが解る。

 

 

「超人でも無い、神童でも無い。……アイツはただの子供だ。まだ高校生に入りたてのケツの青いガキだ」

 

 

ギシッ……と深く椅子に座る夏樹。

それを合図にしたかのように、夏樹の肩に相棒であるティアが飛び乗る。

 

 

「お前もそう思うだろ?」

「―――――……ナァ」

「そんでもって、———相応以上に危うい性質だって事も」

「…………」

 

 

今現在の脅威———とまではいかないが、レイが敵視している相手は……未だ底が知れない闇そのもの。

 

だが、考えてばかりいても仕方がない。

 

 

「さて………と」

 

 

ただ、自分がやるべき事をやるだけ———そう思い直し、夏樹はデスクの書類の束に目を向けるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あの、本当に良かったんですか……?」

「え? 大丈夫大丈夫。そんなに気にしないで」

「っ………」

 

 

場面は変わって———それは車内での会話。

 

あかねが恐らくは何かの買い出しだろうか、それをみたフリルが運転をするマネージャーに声をかけて、彼女を乗せたのだ。

どこか心地良い雰囲気、和気藹々~とまではいかないが、同年代の子とオフの日に楽しそうに話をしているフリルを視るのはマネージャーとしては嬉しい限りだと穏やかに車を回している。

 

 

「あかねさんの舞台も私気になって色々と観てみたんだけど、凄かったわ。評価が高いのも納得できるし、何より私自身も凄く勉強になった」

「あ、い、いえ。そんな……。私はまだまだ未熟者ですし、恐縮です……」

「あははは。そんなに固くならなくても大丈夫だから」

 

 

あかねの雰囲気を傍で見て、感じたマネージャーは困惑色を隠せれない。

『これが、あの今ガチ♡で出演し、話題の中心人物の1人でもある黒川あかねなのか?』と。

内の不知火フリルと真っ向からやり合い、それでいて一切引かずに話題性も出して来て、世間受けも悪く無い。十分過ぎる程に渡り合ってると言って良い。それが事務所の総意だった。

いつもとは土俵が違う恋愛リアリティショーだから、と言えばそうなのかもしれないが、それでも与えられた印象、そのインパクトは段違い。

だからそれとなく注視していたのだが、あまりにもあの黒川あかねだとは思えない程だった。

リアリティーショーだからと言って、全てがリアルだとは思ってない。ある程度の役を演じている面は誰しもがある事だ。……が、黒川あかねのソレは異質だと言って良い。女優業を生業とする彼女の力量の凄まじさを垣間見た気がした。

 

マネージャーである自分自身がここまで感じているのだが、等のフリルはどこまでもあっけらかんとしている。付き合いで言えばもうそれなりに回数を重ねてきて解ってきたから……なのだろうか?

 

 

「でも、あかねさんの姿見てたらこう———舞台の神様? がついてくれた~~って印象まであるよ? だからもっともっと堂々としてたら良いって思う」

「か、神!? そんな滅相も……」

「ほーら、猫背禁止」

 

 

本当に楽しそうだ。これで三角関係が成立しているのだから、それもまた凄い。

ここ暫くでは無いくらいには、充実している顔をしている。そう思える。

 

 

「でも、私はもっともっと頑張らないと……だから」

「うん。その辺りは私だって同じ。……もっと頑張らないと、得られるモノも得られないからさ」

 

 

フリルの意味深な笑みと表情。それに呼応する形であかねもフリルの目を真っ直ぐ見据えた。

車内の空気が一瞬———変わった気がした。

 

 

「負けないよ? あかねさん」

「……ええ。私も負けるのは嫌い」

 

 

あかねの目に強い光が宿ろうとしたその時だった。

 

 

「あれ……?」

 

 

車の窓越し、歩道を歩くレイの姿をフリルの目が捕らえた。

 

 

「れ————ひかり君だ」

「!」

 

 

フリルの言葉にまた呼応される様にあかねもその窓の方を見た。

確かに足早に、小走りしている姿はレイのそれだ。間違える筈がない。

でも、不可解な事はある。

 

 

「斎藤ひかりさん、でしたか。それにしてもこの辺りが自宅なのでしょうか。……苺プロからはかなり離れている場所、なんですけど」

 

 

ひかりの正体がレイである事を知っていマネージャーも内心フリルが、レイと言いかけて焦っていたが、大丈夫そうだと胸をなでおろした。

 

 

そんな事は一切関係なく、あかねはただただ考える。

 

この場所はもう大分移動しているから、繁華街からは程遠くなっているし、小走りをしているところを見ると、もう少し先にあるバス停に向かっているのだろう事は解る。でも何でここに居るのかが……疑問だった。

 

 

——今1人きり。いつもは複数で行動する事が多い。

——名の通る高校生なら送迎が基本。

——そもそも言う通り苺プロから相当離れてる。

——その他芸能関係施設も無いエリア。

 

 

頭の中で考えを構築し、結論を導き出そうとフル回転を始めた。

 

 

「……北斗探偵事務所」

 

 

ぼそり———とあかねは呟く。

まるで自分に言い聞かせる様に、そして言葉にした瞬間、再び脳内で眠っていた記憶の断片が次々と開かれて行き、ロジックが積み重なっていく。

 

 

——以前調べたデータベースに合った苗字

——北斗の性はこの辺りじゃ数件程度

——小規模個人経営事務所で、芸能界に絡む仕事も手掛けている。

 

 

あかねの中で情報が組みあがっていき、パズルのピースが音を立てて嵌っていく。

 

 

——このエリアにあの探偵事務所があって、そこにひかり君が居る。

——現在のひかり君の養父母は斎藤夫妻。

——私の見立てじゃ、斎藤ひかりと北斗レイは同一人物。

 

 

そして改めてレイの方を見た。

確かに走っている様だが……それは何処かぎこちなくも感じる。

 

 

———歩き方、少し重い感じ。やや紅潮気味。

———苺プロでの家族とは違う別の理由の何かを抱えてる?

 

 

組みあがっていく。確信に向けて。

そんなあかねの様子に、ピリ————ッと張り詰めた様な雰囲気にフリルも気づいた。

 

不知火フリルとしてのアドバンテージ? と言えば、もう既に彼女の中ではひかりの正体はレイであり、一世を風靡した稀代の鬼才だと既に知っている所。レイ自身にも認知してもらっている所に尽きるだろう。

 

幼い彼が鍵盤に触れた瞬間に圧倒された音楽関係者は、直ぐに天才だと称したのだが、その枠に当てはまらない。彼の演奏は譜面を超え、音楽そのものの意味を再構築するかのようなナニカがあった。クラシックの巨匠たちが紡いできた戦慄に、彼だけが新たな生命を吹き込むかの様だった。ただ聴くだけで全てを圧倒するその表現力。それこそが彼を鬼才と呼ばせる所以であると言える。

そんな彼を知っているのは自分だけ……と、何処か優越感に似たモノを持っていたのだが、物凄い勢いで真相に辿り着くあかねの姿に、少し身震いをする。

 

 

「……勿論負けるつもりは無いけどね」

 

 

それはそれとして、と気を新たに強めるフリル。身震い……武者震いと言うヤツだろう。そして良き好敵手だと言う認識も持っている。

どの様な結末になろうとも、黒川あかねとは長い付き合いになりそうな予感があった。

芸能界は甘い所ではない、と言うのは重々承知。それでも尚、彼女の才覚ならば、波に乗ればすぐに昇りつめてくる、と言う事がフリル自身にも解ったからか。

 

 

「―――まぁ、それはそれとして車、止めて。どうせならひかり君も送っていってあげようよ」

 

 

フリルはそう言うと、マネージャーに声をかけた。

元々、マネージャーの彼女もそのつもりだったらしく、小走りで走っているレイの傍に寄り、短くクラクションを鳴らした。

そして、彼がこちら側に注目すると同時に、パワーウインドウがゆっくり下げられ、フルスモークで視る事が出来なかった車内が露になる。

 

 

「じゃーん!」

「……え??」

 

 

フリルのピースサインと掛け声。

そして目が合った時、レイは物凄く困惑した様子だった。

 

そして、同時に———あかねとも目が合う。

 

 

あかねは、あまりにも真剣にレイの事を考えていたからなのか、その表情を見るのが遅れた。遅れてしまった。

 

そして遅れたせいか、考えられるだけの思考時間が得られなかった為か―――レイの表情の真意。それはあかねでさえも読み取る事が出来なかった。

 

その安堵感に満ちた表情を。

 

 

 

 

 

 

【―――本当に、良かった】

 

 

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