認めない子   作:アイらゔU

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第44話 旋律の軌跡

ソファに深く身を沈め、アイは両手でマグカップを包んでいた。

湯気の向こうで、砂糖とミルクをたっぷり入れたコーヒーを一口啜る。そして、頬を緩ませた。

 

 

「ん〜……やっぱりおいし〜」

 

 

頬を紅潮させ思わず声が漏れる。

肩の力を抜き切ったその様子は、もはやそこは事務所というより、誰かの居間だ。寧ろ実家のようだ。

 

そして、ここは事務所は事務所でも、苺プロではない。

北斗探偵事務所である。無論、そこの主は直ぐ傍にいるわけで。仕事中なわけで。

 

その光景を、書類を目に窶しながら机越しに見ていた夏樹が、静かにため息をついた。

 

 

「……なあ、アイさんや?」

「なーに?」

 

 

それはそれは気の抜けたアイの返事。夏樹の声色だったり額に指を当てる所作だったり、実に対照的である。  

 

 

「ここは、アイドルのくつろぎ場じゃねえぞ。事務所だ事務所。しかもアイドル事務所じゃなくて探偵っつー胡散臭い系の」

「えー?」

 

 

それを聞いて不満そうに声を上げつつ、アイはもう一口コーヒーを飲む。

 

 

「でもさぁ、今は私アイドルじゃないもーん。ただのいちタレントだよ? それに胡散臭くないしー。いちタレントさんが好んで来ちゃうくらいには」

 

 

アイは何にも悪びれもなく言い切った。

そして、夏樹は即座に返す。

 

 

「何が“ただの”か。そんなレベルじゃねぇだろうに」

 

 

呆れため息交じりに言うそれは正論である。

アイは日本のトップタレント。或いは世界にも通じるかも知れないタレント。

CMを含めたらテレビで見ない日は多分無いのではないか?くらいには有名人である。

その言葉をあえて口にはしなかったが、言外に滲ませた。

 

 

「全く。こんな変なトコに通ってるって撮られても知らねえぞ」

 

 

それはぶっきらぼうな忠告である。今の時代簡単に撮られてしまうのは当然な話。ある程度の変装はしているようだが、それでも綻びがいつでるのかわかったものじゃない。

 

だが、その言葉とは裏腹に、実際夏樹の内心は焦る様子の欠片もない程冷静だった。  

 

 

「(ま……、撮られるわけがないがな)」

 

 

基本的にこの事務所を、週刊誌の類は避けている。

正確には――避けざるを得ない。喧嘩を売りたくないからだ。それはもう、惨たらしく返り討ちに合う可能性が極めて高い場所だから。

 

 

過去に何があったか。

誰が、どんな形で業界から消えたか。

 

 

それらを、彼らはよく知っている。往々にして他人の秘密を暴き、それを糧とし養分とする連中には後ろ暗いところがある。そこには正義などは無い。ただただそこに絡むのは金銭面、そして齎す権力の甘美さ。

 

自分を無敵と感じてるそういった者たちは、他人の闇を暴くのは好きだが、自分自身を開示するのは極端に嫌う。己は無敵などではなく、ただただ狩られる側に回った時は本当に脆い。

 

だからここは、安全だ。少なくとも、外からの目に対しては。

 

 

「──大丈夫でしょ?」

 

 

夏樹の考え、それを知ってか知らずか、アイはあっけらかんと言った。

別に聞いたわけでも、確認したわけでもない。

ただ、当然のことのように。

 

 

「だって、夏樹パパが守ってくれてるし♫」

 

 

笑顔で言うアイのその一言で、夏樹の眉がぴくりと動いた。少し前までは兄だったが、急に位が上がった。確かに年齢的に兄よりは父親くらいの年の差だが、そんな事よりしっかり突っ込むべきだろう。

 

 

「……誰がパパじゃ、誰が」

「えー? パパさんじゃん?」

「俺は“おじさん”だ。父でも兄でもない」

 

 

即答だった。

確かに家庭はあった。が、それはもう遠い過去の話だ。もう妄りに話したりしないので、関係者以外誰も知らない事実。

故に、アイが言わんとするのは、先ず間違いなくレイのことだろうと推察する。親類である、つまり自分は叔父でレイは甥。それは間違いないのだが、パパとは違う。代わりにはなれないからだ。

 

 

「それにだな」

 

 

そして、続けるように夏樹は指を立てた。

 

 

「レイのことを“私の子だーー”って言ってるくせに、俺をパパ扱いするってのが、どういう意味かわかってるのか?」

 

 

アイは一瞬きょとんとした。

そして数秒間考え込むが、やはり分からないようで再び小首を傾げる。

 

「?」

「はぁ、だからそれだと、俺とお前が再婚した、みたいな構図になる。勘弁してもらえないか? そんな予定はない」

 

 

夏樹の呆れるような声と、雑に纏める書類の束。

それらを聞いていたアイは、なるほど!と言わんばかりに、手をぽんっと叩くとまた笑顔で言う。

 

 

「えー、それもいいじゃん? 私はまだまだ現役だよ? それに可愛いでしょ? 嬉しくない??」

 

 

まさに、あっさりと、気の抜けるようなあっさりとした感じで言い切っていた。にこやかに笑うそこには照れもなく夏樹の言った言葉の真意を理解したうえで、納得したうえで、ただ思いついた感想という顔で言う。

そして、夏樹は言葉を失うと同時に更に1割増で険しく呆れ顔に表情筋を歪めるとため息交じりに言う。

 

 

「……お前なぁ、少しは言葉選びってものを──」

「でも」

 

 

アイは少し考え込むように小首を傾げた後少し残念な様子を醸し出しながら告げた。

 

 

「やっぱ渚さんに悪いから、再婚はダメかな? 私は略奪愛はちょーーっと嫌なのです! はい、多分!」

 

 

どこからどこまでが本気なのかがわからない。

これこそが、アイと言う人物像なのである。

夏樹の中のプロファイリングは間違えてなかったな、と再認識する。

 

それはそれとして、あくまで“配慮”の方向が、そこなのが問題だったのだが、そこを突き詰めても最早意味はなく、更に言えば渚との関連性についても何か弁解する気も起きないので、取り敢えず頭をガクン、と力なく下げただけにとどめた。 

 

丁度、そのタイミングで、キッチンの方から足音がする。

 

 

「アイさん、おかわり持ってきましたよ」

「! ありがとーー!」

 

入ってきた渚が、静かに新しいコーヒーをアイの前に置いた。

湯気が立っていて、甘味が鼻腔を駆け抜ける。温かく心地よい香りを前に、アイは目を輝かせる。

 

「相変わらずの甘党ですね」

「それだけじゃないよー。だって渚さんの淹れてくれるコーヒー、おいしいんだもん!」

 

 

アイは満面の笑みで言う。

 

 

「豆が違うって言うのかな?? お湯の注ぎ方? 淹れ方? とにかく最高っ! って感じで、良質な豆に渚さんの技術が重なって更に味わい深くなっててー」

「ブラック未だに飲めないくせに、豆とか語ってら」

 

 

夏樹がぼそっと突っ込む。

そして、流石に恥ずかしかったのか、アイは【それ言っちゃダメなやつ!】と顔を赤くさせるのだった。

 

 

 

 

「それはそれとして、アイさんはこんなトコにいてて大丈夫なんですか?」

「こんなトコって、オイ」

 

 

渚の質問に対して、事務所をこんなトコ扱いされた夏樹が苦言を呈する。

アイは、珈琲に砂糖をまた少しまぶしながら言った。

 

 

「今は大丈夫ですよ。皆学校行ってるし、私は空き時間だし? 順調順調! って感じです!」

「だから、ここはくつろぎの場じゃないんだって」

「まあまあ。夏樹さんも息抜きになってるでしょ? 何なら、場所提供したから、歌ってもらいます?」

「おっ! 別に良いよ」

 

渚まで何だか乗り気でアイと隣り合わせになり、何だかマイクを持つ仕草でアカペラし始めるので、夏樹は取り合えず。

 

「はいはいはい、止め止め。こちとらまだ仕事中」

 

これ以上騒がれては敵わん、と早々に止めさせるのだった。

 

 

「ったく……くつろぎの場の次はカラオケボックスか? 何度も言うが場所間違えてるっつーの」

 

 

書類の束を揃えながら、夏樹はわざと肩を鳴らした。

苦言を言ってるがそこに怒気はない。あるのは、半分だけ本気の呆れだ。で、半分は賑やかなのはそこまで嫌いと言うわけではないということ。

信頼のおけるメンツだとしたら、尚更だろう。

 

ここ北斗探偵事務所の昼下がりというのは、いつも静かだ。窓から差し込む光が、埃さえもその静けさの演出の一部にしてしまう。

ここは本来、数字と契約と責任、そしてむき出しの感情とたまにの慟哭。それが行き交う場所。

――アイがいるだけで、空気の比重が変わるのだから不思議なものだ。

 

誰が言っていたか、誰もが目を奪われる存在。金輪際現れることのない一番星だと。誰も彼もが虜になると。

まあ、そこまでは過大評価ではあるが、纏っている空気は凄い。

つまり、夏樹的にはこの元トップアイドル・現トップタレントと関わりを持った時点で、粗方諦めているフシ、だったりする。

 

 

「えー? でも静かすぎる事務所って寂しくないですか?」

 

 

椅子をくるりと回しながら、アイは悪びれもなく笑う。

カップの縁に砂糖をもうひと匙。甘さを足す仕草は、無防備なほど自然だ。

 

 

「仕事場に寂しさの癒やしを求めるのがそもそも間違い。そう言った職種が無いとは言わんが」

「でもでもだって、レイは出張中だし? 寂しかったり心配だったりしますよね?? 夏樹さんも!」

 

 

その一言に、夏樹の指先が止まった。

ほんの刹那。だが確実に、少しだけ空気は変わる。

巻き込まれ体質なのと、無理をする性格のマッチした男だ。確かに心配ない、と言い切れるわけではない。

 

 

「確か、宮崎でしたっけ?」

 

 

渚が何気なく続ける。

世間話の延長。軽い確認。

 

 

「そ。7日間。向こうのホールでコラボ企画! あの歳で県とのコラボなんてすごい! まさに次代を担う苺プロ期待の新人だね! 新生B小町も負けてないし! あ、そこにきっとアクアも加わるから、凄いことになるよ! さっすがだよねーー♡ 鼻高々、ってこう言う時に使うんだーって感じだ!」

 

 

アイは楽しそうに指を折る。

7日、つまり1週間。長くはない。だが短くもない。

高校生を考えたら一般的な修学旅行や部活の合宿より少し長い程度の時間だ。普通にあり得る話。

でも、懸念点が無いわけではない。ただ、それは遠くに行ったことに対するものではなく、向かった場所に起因している。

 

夏樹の脳裏には、観光パンフレットではない地図が浮かぶ。

 

宮崎、高千穂。

南国特有の空。

潮の匂い。

そして、北斗の古い戸籍に残る、消えかけた一行。

 

 

「7日か。まあ、仕事内容を考えたら妥当な日数だな。我が甥ながら末恐ろしいってもんだ」

 

 

淡々と返す。アイも言うように県とコラボするような高校生なんて、早々いるものじゃない。期待している面も、当然夏樹にもあるから。

 

 

「んー、でも7日ですよ? 1週間!」

 

 

アイはわずかに唇を尖らせた。

 

 

「家族がいない期間って、やっぱり長く感じるんですよ?」

 

 

その言葉が、静かに沈む。

アイだからこその言葉なのかも知れない。アイドル、そして今はタレント。第一線で前を走り続けてる彼女が、誰よりも家族を愛しているのは傍から見てもよくわかるものだから。何日なんかは関係ないんだろう。それがいき過ぎて暴走するのが、玉にキズだが。

 

そして夏樹は視線を落としたまま、紙の端を揃える。

 

苺プロに、斎藤夫妻に、そしてこのアイに任せたのは我ながら英断だと思ってる。

 

“生み”ではなく“育て”

 

今、あの子の帰る場所はどこなのか、温かく迎えてくれる家があるのとないのとでは、踏み出す先のラインをしっかりと把握できるのだから。

 

 

「まだ子供と言えど、もう働いてる、その上了承してる出張だ。遊びや観光じゃない。困った時、助けが欲しいと言ってる時、手を伸ばされた時。その時は全力で応えてやる。その程度で十分」

 

 

そうは言いながら、夏樹は自分の声が少しだけ乾いていることに気づく。

 

 

宮崎の――家族。

 

 

いや、いた。と言うべきだろうか。

記憶の残滓がその輪郭をはっきりと帯びるようになったのは。

 

 

「そう言えば宮崎って言えば夏樹さんの……」

 

 

渚の言葉からだろう。

渚自身も思わず止める。つい、口に出してしまったのは緩みのせいか。この空間があまりにも極々自然なひとときと同化してしまっていたからか。

 

申し訳なさが去来している視線が、夏樹の方へと向いた。

 

それと同時に、夏樹や渚が何か言う前にアイの方が早かった。即座に反応したのだから。

 

 

「何? 宮崎に何があるの?」

 

 

椅子ごと前へ滑り出す。

本当に、食いつきが早い。何か不穏な気配を察知したのだろう。雰囲気のそれが先ほどまでとは違う。

 

 

――沈黙は金……な訳がない、か。

 

 

下手に放っておけば、アイが暴走する危険性もある。きっと一人でも動く。東西南北、どこへでもそれこそ光の速さで。レイを初めとしたアイの家族のことなら尚更だ。

 

結果、苺プロに迷惑をかけるかもしれない。

余計な火種を生む可能性もある。

加えてレイ自身にそれが及ぶ可能性も大いにある。

 

そして何も語らず、アイが知らずに踏み込む方が、もっと危ういだろう。

夏樹は一度、静かに息を吐いた。

 

 

「……別に大した話じゃないさ」

 

 

それは前置き。

逃げ道を残すための。

 

 

「北斗家。俺の曾祖母の家が、昔あったらしい。宮崎に」

 

 

その答えにアイの目が丸くなる。

夏樹について、いやレイについて、特に苺プロに来た時からある程度知っていたつもりだが、宮崎県に縁があるとは知らなかったから。

 

 

「えっ。じゃあ、親戚とか今も?」

「いや、現存する血縁者はもういない。確認済みだ。処分したって話も聞いてないし、こっちに責任回ってきたって話も聞いてない。取壊してなければ今は空き家だろう」

 

 

事実だけを置く。

感情は混ぜない。だからこのまま軽く済めば良いのだが、そうはいかなかった。

大したことない、と言いつつ躊躇っていた間の理由をアイは、突き止めたのだから。

 

 

「ひょっとして、……お母さん、……夏樹さんの妹さんが?」

 

 

その問いに、時間が一瞬だけ凍る。

何をもって沈黙しようとしたのか、その原因。核心部分にアイは触れてきた。

 

 

そう、レイの母親の存在を僅かながらに夏樹は危惧したのだ。

 

 

あの事件のあと、姿を消した女。現在も行方知れず。

だが危険人物か、と言われれば違う。

ただ、自分の責任から、全てから逃げた人間。

元より、己の願望が友人(かどうかも定かではないが)よりも高く、そして勝りたいと言う強い情念、願望。それを息子であるレイへと向けさせ、妄執に囚われた亡霊のようにも見えた。

自我が保ち、普通のように見えたのは、満たしてくれたレイがいたから。当初よりも遥かに、想定以上、想像以上に大成を果たし世界規模にまでに至ったレイが己の自尊心を満たしてくれたから、だろう。

 

歪んだ愛情で完璧に満たそうとした。名声を、栄光に至った瞬間、ようやくその虚空は一時的に埋まった。

 

——だが、事件がすべてを奪い去った。妄執の支柱が崩れ、彼女は親権も、家族も、存在そのものさえも放棄して、音もなく消えた。

 

 

つまり馬鹿な大人が、愚妹が消えた。

ただそれだけなのだ。

 

 

だが、その“それだけ”が、深く刺さる。

夏樹はゆっくりと視線を上げた。

 

 

「特に愚妹(アレ)の追加情報はない。宮崎って言ってもそう言えばルーツがあった程度で覚えてたから調べただけだしな。宮崎(向こう)にいるってわけでもないだろう」

 

 

嘘ではない。

だが、ゼロとも断言できない。

もし“いるかもしれない”と知れば。

アイはどうするだろうか?

会いに行くと言い出すかもしれない。問い詰めるかもしれない。それを止める資格が、自分にあるのだろうか。

だとしても、告げる言葉は決まっている。

 

 

「危険性があるとは到底思えない。今更だし、ただの……過去だ」

 

 

言葉にしてみて、曖昧さが残る。

過去は終わったものではない。

時に、静かに息を潜めているだけだ。

 

 

「────────」

 

 

アイは黙り込んだ。

カップの中で、スプーンが小さく鳴る。

怒りもしない。

感情をその表には出さずにただ、考えている。

その横顔は静かだった。

 

ただ、仮に目の前に今更出てきたとしたらどうするか? 想定してなかったわけではない。

 

 

当然、奪わせない。何があっても。

 

 

例え生みの親だろうと、もう過去のことだろうと。

今あの子の帰る場所は私たちのところで、私たちが家族なんだから。

 

もし何かあったとしても。

 

 

──負けない。

 

 

その覚悟だけは、すでに共有されている。

言葉交わさずとも、アイも夏樹も同じ気持ちだ。

 

夏樹は書類を閉じた。

 

 

――教えてよかったのか。

 

 

それは分からない。

だが、何も知らずに笑っているよりはいい。

事務所の外で、風が窓を鳴らす。

宮崎の空は、今どんな色だろう。

そしてレイは、何を思ってその地に立つのか。

まだ誰も知らないことだ。

だが一つだけ、確かなことがある。

帰る場所は、変わらないと言うこと。

 

 

「レイさんは愛されてますね。本当に」

 

 

アイや夏樹の姿をみて、しみじみ思うのは渚である。陰ながらサポートをすることもあり、レイ本人とも面識はある。

危うき性質であることも、数奇な運命を辿っている事も、夏樹とは共有している。

 

そんな彼の周りにはいつだってこんなにも想い、そして笑顔にしてくれる人たちがいる。

 

ただ、渚は思う所はある。

あの鮫島記者に悪意を向けられ、迫られた時でさえ、彼は冷静沈着そのものだった。

 

 

──星野愛久愛海が彼を庇い前に出ていたが、そんな彼と比較しても尚、感情を押し殺し、冷静に見定める姿は正直年相応とは言えない。

 

 

喜怒哀楽の内の、《怒》の感性の時に、表には出ずに内包し続けるイメージだった。

 

 

「レイ君が怒りを見せる(・・・)時はあるんですかね?」

 

 

怒鳴るところも見たことがない。 感情を爆発させる姿も想像できない。 穏やかで、柔らかくて、どこか達観している。そして先ほどにも考えていた通り、すべては内側で完遂させるイメージだから。

そんな、渚の言葉を聞いてアイは小さく笑う。

 

 

「見せるよ。んー……怒らない、っていうか……あんまり表に出さないから、見せない、見せたくない、って感じかなぁ?」

「はい。周囲に気を遣いすぎてる、とも言えますね。何かの拍子に溜めていたものが爆発する。そういう時が一番怖い。と思うので。……そこまでに至る事は早々無いとは思いますが」

 

 

アイも少し考える。

今も、昔も、レイは誰よりも愛情深いと思っている。アイ自身に愛を教えてくれたのもレイだったのだから。今もきっと同じ。

 

 

「早々ないからこそ、なった時が危ういってもんだな。アイツに関しちゃ」

 

 

その為に、色々手を回している。

大人として、唯一の血縁、叔父として。

 

 

「……そういや、あいつ。昔妙なこと言ってたな。『世の中にはさ、人それぞれ、どうしても許せない存在が4人はいる、って言うじゃないですか?』、って」

 

 

何処かのくだらない都市伝説みたいな口ぶりだった。4人と言うのが不吉な数字、と言うくらいしか感想はなかったが。

 

 

「世の中には自分に似た顔が3人いるって話と混ざってんじゃねえのか? って笑っといたが」

 

 

そうかもしれない、と3人共が笑っていた。

 

笑ってはみせたが、夏樹にはこの話は少なからず引っかかるものがある。

 

 

【4人の許されざる者】

 

 

レイは笑いながら、冗談めかして言ったが、 少なくともレイが許さない、と判断し、怒りを向ける相手を3人までは知っている。

知っている、というより―― 知ってしまった、が正しいだろう。

 

その内の2人は、アイに触れるな関わるな、とも言った。 それは決して命令ではなく、願いだった。

レイのために、あいつの未来を守るために。

 

だからこそ、飄々としているアイもひょっとしたら同じことを考えてるのかも知れない。

 

 

 

ただ残りの1人が誰なのかがわからない。

 

 

 

あの記者か? とも思ったが、レイの口から語られたのはもっと前のことだ。故に省かれるだろう。

 

そもそも本当にいるのかどうかも分からない。あくまでも、夏樹の考え。

 

 

ただ。もしもこの先、何かが起きたとしたなら―― それはきっと、誰かが一線を越えた時だ。

 

 

その時、あいつはきっとわかりやすくは怒らない。

怒鳴りもしない。

 

ただ、悟らせないようにするだろう。と思う。周りを巻き込まないようにと。静かに決断するだろう。

 

それが一番、怖い。

 

 

「俺のことは巻き込め。と口酸っぱく言い聞かせたが……な」

 

 

一抹の不安は拭えない。

ただただ、何事もないようにとだけ、願うのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

舞台は──

 

☆宮崎県 高千穂 天岩戸神社☆

 

 

 

水の音が、先にあった。

細く、長く、絶えず流れ続ける音が奏でる神秘。

高千穂峡を縫う五ヶ瀬川のせせらぎは、観光客のざわめきすら包み込んで、ひとつの背景音へと溶かしている。

 

 

神楽殿の仮設ステージ。

組まれた照明。

配信用カメラの赤いランプ。

 

 

だが、まだ誰も主役を見ていない。

鍵盤の前に座るその人物が、あまりにも異質だからだ。

ステージに上がるは特徴的な黄色いマスク。

そこには丸い目と大きく誇張された口元。

 

 

────ぴえヨン!!!

 

 

ざわ、と小さな笑いが起きる。

小中学生に大人気!

覆面筋トレ系YouTuberのぴえヨン!なのである。

 

 

「え、あれ本物??」

「ぴえヨンってピアノ弾けたっけ!?」

「筋トレ関係なくない!?」

 

 

めちゃ騒ぎになったのは言うまでもない。小中学生に大人気! だが、小中学生を子供に持つ親も当然知っている。故に人気かどうかはともかく、認知度は高いのである。

 

 

「や、まてよ──確か前のコラボで………」

 

 

そして、ぴえヨンファンなら直ぐに気付けた。

告知があったからだ。

YouTuberひかるんが、顔出しNGのVチューバーピアニストであるひかるんが、ぴえヨンの姿でピアノを奏でるイベントがゲリラ的にあるかも! と言う告知が。

 

 

話題が話題を呼び、観光地は盛況を見せる。

 

 

だが、レイはそんな空気を、一切気にした様子を魅せない。今は、そういう場面ではないからだ。音に、奏でる音に全てを集中させる。世界にあるのは、自分と奏でる音のみ、と。

 

 

マスク越しにゆっくりと息を吸い、

白い指が鍵盤の上に静かに落ちる。

 

――低音。

深く、重く、冷たい一音。

その瞬間、川の音が遠のいた。

空気が沈む。

二音目。

三音目。

淡い旋律が、ゆっくりと紡がれていく。

それは派手でも、技巧的でもない。

ただ、静かだった。暗い洞窟の奥で、微かに差し込む光を待つような音。

 

 

☆天岩戸☆

 

 

神話の名を冠した今回のメイン楽曲。

宮崎県との公式観光コラボ企画――

 

“神話と音の再生プロジェクト”

 

だが、そんな説明は今、誰の頭にもない。

ただ音だけがある。惹き寄せられ、ぴえヨンの姿にどよめき、驚き、声を上げた者。ひかるんを連想させて興奮した者。全てが一同に音に魅入られたかのように、静寂に近い舞台となった。

 

ぴえヨンのマスクは笑っているのに、

鍵盤の上の指は祈るように震えている。

音は、閉ざされていく。

一枚、また一枚と、岩戸が閉じるように。

光が消える。

世界が、暗くなる。

観客の呼吸が浅くなる。

 

 

その中で。少し離れた位置に立つあかねは、

最初こそ腕を組んでいた。

 

 

「(ぴえヨンの姿で神話をって……シュールすぎるって思ってたのに…………)」

 

 

そんな余裕は、三十秒で消えた。視線が、外せない。一瞬たりとも、目を離す事ができない。勿体ないから。瞬き一つが、呼吸音の一つの雑音が、何もかもが勿体ないから。その身ひとつで、全身でその音を堪能したいから。

 

 

これは、演奏じゃない。

 

 

語っている。

レイが、語っている。

低音が沈み、右手の旋律がひとすじ、光を差す。

その音は、あまりにも繊細で。

あかねの喉が、ひくりと鳴る。

 

 

「(……綺麗)」

 

 

心の中で呟く。

ぴえヨンなのに。

ふざける様に見える筈なのに。

 

どうしてこんなにも神聖なのか。

 

 

舞台袖では、ミヤコも小さく頷く。

打ち合わせは完璧だった。

段取りも、カメラ割りも、観光PRのナレーション挿入ポイントも。エキストラも。

 

 

だが今は、どれも不要に思えるから不思議だ。

彼が奏でる音が、全部を持っていくのだから。

旋律はやがて、完全な静寂へと向かう。

 

洞窟の奥。

閉ざされた世界。

誰もいない闇。

そこで、最後の一音が落ちた。

 

 

――沈黙。

 

 

水の音が戻る。

川が、また流れ出す。

だが、誰もすぐには拍手できない。

ぴえヨン姿の男は動かない。

 

うつむいたまま、鍵盤に指を置いたまま。

それはまるで本当に、岩戸の中にいるかのように。

あかねの胸が、強く打つ。

 

 

「(レイくん……、レイくん、レイくん……!)」

 

 

声に出せない。今は仕事中だ。邪魔してはいけない。けれど。叫びたい。大きな声で叫びたい。

 

もう一音でいい。

もう一度だけ、あの光を。

そう願ってしまう自分がいる。

 

 

ぴえヨンの仮面が、わずかに上を向く。

そして。

右手が、そっと持ち上がった。

光が来る。

――次の瞬間、

鍵盤に落ちるその一音が、また世界を変えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ミヤコは、身悶えてるあかねを、懸命に堪らえてるあかねを尻目に、薄っすらと滲む目尻を拭う。

 

 

 

──……ああ、そうだった。 この子は、こうやって人を攫うんだった。

 

 

 

今更、思い出したかのように、連想させるのはアイの姿。

かつてトップアイドルとして、人々を惹きつけたあの姿。

アイは彼女にしか出せない強烈な引力、光で、ドームの全てを、観客を包み込んだ。

 

そして世界を丸ごと味方につけるように笑っていた。

 

 

 

でも――同じようで、レイは違う。

 

 

 

誰もが目を奪われるわけじゃない。

ただただ静かに、音を心に落としていく。

気づけば、誰の心にも触れている。音で全てを。

 

 

──気づいた時には……攫ってる。音に惹かれた者たちの心を。

 

 

わかりやすい事例で言えば、隣のあかねもそうだ。

彼女もまた、魅入られた側だと言っていい。それも重度のもの。

そして同列と言えるのは不知火フリルもまたその一人。

音に導かれ、惹かれて、そして近付いてきた。音という光に導かれて。

 

 

「新しい夢────見ちゃったかも、ね」

 

 

夢は叶った。

ドームをサイリウムで染めると言う夢。

苺プロとして、壱護と共に見たあの夢は、叶えられた。

その後は燃え尽き症候群に……とはならず、その後も忙しく忙しく、仕事も途切れず大変だったが……新たな夢として、明確に輪郭を持つことはなかったかも知れない。

 

 

 

 

でも、今はっきりと見えた気がした。

 

 

 

あの時のサイリウムの海ではない。

 

 

 

 

 

【静まり返った5万人の呼吸】

 

 

 

 

 

それもまた、“ドームを支配する”ということ。アイとは違う。似て非なるもの。

 

 

 

その光景を────見てみたい。

 

 

 

そう渇望した瞬間だった。

 

 

 

 

 

「……観てる?」

『……ああ』

 

 

スマホ越しで観ていた者はまだ居る。

そう、レイの親の一人である壱護だ。時間の都合上、来れなかったが、これでも親。腐っても親なのだ。見届けなければならない、と時間は守った。

 

食い入るように、観て、耳を澄ませて。

 

 

『……ぶっちゃけ、生で聴きたかった』

「違いないわね。……んじゃ、今すぐこっちに来る?」

『無茶言うな、と言いたいが……めちゃ複雑だよ』

 

 

初めてじゃないのに。

音は様々な色を魅せてくる。

 

神話を音で彩るように──────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして、烏もそれに魅入られる。

高千穂の空を旋回していた影が、ふと羽ばたきを止めた。かの大樹に羽休めをする。風を裂く音さえ、今は遠い。

 

 

「──────」

 

 

言葉にはならない。

だが、確かに何かを感じ取っている。

大樹に身を任せている少女もまた、それを見つめ、耳を澄ます。

夜と昼の狭間のような静かな横顔で。

 

 

「神への想いを、その音色に乗せて運ぶ──」

 

 

淡く零れた声は、風に溶けた。

高千穂の山々を渡る旋律は、どこか祈りに似ている。

天岩戸を閉ざした神を呼び戻すような、

遠い神代をなぞる響き。

 

 

少女はそっと目を閉じる。

 

 

その小さな身体が、音に預けられる。

心地よい。

確かに、美しい。

この世界に在る音としては、

限りなく澄んでいる。

 

 

「……だけど」

 

 

ゆっくりと、瞼が開く。

黒い瞳が、まっすぐに音の源泉を射抜いた。

その奥には、夜よりも深い何かが揺れている。

旋律は歪んでいない。

指先も、音も、祈りも。

だが──

 

 

 

 

 

────歪んでいる。

 

 

 

 

 

 

神を想い、神話をなぞり、

この地に音を響かせると言うのに。

皮肉だね、と少女は思う。

 

 

 

「知るべき事があるよ。────君には」

 

 

 

一陣の風とともに、ただ、その音だけが何も知らぬまま空へと昇っていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

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