認めない子 作:アイらゔU
観光の時間は、あの温かな時間はもう遥か遠く感じる。
あんなにも充実していたのに、今はまるでいつの間にか終わっていた。気付けば取り残されてしまっていた。そんな感覚だった。
宿から外へ歩を進める。
その途中で街の賑わいは静かに途切れ、残されたのは遠くで流れる川の音と、まだ沈みきらない光だけだった。時間としては夕方にも満たないはずなのに、空気の質だけが一歩先の時間帯へ移り込んでしまったようで、足を止めて振り返れば、先刻までいた場所が少し遠いものに変わってしまったような感覚さえある。
そんな中でレイは歩いていた。
どこへ向かうのか、それを言葉にして決めたわけではない。残してもいない。
ただ……一つ言えるのはここの土地についてはひょっとしたら現地の人より詳しいかもしれないと言う所だろうか。
多分──入念な下準備をしてきたであろうあのあかねよりも。
歩を進める。そしてスマホに視線を一度窶した。
レイは、ここへ来ることが決まったその時から────否、もういつからだったか定かではないが、ずっとずっと前から調べていた。いつかこの日が来ると何処かで分かっていたかのように。
頭の中に描かれた地図を元に、時折スマホのマップアプリで補完しつつ、歩を進める。
それでも歩幅はまるで迷いのないものだった。速度も落ちない。
考えるよりも先に身体が進んでいる、と言うのが正しいかもしれない。
頭と身体が分離した様な、ただただ誘われる様に足だけが前へ前へと進んでいく。
その時、遠くでカラスが鳴いた。
カァ――。
カァ――。
カァ――。
少し間を置いて、別の場所からもう一羽。
さらに離れた空から重なるように鳴き声が続く。鳴く度にその声が、その羽音が重なり続ける。
気が付けば数羽どころではなかった。
無数の黒き影は重なり合い、空を舞う。
群れで移動しているのだろうか。いや、ここの上空をただただ旋回し続けているだけだった。
同じ場所をいつまでも。戻るでもなく、進むでもなく。普通なら少し不気味に感じてもおかしくない光景なのに、レイの耳にはそれが届かないかのよう。
嫌な音ではない、と言わんばかりに。いや、端から聞こえていないかのように、進む足を止めない。
体感にして数刻程、歩き続けるうちに、足元の感触が少しだけ変わる事に気付く。
舗装された道の気配が薄れ、代わりに地面の柔らかさが混じり始めていたのだ。
街の匂いが遠ざかり、代わりに湿った土の匂いが空気の中に溶けてくる。風が枝葉を揺らす音が、ようやく耳に届く距離まで近づいていた。振り返らなくてもわかる。背後の街の音は、もうほとんど届いていないがそれでもレイは立ち止まらない。
歩きながら何かを考えているわけでもない。
むしろ思考はどこか遠くに置き去りにされていて、空白のような静けさの中を身体だけが進んでいる。
まるで歩くという行為そのものが、今のレイの意識を保っているようだった。
カァ――。
またカラスが鳴く。
今度はより近い。空を見上げなくても、羽ばたきの気配がわかる距離だった。黒い影が一瞬だけ視界の端を横切る。けれどレイは特に気にする様子もなく、そのまま歩き続ける。
歩く。歩く。歩く。
一定の速さで続いていた足取りの中で、ふと気付く。さっきまで空を満たしていた鳴き声が、いつの間にか減っていることに。
もう一度鳴くかと思ったが、続かない。静かだった。残っているのは風の音だけで、それすらもどこか遠くに引いているように感じられる。まるで、どこかの境界線を越えたようだった。
空の明るさは変わっていない。
まだ日も落ちていない。それなのに、周囲の色だけが少し沈んで見える。山の影がゆっくりとこちらへ伸びてきているような、そんな感覚が足元からじわじわと広がってくる。それでもレイの足取りは変わることはない。ただ、進み続ける。
止まらない。迷わない。ただただ、進んでいく。
その途中で、不意に頬に何かが触れた。
冷たい感触だった。最初は風かと思ったが、違う。細く、一筋の何かが頬を伝って落ちていく。レイはそれを手で拭おうとはしなかった。それが何なのかを確かめることすらしなかった。
今はまだ、考える必要がないとでも思っているように。
街道から外れ、山の中へ、そして獣道しばらく進むと、木々の間に小さな空間が見えてきた。
自然の中に、ほんのわずかだけ形を持った場所。古びた石と、そこに絡む苔。
そして、ひっそりと佇む小さな祠。
かつて誰かが大切にしていた場所なのだろうと、見ればわかる。苔や生い茂る草らを鑑みるに、今は人の手が入っている様子はない。
でもそこだけ空気の質が違っていた。静かというより、何かを待っているような静けさだった。
レイはそこで漸く歩くのを辞めて立ち止まる。
理由はわからない。
ただ、ここで止まることが自然だと感じたからだった。ここが終着点だと感じたから。
視界がまた少しだけ揺れる。山道のせいでも疲れでもない。焦点がうまく合わないのだ。空気がゆっくりと歪んでいるようで、時間の流れがほんの少しだけ遅くなっているような錯覚すらある。
祠の向こう側には木々が密集している。そこはただの山森の奥で、何もない場所と言っていい。だから足を踏み込む人はそうそういやしない。
でも、なぜか視線がそこから離れない。枝葉の隙間、重なり合う影、その奥に何かがある気がしてならない。本来知っているわけがない。この地へ来たのは初めてなのだから。
見えているわけでもない。それでも、そこだと感じてしまう。
レイは止まっていた歩を再び前へ。
ゆっくりと祠の横へ歩み寄る。
その祠の裏。
その瞬間だった。
また一羽だけ、カラスが鳴いた。
カァ――。
それきり、また静かになる。山の空気が、ほんの一瞬だけ止まったようだった。祠の上に止まりただレイを観ているかの様に佇む。逃げる気配は一切ない。
だが、それを意に介さずレイは木々の奥を見つめていた。
そして、わずかに息を吸う。胸の奥に浮かび上がる感覚は、言葉にする前から形を持っていた。
ここから先へ進めば、もう戻れない。
もう戻ることは赦されない。
はっきりとした理由があるわけではないのに、その確信だけが妙に鮮明だった。それでも――関係ない。
足は、前へ出た。祠を横切り、まるでその祠が守っていたかの様に、洞窟は姿を表す
────そしてそこに、
最初の瞬間、理解が遅れたわけではない。
むしろ逆だった。理解してしまったからこそ、視線がそこに縫い止められたまま動かなくなったのだと思う。頭の中で言葉になるよりも先に、身体のどこか深い場所が、魂が先に「知ってしまった」ような、そんな感覚があった。
風はほとんど吹いていなかった。
木々の葉が触れ合う音もなく、さっきまで聞こえていたはずのカラスの声も、いつの間にか消えている。山の中にいるはずなのに、不自然なほど音が無い。静寂というより、音そのものが遠くへ退いてしまったような感覚だった。
その中で、小さく短い間隔の自分の呼吸だけが妙に近く感じられる。
浅く、更に浅く。気づいた時には、極端に息が短くなっていた。
胸の奥に何かが沈んでいる。
重たいものが、ゆっくりと、確実に沈み込んでいくような感覚。
視線を逸らそうとする意思が、ほんの一瞬だけ浮かぶ。しかし次の瞬間には、それすらも消えていた。逸らす理由も、逸らす意味も、もう残っていないような気がしたからだ。足は動かない。地面に固定されたみたいに、その場から一歩も動けない。
時間が伸びる。
一秒が長くなる。
三秒なのか、十秒なのか、あるいはもっと長かったのかもしれない。
感覚としてはどれも同じだった。時間が進んでいるのかどうかさえ、よくわからない。
ただ、そこにある。
ずっと、そこにあったかのように。
「……ごめんなさい」
不意に声が聞こえた。それが自分のものだと気づくのにもまた、時を要する。
きっと自分で言おうとしたわけではない。言葉が口から滑り落ちた、という方が近い。止める間もなく、自然に、当たり前みたいに出てきた。
――それは一体何に対して謝ってる?
問いが浮かぶ。
誰かの声ではない。外から聞こえたわけでもない。それでも、確かにそこにあった。
答えは出ない。
けれど、言葉だけは続く。
視界が少し揺れる。地面がわずかに歪んで見える。遠くなったり、近づいたりする感覚が、ゆっくりと繰り返される。
「……ごめんなさい」
胸の奥が軋む。
痛みというほど鋭くはない。けれど確実に、何かが擦れているような感覚があった。言葉と一緒に、胸の奥から何かが外へ押し出されていく。
――なぜ謝る必要がある?
そうかもしれない、と思う。
本当にそうだ。
自分には関係なんてない。
関わる理由もない。
だって初めてきた場所だから。
知らない人だから。
生まれて間もない頃の人故に、当然会ったこともあるわけがない。
遺伝的な繋がりだって、無い。血縁をどれだけ遡ろうとも、接点は一切ない。
それでも。どうしても、言葉が止まらない。
「……ごめんなさい」
その時、頬を何かが伝うのを感じた。
冷たいのかどうか、よくわからない。ただ、流れているという感覚だけがある。ゆっくりと頬をなぞって、顎の先から落ちた。
音は無かった。
けれど、確かに落ちたとわかった。
視界の輪郭が、少しだけ滲み始める。そして、堪らえきれなかったかの様に、膝がガクッと折れ地に膝を付いてしまった。
――その思考、それは傲慢、ではないのか?
胸の奥がわずかに揺れる。
言葉の意味を考える前に、また口が動く。
──……ごめんなさい
声が小さくなる。
それでも止まらない。
頬を伝うものが増えていく。
いつから流れていたのか、わからない。気づく前から続いていたみたいに、自然にそこにあった。
息を吸う。
うまく吸えない。
肺の奥まで空気が入るはずなのに、どこかで詰まる。胸が締め付けられるような感覚が広がる。
視線が、ほんの少し下がる。
目の前の光景が、さっきよりも近く感じられる。
そこにある。
変わらず、ずっと。
時間の外側に置かれたみたいに、何も変わらないままそこにある。
――まさかとは思うが。自分は全てを救える神にでもなったつもりだったのか?
胸の奥が大きく揺れる。
強く。
深く。
違う、と頭のどこかで思う。
そんなつもりはない。
そんなことを考えたわけじゃない。
それでも。
それでも、どうして。
どうして。
言葉が出てしまう。何度も何度も謝罪の言葉が。
声も、喉も、呼吸も。
肩がわずかに揺れているのが、自分でもわかる。
止めようとする。
止められない。
視界が歪む。
世界の輪郭が、ゆっくり崩れる。
それでも目は逸らさない。逸らせない。そこから離れたら、何かが壊れる気がした。
胸の奥から、また何かがこぼれる。
言葉より先に。
形の無い感情が、ただ外へ流れ出ていた。
かつてはヒトだった
どれだけ、経っただろうか?
沈黙が続く。沈黙が静寂が、痛い。
どれくらい時間が経ったのか、まったくわからない。数秒なのかもしれないし、数分だったのかもしれない。次元の狭間に迷い込んでしまうような感覚が曖昧で、定かではなかった。
ただそこに立っている。
同じ場所で。
同じ光景の前で。
頬を伝うものが止まらない。
――それはなんの涙だ?
この時初めて気づいた。
ああ。
そっか。
これ、涙だったんだ。
遅れて理解が追いつく。ずっとずっと、頬に感じていたそれの正体は涙だったんだと初めて気付いた。
今までただ流れていただけのものに、ようやく名前がついた。
身体ではなく、心が、いやもっと奥──魂が悲鳴を上げていたんだと。
「……行きましょう」
レイはゆっくりと立ち上がった。
もう15年もこんな暗い場所で居たんだから。誰にも見つけてもらえず、こんな暗く寂しい場所に閉じ込められていたんだから。
もう魂のない、かつて器だった【モノ】なのかもしれない。
「外へ、行きましょう。……日の当たる場所へ」
レイは涙を拭いそう呟くとスマホを取り出した。
微かに震える手をどうにか動かし、110番へと繋げるのだった。
どれくらいの時間、通話をしていたのか。
警察との通話を切ったあとも、耳の奥に機械的な音声が残っている気がした。
続いて、レイの頭の中では夏樹と話が思い出されている。
以前、夏樹に聞いた事だ。
──何もすべてがニュースになるわけじゃない。
──日本では毎日、何人もの人が亡くなっている。
──事件でも事故でも病気でも。
だから――
【報道されるかどうかは別の話だ】
【それにもっと大きな事件があれば、そちらが優先され、報じられない可能性だって高い。悲しいかな、生き死により数字を求める傾向があるからな】
そして何度も何度も浮かんでは消えるのが、
そして……その笑顔が絶望に染まり、涙する姿。
知る権利は誰にでも在るはずだとは分かっている。そして──真実を知らなければ、永遠にその影を追い続ける未来となってしまう可能性も……ある。
何が正しかったのだろう?
自分勝手な判断は、全て間違いだったのか?
でも、どうしても──────
『
その思いが……あまりにも強過ぎた。
そして、この地へ向かうと決まった時から。
否────仕事が予定以上早くに終わったあの瞬間から、もう溢れて止められなかったから。
位置情報は送信されている。
GPSも最初からオンにしてある。
確かに山の中でも、完全に孤立しているわけじゃない。狭いが道もそれなりには出来ている。入ってくる分には問題ないだろう。流石に車両は難しいかと思うが。
頭では理解しているのに、どうにも現実感が薄い。
心の中でずっと残っていたしこりが取れた様な感覚もある。
スマートフォンを握りしめたまま、レイは一度だけ後ろを振り返る。
もう薄暗くなってきている森の奥。
木々の隙間や何かを守る様に設置された祠。
さっきまで立っていた場所。
そこには、もう一人では戻らないと決めている。一人ではどうしょうもない。一刻でも早くに外へと言う気持ちは強い。でも、出来ないものは出来ない。触れることもしてはいけないのだから。
レイは息を吸う。
胸の奥が少し痛い。
でも、歩かなきゃいけない。……歩ける。
警察が来る。
その前に、誘導できる場所に出なければならないから、ゆっくりと歩き出した。
最初の一歩は、思ったよりも不安定だった。
足が、地面の感触を確かめるみたいに遅れる。
膝の力が抜けそうになるのを、なんとかこらえる。
歩く。
さっきまでの場所は、道と呼べるほど整備されてはいないが、完全な獣道でもなかった。人が入ってくることを前提にしているような、曖昧な幅のある道だった。
落ち葉を踏む音がやけに響く。
少し進むと、やがて視界が開ける。
舗装された道が見えた。
県道に戻ってきた。
山を縫うように続く、車がすれ違える程度の幅のある道路。
ようやく、人の世界に戻ってきた気さえした。
レイはその場で一度足を止める。
肩で息をしていた。
呼吸が乱れていることに、今さら気づく。
その時だった。
スマートフォンが震えた。
着信。
表示された名前を見た瞬間、レイは小さく息を吐いた。
【ミヤコ母さん】
やっぱり、電話が来た。
警察へ連絡の後に、皆にもメッセージを送信したよだから、当然だ。
レイは数秒だけ迷ってから、通話ボタンを押した。
「……もしもし」
少し間があってから、声が飛んできた。
『レイ!? どういうこと!? 今どこにいるの!』
完全に焦りと怒りと不安が混ざった声。
また迷惑を……と罪悪感に苛まれるが、今回は許してほしい。そう念じながらレイは目を閉じる。
「……大丈夫です」
自分でも、少し変な声だと思った。
落ち着いているのか、疲れているのか、よく分からない声だった。
『大丈夫!? それで納得できるわけないでしょ! 警察って何!? 事件!? 何かに巻き込まれたの!?』
「………………」
短い沈黙が流れる。
風の音だけが耳に入る。
暗くなりかけた空。
山の稜線。
言葉を選ぶ余裕は、あまりなかったが、レイは説明をした。本当に散歩だけだった。直ぐに帰るつもりだった。でも、物珍しさに日が続く限り、色々と歩いて散策していたら……見つけてしまったんだと。
人の遺体を、見つけてしまった
電話の向こうが、完全に静かになる。
「……だから大丈夫なんです。今、警察に通報しました。位置も送ってます。県道に出たので、多分すぐ来ます。一般人の義務、しっかりと果たしますよ」
しばらく、ミヤコは何も返ってこなかった。
巻き込まれ体質だとは思っていたが、今回のはどう捉えれば良いだろうか? と頭が痛くなる。ただ、何らかの事件の解決に導いたのが、レイの行動による結果になると言うのなら、少なからず誇らしい。けど、それ以上に心配させるな! と言う気持ちが強い。──────それから。
『……事態は把握したわ。レイはそこ、動かないで』
ミヤコはそう言うがレイからの返事は遅い。
なので、釘を差すことにする。
『分かった?』
「はい」
『私も直ぐ行くから』
レイは少しだけ考えてから言った。
「……大丈夫ですよ。きっと直ぐに警察来ますから。送ってもらいます」
『それでも行くの。寧ろ警察が来るからそこへ行くの。聴取とか手続きとか、色々あるんだから』
即答だった。
レイは少しだけ笑いそうになった。そうだ。警察に見つけてもらってそれで終わりになる訳がない。見つけて、ある程度の区切りがついたのは自分の心の内、魂の内だけであり、ここから第一発見者として色々と話をしなければならないのだから。
「……分かりました」
通話が切れる。
その直後だった。
遠くから、足音が聞こえたのは。
最初は、風の音かと思ったが、それは違った。
誰かが走ってくる音だった。サイレンの音もまだ聞こえないのに、誰かが駆けてくるような主にレイは顔を上げる。
県道のカーブの向こう。
そこから姿を現したのは──
手を大きく振ってる人物。
あかねだった。
少し息を切らしている。
でも走ってきたわりには、目が冷静だった。
数歩の距離まで近づいて、止まる。
そして。
「……レイくん!」
それだけだった。
質問も、驚きも、責める言葉もない。
ただ、名前を呼んだ。
その声を聞いた瞬間。
レイの中で、何かが少しだけ崩れた。
今まで無理やり抑えていた感情が、ほんの少しだけ揺れる。レイは視線を逸らした。
「……早いね。それにどうしてここが?」
あかねは少しだけ息を整えてから言う。
「位置、見えたから。見てたから」
それから少しだけ間を置く。
「あと……」
言葉を選ぶように、わずかに考えて。
「なんか、レイくんのことが、気になって」
それだけだった。
それ以上は言わない。
問い詰めない。
推理もしない。
ただ、そこに立っている。
レイはしばらく何も言わなかった。
道路の向こうから、遠くにサイレンの音が聞こえ始めるが、まだ遠い。でも確実に、近づいてくる音だった。その音を聞きながら、あかねはほんの少しだけレイの顔を観察していた。
そして心の中で、いくつかの仮説が浮かんでいた。
ただし、どれも不確定要素が多すぎて、まだ確信には届かない。沢山レイの事を考えてレイの事を観てきた筈なのに、表層しか見えないんだから。
だから、口には出さない。
もしかしたら、本当に全部、ただの偶然という見方もできる。出ていく時気になったのは事実だけど、全てが偶然の産物だと。
……でも。
やはり何かが、引っかかっていた。
静かに。確実に。
その後は、要点だけ伝えると、それ以上は多くは語らず。あかねはずっと傍にいてくれた。
あかね自身もレイの姿と状況を頭の中で整理し組み立て、そして今はただ傍に寄り添うことが重要だと即座に判断した。
言葉の節々に震えが見られる。
発汗と息遣い。
涙を見て慌ててあかねは拭うがレイは泣いてる事に気付いてない様だった。
急性ストレス反応または軽い解離状態。
自己診断の結果である。勿論ちゃんと専門のところで診てもらうのが一番だ。
だけど、今は難しい。状況的にも。
だから暫く寄り添う形で、警察とミヤコを待ち続けるのだった。
そして暫くした後。
パトカーのサイレンは、最後の方になると音を落としていた。
山道に入り込んだあたりで、赤色灯だけが静かに回っている。
遠くからでも分かる光だった。
夜の空気を裂くように、ゆっくりと車が近づいてくる。
レイとあかねは県道の脇に立っていた。山から下りてきたとはいえ、完全に開けた場所ではない。街灯もまばらで、暗い。それでも車両が入れるだけの幅はある。
ここなら誘導できる。
そう思って、ここまで歩いてきた。
足元の感覚は、まだどこか現実味が薄かった。
地面を踏んでいるはずなのに、体重がちゃんとかかっているのか分からない。
パトカーが止まる。
ドアが開く音。
複数の足音。
警察官が二人、こちらへ歩いてきた。
ライトが一度、レイの足元から顔へと向けられる。
「通報された方ですか?」
落ち着いた声だった。
レイは頷く。
「……はい。通報したのは、僕です」
自分の声が、思ったより掠れていた。
警察官の一人が、軽く視線を合わせてから頷く。
「ありがとうございます。大丈夫ですか?」
その言葉に、ほんの一瞬だけ返答が遅れた。
大丈夫か。
その意味を考えるのに、少し時間がかかった。
体のことなのか。
それとも、別の意味なのか。
「……大丈夫です」
嘘ではない。
本当でもない。
その中間のような返事だった。
警察官は、レイの返答を深く追及することはしなかった。一度だけ様子を見るように目を細め、それから手元の端末に何かを入力する。
事件でも事故でも、まず記録が残る。
どんな出来事も、最初はこうして事務的に始まるのだろう。
レイはぼんやりとそんなことを考えていた。
もう一人の警察官の視線が、隣へと向く。
あかねだった。彼女は少しだけ前に出て、軽く頭を下げた。落ち着いた動作だったが、完全に平静というわけでもない。
状況を理解しようとしている人間特有の、わずかな緊張があった。
警察官が、簡単に状況を確認する。
〇同行者なのか。
〇通報の経緯は。
〇発見したのは誰か。
質問は淡々としている。
声のトーンも変わらない。
ただ必要な順序で確認しているだけだった。
そのやり取りを、レイは半歩ほど後ろから聞いていた。耳には入っている。意味も理解できる。
けれど、どこか遠くに感じるのもまた事実。
さっきまで山の中にいた時間の方が、現実だったような感覚がまだ残っている。
警察官の一人が、改めてレイへ視線を向けた。
発見場所の確認だった。
〇どこから山へ入ったのか。
〇どのあたりで見つけたのか。
〇道は分かるか。
答えながら、自分の言葉を自分で追いかける。
さっき通ってきた道を説明しているはずなのに、どこか他人の出来事のように感じる。
それでも、説明はできた。
目印になるもの。
分かれ道。
そして祠の位置。
断片的ではあるが、必要な情報は伝わったらしい。
警察官は頷くと、短く無線で連絡を入れる。
応援の車両が来るらしい。
山に入る準備も必要になる。
これで、良いんだ。
皆が見つけてくれる。皆が連れて行ってくれる。
──良かった。
ふと、肩に軽く触れる感覚があった。
あかねだった。
触れるというより、確認するような距離だった。
無理に支えるわけでもなく、ただそこにいると伝える程度の接触。そのさりげなさが、逆に現実を強くした。
レイは少しだけ呼吸を整える。
山の冷たい空気が肺に入る。
頭が少しだけはっきりする。
警察官の一人が言う。現場まで案内できるかどうか、無論無理なら後からでも大丈夫だと。
その言葉に、レイは一瞬だけ考えた。
確かにまだ不安定だったと言える。
けれど――
ここまで来て、任せきりにはできないから、レイは頷いた。
その動きを見て、警察官が短く了解を返す。
それ以上、無理はさせないという距離感だった。
すぐに、もう一台のパトカーが到着する。
赤色灯が増え、周囲の暗さが少しだけ薄れ、山の入り口が、現場のような空気に変わっていく。
テープこそまだ張られていないが、空気が違い、誰も大きな声を出さない。
動きは速いのに、妙に静かにさえ思えた。
その後はミヤコも到着。
レイを見つけるなり、思い切り抱きついた。
「あなたは何も悪くない。レイは悪くない。分かってる。頭では分かってる。寧ろ正しいことをしたんだって、貢献したんだって分かってる。……でも」
ミヤコの声は震えている様だった。
その後に続く言葉。
【お願いだから心配かけさせないで】
心の奥深くに、突き刺さる言葉だった。
次回は、ようやくそろそろ例の幼女が出てくるかもです。