認めない子 作:アイらゔU
頑張ります!
宿へ戻る道すがら、夜の空気は静かだった。
観光地の喧騒も、昼間ほどではない。
それでもどこか現実味が薄く感じるのは、ほんの数時間前まで警察署にいたからなのか、それとも――あの場所で見たもののせいなのか。
ミヤコは車を回しつつ、自身の肩も小さく回しながらぽつりと言った。
「まさか、順調過ぎってレベルの仕事だった筈なのに、最後の最後でこんなのに巻き込まれるなんて……ね。あかねさんも、ごめんなさい。こっちの事情に巻き込んでしまって」
当初の想定以上早くコラボ案件が終了し、余った時間を観光で締めくくりになるはずだった。
なのに、どこで何が起きたと言うのか、気が付けば警察署の事情聴取に費やされ、慣れない空気の中で同じ出来事を何度も説明することになったのだから、苦笑いが混じるのも無理はない。
助手席に静かに佇んでいたあかねは小さく答える。
「いえ、私は大丈夫です。ここに来たのは最初から最後まで私自身の意思ですから」
だがその声には、まだまだ余韻が残っている様だった。寧ろずっとレイに付き添いたかったし、付き添うつもりだったのだ。謝罪される必要は皆無なのだ。
「……そう、ね。ならこの場合は謝罪よりも、感謝の方が良いかしら。どうもありがとう」
「はい。……あ、いえ。本当になんでもなくて……」
短いやり取りのあと、二人の間に少しだけ静かな空気が落ちる。
今日の出来事は、あまりにも現実味がなかった。
目を離した少しの間でまさかレイが遺体を発見し、警察沙汰になるなんてそんなの現実味がある訳がない。
神話世界を彩るレイの音、その世界に浸っていたら、気付けば現実世界に、それもサスペンス彩るおどろおどろしい世界へ引きずり込まれた、と言って良い。
しかし随分な扱いではないか? あんなに神を想い、その音に乗せて奏でたと言うのに。これが返礼なのだとしたら、随分と神は悪趣味も良いところだ。
或いは、その神とやらが、あの演奏で神性を帯びたレイにあの遺体を見つけて欲しかった、とでも言うのか。
勘弁願いたい。ミヤコとしては、親としてはあの子の技量は確かに神掛かっていると言えるが、それでも中身は子供。心優しい自慢の息子なのだから。
──これ以上、あの子を傷付けないで欲しいから。
少し現実逃避をした。
だけど、警察署での事情聴取があった事実と、極度の疲労感。観光で疲れたと言うのは心地良い疲労感だが、これは全く違うものだ。
本当に頭が痛くなる件。何の非も無いからこそ、余計に痛く感じてしまい、それが現実逃避したくても強制的に現実へ引き戻してしまうのだ。
何度も思い返す。
机越しの質問。
記録を取る音。
何度も確認される時間の流れ。
そして、万が一を見逃さない様な見えない圧力とその視線の鋭さ。言葉には出してないが感じられる圧力。
扱い的にはほぼ観光客として偶然居合わせただけとはいえ、レイが第一発見者、傍にいたあかねも遺体こそ見てないがそれに近い立場だった為、レイとほぼ同じ扱いを受け、細かい確認が続くのは当然だった。
「……あの子は」
ミヤコがぽつりと言う。
「頑張ってたわ」
言うまでもない事だ。今日までの仕事もそう。プロとして最後まで完璧に仕上げたのだ。
そして、今も……頑張ってる。だから、もっと報われても良い筈なんだ。もっと……。
そんなミヤコの心情、言葉の奥底にあるモノを感じてか、或いは別の意味もあるのか、あかねも静かに頷いた。
「はい。……レイ君は凄い人ですから」
あの後のレイは基本的には落ち着いていた。
受け答えもはっきりしていたし、警察官の質問にもきちんと答えていた。
だが、それでも、完全に平静だったわけではない。
質問の途中で、ふと視線が止まる瞬間があった。
ほんの一瞬、呼吸が浅くなる。
そしてすぐに、何事もなかったかのように戻る。
それを、2人は見逃していない。そしてそのトリガーが何なのか、あかねは見抜いていた。
──今回発見した人の話題、そしてその名前、それらのワードが上がる度に、強く反応を見せるのだ。
それもレイ本人に聞かせたものでは無く、周囲から上がる声が、少しでも入ってきたら、強く反応する。
最初はまだ良かった。
だが、大量の発汗もあり、それに知らないところでは嘔吐したらしい。それでもミヤコやあかねには知られまい、と気丈に振る舞っていた。
「相当……無理してた」
ミヤコは確信を持って言う。
当然だ。自分の息子の事がわからない母親なんかいやしない。……少なくとも、自分はそんなものは母親と、家族と認めていない。
「……はい」
あかねも同じ判断だった。
事情聴取も終盤。
警察官が終わりを告げて部屋から出た後のことだった。
──気の毒にな……。
──状況的に10年以上放置されてたって事か。
──事件性無し、で片付けてなけりゃもっと早く見つかっていたかもしれないのに。
誰かの会話が、聞こえてきた。
それがまるで合図だったかのよう。今回は耐える事が出来ずに、激しく咳き込む。
身体のそこから込み上げてくるモノと懸命にレイは戦い、あかねやミヤコ、そして警察側からも何人か駆けつけてきたが、レイは何とか振り絞るように【大丈夫】とただただ言った。
そんな訳がない。大丈夫な訳がない。
身体が震え、指先までも震えている。
聴取の際に何度も見られた傾向がより大きく、顕著に現れていたのだから。間違いなく悪化していると判断できる。
「レイは、ああいうの隠すの上手いタイプ。皆に心配を掛けたくないから、って。でも今回はそんな上手くいかなかったのね。……無理をする所もいつも変わってない」
ミヤコが言う。
芸能界で多くの若いタレントを見てきた経験、そして如何にある意味特殊な人物と言えるレイだが、親として長く共にいたからこそわかる。
「はい……」
あかねも同意するように頷いた。
最初に会って、暫く話をして……レイは落ち着いてきている、と思っていた。
寧ろ、最初から一貫して周囲を安心させるように振る舞っていたようにも見えた。
だが、それが逆に分かってしまう。
──限界に近い人のやり方。
あかねは顔を背ける。
これは今ガチの時とはまた違う。全然違うレイの姿に、動揺が隠せないようだった。
そして、あの場面。
事情聴取が終わったあと。
警察側が一応、体調について確認した時のことだ。
レイは何度も【大丈夫】と言っていた。
【帰れます】とも。
けれどミヤコは、その場で即座に思った。
『無理はさせられない』
そこで婦警が提案してくれたのが、宮崎総合病院の心療内科への受診だった。
時間的にも今は大丈夫との事。
それに病院は警察署からも近い。故にこの手の案件は幾つもあり、ホットラインは出来上がっているのだ。
ミヤコは即断した。
そして有無を言わせない声で、レイに言いつけた。
レイは一瞬、困ったように笑った。
それでも大丈夫だと言いかけたが――。
『ダメ。聞きなさい』
その一言で、話は終わったのである。
「正直、あの時は半分、強制だったわね」
ミヤコは苦笑した。
「でも、正解だったと思います」
あかねも肯定するに言う。
実際、事情聴取が終わって病院へ向かう時、レイの様子は崩れていた。
その後はミヤコの車で病院へ行き、診察を受けた。
結果は
震えや大量の発汗、嘔吐、呼吸の乱れ……全てがレイに当てはまる事であり、脳が自分の身を守るための防衛反応な故にこれは仕方がない事だとの事。
まだまだ子供。高校生の子供が突然白骨遺体を目の当たりにしたのだからある意味当然の反応だとの事。
病院に来た当初は特に症状が少し強かったため、一晩病院で様子を見る事に決まった。
対処療法をした後は良くなった、とレイは主張していたが―――当然ながら却下である。
ミヤコに、母に睨まれる以上は有無を言わせてくれないのは当然だ。少なくともこの手の案件は。
と言う訳で、明日の朝もう一度評価する事になった。
「……あの子、今は落ち着いてるといいけど。帰りたいって言う所を見るとやっぱりまだまだ子供だって思ったりするわね」
ミヤコが呟く。
レイは色々と規格外なところがあるから忘れがちになるが、まだ高校1年生の16歳なのだ。
あかねは、少しだけ笑うと。
「明日、直ぐに迎えに行きましょうね。私もお手伝いします」
「そうね、ありがとう」
そして、ミヤコ達も目的地へと到着。宿泊施設である。
当初は、一緒に病院に付きっ切りにしようか? とも考えていたが、状態は安定しているし、帰らせる事はしないまでも、保護者同伴で泊まる必要までは無い、との事だった。
車を降り、宿へ向かう道を歩きながら、あかねの思考は別の方向へ向かっていた。
それは車内で、ミヤコとの会話中もずっと考えていた事だ。
警察署での事情聴取。
そして、レイの様子。
頭の中で、断片的な情報が静かに並び始める。
──やっぱり違和感がある。
あかねの脳裏にあの時のレイの顔が浮かぶ。
取り乱していた。
でも、それは単純な恐怖とは少し違っていた。
──あの時のレイくんの反応。
山中にて遺体を発見してしまった。
確かに普通なら、それだけで十分説明がつく。
高校生が、突然あんな状況に遭遇したのだから当然の反応で、医師も同様な意見だった。
けど……あかねの中には違和感として残りすぎている。
──遺体を見たショック……だけじゃないと思う。
警察官の説明も思い出す。
あの遺体の身元の確認。
15年前に失踪していた医師。
つまり、あの死者は10年以上前の人物だという事。
名は雨宮吾郎。
その名前を聞いた時のレイの反応。特に強く反応したように見えた。体感故に絶対とは言えないが、少なくとも違和感を覚えるレベルには引っ掛かった。
そう、あれが、どうしても引っかかるのだ。
──むしろ逆。
普通は、情報が増えるほど落ち着く。
状況が理解できるから。
だけど、レイは違った。
あの名前が出た瞬間、明らかに空気が変わった。
──感情が強すぎる。
ショック。
恐怖。
混乱。
色々と当てはまる言葉はある。……だが、そういう言葉だけでは頭の中では説明できなかったし、納得も出来なかった。
もっと深い、何か別の感情が混ざっていた気がするからだ。
あかねは歩きながら、ほんの少しだけ視線を下げる。
地面を見ているようで、実際には記憶の中を見ていた。
レイは、基本的に冷静な人間だ。
年齢に対して落ち着きすぎているくらいに。
それは、自分自身がよくわかっている。今ガチの恋愛リアリティショーでの騒動、大事件の時に見ているから。
今日だって、警察官とのやり取り自体は問題なかった。
受け答えもはっきりしていたし、混乱している様子も表面上は少なかった。
なのに。
──でも、突然発作を起こしたみたいだった。
呼吸が乱れていた。
大量の発汗と嘔吐。
その視線は、どこか遠くを見ていたように思えた。近くに居るあかねやミヤコ、警察の方々。誰も見ていないような、遠くを、ずっと遠くを見ている様な瞳だった。
少なくとも、あかねの目にはそう映った。
役者として、人の感情を見る目には自信がある。
嘘を見抜くことも、ある程度は出来る。
だからこそ。
──あれは、本物の感情。
ただのASD、ショック反応。
PTSDの初期症状。
勿論診察通りのそういう説明も可能ではある。
でも、しっくりこない。
あかねの思考は自然と次の仮説へ進む。
──あの医師の名は確か……雨宮吾郎だって言ってたかな。
それは15年前に失踪していた人物。
そして、話を聞くと恐らくは他殺であるという事。
何人かの警察も、その可能性が高いと言っていた。
もし――――レイにとってあの人物が何か意味のある存在だったとしたら?
確かに話は繋がるし、違和感も拭う事が出来る。自分に近しい人物の死だとしたら、その衝撃は他人の遺体のそれとは格段にレベルが違うからだ。
あかねはその可能性を考える……が、しかし、すぐに首の中で否定が浮かんだ。
情報が足りない。圧倒的に。それでも少ない情報の中であっても、レイとあの医師の接点が見えないのだ。
年齢的にも土地的にも普通は関係がない。
レイの事は―――北斗レイの時からあかねは彼を追いかけている。だからこそ、ある程度の事はわかっているつもりだった。遠く離れた宮崎の地の雨宮と言う名と北斗の名は繋がりは一切なかった筈だった。
つまり今日初めて発見された遺体との関連性は無い。だからこそ警察はある程度の疑いは1%でも持っていたようだが、最終的には無関係であると断じた。
普通に考えれば、関係がある方がおかしい。
それでも。
──でも……。
完全には捨てきれない。
違和感が残る。
どうしても残る。
役者としての勘。
観察してきた時間。
そして、これまでのレイの言動。
どれを思い出しても、今回の反応は少しだけ異質だった。
あかねは小さく息を吐く。
──少し……調べる必要があるかもしれないね。
雨宮吾郎と言う名前だけは覚えておこうとあかねは思った。
今はあまり時間がない。宮崎にいられる時間も限られているから。
そして何より、自分が迷惑をかけてしまっては本末転倒だからだ。
だからこの件を調べるなら、東京に戻ってからになるだろう。
精度は落ちるかもしれない。
それでも、何もしないよりはいい。レイを支える為に必要な情報だと思うから。
ただ――。
──今はまだ、分からない。これ以上はどうしても無理。
思考はそこまで進んで、止まる。
仮説でも良いから、と考えたがそれでも結論には届かない。
材料が少なすぎる。
推理として成立させるには、決定的に不足しているから当然だ。
仮説を積み上げるのは、根拠の薄い想像、妄想に過ぎない。これをそんなモノに委ねて良いとは思えないのだ。
「(――アクア君にも伝えて……色々と手伝ってもらった方が良いかも)」
アクアがレイの事を想い、考え、そして行動をしているのはあかねにもわかっている。
アクアの事情に関しては情報の点と点を結び、ある程度の確立、成立が出来ている。だからこそ、あかねは信用出来るから打ち明ける事が出来るのだ。
言い方は少々乱暴になるが、監視するとまで言っているくらいに強い気持ちを持っているのだから、共有するのが筋だろう。
そう結論付けて、あかねは静かに目を細めたその時だった。
不意に、脳裏に言葉が浮かぶと同時にフラッシュバックする。
それは間違いなく楽しかった観光中でのやり取り。
『僕が嫌がることなんて、絶対にしないって信じてますから』
静かな声だった。強くもなく、弱くも無い。ただただ信頼を置いてくれているのが痛い程伝わる言葉だった。
それと同時に、再びフラッシュバックする。
少し前の病院でのやり取り。
涙をこらえきれない声。
取り繕う余裕も一切ない、必死の懇願。
『お願いします……、今日の事は、どうか秘密にして欲しい』
苺プロの皆には、いや、自分たち以外には秘密にしておいて欲しい、と瞳を涙で滲ませながら言われた。
最初はそれは違うと思っていた。
1人で抱え込む必要なんてないんだよ、と言いたかった。
皆がレイの事を思っている。
レイが心配を掛けたくない、迷惑かけたくない、と強く思うように、苺プロの皆だって間違いなくレイの事を大切に思っているのは間違いないから。寧ろ、迷惑をかけて欲しい。頼って欲しい、と思ってるに違いないんだと思っている。
この時、ミヤコも同様の意見だっただろう。
向こうにはアイが居る、アクアも居る、ルビーだって居る。頼りになるかどうかは取り敢えずおいてといて、──壱護だって居る。
だから、全員で乗り越えれば良い。1人で抱えて良い問題じゃないから、とミヤコはレイを説得しようとしたが、レイは頑なだった。
『お願い、します。……おかあさん』
力無く言うレイのその言葉に、先ほどまで懸命に堪えていた筈の全てを決壊させたかのように、懇願するレイの想いを無視する事が出来なかったんだ。
そして、レイは視線をあかねにも向けた。彼女にも願うように。
その眼をみたら、あかねはもう頷くしかない。
最後はミヤコも折れた。有無を言わせない親としての言葉は、この時ばかりは出せなかった。心配かけたくない、と言うレイの思いを汲むために。
今日の事は、全て胸に秘することを約束したのである。
つまり――――
「(………ダメ。アクアくんにも、言えないよね)」
あかねは、レイの助けになりたいと思っている。
助ける為に最善なのは……間違いなく周囲の力を借りる事。それが間違いなく良い。
でも、それをレイが望まないのだ。本当に複雑だったけれど、それで少しでもレイの事を守れるのであれば……そう判断せざるを得ないから。
ただ―――釘を刺す必要はあった。
『向こうに帰ってもレイの状態が悪いのであれば、隠し通せるものじゃないわよ? 黙ってたとして、……隠し通せたりする? 今のあなたで』
と言っていたミヤコの言葉もごもっともだ。
アクアもそうだが、アイもこの手に関しては勘が鋭い。色々と見抜いてくる可能性が極めて高いのだ。その場合は隠し続ける事なんてそう出来るものじゃない。
アイだって、アクアだって、家族なのだから。……ルビーにはバレないとはどこかで思ったりしているが。
そう言っていたミヤコに対して、レイは笑顔を見せた。泣き笑いの様な笑顔。
『大丈夫、だから。…ありがとうございます』
絶対に良くなりますから、とレイは告げるのだった。
「…………」
自分のすべき事は決まった。
あかねは心にそれを秘めると、考え過ぎるあまり、ミヤコと距離が離れてしまっていたので、足早に差を縮めるのだった。
大分、楽になった。
現在の時刻は──21:11
1人になり、落ち着くことが出来たからか、胸の奥にずっと張り付いていた重たいものが、少しだけ薄くなっているのに気づけた。
勿論、完全に消えたわけじゃない。
まだ、奥の方でじんわりと疼いている。
でも、さっきまでの状態と比べれば、明らかに違っていた。
息がしやすい。
心臓の鼓動が、耳元でうるさく鳴っていない。
指先の震えも、ほとんど収まっている。
これなら、多分明日の朝は大丈夫だろうと思える。
「……良かった」
明日が最終日だ。帰宅がそれ以降ともなると、説明をしなければならない。そうなったら……余計な嘘をつかなければならなくなる。黙っていてくれると、秘匿にすると言ってくれた以上、嘘に嘘を更に重ねてもらうのは心苦しかったからだ。
それにミヤコにも言われたが……アイのこの手の嘘を見抜く力は異様で異質だと分かっているから。
それでも────レイは黙っている道を選んだ。もしも、知られたらその時にまた考えるとしてる。ただ、責任を後回しにしただけなのかもしれないが、それでもこの期間では答えが出なかった。
神に祈り、得たかった勇気は……どうしても無理だったんだ。
レイは病室の天井をぼんやりと見上げ続ける。
白い天井。
蛍光灯の淡い光が、柔らかく反射している。
病院特有の、どこか現実感の薄い空間。
消毒液の匂いと、空調の微かな送風音。
それらが混ざり合って、妙に落ち着いた静けさを作り出していた。
「……でも、ほんと迷惑、かけちゃった」
流石のレイも、ここまで身体がマイナスに反応し、崩れるのは想定外だった、と小さく、誰に聞かせるでもなく呟く。
声は掠れていて、自分でも少し驚いた。
喉がまだ乾いている。
水を飲むのを忘れていたのかもしれない。
そして思い出すのは、今日の出来事。
どうしてもあのままにしたくなくて、先生の遺体を……発見した。
その後は警察署の硬い椅子。
机越しに差し込まれる視線。
何度も繰り返される同じ質問。
〇いつ発見したのか。
〇なぜその場所にいたのか。
〇何か変わったことはなかったか。
そして、先生のあの名前。
【雨宮吾郎】
身体が強く反応するきっかけとなる名。
今も尚、身体こそはもう大丈夫だが、その響きが耳に残って離れないのもまた事実だった。
そしてミヤコの表情。
心配と苛立ちと、諦めが混じったような顔だった。
あかねの様子。
心配する合間に静かに、でも鋭くこちらを見ていた瞳を覚えている。
そして――自分の情けない姿。
あそこまで取り乱すつもりなんて、全くなかったのに。
むしろ、最後まで平静でいるつもりだった。
頭を下げて、先生を見送るつもりでもあった。
でも、身体は、正直だった。
呼吸が浅くなり、汗が止まらなくなり、視界が一瞬歪み、胃の底から込み上げるものを必死に堪える自分がいた。
レイはゆっくりと目を閉じる。
胸の奥に、じわりと自己嫌悪が広がる。
また、皆に心配をかけた。
また、自分のせいで――。
アイの不安な姿が浮かぶ。
アクアの困ったような表情。
ルビーの泣きそうな顔。
かなの怒った顔。
あの日常を、こんなことで曇らせたくなかったのに。
そこまで考えた瞬間、レイは小さく首を横に振った。
「……こんな、考えは駄目。また怒られるから、絶対」
苦笑が漏れる。
ミヤコの顔が頭に浮かぶ。
あの時の声。有無を言わせない、あの一言。
『ダメ。聞きなさい』
思い出しただけで、少しだけ背筋が伸びる。
怒っているというより、心底心配している声だった。
それが余計に胸に刺さる。
あれをもう一度向けられるのは、正直きつい。
だから、これ以上落ち込むのはやめようと、そう決める。そう決めた。
だから、レイはゆっくりと身体を起こした。
ベッドのシーツが、微かに擦れる音がする。
身体の調子を確かめる。
さっきよりは、確実にかなり落ち着いている。
問題なく呼吸も、できている。
震えもない。
……少なくとも、表面上はいつも通りの自分の体だった。
ただ、病室の空気が、少しだけ重く感じる。
静かすぎるのかもしれない。
それとも、自分の意識がまだ落ち着ききっていないだけなのかもしれないが。
壁の時計の秒針が、カチカチと規則正しく進んでいる。
その音が、なぜか耳に残る。
レイは視線を窓の方へ向ける。
カーテンの隙間から、夜が見えていた。
暗い空が見える。
丘の上の病院の窓の外、遠くの街灯の光がキラキラと輝いて見える様だった。
風で少し揺れる木の影。
ガラス越しに、冷たい空気が伝わってくる気がした。
それを見ていると、レイは、ふと思った。
【少しだけ外の空気を吸いたい】
ほんの少しでいいから少し深呼吸をしたい。ただ、それだけで。白い壁と機械の音と、消毒液の匂いから、少しだけ離れたい。
ひとりで、静かに、風を感じたい。
そう思い至ると、レイはベッドから足を下ろす。
床に足が触れる感覚が、妙に現実的だった。
冷たいフローリングの感触が、足の裏に伝わる。
そして立ち上がる。
体調を確認する。
頭は大丈夫だった。長く横になっていたが、くらくらしたりは無い。だから視界が揺れない。
つまり問題はないと言うことだ。
──少なくとも、歩くくらいなら。
レイは静かに病室のドアへ向かった。
ドアノブに手をかける。
少しだけ躊躇う。
でも、胸の奥の疼きが、まだ消えていない。
このままベッドに横たわっていても、きっとまた同じことを考えてしまう。
廊下は静かだった。
夜の病院特有の空気。
遠くで、機械音がかすかに聞こえる。
ナースステーションの明かりが、柔らかく漏れていたのを見て、レイは少しだけ歩みを止める。
勝手に出るのは、流石にまずいだろう。
そう思って、歩み寄った。
「すみません」
声をかける。
看護師が顔を上げた。
少し眠たげな目が、レイに向けられる。
「どうしました?」
「少しだけ……外の空気、吸ってきてもいいですか」
看護師は一瞬だけレイを見て、体調を確認するように視線を向けた。
カルテをちらりと確認し、
そして、小さく頷く。
「夜遅いので、敷地内の遊歩道まででお願いしますね。何かあったらすぐ戻ってきてください。すぐ戻るなら大丈夫です」
「はい。ありがとうございます」
レイは軽く頭を下げた。
まさかこうもあっさりと許してくれるとは思って無かったから拍子抜けをした。無理なら諦めて戻るつもりだったから。
それだけのやり取りだった。でも、それで十分だった。
レイは病院の出口へ向かう。
自動ドアが静かに開く。夜の空気が、ゆっくりと流れ込んできた。
外に出た瞬間、ふっと、身体の奥の力が抜ける。
――空気が冷たい。でも、嫌じゃないかな。
むしろ心地良いとさえ思う。
だから、レイはゆっくりと息を吸った。
肺に入る空気が、妙に澄んでいる気がした。
消毒液の匂いが消え、代わりに土と木の匂いが混じる。
高千穂の夜の匂い。
山の匂い。
神話の匂い。
どれも嫌いじゃない。寧ろ好意的だった。
病院の横にある、小さな遊歩道に足を踏み入れる。街灯が一定間隔で並んでいて、今の時間では人の姿はない。
静かな夜だった。
レイはそのまま、ゆっくり歩き出す。足音が小さく響く。風が吹く。心が落ち着くようだった。
葉が揺れる音がしたその時だ。
ふと、レイは視線を上げる。
暗い夜空のどこかで、複数の羽音が重なった気がした。
この時間にしては、少し珍しい。
夜なのに――カラスが一羽こちらを観ていたから。
それを知覚するとほぼ同時だった。
「やっと会えたね」
声は柔らかく、夜風に溶けるようだった。
けれど、その奥に潜むものは、決して柔らかくはなかった。
どくんっ
強く強く、身体の芯から脈打つ。
血液が沸騰したかのような感覚に見舞われる。
「私は君のことは、見ていたよ。ずっと、ずっと……」
その声の主は、指先で夜の闇をなぞるように、烏を従えていた。
それはまるで、古い記憶を確かめるような仕草だった。
「正しく神への想いを、その音色に乗せて運ぶ──実に綺麗だったよ、本当に。あの天岩戸を閉ざした神を呼び戻すような、遠い神代をなぞる響き。この高千穂の空に、ぴったりだった。………心地良い」
その少女のような声が、背中越しに感じるその瞳が、レイの胸の奥を射抜く。
黒い瞳の底に、夜よりも深いものが揺れていた。
賛辞の言葉とは思えず、その一言一句、言の葉として流れてくる度に、強く心臓が高鳴る。
どくん、どくん、と。
まるで心臓が、突然別の生き物になったように暴れ出している。
血が、耳の奥で鳴り響く。
熱い。
熱すぎる。
身体が一瞬だけ揺れたかと思えば、足が動かない。いや、動かせない。
膝から下が、地面に根を生やしたように重い。
ただただ、強い鼓動だけは耳から離れない程に、高鳴り続ける。
【この世には、許されざる者が四人はいる】
いつかだったか、ほんの少し、ほんの少しだけ、見せた片鱗。妄言、冗談の類だといい話を切り上げたが……違う。
事実しか話をしていないのだ。
【四人の許されざる者】
自分の胸に刻まれた呪いのように、重く響いていた。
一人は。
偶像の純潔を信じすぎたあまり、その偶像を血で汚した愚者。
一人は。
かつて同じ光を浴びていたはずの同胞を、決して許せぬ嫉妬の刃で切り裂いた亡魂。
そして、もう一人は。
星のように輝く命を誘い、落ちる瞬間だけを愛でる闇そのもの。
思考が、そこで止まる。
残った一つ。
まるでその空白を埋めるように。
視線が、身体が背後へと誘われようとするが……堪らえた。
四人目
胸の奥で、何かがはっきりと形になるからだ。
それは、もはや疑いではなく、確信だった。
「こっちを見て、私と話さない?」
白い髪の少女はレイに呼びかける。
まるで夜の闇に溶け込むような、透き通った肌。
そして彼女を守るかのように無数のカラスが周囲の木々に止まり見下ろしている。
だが、その誘いにレイが乗る事はない。振り返ることはなかった。
「…………誰だい。病院の子かな」
ひとつ、またひとつと深く深呼吸をする。
激情のままに、感情のままに呑まれるほど愚かではない。
そう自分に言い聞かせる。
この相手に事を起こすのは愚行であり、悪手だとわかっているから。
その沈黙を、夜の風がすり抜けていく。
枝の上で、羽が微かに鳴った。
一羽、また一羽。
いつの間にか、増えている。
最初に見た一羽だけではなかった。 気づけば、木々の影の至るところに黒い影があった。
それはカラスだ。
静かに。 ただ、こちらを見ている。
まるで――見張るように。
「随分と冷たいね」
背後から、少女が言った。
責める声ではない。 むしろ、少し楽しんでいるような響きだった。
「普通なら振り向くと思ったんだけどな。突然話しかけられて驚きもしないなんて、ね。私の事が眼中にないみたい」
その言葉に、胸の奥で何かが軋む。
どくん。
また、心臓が跳ねた。
だが、レイは動かない。
「……夜に子供がうろつく場所じゃない、って事くらいかな。あとは単純にお化けの類かな? って驚いてるって言うのが本音」
声は、意外なほど落ち着いていた。
ゆっくり、ゆっくりと脈打つ心臓を収めようとする。この相手には絡まない事こそが重要だとわかっているから。
「戻った方がいい。病院へ」
ほんの僅かな間。
沈黙。
その沈黙の質が、変わる。
空気が、静かに重くなる。
背後の気配が、少しだけ近づいたからだ。
砂利が、かすかに鳴る。ゆっくりとゆっくりと、その音が大きくなる。
「とても優しいね」
少女が言う。
「でも」
そこで一度、言葉が途切れた。
不意に――
胸の奥が、嫌な音を立てた。予感だった。
本能的な拒絶。
触れてほしくない何かに、 指先が近づくような感覚。
そして。
少女は、静かに言った。なんの躊躇いもなく琴線に触れたのだ。
「君はもう――
その瞬間だった。
―――――どくん!!
心臓が、叩きつけるように鳴った。
視界の奥で、 何かが弾ける。
死、死、死死死死死死死死死――――
血、血、血血血血血血血血血――――
支えが、決意が強く揺らぎ、軈ては崩壊へとつながっていく。
倒れる身体。
伸ばされた手。
届かなかった未来。
彼女の終わりに始まり。
軈て大切な全てを救う為に彼が終わる。
■死に始まり、死に終わる物語■
皆の絶望、慟哭、沈黙、嘆き。
全てが生き地獄へ叩き落された。
――違う。違う。違う違う違う。
それは。その未来は――――。
「……」
呼吸が、止まりかける。
押し殺していた何かが、 一気に溢れ出した。
「!」
呼吸だけがひとつ、ゆっくりと落ちる。
その後で―――微かに首が傾き、関節が軋むほどゆっくりと動く。
その動きには、まるで生き物の温度がほとんどないかのように。何かに触れた。触れてはいけないものに、触れたような感覚。……どこか壊れたような静けさ。
「―――やっぱり、君は歪んでる」
眼が合った。低く甘く、冷たく、そしてどこか楽し気さえもある表情をした彼女を捕らえたレイの瞳は―――歪んでいる。
「……凄く歪な魂をしている」
瞳の奥の光が、闇よりも黒くそまる。光がひとつ、またひとつ、暗き光を瞬かせているかのよう。空に瞬くかの七つの光。北斗の星と同調しているかのように見えるのは……きっと気のせいなんかじゃない。
彼の双眸に捉えられるとまるで世界そのものが歪んでいくように思える程だった。
揺らぐ瞳の星々が軈て形を成す。
五芒の形を彩る。
「――――黙れ……死神」