認めない子   作:アイらゔU

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新年……新年度……
い、忙しすぎました…………


第49話 空の上の境界線

 

病院の自動ドアが、静かな電子音と共に開いた。

外の空気が頬に触れる。

まるで暫く入院していたかの様だ。そんな感じがする程に、外の空気は清々しく思う。

院内に満ちていた消毒液の匂いとは違い、山の空気はひんやりとして澄んでいる。

 

レイは小さく息を吸い込んだ。

 

胸の奥まで空気が通る感覚に、思わず肩の力が抜ける。高千穂の空は広かった。初日に見上げた時よりも更に広く青く広がってると感じるのは何故だろうか? 病院から解放された事での安堵感がそれを思わせるのか或いは────。

 

 

「………なんだか、凄く長かった気がする」

 

 

あまりにも考えることが多過ぎたのか、または起きた事が濃密過ぎたのか、……その両方か。

コラボの仕事に関してはあっという間だったと思ってる。凄く楽しくて楽しくて時間を忘れて活動が出来た。

つまり、後に起きた事が濃密過ぎた、と言うことだ。自らが蒔いた種とも言えるため、何とも言えないが。

 

 

「────ん」

 

 

遠くの山並みの上を、雲がゆっくりと流れている。その景色をぼんやりレイは眺めていると、隣からじっとした視線を感じた。

その視線を向けるとそこには、ミヤコがいた。想定より、指定時間よりも早く来てくれていたのは多分それだけ心配をかけている証なのだろう、と思える。

もしかしたらまた、レイがふらふらと何処かへ行き、何か良からぬものを惹きつけるのではないか? と危惧しているから、意図的に早めに到着したのかもしれない。

だからか、レイと目が合った時のミヤコは、小さく息を吐き、少し足早に近づいてきた。

そしてレイの顔をまっすぐ見ている。

 

 

「おまたせレイ。大丈夫?」

 

 

レイはその視線に気づくと、すぐに軽く笑った。

自分の様子次第では、今後のことを考えなければならない、というある意味脅迫めいた事も言われている為、少なからず緊張はあったのだが、ミヤコの顔を見るとレイ自身も安心感があるが故に、自然体で話す事ができた。

 

 

「大丈夫です。先生からもバッチリだってお墨付き、もらってますよ」

 

少し肩をすくめてみせるが、直ぐにブイ、と指を二本立てて広げた。そして明るい声だった。

 

 

「(笑って見せてくれてるけど、……なかなか素直に信じ切る事が出来ないのも辛いものね)」

 

 

ミヤコは、笑顔のレイを見て苦笑いをした。昨日今日で解決するような話だとは思わないから当然と言えば当然。

でも、精神的なものゆえに、時間が経てば安定するし、もとに戻りやすいとも言われていたから、多分体調面は問題ない、というのもまた事実。

 

 

「(しっかり見続けないと、ね)」

 

 

医者も退院を許可しているのだ。本当に駄目なら延長することも問題ない、と事前に通達をしている。レイの体調面を何よりも優先してほしい、と言ってあるから。それでも大丈夫と言われたのなら、後は身内でカバーする他ない。

 

 

──ミヤコは、レイをじっと見据えながら考え続ける。

 

 

数秒、レイの顔を見つめる。

目の動き。

声の調子。

ほんのわずかな違和感も拾おうとするように。しっかりと見る、と言うのは今この瞬間から始まっているのだ。

そして、また小さく息を吐いた。

 

 

「……一先ず安心、ってことね」

「はい。大丈夫です。ご心配お掛けしました」

 

 

その後は、受付で必要事項の全てを終わらせて、改めて宮崎総合病院を出る準備を完全に終える。

 

 

「ほら、空港行くわよ。飛行機逃したら笑えないから。折角頑張ったのに、変に遅れて、皆に何か勘付かれて、結局バレちゃったとしたら、困るわよね?」

「う……、は、はい……」

 

 

少し気恥ずかしそうなレイを見ると、ミヤコも涙ながらに懇願した時のことを思い出す。

 

思い返してみると、やはり恥ずかしかったのだろう、と思う。けど、約束通りしっかり体調を整えてこれたのだから、ミヤコの口から何かを言うつもりは毛頭ない。約束は守るつもりだから。

 

 

「レイくん、本当にお疲れさま」

「あかねさんもありがとう。……それと心配かけちゃってごめんなさい」

「んーん。お礼は、嬉しいから受け取るけど、謝罪はもう大丈夫だから」

 

 

あかねも安心したように、微笑んだ。

 

そして、三人は駐車場へ向かった。

 

ミヤコが運転席に座り、エンジンをかける。

助手席にはあかね。そしてレイは後部座席へ乗り込んだ。

 

もしも、体調面に異常をきたしたのなら、広く後部座席を使ってもらおうという配慮である。

 

シートベルトの音が小さく鳴る。

 

エンジンの振動が車内に広がり、車はゆっくりと動き出す。そして病院の建物が、バックミラーの中で遠ざかっていくのがみえる。

 

 

レイは窓の外へ視線を向けた。

この高千穂の町並みを。

 

 

低い建物と、遠くの山。

穏やかな景色だった。初めて来た筈なのに何処か懐かしささえ覚える。

 

 

だが――

 

 

その光景は心穏やかになさせてくれない。

胸の奥をざわめかせ続ける。

 

 

「(……やって、しまった)」

 

 

心の中で、小さく呟く。心の中で頭を抱えてしまう。

そして、何度も何度も思い出してしまうのは昨夜の出来事。

 

病院の遊歩道、あの場所で、あの少女と出会い、やりとりしたことを。遅かれ早かれ、アレ(・・)と接触するだろうことは心の片隅にはあったのだが、あまりにも無防備過ぎた。

 

 

「(完全に、感情任せにしてしまった……)」

 

 

本来なら、距離を取るべき相手であり、無難に回避すべき問題でもあった。完全なる対策が不可能だからだ。それこそ、警察の世話になるような事をしない限りは、物理的に止める以外の方法が存在しない。傍目幼子に過ぎないアレ(・・)の行動を縛ることは出来ないのだから。

 

 

でも、この地へ足を踏み入れた以上は、頭のなかで覚悟していたのも事実。

何度も何度も自分に言い聞かせ、完全に、完璧に、演じる(・・・)つもりだったのに。

 

 

必要以上に刺激してしまった。

いや、刺激されてしまった、という方が正しい。

 

 

触れてほしくないものに、触れられた瞬間に、ドス黒いものに、身体を支配されてしまい止められなかった。

 

 

「(……こんなの、あの時(・・・)以来────)」

 

 

頭の中がただただ真っ黒になり、視界も心なしか染まる様に感じた。

それはただ衝動と本能に身を委ねて暴走してしまう予兆なのかもしれない。

 

相手がどうなっても良い。相手は怨敵。滅する。と強く強く心を黒く塗り潰して相手に向けた。

 

これが致命的な隙になりうると、あの幼き日の事件より、痛感し猛省したはずなのに同じようなことをやらかしてしまったのだ。

 

 

でも、それでも本当にどうしようもなかった。同じような場面に再び相見えたとしても、自分を御する自信が全くない。

それほどまでに、あの時は止まらなかったんだ。

だが、それでも今は意識改革が急務で必須だろう。

 

 

「(……そもそも敵意なんて向ける意味がない。……その時点で不自然極まりない)」

 

 

そう、メリットが一切ないのだ。

見知らぬ他人に向ける感情なんて、本来は無い。在る方が異常なのだ。

故に、これ以上の余計な行為は相手の興味を引くだけ。

 

 

 

 

何しろ、あの場所で(・・・・・)初めて会ったのだから(・・・・・・・・・・)

 

 

 

 

「(……はぁ、最悪過ぎだ)」

 

 

レイは小さく息を吐く。

もう後の祭りなのだが問題は、それだけではない。

 

あれが――

もし、今後気まぐれに現れては、話して回る。そんな事をしたらどうなる?

 

 

例えば。

アクアに。

ルビーに。

 

 

──────アイに。

 

 

 

 

 

「(……あり得る。それに止めることなんて出来ない………ッ)」

 

 

 

 

向こうに対してこちらが制限をかせれるわけがない。そもそも、何ができたとしても、こちらの都合で動くとも思えない。

気分一つで、何を言うか分からない。

 

 

「(もしも知られたら……)」

 

 

それを考えるだけで胸の奥が重くなる。

それにもう一つ問題を抱えている。

 

 

雨宮吾郎についてだ。

 

 

他殺の可能性が極めて高いと言う事実。

今後調査が進めば――当然報道される可能性もある。

 

 

「(全国ニュース……)」

 

 

地方に収まってくれたら良いのは間違いない。

以前、それとなく夏樹にも聞いたことだが、事件なんてそれこそ星の数程起きている。無論、治安の良い日本において、殺人事件は大きな事件に分類されるが、そうだとしても報道されないことだって多々あるのだ。

 

 

でも、捜査の過程で芸能関係者────日本トップタレントで元トップアイドルのアイとの繋がり。

 

 

彼女が少なからず関わっていると判明されたとしたら? 確実に全国ニュースになるだろう。これ以上ない程に話題となる。報道系が、各メディアが喉から手が出る程欲する数字が量産される。

そうなれば、知られるのは必然。……が、そこまで悲観視はしてない。

 

アイが、いや苺プロが秘密裏に地方の場所を子を出産する地と選んだ以上、最高機密として秘匿されていると思うし、何より15年も前の話。

可能性としては、客観的に見てもかなり低い。

 

 

「(……でも、一寸先は闇、だよね)」

 

 

安心材料を模索していたけれど、焼け石に水だとレイは自嘲気味に笑った。

 

 

──本当に、余計なことをしてしまった。

 

 

結局は、そこに戻り小さく頭を振るだけだった。

その仕草を、ミヤコはバックミラー越しに見ていた。

 

 

「(やっぱりまだまだ引き摺ってる、わね)」

 

 

レイは笑っている。

声も普通だけど、時折見せる表情に陰りが見えるのは決して気の所為じゃないだろう。

ミヤコは曲がりなりにもレイの母親。それを、見逃すなぞ、名乗る資格なしと思えるほどだ。

 

そして、自分がわかる以上……帰った先にいる家族(みんな)にも当然バレる。

ルビーはともかく、アクアは………そして、アイは。

 

 

それでもミヤコは何も言わない。

 

 

言わずとも、レイが誰よりも理解しているだろうことも知っているし、わかっているからだ。

だからこそ今は注視しつつ、見守ることにしたのである。

 

その時だった。

 

 

「あ──そういえば」

 

 

レイがふと口を開く。

ミヤコがバックミラー越しに再び見る。その素顔は自然体のように視える。でもやはり何処か……ぎこちない。

 

 

「ん?」

「お土産、ちゃんと買わないとですね」

 

 

そしてレイの直ぐ隣に座っているあかねも思い出したように頷いた。

 

 

「そう言えば、私も何も買ってなかったかな。空港で揃えないと」

「うん。色々あったから……。ごめんなさい……」

「だーかーら、レイ君が謝らなくても良いんだってば!」

 

 

あかねは少し苦笑しながら言った。

レイは謝罪しないように心がけていた筈なんだけど、やはりそう上手くいく筈もなく。でも、あかねにそう言われ、ミラー越しのミヤコにジロリと睨まれ、それを見たレイはムンっ! と喝をいれると同時に、小さく両頬を挟み込むようにぱちん!と鳴らすと。

 

 

「だね! 話、戻すよ! お土産は絶対買って帰る、ってルビーとも約束してたんだ! 忘れちゃったら物凄く不機嫌モードになっちゃうから」  

 

 

レイは頭をかきながら、ため息をはく。

両頬が少し赤くなってるレイをみて、ミヤコがくすっと笑う。

 

 

「まあ、あの子なら1ヶ月くらいは根に持つかもね? 楽しみにしてた分」

 

 

これまでの傾向を頭の中で思い返しつつ、計算をしていくと導き出される結論。母として見続けてきた内の1人だからこそ、正確性は確かで、その通りだ、とレイも肩をすくめた。

 

 

「もし忘れたら……、ですね! だから大丈夫なんです」

 

 

少しだけ間を置く。

 

 

「ギリギリセーフ、だね」

 

 

あかねが小さく笑ってウインクした。

でも、疑問は残る。

 

 

「その、ルビーちゃんって、そんなに怒るんですか?」

「はい、怒りますよ、それはもう。ワーワー! と騒いだり、逆に無口でめっちゃいじけて不機嫌になったり、バリエーション豊かです。特にアイ母さんと一緒だったら相乗してパワーアップします」

 

 

レイの即答だった。

思わず気圧されそうになるあかねだったが、その追撃で。

 

 

「間違いないわね。簡単に想像できるわ」

 

 

とミヤコも笑いながら肯定した。

車内の空気が軽くなる。笑顔も増えて、口ではそう言ってても帰りたい、みんなに会いたい、という気持ちはレイの雰囲気から見て取れた。

 

だが。

 

この時あかねは静かにレイを観察していた。窓ガラスに映る反射を使って、さりげなく。

表情や視線、そして指先の動きに至るまで、何一つ見逃すまいと彼の全てを観察する。

 

 

「(……笑ってるけど)」

 

 

自然な笑顔だった。

だが。

 

 

「(完全に自然体じゃない、って感じ)」

 

 

まだ、何か心の内に見せてないものがある。レイを、彼を縛っているようなものが。それが何なのかはわからないけど。

 

あかねは静かに視線を外し、窓の外を見る。

 

 

「(ちゃんと、見てなきゃ。アクア君に言われた通り。……レイ君のためにも)」

 

 

わからないことはまだまだある。

レイが何を抱えているのか、分からない。

だけど、いつかきっと見えてくる。

そんな気がしていた。

 

 

車は山道を抜け、空港へ向かって走っていく。

空は広く、雲はゆっくり流れている。

その遥か上空を、一本の飛行機雲が静かに伸びていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

場面は変わる。

高千穂のあまりにも深く人あらざるものしか立ち入らないのではないか? と思わされる場に佇んでる影がそこにあった。

 

人が作り出した文明の灯りなど、山の稜線一つ越えれば無価値な塵に等しい。

そこにあるのは、太古から変わらぬ、濃密な香りが混じった霊気と言えるなにかと、神話の断片を啄むカラスたちの気配だけだった。

 

その暗緑色の静寂の只中で、少女は呆然と立ち尽くしてい?。

否、立ち尽くしているというよりは、自らの内に生じた「異変」に、ただ圧倒されていた。

 

 

「…………っ、あ」

 

 

吐息が、白い。

けれど、その熱は、夜風を灼き焦がすほどに重苦しく湿っていた。

少女の指先が、おもむろに自らの白い頬を這わせる。

指先に伝わるその温度は、もはや正常な生命のそれではないのかもしれない。場違いなほどに、情熱的なまでに、真っ赤な朱が差し、幼い横顔を淫らなまでに染め上げていた。

 

 

「……あは、あははは……っ! ひどいな、本当に……ひどい子だったよ…………レイ(・・)

 

 

こらえきれぬ笑みが、鈴の音のように、あるいは呪詛のように響き渡る。

もう、この地を離れようとしているかの者の気配を最後までその身に感じさせようとしているが如く、身体を震わせ、身を捩らせる。

 

 

その少女は、やがて力なく丸太の上へ崩れ落とした。

 

 

スカートが翻り、細い足が宙に浮く。その無防備な姿は、どこからどう見ても、夜の山に迷い込んだいたいけな幼子に過ぎないと言えるだろう。

だが、その瞳の奥で渦巻くのは、まるで数千年の退屈を一気に沸騰させるほどの「絶頂」とも言えるような代物だった。

魂の成り立ちを視る彼女の眼は、彼のその圧に、身に纏う器質に、歪な魂に、魅入られた、魅せられたのかもしれない。

 

 

「……あんな(もの)、今まで見たことないかも……ね」

 

 

少女は、自らの唇を親指で強く押し潰した。

彼が放ったあの「刺すような殺気」「底しれぬ憎悪」それらの余韻が、痺れるような痛覚となってこびりついている。

初めてのことだった。畏怖すべき対象として見られたことはあっても、殺すような憎悪を、殺意を人の子から向けられたのは。

 

 

 

出会ったばかりなのに(・・・・・・・・・・)

 

 

 

それもまだ何も為していない自分に対し、彼は――生涯のすべてを費やして煮詰め続けてきたような、漆黒の、ドロドロとした、逃げ場のない「憎悪」を叩きつけてきた。

 

彼もまた、自分のことを────感知していた(・・・・・・)のかも知れない。想像も出来ない底しれない何かを使って。

 

 

「ふふ、あははは」

 

 

調和を拒絶し、不吉を撒き散らす五つの切っ先を持つその光は、運命という(ことわり)さえも噛み砕こうとする剥き出しの牙。神を演じてみせた、奏でてみせた彼の身には、自分の知らない世界の神が住んでいるのかも知れない。人の身でありながら、その歪な器はもう既に依代となり、人あらざる者へと変わっているのかも知れない。

 

神代から続く退屈に安住していた彼女の心象風景を、その異質な熱が一瞬で、鮮烈な「毒」で塗り潰してしまった。

 

 

「……たまらない。よね。レイくん?」

 

 

少女は身をよじるようにして、丸太に背中を預けた。口元をゆがませ、口端をつり上げる。

視界に映る木々の隙間から、星々が零れ落ちる。

まるで彼の瞳に宿っていた、あの冷たくも激しい瞬きが、自分を追いかけてきているような錯覚さえする。

心臓など、あるはずもない。

魂の核が、ただそこにあるだけだ。

だというのに、彼の名を脳裏に描くたび、そこが疼くように、熱を孕んで脈動する。

 

 

「私が『死神』か。君の中ではそうなっていたんだね? ……いいよ。君がそう望むなら、君だけの特別な存在になってあげるのも、悪くない。何をもって私を死神と称したのかわからないけど、さ?」

 

 

少女は、自らの紅潮した顔を両手で覆い、幸せな夢の中に沈み込むように深く、深く息を吐いた。

向けられた殺気が深ければ深いほど、彼女の愛着は彼の形を、その歪な形を成していくのかも知れない。

 

不吉を予感させる彼の五芒の鋭き、黒き輝きに、自らの魂を灼き焦がされる感覚が、これほどまでに甘美なものだとは知りもしなかった。

 

夜の森に、一羽のカラスが舞い戻り、彼女の肩に静かに止まった。

少女の瞳は、もう、無垢な子供のそれではない。

恍惚とした熱に浮かされ、獲物の行く末を執拗に追いかけようとする、底知れぬ闇のようにも視える。

 

 

 

 

「そう────行ってしまったんだね。残念だ」

 

 

 

 

恍惚とした表情に陰りを見せたと同時に、無数のカラスが一斉に羽音を重ね、奏で、飛び立った。

かの魂がこの地を立ち去り、大空の彼方なのだと理解できたのだ。

 

 

そしてその囁きは、風に乗って夜の闇に消えていく。

 

 

けれど、彼女の指先に残った「熱」だけは、いつまでも消えることなく、神代の森に咲いた一輪の「毒」のように、赤々と輝き続けている。

 

 

 

 

 

 

 

「次に、会える日を楽しみにしているよ……北斗レイ(・・・・)君」

 

 

 

 

 

 

 

その不吉な予言めいた囁きは、湿った夜風に溶け、深い森の奥底へと沈んでいった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そんな事を知る由もなく、その場所から遠く離れた空の上では、断絶されたはずの「時間」が非情にも進み続けている。

よくある寒気のようなお約束もない。ただこれからのことを考え過ぎていて、もう頭の中がいっぱいになっているのだろう。

 

キィィィィン、という耳鳴りにも似た高周波が、意識の端を叩いたが、それでも気にならない、と言った様子だった。

 

そんな時に、ふと意識を浮上させたレイの視界に飛び込んできたのは、神話の闇ではなく、分厚いアクリル窓の向こう側に広がる光の海だった。

 

 

もう、これ以上考えすぎていても意味はない。寧ろ不安感だけが募り、また皆に要らぬ心配を、迷惑をかけてしまうだけにならないだろうか。

 

そう思えるようになったレイは気を新たに持つようにした。

高千穂の地とは別れるのだ。

その現実がまた、レイのなかに重くのしかかるものを和らげてくれると言うものだろう。

 

 

飛行機のエンジン音が、心地よい一定のリズムで機内に響いている。

窓の外には、見渡す限りの雲海が夕陽に染まり、燃えるような朱色から深い藍色へとグラデーションを描いていた。

 

 

あかねは、隣に座るレイを、視界の端でじっと追っていた。

彼は窓の外を眺め、何かを深く、深く考え込んでいる。

かと思えば、落ち着いたように穏やかな表情になっている。

そんな横顔に落ちる影が、ちらつく影が無理をした笑顔、とあかねの目には映ってしまう。

本物の憂いを帯びているようだから——。

 

 

「(……やっぱり、何かある。私じゃ、まだ届かない何か。どうしよう? 私に、できるのかな……)」

 

 

あかねは、気づかれないように小さく唇を噛んだ。考えても考えても、仮説すら浮かんでこない。あまりにも難解で雲をつかむような話だから。

けれど、その視線に気づいたのか、レイが不意にこちらを振り向いた。あかねの不覚である。

 

 

「……あかねさん? どうかしましたか?」

「えっ、あ……ううん?」

 

 

あかねは慌てて視線を逸らしたが、レイの表情がわずかに曇ったのを逃さなかった。

彼は、自分が心配をかけていることに気づき、また《申し訳ない》という自責の念に駆られている。謝罪は不要だと何度も伝えた。けれど、彼の優しさはそれを『済んだこと』と終わらせることはさせてくれないのだ。

 

 

「(……このままじゃ、レイくんの心が沈んだまま東京に着いちゃう。皆に知られたくない、心配かけたくない、って言ってたレイ君の想いが……無碍に………っ!)」

 

 

あかねは、この時決意した。

今、彼に必要なのは、深刻な分析でも、腫れ物に触るような気遣いでもない。

 

 

もっと、こう——──明るく、楽しく。

 

 

あかねは、スッと背筋を伸ばし、一瞬で纏う【空気】を書き換えてみせた。

 

ゆっくりと目を閉じ……そして開いた時にはその雰囲気は一変する

 

視線の鋭さが消え、代わりに星のような煌めきと、掴みどころのない、蕩けるような甘いオーラが彼女を包み込む。

それは、レイが誰よりも愛し、誰よりも知っている【アイ】そのものの残影である。彼のために長年積み重ね、創り上げてきた役。

 

今も尚、心配そうに表情をゆがませてるレイに対して、あかねはウインクを一つすると。

 

 

「ん〜……。ねぇ、レイくん! 実は考えてたことがあるんだよねっ!」

 

 

あかね——アイを宿した「彼女」は、首を少し傾け、悪戯っぽく微笑むと同時に、とびきりの笑顔と共に、レイに顔を近づけた。鼻先が触れるか否かなほどの距離まで。

不意打ちを受けたようにレイが、目を見開く。

 

 

「色々と頑張ったんだし、そろそろご褒美、欲しいところだよね〜、ってさ☆」

「……え? あ、ご褒美……ですか?」

 

 

きょとん、と目を丸くするレイ。

その純粋な反応に、あかねの中の【アイ】は、さらにのらりくらりと、本気か冗談かも分からない温度感で言葉を重ねる。

彼が、レイが、あかねが知る限り一番好きな人の全てを窶しながら。

 

 

「そっ。えへへ、こーゆーと烏滸がましいかもなんだけど、私ってばすっごく頑張ったと思うんだよね」

 

言葉では謙遜を滲ませつつも、本心では、うんうん、と自分で自分を褒めるのを躊躇わない感じだった。

そして一息置くと、レイをまっすぐ見て、ニコッと笑うと。

 

 

「……だから、レイ君にはもっともっと褒めて欲しい、と言うか、私のこと甘やかしてほしいな〜。頑張った頑張った〜って、また褒めてもらいたいかな? って! ほらほら〜」

 

 

からかうような、甘えるような。

あかねは確信していた。これでレイくんは照れて、いつもの調和を取り戻してくれるはずだ、と。

けれど。

 

 

「…………」

 

 

レイは再び、きょとんとしただけだった。

そして、その瞳に宿ったのは、戸惑いではなく——澄み渡るような、真剣な光だった。

 

 

「えっと、そんなのでいいの? ほんとに?」

「え……?」

 

 

想定外の、真っ直ぐな問い返し。

アイを演じているはずのあかねの思考が、一瞬、真っ白にフリーズする。あかねの素の部分が前面に出てくる。

冗談で返されると思っていた。あるいは、困ったように笑われると。

少なくとも、笑顔になってくれたら良い、と思ってただけだった。

なのに、レイはとても真剣で、それでいて、自分のためにしてあげれることが合って嬉しい、とでも言いたげな、深い慈愛をもって見つめてくる。

 

 

「あ、えっと、そう……だよ? レイくんに褒めてもらえるの、私にとって、すっごいご褒美なんだから。だから、その〜〜、ほら! 甘やかして、甘やかして?」

 

 

あかねは必死に役を維持しながら、やけくそ気味ではあるが、食い下がるように言った。その必死さが、ある意味レイには真剣さに伝わり、視えたのだろう。

あかねに世話になったのは紛れもない事実なんだ。仕事面においても、今回の騒動においても。だから、レイは万感の思いを込めて、優しく微笑んだ。

 

 

「あかねさんは、凄いね。今回もたくさん、たくさん僕を助けてくれました」

 

 

流れるような動作だった。

レイは極めて自然に、迷いのない手つきであかねの頭に手を置くと、幼い子供を慈しむように、優しく、丁寧に撫で始めた。

 

 

「ありがとう、あかねさん。……本当にありがとうございました」

「…………っ!?」

 

 

甘やかす、ということは、レイの中では頭をなでることである。

ただ、感謝の言葉と甘やかすことはイコールでは結ばれないのでは? と思えなくもないが、レイはレイが出来る全力を、その行動と言霊に込めたのである。

 

その想いが真剣だからこそ、ダイレクトに心の中まで撃ち抜かれてしまったあかねはというと、顔が、一瞬で【ボン!!】と爆発したかのような赤色に染まった。

 

 

演じていた【アイ】の皮が、音を立てて剥がれ落ちていく。

レイの表情には、下心も、照れも、迷いも一切ない。

 

 

ただ心からの感謝と賞賛を、その指先と声に込めて、まっすぐに彼女に届けている。

 

 

「レイ、くん……っ、ちょっ……え、あ……っ!?」

 

 

そして、力なくぐてーっと、きゅ〜〜っと身体が崩れ落ちた。

椅子に座ってなかったら倒れてしまっていたかもしれない。

 

 

「……ええっ!? だ、大丈夫ですかあかねさん! 顔が真っ赤ですよ!?」

 

 

あまりの急変ぶりに、今度はレイの方が血相を変えて身を乗り出した。

確かにありがちな展開なのかもしれない。なんならベタベタな展開なのかもしれないが、今回に関してはあかねからのご指名である為、驚きのほうが上回ってしまったのである。

 

或いは、撫でると言う行為そのもののハードルがレイの中では圧倒的に低いから、とも言えるか。

 

しかしながらこれは無理もない事だろう。

ついさっきまで余裕たっぷりに微笑んでいた少女が、今は一瞬で茹で上がった蛸のように真っ赤になり、座席でぶるぶると震えているのだから。

 

 

「(自分で、言っといて、だけど…………こんなの、反則、だよ……っ)」

 

 

あかねは両手で顔を覆い、座席に沈み込んだ。

けれど、レイの心配は止まらない。

彼は本気で、自分の行動があかねの体調に悪影響を与えたのではないかと、オロオロと狼狽し始めているのだ。だからあかねも何とかしなくちゃ、と四苦八苦するがなかなかに難しい。

 

 

「すみません、僕が余計なことを……! 熱ですか? 実は体調、悪かったとか!?」

 

 

その様子を隣の席で見ていたミヤコが、堪えきれずに小さく吹き出すと、混乱の極致にいるレイを落ち着かせるように、ポンと肩を叩いた。

 

 

「レイ、落ち着きなさい。あかねさんは少し……そうね、これは言わば知恵熱みたいなものよ。後ろのギャレーまで行って、CAさんに『冷たいおしぼり』を二つもらってきてあげてくれる? あかねさんの顔を冷やしてあげたいから。ついでに、飲み物のおかわりも」

「わ、わかりました! すぐ行ってきます! あかねさん、今おしぼり持ってきますからね! 動いちゃダメですよ」

 

 

レイは弾かれたように席を立つと、救急隊員さながらの勢いでぴゅーっと通路の奥へと消えていった。

ギャレーにいる客室乗務員に必死に状況を説明しているであろう彼の後ろ姿。

……彼が完全に見えなくなったのを確認して、ミヤコがようやく声を殺して笑い出した。

 

 

「……ふふ、くすっ! お疲れ様、あかねさん。……散々だったわね」

「……ミ、ミヤコさん……っ! わ、笑わないでくださいよぅ……っ!」

 

 

あかねは、火を噴きそうなほど赤い顔を指の間から覗かせ、羞恥に顔を歪ませながらミヤコを見た。

先ほどまで【アイ】として完璧に振る舞い、役を身に窶し、レイのために、とある意味翻弄しようとしていた。役者としての自信、そしてプライドをかけた場面。

でも、それは彼の掌の温もりと共に、どこかへ霧散してしまっている。

 

 

「まあ、今回のは悪手ってやつよ。あかねさん。レイにその手の『甘やかし』は、狙ってた効果はない。効かないわ」

「……え?」

 

 

あかねが狙ってたものを察するミヤコ。

確かに、レイは初心な所があるし、異性に対してそこまで慣れているとは言い難い。今ガチや芝居のような、役者としてならば、正しく万能。ピアノで培ってるであろう数多の感情を音ではなくその仕草や言葉、即ち天性の役者、俳優として対応する事ができただろう。

でも、普段の一幕、しかも不意打ち気味ならば、恥ずかしがり屋な一面も持ち合わせてるあの子はタジタジになって、今のあかねとは立場が逆転してしまっていたと想像に容易い。

 

でも、褒めて欲しい、甘やかせて欲しい、という類のは……あまりにも慣れが過ぎている。

 

 

「何せあの子は、ルビーのことをずっとそうやって甘やかし続けてきたのよ。小さな頃からね。泣けば抱きしめて撫でて、イヤイヤしてたらまた頭を撫でて。アクアも対抗しようとしてたり。懐かしいわ。だから彼にとって今のあかねさんへの対応は、日常の『お世話』と同じレベルなの」

「……お世話、レベル……っ」

 

 

あかねは再び、衝撃の事実にがっくりと肩を落とした。

自分は必死に役作りをして、勇気を出してアプローチしたつもりだったのに、相手にとっては【いつもの妹への対応】の延長線上に過ぎなかった、と言われてるのだ。

 

 

「ルビーだけじゃないわ。あのアイでさえ、時々レイに甘えて、彼に頭を撫でさせたりしてるんだから。いいおばさんがなーにしてるのかしらね。……つまりプロ級の甘やかし役に、その程度で勝とうなんて、10年早かった、ってことね」

「……うぅ……なんだが、ずるい……っ」

 

 

あかねは座席で丸まり、自分の頬の熱が引くのを必死に待った。

数分後。

 

 

「お待たせしました! 冷たいの、もらってきました!」

 

と、何食わぬ顔で爽やかにおしぼりを持って戻ってきたレイを見て、あかねが再び小さく悲鳴を上げたのは、言うまでもない。

やがて、飛行機は羽田の誘導灯を捉え、滑走路へと滑り込むのだった。

 

 

 

 

 

 

 

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