酔いから覚めたら妻子持ちのDV男に憑依してたんだけど 作:くじらん421
主人公「多分そう / 部分的にそう」
「……やっぱり、そうなんですね」
榊原さんは、僕の顔を見たまま何度か瞬きをした。
驚いてはいるけれど、先ほどまで彼女が感じていたであろう恐怖はない。グラスを包んでいた手の力が抜け、背もたれへ預けた肩も自然な高さに落ちている。
「変なはずです。見た目は先輩なのに、中身は全然先輩じゃない」
独り言に近い声だった。榊原さんは、自分の手首へ目を落とした。
「それで」
彼女の顔に真剣さが戻る。
「鳴川先輩は、どこにいるんですか」
「ん……それがね、分からないんだ」
「……分からない?」
「僕がこの身体で目を覚ましてから、鳴川 善の声を聞いたことはない。記憶が流れ込んできたことも、身体を奪い返されそうになったこともない。眠っているのか、消えたのか、別の場所にいるのか。何も判断できないんだ」
「じゃあ、あなたは」
言葉が止まる。僕は続きを待った。
「あなたは、本当に別の世界の人なんですか」
「僕自身は、そう認識しているよ」
「なんか……曖昧な言い方ですね」
「それが客観的な事実だと証明する方法は、今のところないからね。鳴川 善の記憶を失って、別人だと思い込んでいるだけかもしれないし、夜禍の影響で人格に異常が出た可能性もある。だから詳しい説明は、君一人にだけするべきじゃないと思ってる」
榊原さんは口を閉じて、ジトっとした目をこちらに向ける。
「信用してないってことですか」
「そういう意味じゃないよ。同じ説明を別々の場所ですれば、僕の言い方にも、聞いた側の受け取り方にも差が出る。後から内容が食い違えば、余計な疑いを生むだろう?」
「……まあ、それは」
「だから、君が協会で一番信用している人と一緒に聞いてほしい」
榊原さんは考えるより先に答えた。
「篠崎さんです」
名前を口にしてから、本人も納得したように顎を引く。
「三条支部の篠崎圭さん。私たちの直属の上司です。一級下位で、現場責任者みたいな立場です」
「その人なら、相談できる?」
「できます。少なくとも、変な決めつけで話を聞かない人じゃないです」
「そっか……その人に相談させてもらえるかな?」
ちょうどそこで、店員がコーヒーゼリーを運んできた。
受け取ってスプーンを入れると、榊原さんが信じられないものを見る顔をした。
「食べるんですか」
「え? うん、そりゃ注文したからね」
「今、この状況で?」
「この状況でも、置いておけば温くなっちゃうからさ」
一口食べる。苦味は控えめで、思ったより甘い。
うん。悪くない。
「し、篠崎さんに連絡します」
「お願いするよ」
榊原さんはスマホを取り出し、発信ボタンを押した。
数回の呼び出し音のあと、相手が出たらしい。彼女の背筋が伸びる。
「榊原です。お忙しいところすみません。ちょっと急ぎで相談したいことがあって。今、鳴川先輩と一緒です」
電話の向こうから、低い声が漏れた。内容までは聞き取れない。
短い間。
「いえ、特段何も。むしろ、今までで一番無害といいますか」
彼女がちらりとこちらを見る。
僕はスプーンを生クリームに差し込み、口に運ぶ。まあまあかな。
「実はご相談がありまして。鳴川先輩が篠崎さんに相談したいことがあるそうなんです。それも内密に。私は先に話を聞きましたが……正直、篠崎さんに相談した方がいい案件でして」
コーヒーゼリーだけど、あんずちゃんも喜びそう。
あの子、甘いものが好きかどうかわからないけど。その辺も色々食べさせて知っていかないとなあ。
「はい、できれば今日にでも。誰かが危ない状況とかではないんですけど……ええと、うまく説明できなくて。鳴川先輩の性格が変わったというか、中身が変わったというか。すみません、うまく説明できなくて。でも……少なくとも、今すぐ誰かへ危害を加える様子はありません。それに、篠崎さんに相談すべきだと、そう思いました」
彼女の声に迷いはある。けれど、結論自体は揺れていない。
低い声が、今度はやや長く続いた。
「分かりました。すぐ向かいます」
通話を切る。
「何だって?」
「連れてこい、目を離すな、だそうです」
「話が早くて助かるよ」
「何を呑気な……」
榊原さんはスマホをしまい、それから僕のコーヒーゼリーを見た。
「早く食べてください」
「もう半分だよ」
「本当に、何なんですか、この人……」
榊原さんは飲み物を一息に飲んだ。僕も急いで残りを口へ運び、その後会計を済ませた。
店を出ると、午前の光が睡眠不足の目に刺さった。
榊原さんは先に歩き出す。行きに比べて、彼女との距離が近い。三歩ほど先を保っていたはずが、今は半歩から一歩。こちらが歩調を落とせば、靴音も合わせるように遅くなる。
本人は気づいていないようだった。
「……変な感じです」
前を向いたまま、彼女が言った。
「何が?」
「さっきまで、先輩がすごく怖かったはずなんです。逃げようとも思ってたし、篠崎さんを呼ばないとって……でも、今は頭が軽いというか」
「考えていたことが整理されたんじゃない? 結構、鳴川 善の愚痴をこぼしてくれてたし」
「そうなんですかね」
榊原さんは手首を一度撫でた。
「私、先輩のこと、どこまで悪く言いました?」
「かなり手厳しかったよ」
「最悪……人前でそういうこと言うの、好きじゃないのに」
歩調が一瞬乱れる。
「何を言ったか、ところどころしか覚えてないんですけど」
「事実だと言っていたから、気にしなくていいんじゃないかな」
「そういう問題じゃないです。本人に向かって言ったんですよ、私」
「僕は鳴川 善じゃないからね」
「それもまだ、完全に信じたわけじゃありません」
「まあまあ、今はそれでいいさ」
「……否定しないんですね」
「信じてくれと頼んだところで証明も難しい。だから君自身が納得してくれるよう善処するだけだよ」
彼女は振り返りかけ、やめた。歩幅は、その後も変わらなかった。
表通りを二つ曲がり、古い雑居ビルと新しいテナントが混じる一角へ入る。榊原さんが足を止めたのは、茶色いタイル張りの五階建てだった。一階の集合郵便受けには、税理士事務所や工務店の名札に混じって、黒いプレートが掛かっている。
夜禍協会 三条支部。
「ここです」
オートロックを開け、狭いエントランスへ入る。壁には避難経路図とテナント一覧。その横に、夜間指定通行路の変更を知らせる紙が貼られていた。
エレベーターで四階へ上がる。扉が開いた先には、半透明のガラス戸があった。榊原さんがカードをかざすと、短い電子音がして解錠される。
中は役所と待機所を足したような空間だった。無人の受付カウンターの向こうには、区域図、当番表、灯火設備の不具合報告が並び、奥では三人ほどが端末と書類の間で手を動かしている。
僕たちが入ると、キーボードの音が止まった。
一番近くにいた女性が僕を見て、次に榊原さんを見た。
「……鳴川さん? と、澪ちゃんじゃない。どうしたの、二人揃うなんて珍しい」
「篠崎さんと打ち合わせです」
「そう。お疲れさま。何かあったら相談するのよ。力になるからね」
最後の一言は、明らかに榊原さんへ向けられていた。
別の机にいた男は、何も言わずに眉間に皺を寄せている。「今度は何をした」といわんばかりの疲れが、それぞれの反応に滲んでいた。
鳴川 善の協会内での立ち位置は、説明されるまでもなさそうだ。
「奥です」
榊原さんは足を速め、僕も続いた。廊下の突き当たりにある小会議室の扉は、半分だけ開いていた。彼女が二度ノックする。
「入れ」
低い男の声が返る。
榊原さんが扉を押し開け、二人揃って入室する。
中央に長机。パイプ椅子が六脚。壁際には施錠されたキャビネット。窓は一つで、ブラインドが半分下りている。出入口は今入った扉だけだった。
机の向こうに、一人の男が座っていた。
榊原さんによると、彼は篠崎 圭という男性で、夜禍協会員の大ベテランらしい。階級は一級下位。最も危険な最前線を主な持ち場としており、協会内では英雄視するものもいるのだとか。
榊原さんに目配せをすると、彼女は扉を閉めた。
三十代後半から四十代前半。無地の黒いシャツに、動きやすそうなカーゴパンツ。肩幅はあるが、見せるために鍛えた体ではない。余計な部分が削れ、必要なものだけが残った印象を受ける。
彼の目は、僕の顔へすぐには来なかった。
靴。両手。腰。肩。最後に目。
人物として認識する前に、危険度を測るような視線。
それを確認してから、彼は椅子から立たないまま言った。
「鳴川 善のなりをしちゃいるが、誰だお前」
榊原さんが息を呑む。
「それを説明しに来ました。篠崎 圭さんで合っていますか」
「俺の質問に答えろ」
「ええ。そのために、まず話す機会をいただきたい」
篠崎さんの右手が、机の下へ消えた。
腰の横。ホルスターの位置か。
僕の身体も、考え終える前に動いていた。
右足を半歩開き、真正面から線を外す。同時に、榊原さんの位置へ重なるように角度を変えた。僕と篠崎さんの間へ、彼女の右肩と胴が入る。
ナイフか、飛び道具か。なんにせよ攻撃線は榊原さんの身体で切られている。
榊原さんを巻き込まずには攻撃できない。
その一拍があれば十分だ。
篠崎さんの目が細くなる。
「……嫌な動きだな、ええ? おい」
「すみません」
僕は両手を見える位置まで上げた。
「ですが、初動を潰して、まず無力化する。訓練を受けた者なら、まずそう判断しますから。そうなると落ち着いて話もできない。それに、あなたが部下ごと攻撃する方ではないと判断してのことです」
「え?」
榊原さんが僕と篠崎さんを見比べ、自分の立ち位置を理解する。
「ちょっと、私を使わないでください!」
「ごめんねー。でも今はこれしかなくって……」
「そういうところですよ!」
篠崎さんは、机の下に置いていた手を戻した。完全に警戒を解いたわけではない。指先は天板の端に触れ、立ち上がるための余地を残している。
「澪」
「はい、大丈夫です。危険がないことは、きちんと確認しています」
「……はあ、二人とも座れ」
なんとかなった。
僕は机の端を回り、篠崎さんと斜めに向かい合う椅子へ腰を下ろした。榊原さんは僕から一席空ける。
「丸腰か」
「はい。持ち物を確認していただいても構いません」
「いい。見ればわかる」
篠崎さんは僕の顔を正面から見た。
「これから聞くことに、事実だけで答えろ。澪、この男の言葉の真偽、お前も判断しろ」
「わかりました」
榊原さんは神妙に頷く。
それを見て僕も口を開いた。
「承知しました。ただ、彼女には概要しか話していません。初めに全体を説明し、その都度、あるいは後で質問を受けるという形でもよろしいですか」
「三分だ」
「構いません」
一度、息を整える。
「まず、お察しの通り、僕は鳴川 善ではありません」
篠崎さんが榊原さんにちらりと目配せする。
彼女がこくりと頷くと、篠崎さんは一つ大きなため息をつき、顎をしゃくって続きを促した。
「僕がこの身体で目を覚ましたのは、一昨日の朝です。元の世界での最後の記憶は、自宅のベッドで眠ったところまで。次に意識を取り戻した時には、鳴川 善の家にいました」
篠崎さんの顔は動かない。
「僕自身の記憶は残っています。家族、仕事、これまで学んだこと、人間関係。反対に、鳴川 善の記憶は一切ありません。名前も、妻子も、協会も、夜禍も、目覚めた後に書類や周囲の反応から知りました」
「鳴川 善の声や意識を感じたことはありません。眠っている間に入れ替わった形跡も、記憶が途切れた時間も、現時点ではない。そして、この世界の有り様から、僕は別の世界から来たと認識しています。が、それが客観的事実だと証明する手段は持っていません」
榊原さんは目を見張ってこちらを見やる。確かに、異なる世界云々は信じ辛いところはあるかもしれない。一方で、篠崎さんは特に大きな反応は示さない。
「家には鳴川 善の妻と娘がいました。鳴川 澄雨さんと、あんずちゃんです。二人の状態から、長期間にわたる暴力と経済的支配があった可能性が高いと判断しています。それも、かなり深刻なレベルで」
「そ、そんな……やっぱり!」
榊原さんは思い当たる節があるようだ。澄雨さんの名前も知っていたようだし、何かしら把握はしていたのだろう。反応を察するに、正確には知らなかったようだけど。
篠崎さんも大きく舌打ちをして反応を示す。
「……そう判断した根拠は?」
「僕がそばを通るだけであんずちゃんは頭を庇う防御姿勢を取ります。情緒も健全に育っているとは言い難い。母親の澄雨さんは吃音があり、いつもこちらの機嫌を伺います。……あんずちゃんが反射的に防御姿勢を取ったとき、澄雨さんは娘に覆い被さり、自分を代わりに殴れと叫んだ。生活環境もひどかった。十分すぎる根拠ですよ。……どうやら、世界は変われど、そういう地獄はどこにでもあるらしい」
縺ェ縺ゅ?縺薙%繧阪?謨吶∴縺ヲ縺上l縲?縺雁燕縺ェ繧峨?縺薙?迥カ豕√r縺ゥ縺?」翫☆??
榊原さんが息を呑み、やがて俯く。篠崎さんは表情を変えなかったが、今までよりも硬くなった。
「…………ふう。で、ですね。この二日間は、滞納していた公共料金を支払い、部屋を清掃し、食事と寝具を整えました。二人には、以前とは別の人格が表に出ているとだけ説明しています。僕が別の世界から来たのかどうかという話はしていません」
「なぜ隠した」
「事実を受け止めた後に頼れる人間も、安全な退避先もないと見ているからです。そうした支援基盤があるなら、状況はとっくに改善していたでしょう。DV夫、または父親の身体に正体不明の人間がいるとだけ伝えるのは、説明ではなく負担の追加になる」
「……随分と肩入れするじゃないか、他所の家庭事情に」
「見て、知ってしまった以上は。そういうあなたは介入しないので?」
篠崎さんはくだらない質問をされたことにか、したことにか、フンと鼻を鳴らした。
「夜禍と夜禍協会については、鳴川 善の端末と公開情報で調べました。昨夜の招集に応答しなかったのは、規則を知らなかったためです。ただ、仕方なかったとはいえ榊原さんに負担を強いてしまったのは僕の落ち度ですね。すみません」
「えっ?! あ、いえ、その、ちょっ、その見た目で頭なんて下げないでください!」
榊原さんに頭を下げると、彼女は慌てたように手を振る。
「夜禍は見たか」
「窓から、数秒だけ」
榊原さんが驚いたように声を上げる。
「見たんですか?!」
「警報を読んで、家の周囲が差し迫った状況か確認した。今なら、適性も手順も知らずに取るべき行動ではなかったと分かるよ」
篠崎さんが訊く。
「何が見えた」
「街灯の外縁に、人型の輪郭がありました。距離は正確には測れません。見えている位置と、そこにいると身体が感じる位置が一致しなかった。注視は避け、数秒でカーテンを閉じました」
篠崎さんと榊原さんの視線が交わる。
「鳴川先輩の耐性で人型を見て、今朝からあれだけ平然としていたんですか……?」
榊原さんが呟いた。
「うん? 何か気になることでも?」
「おかしいですよ! 元の先輩なら、遠目でも翌日まで使い物にならないことがありましたから!」
「その話は後だ」
篠崎さんが切る。
「それで、お前の目的はなんだ」
「最終的には、元の世界へ帰ることです」
当然の回答。まだ僕にはやることがあるんだ。
二人の表情が険しくなる。
「……今すぐ帰れるなら?」
篠崎さんにそう問われるも、僕ははっきりと答える。
「現時点では帰れません。澄雨さんと、あんずちゃんのことがある。何もしないまま帰ることはできません」
二人が意外そうな顔でこちらを見た。
「少なくとも、澄雨さんとあんずちゃんが、鳴川 善や僕に依存せず、安全に暮らせる状態を作るまでは。僕が消えた後に鳴川 善が戻る可能性も否定できません。生活、金銭、住居、相談先。元の鳴川 善が戻っても、二人が支配下へ戻らずに済む選択肢が必要です」
「そりゃすばらしいことだ。お前が二人を助けたい理由は」
「単純ですよ。目の前で助けられる人間を見捨てることが、自分の信念に反するからです。それに、僕がこれまで身につけてきたものを使わずに放置すれば、自分の人生まで否定することになる」
「結局、自分のためでもある」
「否定はしません。ですが、二人の状況が改善するかどうかが重要です」
三分はとうに過ぎていたが、篠崎さんは止めなかった。
「お前の話が全部本当だとして」
篠崎さんは組んだ手をほどいた。
「鳴川 善はどうなった」
「分かりません」
「お前が追い出した可能性は」
「否定する材料がありません」
「鳴川 善の中に生まれた人格か、夜禍に頭を壊されてそう思い込んでる可能性は」
「前者は澄雨さんとあんずちゃんに対して使った説明ですが……、とはいえ、どちらも客観的に否定できる証拠がありません」
榊原さんが落ち着かない顔で僕たちを見ている。
「自分の存在を疑うんですね」
「疑わない方が危ないよ。僕の認識が壊れているなら、その壊れた認識で正常だと判定しても意味がない」
篠崎さんの目が、わずかに動いた。
「それで、俺に話に来たわけか」
「はい。正確には榊原さんが鳴川 善の関係者であり、同僚だったという点に鑑みて、彼女に話を通してもらうよう依頼しました。それに、自分の正体を隠したまま協会へ戻るのも、黙って離脱するのも危険だと思いまして。もし僕が夜禍の影響下にあるなら、外から観察する人間が必要になる。そうでなくても、この世界の常識を知らないまま鳴川 善の権限や能力を使うべきではない」
「監視されに来たと言うのか」
「信用を得に来た、と言わせてください」
篠崎さんは、僕の答えを気に入ってはいない。けれど、嫌悪だけで切り捨ててもいなかった。
感情より先に、使える情報と危険度を分けている。
こういう相手とは話がしやすい。
「元の仕事は」
「高校の教員です。外国語科を担当し、教育相談にも関わっていました」
「は、はあっ?! 高校の先生?!!」
え、そんなに驚かれるようなことかな。
「ちょっと複雑だったけどね。メインは教育相談、生徒たちの心のケアで、非常勤講師と同じような形で外国語科……英語の授業も担当していたんだ。といっても、週に3〜4コマ教えてた程度だよ。教育現場はどこも人手不足だからねえ」
「いやいやいやいやいや、え? 怪しさの権化みたいなあなたが? 学校の先生? は?」
「失礼な。ちなみに主免許が小学校教諭、副免許で中学・高校教諭の外国語科だよ」
「……はい? つまり、どういうことですか?」
「小学校、中学校、高校それぞれで教えることができるよ。大学でそういう風に教員免許を取ったんだ。……最後の方は、あんまり教育と関係ない仕事になってたけどねえ。ま、ちょっと複雑なんだよ」
「…………信 じ ら れ ま せ ん !!」
ひどくない?
「で、そのただの教師が、攻撃線を切るような動きをどこで覚えた? お前の世界じゃ銃弾が飛び交うのか」
「まさか。教育とは別の仕事に関係してますが……ご縁と機会がありまして、退役軍人から対人訓練を受けていた時期があります。閉所での脅威認識、攻撃線管理、退避と接近の判断。もちろん実銃ではなく、訓練用のエアソフトガンを主に使っていましたが」
「
「ええ、
篠崎さんは、榊原さんを間に置いた時の動きを思い返しているようだった。
「役に立ったな。澪には迷惑だったが」
「ほんとですよ。人を盾にして、それが先生の振る舞いですか?」
「ごめんて……咄嗟の反応だったんだ、なんでも奢るから許してくれないかな」
「嫌です! 大体、対人訓練を受けている先生ってなんですか。何と戦ってるんですか」
「この世の悪かな……(適当)」
教育現場はブラック。そういうこともあるだろう。
たぶん。
「ともかく、盾にしたことは改めて謝るよ。本当にごめんね」
「二度としないって言ってください」
「同じ状況を作らないようにはする」
「二 度 と し な い っ て 言 え !」
「できない約束はしたくないんだ」
「こんなのが先生だったとか嘘ですよ。絶対嘘、あり得ません。こんな先生、私は絶対嫌です。篠崎さん騙されないでください、私は騙されませんよ」
「まあ、こっちに来る前に円満退職したから、正確には「元教員」かな」
「ほら! やっぱり嘘じゃないですか!」
「澪で遊ぶな」
すみません、つい、反応がいいから。
篠崎さんは僕を見た。
「名前は」
「鳴川 善、ではなく?」
「お前の名前だ」
あー、まあ、聞くよね。
予想していた質問だった。答えも決まっている。
「それは、今は伏せさせてください」
部屋の空気が張り詰める。
「正直に話しに来たんじゃなかったのか」
「そのつもりです。ただ、これだけは別問題でして……」
篠崎さんの目から温度が消えた。
「名前を言えない理由は」
僕は膝の上へ視線を落とした。
そこにあるのは鳴川 善の手だ。
皮膚の色も、指の長さも、爪の形も違う。この手で元の家の鍵を回したことはない。この声で、自分の名前を名乗ったこともない。
「忘れたわけではありません」
「なら、なぜ隠す」
「
榊原さんがわずかに身じろぎした。
「この顔も、身体も、声も僕のものではありません。元の世界にいた僕を知っている人間も、僕の経歴を証明する記録も、ここには何一つない」
「名前を言ったところで、それが本物かどうか、あなた方には確認できない。僕が今考えた偽名と区別する方法もないでしょう」
「それなら、余計に隠す意味がないんじゃないですか」
榊原さんが尋ねた。責める声ではなく、純粋に理解できないのだろう。
「君たちにとってはね」
僕は答えた。
「僕にとっては違う。その名前だけが、僕には別の人生があり、鳴川 善ではなかったと、自分自身に証明できる最後のものなんだ」
榊原さんは口を閉じた。
篠崎さんは表情を変えない。
「名前を知られたくらいで、その証明が失われるのか」
「失われるわけではありません。ただ、この世界へ持ち込みたくないんです」
「どういう意味だ」
少し考え、言葉を選ぶ。
「ここで起きていることを、夢や幻だと思っているわけではありません。澄雨さんも、あんずちゃんも、あなた方も、現実の人間として扱っています。僕の行動で誰かが傷つけば、それは現実の責任です。……ですが、自分がここにいるという事実だけは、まだ保留にしている」
「保留?」
「鳴川 善は、この世界で使っている仮の名前。この身体は、一時的に動かしているアバター。必要なことを終え、帰る方法を見つければ、僕は元の場所へ戻る。そう考えることで、今の状況と距離を取っています」
榊原さんの眉が寄る。
「そうしなければ、どうなるんです?」
僕はすぐには答えなかった。
篠崎さんや榊原さんの声で、本当の名前を呼ばれる場面を想像する。
その瞬間、元の家の玄関や、夕方の職員室、送別会で交わした笑い声が一度に脳裏へ浮かんだ。
ここには存在しない人たち。
僕を知っている人たち。
僕が消えたことに気づいているのかさえ、確かめる術がない。
想像しただけで、呼吸が浅くなる。
「この世界の誰かに本名を呼ばれれば、元の僕までこちら側へ引きずり出される気がするんです。ここにいるのが鳴川 善の身体だけではなく、本当の僕自身だと認めなければならなくなる」
「それの何が問題だ」
「帰れない可能性まで、一緒に受け入れることになる」
口にすると、自分で思っていた以上に明瞭な言葉になった。
「元の身体を失ったこと。僕を知る人間が一人もいないこと。向こうへ二度と戻れないかもしれないこと。そのすべてを今、一度に受け止める必要はないと判断しています」
「名前一つで、お前の判断が崩れると?」
「分かりません」
正直に答えた。
「だから試さないんです。今は余計な悩みを増やしたくない」
篠崎さんは僕を見続けていた。
嘘か、同情を引くための演技か。
あるいは、こちらへ見せても構わない程度に加工された弱点か。そのどれなのかを測っているのだろう。
やがて、榊原さんが控えめに口を開いた。
「……名前だけ、なんですね」
「そうだね」
僕は彼女へ頷いた。
「だから今は、それくらい許してほしいかな」
榊原さんは何も言わなかったが、先ほどまで寄っていた眉がわずかに緩んだ。
篠崎さんは背もたれへ身体を預ける。
「分かった。今は聞かん」
「ありがとうございます」
「礼を言うな。納得したわけでも、お前を信用したわけでもない」
机の上を指先で一度叩く。
「本名を含め、まだ隠している情報がある。その前提で扱う」
「はい」
「呼び方は今までどおり、鳴川でいいな」
「構いません」
「いつか必要になれば聞く」
「その時、答えられる状態なら」
「ふん、面倒な言い方をする男だ」
本当の名前は、まだ僕の中にある。誰にも呼ばれず、証明もされず、それでも失われてはいない。それを、僕は寄る辺の月にしたい。
篠崎さんは僕から視線を外し、榊原さんへ向き直る。
「澪」
「はい」
「お前は、こいつをどう見る」
榊原さんは質問の意味を確かめるように、僕へ一度目を向けた。
「どう、って」
「こいつが鳴川 善か。別物か。危険か」
「……鳴川先輩ではないと思います」
答えは早かった。
「根拠は」
「知らないことが多すぎます。担当区域も、私がバディだってことも、夜禍の基本も。話し方とか一人称だけなら演技できますけど、考え方も反応も、全部違う」
「鳴川 善が記憶を失っただけなら」
「それでも、私の知ってる鳴川先輩とは別です」
篠崎さんは続ける。
「危険か」
そこで返事が遅れた。
榊原さんは唇を結び、僕の顔を見ている。理由を探しているようだった。
「分かりません」
率直な答えだった。
「でも、今すぐ私たちに危害を加える人ではないと思います」
「なぜそう思う」
「話したから、です」
「それだけか」
「……それだけなんですけど」
彼女の声が細くなる。
「前の先輩なら、言葉が通じないって思うことが何度もありました。でも、この人は私の話を聞きました。知らないことを知らないって言うし、間違ったことも認める。怖かったはずなんですけど、今は……大丈夫だと思います」
「大丈夫の根拠になってねえな」
「分かってます。でも、そう思うんです」
篠崎さんは榊原さんの顔をしばらく見た。脅迫や混乱の兆候を探しているのだろう。
榊原さんは逃げずに見返した。
篠崎さんは視線を僕へ戻した。
「……はあ、信じたわけじゃない」
「はい」
「異世界から来たなんて話を裏付ける証拠はない。夜禍に汚染されてない証拠も、鳴川 善が芝居してない証拠もない」
「そのとおりです」
「ただ、今ある事実に、一番矛盾が少ないだけだ」
「それで十分です。ありがとうございます」
篠崎さんの指が、机の上を二度叩いた。
「お前のことは、中央にはまだ上げない」
榊原さんが目を見開く。
「いいんですか」
「よくはない。今すぐ報告すれば、こいつは夜禍干渉の疑いで拘束。善の妻子も事情聴取。善の親と役所まで動く。何の資料もない段階で広げれば、相当に厄介なことになる」
だから、と一言おいて、
「俺の管理下に置いて、経過観察。その方がましだ」
僕は口を挟む。
「協力します。ただ、お願いがあります」
「言ってみろ」
「澄雨さんとあんずちゃんを、必要以上に巻き込まないこと。検査や監視を行う場合は、目的と範囲を事前に説明すること。それから、二人が鳴川 善に依存せず暮らすための支援について、相談に乗っていただきたい」
「協会は家庭相談所じゃないんだが」
「承知しています。無償の善意を求めているわけではありません」
僕は篠崎さんの目を見る。
「この身体が持つ適性と能力を、協会のために使います。僕自身の知識や技能も提供する。訓練、検査、行動記録にも合理的な範囲で応じます。その対価として、情報と支援をお願いしたい」
「自分を売る気か」
「ええ、利用価値を提示させてもらっています」
「協会の命令と、二人の安全がぶつかったら」
「内容によりますが、究極的には澄雨さんたちを優先します」
迷う理由はなかった。
「なんだ、使いづらい駒じゃねえか」
「何を優先するか分からない暴れ駒より、だいぶ扱いやすいと思いますよ」
篠崎さんの口元が、ほんの一瞬だけ歪んだ。
「いいだろう。もともと放置はしたくねえ問題だ。お前の妻子の件は、俺が確認する。行政へ上げるかは、今後の検討事項とする」
「ありがとうございます」
「仮の条件を決める」
机を指で叩きながら、篠崎さんは続ける。
「一つ。協会からの連絡は必ず返せ。参加できなくても、現在地と理由を送れ」
「はい」
「二つ。夜間の単独行動は禁止だ。私用でも、夜に外へ出る時は澪か俺を通せ。それと公私を問わず常に電話は出られるようにしておけ」
「分かりました」
「三つ。記憶、感情、身体に異常が出たら即報告。鳴川 善の声が聞こえた、意識が飛んだ、知らない動作をした。何でもだ」
「はい」
「四つ。基礎から再教育を受けろ。区域、手順、装備、報告。鳴川 善の身体に何が残ってるかも検査する」
「異存ありません」
「五つ。当面、再教育中の業務はすべて澪と組め。現場では澪の指示に従え。散々澪をこき使ってんだ、お前も使われる立場になってみろ」
「それは僕ではありませんが……とはいえ、わかりました」
「……え」
榊原さんの声だった。
篠崎さんは彼女へ向き直る。
「明日から、お前がこいつにこの世界を教えろ」
「わ、私がですか?!」
「お前は鳴川 善を一番知ってるだろ。加えて、今のこいつを最初に見たのもお前だ。事情も把握している。もしこいつの中身が変わったら、お前が一番早く気づく」
「そう、かもしれませんけど、でも!」
「こき使ってやれ。攻撃線を切る壁にされた報いを受けさせろ。それにお前は今まで、善に邪魔されて、苦労してきただろう。今度はこいつを使って、お前のやり方で仕事をしろ」
榊原さんは答えず、僕を見た。
「それでも嫌なら、別の人間をつけるが」
篠崎さんが言う。
「……やります」
返事は、思っていたより早かった。
「わかりましたよ、私が教えます。ここに連れてきた責任もありますし。鳴川先輩に散々振り回されたんですから、今度くらい、ちゃんと覚えてもらいます」
「助かるよ」
僕は彼女へ笑いかけた。
「お世話になります、
「その呼び方やめてください」
即答。でも声には棘がなかった。
篠崎さんは立ち上がり、会議の終わりを告げた。
「今日は帰れ。表向きは、昨夜の命令違反と記憶の混乱で、俺の監督下に置く。明日の朝九時に来い。遅れたら、その時点で中央へ上げる」
「分かりました」
「澪、あとは頼んだ。俺は今後の動きを考える」
「はい」
僕たちは席を立った。
扉の前で、篠崎さんが最後に言う。
「鳴川」
振り返る。
「お前が何者でも構わん。だが、その体は鳴川 善だ。善が残した負の遺産すべてに対処するつもりか」
「どうでしょうね。ただ、澄雨さんとあんずちゃんのためになるなら、なんとかします」
正確には、まだ何が残っているのかも知らない。
だからこそ、知る必要がある。
廊下へ出ると、事務所の職員たちが一斉にこちらを見た。榊原さんは何も説明せず、僕を連れて出口へ向かう。
エレベーターを待つ間、彼女は自分の手首を撫でた。
「どうかした?」
「いえ」
エレベーターの数字を見上げたまま、首を振る。
「なんか、変だなって思っただけです」
「何が?」
「分かりません。でも……」
エレベーターが到着し、扉が開く。
榊原さんは先に乗り込み、こちらを振り返った。
「なんでもありません。とにかく明日、遅れないでくださいね」
「分かってるよ、先生」
「だから、それやめてくださいって」
彼女は呆れた顔で前を向いた。
その横顔は、ファミレスへ入った時よりずっと穏やかだった。