酔いから覚めたら妻子持ちのDV男に憑依してたんだけど 作:くじらん421
シーン毎に投稿を分けることも検討中です。
1万字は超えない方が読みやすい気がする今日この頃。
翌朝、時刻は八時五十分。
僕は三条支部の受付前に立っていた。
家を出る前、澄雨さんには協会で再研修を受けることと、数日以内に夜の巡回へ出る可能性があることを伝えてきた。冷蔵庫には昼と夕食の材料を分けて入れ、使う順番を付箋に書いて貼ってある。あんずちゃんには、協会員としての仕事の時は僕を待たずに寝るよう伝えている……そもそも一緒に寝ていないので、その必要はないかもしれないが。
二人とも頷いてくれたが、玄関を閉める直前までこちらを見ていた。引き留めるような視線では決してなかったけど、見送ってくれるくらいには関係が修復されているのかもしれない。
「おはようございます」
受付の奥へ声をかけると、昨日も見かけた女性職員が顔を上げた。
「……おはようございます、鳴川さん」
挨拶の前に、頭から靴まで一度確認された。
彼女にとって、僕は昨日、榊原さんと揃って篠崎さんの部屋へ入り、長時間出てこなかった男である。しかも、鳴川 善であるわけで。
何も気にするなという方が無理だろう。
「おはようございます。ええと、昨日、篠崎さんから、こちらで待つように言われています」
「はい、伺っています。そこの席で待っていてください」
指示された長椅子へ腰を下ろす。事務所では端末の起動音や紙をめくる音が続いているが、チラチラとこちらへ向く視線だけは途切れなかった。
なんとなく居心地の悪さを感じていると、ガラス戸が開き、榊原さんが入ってきた。昨日と同じ姿で、両腕には分厚いファイルと地図筒を抱えている。
「あ、おはようございます、先輩」
「おはよう。重そうだね、持とうか?」
「結構です。ああでも今日、先輩に覚えてもらうものですからね。覚悟しておいてください」
「あ、うん……」
声は平静だが、目の下に薄い影がある。昨日の話を頭の中で何度も反芻してまともに寝れなかったと見える。それでも、こちらを見る目に怯えはなかった。
そこへ奥の扉が開き、篠崎さんが現れた。
「全員、注目」
事務所の空気が止まる。
「鳴川は先日の命令違反と記憶の混乱を理由に、当面、俺の監督下で再研修と配置見直しを行う。連絡、任務、記録は俺か澪を必ず通せ。余計な詮索はするな」
短い説明だった。
異世界から来た別人が鳴川 善の身体を使っている、とは当然言わない。昨日の会議室で話した内容は、篠崎さん、榊原さん、僕の三人だけが共有している。
職員の一人が怪訝そうに口を開いた。
「記憶の混乱って、医療へ回さなくていいんですか」
「必要な対処はすでに済んだ。必要なら俺か澪から回す。今は仕事に戻してさっさと使い物になってもらうつもりだ」
それで質問は切られた。
篠崎さんは榊原さんへ顎を向ける。
「澪。午前は基礎的な知識の復習、午後は装備と検査をする。問題がなければ数日以内に低危険度の巡回へ出せ」
「はい」
「鳴川。勝手な判断をするな。澪の全ての指示に従え」
「承知しました」
即答すると、事務所のどこかで小さく椅子が鳴った。
鳴川 善が素直に返事をする。それだけで、ここでは異常事態らしい。
案内された研修室には、市内全域の地図が壁一面に貼られていた。
赤、青、黄の線で区切られた区域。太い白線には夜間指定通行路と書かれている。その途中には避難所、通報設備、協会の待機地点が記号で示されている。
榊原さんはファイルを机へ置き、最初の一冊を開いた。
「一応確認しますけど、どこまで知ってます?」
「公開情報と鳴川 善……善、でいいか。彼の端末で調べた範囲かな」
そう言って覚えている内容を反復する。
区域は主に3種類。
一つ、第一種夜間安全確保区域。
二つ、第二種夜間安全管理区域。
三つ、夜間危険警戒区域。
指定通行路は、夜でも最低限の移動を成立させるための経路で、協会は夜禍を倒す組織ではなく、人が夜でも安全に活動できるよう支える民間組織。その他、救助活動や夜禍に関する啓蒙活動も行う。
「そこまで分かってるなら、話は早いですね」
「でも知識と運用は別物だろう? それに、知識だって、その上辺すらなぞりきれていないんだ。ぜひ現場で使える形にして教えてほしい」
榊原さんは一度こちらを見て、ファイルへ視線を戻した。
「じゃあ、区域から説明します」
彼女は地図の中心部を指した。
「第一種夜間安全確保区域、通称、第一区は夜間も人を残す必要がある場所です。駅、病院、市役所、避難所周辺。灯りも非常電源も優先されます。灯り、非常電源、通報設備を集中させ、夜禍の出現と接触リスクを可能な限り下げた区域です。第二種夜間安全管理区域、通称、第二区は普通の住宅地。夜は屋内待機が前提で、夜の移動は推奨されません。ただ、指定通行路から外れなければ、それほど危険はありません。私たちの担当は、南三条から四丁目寄りまでの第二区です」
指先が南へ移動する。
「危険警戒区域。通称、禁域。ここは夜間に立ち入る事を想定してません。指定通行路もないか、あっても外縁だけ。通報があっても、一級以上の協会員しか対応できません。それも、状況を鑑みて、承認されたケースのみ。滅多に通報はありませんが、あっても、原則朝まで見に行きません。本当に最低限の安全設備しかありませんので、絶対に入らないでください」
「怖いね……夜間は禁止、ということは日中は入っても大丈夫なの?」
「役所への届出が必要ですが、入ること自体は可能です。禁域を第二区にすることができれば、人の活動範囲も経済区域も広がりますから。実際、南三条はそうやって繰り上がった区域です。禁域に隣接していますが、だからこそ、禁域を第二区にするためのプロジェクトはここ、南三条を中心に行われています。篠崎さんはそのプロジェクトの現場安全責任者なんですよ」
「ふーむ、なるほどなあ。……ちなみに、興味本位で聞くけど、善はその禁域に入ったことはあるの?」
「……肝試しと称して勝手に入ったことはあります。篠崎さんにしこたま怒られてましたが」
返事までに間があった。
「そっか。安心してね、僕は入らないよ」
「本当にお願いします」
次は協会端末だった。
注意、招集、非常。三段階の信号。受信したら、参加可否にかかわらず応答し、現在地と必要に応じて想定される現場到着時刻を送る。現場へ入れば位置情報を共有し、班内の無線を切らない……などなど。
榊原さんが端末の画面を操作しながら使い方をレクチャーしてくれる。基本的に彼女に同行することになっているが、万が一のこともあるからきちんと頭に叩き込み、榊原さんの端末も使って操作の練習も行う。
「夜禍、あるいは、それらしいものを見たとしても、いきなり『夜禍がいる』と報告しないでください」
「ん? でもそれだと本当に夜禍がいる時、困るんじゃない?」
「夜禍耐性にもよりますが、夜禍を視認した時点で軽度以上のパニック状態に陥っています。夜禍がいると口にすれば余計パニックになるので、テンプレートを用いて形式的に報告する方がいいんです。例えば、『南三条十七番灯の北、灯りの外に人型一。民間人なし。退路は南側』。あとでテンプレートはお渡しするので練習しておいてください」
「なるほどね。確かに、応援側が動くための情報を先に渡すこともできるし、状況を口に出して説明・実況すれば、落ち着くこともできる。理にかなっているね」
「そうです。恐怖に駆られてパニックに陥った人は、見えたものを全部言おうとします。しかも夜禍がいれば視線が引き寄せられて、見ないようにしても見てしまう……のだとか」
彼女は僕の目を見た。
「私はその点、他の協会員よりも長く冷静に報告できます。篠崎さんの後方支援ですが、第一線にも何度か同行したこともあるんですよ」
ふふん、と、どこか誇らしげな表情だ。彼女は危険な現場に赴く事に抵抗はあまりないように見える。
「ははあ、そりゃすごいな。期待のホープってことかな」
「ま、まあ、そういう風に言われることもありますね。この間は広報部のインタビューも受けて、夜禍協会の公式SNSにも載ったんですよ。ほら、これ」
ふんす、と自慢するようにスマホの画面を見せてくる。そこには夜禍協会公式SNSのポストがあった。
【協会員紹介】
南三条支部 所属
榊原 澪 二級下位。
南三条での応援班補助,退避誘導を主な持ち場としています。協会最年少の18歳,期待のホープです。
先週の東側灯火断絶案件では,先行したバディと共に帰宅困難者二名を通行路まで誘導,救助しました。
協会は,常に新しい風を受け入れます。
「おおお、すごい、活躍したことも書かれてる! しかも協会最年少の期待のホープだって? 僕のバディはすごい人だったのか!!」
ちょっとだけ大袈裟に驚いてみせると、榊原さんは「んふふ」と口元を緩める。
「んふ、まあ、まあ、私の才能が評価されてる……ていうか?」
「おお!」
印籠を見せつけるかのようなポーズで見せつけてくる。片手を腰に当てて、得意げにしているところを見ると年相応の可愛らしさが見えて微笑ましい。
「見てくださいここのコメント。応援してます、って書いてあります。ファンも少なからずいる……ていうか?」
「おおお!」
事実はともあれ、とりあえずヨイショしておく。いよっ!協会のアイドル!
「このまま行けば、二十歳前に二級上位も確実…みたいな?」
「おおおお! 写真も可愛く撮れてる!」
「そうそう、写真も可愛く撮れてて……ん?!」
急に頬を赤らめる榊原さん。あれ、セクハラだったかな今の。
お互いに固まっていると扉がガチャリと開く。
最初に会った女性職員だった。困惑した表情で口を開いた。
「あの、もう少し声を抑えてもらえると……隣で会議中なので」
「あっ、す、すいません……」
さっきまでの威勢が嘘のように、恥ずかしそうに身を縮める榊原さん。耳まで真っ赤に染まっている。
「いえいえ……ふふ、私もあの写真、可愛いと思いますよ。澪ちゃん♡」
「―――――っ!」
女性職員はこちらを一瞥した後、じゃ、と言って扉を閉めていった。
沈黙が下りる。
とりあえず僕はスマホを開いて公式SNSを確認、該当のポストを探して……あ、これか。
パシャリ。
「あっ! 今スクショしましたね! やめてください! プライバシーの侵害です!」
「いやいやいや、これは正式な広報活動の一環でしょ? やっぱ、バディとして保存しておかないとさ」
「な、なんか嫌です! やめてください、今すぐ消してください!」
「ごめん、待ち受けにしちゃった☆」
待ち受けには榊原さんの写真が。下の方には「期待のホープ!」というテキストをギャルっぽいフォントで入れてみた。
「はぁ?! 今の一瞬でどうやって?! ちょ、や、やめ、消せー!」
榊原さんが掴みかかってくるのでひらりと避ける。負けじとスマホを強奪しようとする榊原さん。
ドタバタしていると、今度は勢いよく扉が開く。
篠崎さんがブチギレた様子で叫んだ。
「馬鹿どもが! ウルセェつってんだよ!!!」
閑話休題。
「ごめんごめん、ほら、ちゃんと消したからさ」
「……なら、いいです。先輩、そんな性格してましたっけ」
「中身は違いま〜す」
「ぜ、絶妙にムカつく……!」
ともあれ、榊原さんはさっきの画像を消したことを確認できて満足したのか、仕切り直した。
でも公式の投稿なら、いつでもアクセスして見られるわけだが、その点はいいのだろうか。僕は訝しんだ。
榊原さんは、切り替えるように咳払いを一つ。
姿勢を正して説明を続けた。
「協会の実働班は主に、巡回班、応援班、搬送・回収班、待機班に分かれています。基本的に、夜禍耐性や個々のスキル等が考慮されて、主とする班への配属が決まりますが、これは作戦や状況に合わせて変わりますので注意してください。例えば、私たちは普段、巡回班として巡回業務にあたりますが、他の班からの要請があれば、そちらに回ることもあります」
「なるほど、平常時の属性みたいなものか」
「はい。篠崎さんの場合だと、基本待機班になっていますが、実務上は今みたいに作戦会議に出たり、協会運営業務のために中央に戻ったりしています」
であれば、協会員にはかなり柔軟に対応するスキルが求められそうだ。
昨日、榊原さんは本来、いろんな業務に携わる予定だったと聞いた。善のせいで、それができなかった、とも。
今も僕のために拘束されているわけだから、本当は色々と思うところがあるのかもしれない。せめて、少しは彼女が思い通りの仕事ができるよう、僕も協力していこう。
「現場は主に三つに分かれています。まず、第一線。夜禍の進路を逸らし、人を庇い、退避路を作ります。篠崎さんのような一級以上が、複数名で事にあたる最前線です。ほとんど、禁域で活動しています」
地図を指し示しながら説明を続ける。
「第二線は人の回収、灯りと無線の維持、周辺警戒を担当。第三線は車両、物資、退避者の受け取りを担います」
ふむ。現場の役割は、夜禍耐性や適正、疲労、人数、地形で変わるのだろう。
「私と先輩は二級下位なので、必要なら応援班として第一線へ上がります。ただ、普段の巡回では第二線寄りです。私は夜禍耐性が高いですが、体力は普通です。先輩は体力と力がありますが、微々たる夜禍耐性しかない。ちゃんと連携すれば、相性は悪くないと思います」
「ふむ。でも、善の時は苦労したみたいだね」
「先輩が、何もかも私に押しつけて、自分は好き勝手に動くので」
「それは連携じゃないね。まあ昨日の話を振り返るに、僕も夜禍耐性とやらはあるようだし。もっと楽になるんじゃないかな」
「先輩の夜禍耐性は後で確認するみたいですけど、でも、それだと私の役割は……」
おや、しゅんとしてしまった。
「いや、夜禍耐性があったとしても、僕はこの世界のことを何も知らないからさ。常識がないから、君の指示なしには動けないよ」
「……あ」
榊原さんはハッとする。そうそう、ちゃーんと役割はあるんだから。
「だから、お互い協力して、連携し合おうね」
「……はい。というか、言われなくても、です。ちゃんと言うことは聞いてくださいね」
「もちろん。頼みにしてるよ」
「た、頼みに……、ふ、ふふん」
榊原さんの表情に自信が戻る。ファイルの角を揃え直し、先ほどより背筋を伸ばした。
彼女は才能があり、協会内でも期待されている。
だからこそ、その期待に応えられない自分が許せなかったのだろう。
できることはするさ。18歳はまだ若い。高校……に通っていたかは知らないけど、通常であれば高校卒業したばかりの若者だ。
そんな子が命をかけて、街や人命を守ろうとしているのだから、ここで力にならないなんてありえない。現状、おんぶに抱っこになりそうなのは大変心苦しいが、篠崎さんが言った通り、せめて彼女が仕事しやすくなるように尽力しよう。
その後も彼女の説明は続いた。
目視後は、頭痛、吐き気、耳鳴り、記憶の欠落を互いに確認する。任務終了は帰着ではなく、装備返却と報告が完了した時点。報告書には、何秒視認したか、それによって何ができなくなったかを書く……等。
僕は途中で遮らず、最後まで聞いた。
一区切りついたところで、ノートを見返す。
「質問は三つ。指定通行路の灯りが一基だけ切れた場合、迂回を決める権限は巡回班にある?」
「仮迂回ならこちらで決めます。長期的な変更になる場合は役所側で決められます」
「視認した人間が報告不能な場合は?」
「相方が救助信号を出し、撤退に移ります。報告不能に陥るのは禁域、第一線にいる時くらいです。先日のように第2区で夜禍が発生し、報告不能に陥ることも稀にありますが、第2区でもバディで動いてますし、必ずどちらかが動けるような組み合わせになっています」
「なるほど。じゃあ、最後。第一線へ上がる判断と、民間人を連れて退く判断が衝突したら?」
「人を連れて退きます。人命救助が最優先です。第一線へ上がること自体が人命救助であれば、先に民間人を最低限保護してから上がることになると思いますが、実際の判断はその時の指揮官によります」
迷いのない回答だった。
「分かりやすい」
「……ちゃんと聞いてましたか? いえ、メモを取ってくれていたので、聞いてくれていたとは思うんですけど……何せ、鳴川先輩なので」
「君が教えてくれているからね。無駄にはしないさ」
榊原さんは返事をせず、ファイルをバタンと閉じた。耳の先が赤い。
部屋が暖かいのだろう。たぶん。
午後は装備庫へ移った。
壁面の棚には、携行灯、予備電源、反射板などの装備品が種類ごとに並んでいる。どれも派手さはないが、近寄って見ると、使用痕が見てとれた。
「これが通常巡回の一式です」
榊原さんが腰ベルトを机へ置く。装着してみると、各装備品の重さに偏りが大きいこと気づく。走れば腰を持っていかれるだろう。
「この予備電源かな、背中側へ寄せても?」
「ええ、装備さえしていれば、どうにでも」
ベルトを通し直し、全体的なバランスを重心へ近づける。
夜禍に遭遇した際、視野を制限したり遮ったりするための遮蔽布もある。
これは鉢巻のようにベルトに巻かれていたが、一度引き抜き、畳み直した。
「何してるんですか」
「片手で取れて、大きく広げられる向きにしてる。この布はを使う時、もう片方の手は身体を支えている可能性が高いから」
「……なるほど」
「反射板は見たところ、光を乱反射させる構造になってるね。つまり一方向からの光を全体に拡散させるためのものかな。これも腰の後ろにくるけど……取り出しにくいかもね。前側につけておこう」
榊原さんは僕の手元と装備表を見比べた。
「まあ、自由にすればいいですけど……そんな風に考えることもできるんですね」
「僕らはツーマンセルだしね。二人でいることが前提の動きになるから、もっと最適化できるかもしれない。そこは現場で合わせていこう」
「……そっか、そうですよね。二人でいることが、前提……」
互いが互いのバディなのに、今までそういった連携は取った経験が少ないのだろう。連携は大事だ。連携と状況次第では、こちらが2人でも10人を一度に相手取ることすらできるのだとか。
「……なんか、その。……先生って、本当だったんですね。教えてるのか、教えてもらってるのか、分からなくなります」
「うーん、というか年の功?かなあ」
「へえ。そういえば、元々何歳なんですか?」
「29歳。この世界に来なければ、あと1ヶ月で30歳になるところだったよ」
「……………」
「なんだい? 何か文句でもあるのかい?」
「………いえ、その、見た目のとのギャップが」
「善は25歳だからね。ま、ほぼ同年代でしょ」
「……………」
「言いたいことがありそうだね。でも聞かないでおくよ」
「―――――ふふっ」
榊原さんが笑ってくれた。すぐに元の無表情に戻ったが、それ以降、口元の硬さが消えたように思う。よき。
簡易耐性検査は、支部の奥にある窓のない部屋で行われた。
中央にスクリーンと椅子。青色の待機画面をプロジェクターが写している。
僕は椅子に座って、指先へ脈拍センサーをつけた。
篠崎さんは壁際に立ち、腕を組みながら言った。
「検査記録はこの部屋から出さない。ここで、俺たちの間でのみ共有する」
「ああ、善が戻ってくるケースを想定して混乱させないためにですね。僕も賛成です」
「話が早いな。ったく、本当に善じゃねえんだな。ともかく、始めるぞ」
「お願いします」
「澪、始めろ」
榊原さんがプロジェクターにパソコンを繋げて操作する。
「では、始めます。過去の観測記録による写真を見せます。一般公開用の画像は処理されていますが、これは検査用に保管された未加工の観測記録なので、薄い認識残滓が残っていると言われています。気分が悪くなったらすぐ言ってください」
「分かった」
「しっかり意識を保って下さい。……でも、我慢しすぎないでくださいね」
「わかった、ありがとうね」
「……いえ」
彼女はプロジェクターに繋いだノートPCを操作する。
「最初は一秒だけ見せます。夜禍がどこにいるのか、すぐにわかると思いますので、位置と形、数を教えて下さい」
「了解」
了承すると、スクリーンに古い夜道の写真が映る。
街灯の下。画面の左端に、人の形をした黒いものが立っている。
直後、画面が暗転した。……1秒って短いな。
「ええっと、左端。人型が一体。右腕が膝より下まであったかな。顔らしきものは見れなかった」
「体調はどうですか?」
「ん? いや特に何もないかな」
そういうと二人は少し驚いた様子を見せる。
「かなりはっきり視認して、特徴まで捉えてるのに……。あの、ほんとに無理していませんか?痩せ我慢はダメですよ?」
「いや、全然……まあ、強いていうなら、思ってたより1秒が短いなあ、と思ったくらいかな」
「バイタルに変化はねえな。続けろ」
榊原さんの指がノートPCのキーボードを叩く。
映像が開く。二回目は二秒とのこと。
同じ映像ではなかった。閉鎖された商店街のように見えるが、ピントがブレている。
よし、探そうと思った瞬間、画面が閉じられた。
「どうですか?」
「…………」
「あの、先輩?」
「っスゥ―――。ええ、と」
僕が言い淀んでいると、二人は神妙な面持ちになった。
「気分が悪くなりましたね? わかります、私も軽い目眩を一瞬だけ感じましたから」
「おいおい。あれで軽い目眩か。澪の夜禍耐性、少しは分けて欲しいもんだ」
「い、いえ、これくらいは、別に、その」
言いづらい。実に言いづらい。
「あ〜、の、ですね。その」
「おい、鳴川。無理して強がるな」
「あの、いえ、単純に、時間が短くてどこに夜禍がいたのか分からなかったので、もう一回見せてもらえませんか?」
「 「―――――は?」 」
篠崎さんが絶句する。
「あんなに存在感のあるものに気づけないわけねえだろ」
「そ、そうですよ。1枚目の時点で夜禍協会員としての適性はちゃんとあると分かりましたし」
違う、違うんだ。ほんとに見つけられなかっただけで。
「あの、すみませんほんと、ぼやけててよく見えなかったというか、商店街なのは分かったんですけど……もう一回だけ見せてもらえませんか?」
動体視力が弱くなってることを報告するようで恥ずかしい。脳年齢が高齢者レベルだと診断された時のような、申し訳ないような、情けないような、そんな気持ち。
「……バイタルに問題はねえ、か。おい、澪。見せてやれ」
「は、はい」
再度映像が開く。商店街、モノクロ、シャッター街、車、街灯、カーブミラー……アッ。
映像が閉じられる。
「…………」
「…………」
「…………モウイッカイ オネガイ シマス」
なんだ、なんだその目は。
やめろ、僕はまだ20代だぞ。そう、そうだ。この身体は鳴川 善のものだから、使い慣れてない、そういうことだ。そうに決まってる。
「……俺は目を閉じてる。夜禍を見つけたら教えろ。澪、もう一度頼めるか」
「え、あ、は、はい。……あの、一応私も目を閉じていいですか?」
「おいおい笑笑 次はすぐ見つけるって笑笑笑」
「篠崎さんお願いしますいいですか(涙目)」
「………まあ、いいか。鳴川、視認したら言え」
「すぐに見つけますから見てて下さい。3秒、いえ5秒で見つけます」
映像が開かれる。篠崎さんはそっぽを向いて、榊原さんは目を閉じている。
こいつら笑笑
すぐに見つけてやるわ笑笑笑
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………あ! これ! これだ! 屋根の上のこいつでしょ! この黒いウニョウニョしたやつ! 左上隅は見つからないてぇ!」
「……先輩、右下のゴミ箱付近です」
「…………あ、これね。これ。はいはい。いや、これかなとも思ったんだよね、いやほんと。でもちょっと小さいしこれ、人の形してないし。コンビニ袋でしょこれ笑笑」
「…………」
「…………」
「…………」
何か言いなよ。
「澪、次だ」
「先輩、このエンターキーを2回押して下さい。そしたらスクリーンに映像が映し出されますから。好きに探して下さい。時間制限は無しです。見つけたら教えて下さいね」
「バカにしてんのか」
三回目は、おもちゃが乱雑に散らばった洋館の一室。大型のぬいぐるみや美術品なども不規則に配置されている。
「…………」
「…………」
「…………」
なんか、小学生の時、こんな感じの絵本があったな。
紅白の縞模様の服を着た男ではなく、指定されたアイテムを探すやつ。
中学生になっても暇つぶしに読めるあの絵本は、子どもの集中力向上にも役立つとかなんとか(現実逃避)
やれやれ、しょうがない。
「ひ」
「 「 ……? 」 」
「ヒントください……」
僕は心が折れそうだった。
「ミッケ!これかあ! いやあ、スッキリ! 言われてみれば不自然な造形してるわ! この人型のようでギリギリ違うところがいい塩梅だね。よく見ると全体的に歪んでるというか、なんか顔っぽいのもあるし!」
「なんだこいつ……」
「その、チラッと見たんですけど、ちゃんといます。なんで先輩は見つけられないし、注視もできるんですか……なんで見つけて喜んでるんですか……」
「いやだって……隠れてるというか、他のオブジェクトに紛れてて、そんな簡単には見つけられないよ。難易度高いよ、これ」
「こう、身の毛がよだつ一点があるだろうが。視線を向ける以前に、視野に入っていたら目を向けざるを得なくなるようなものがよ。それでいて見ちゃならねえと本能に訴えかけてくる感覚が」
「ないですね(断言)」
ないです。そんな感覚。
「どうなってんだ……お前、本当に人間か」
「そのつもりですけど」
「怖くは、ないんですか? 気分が悪くなったりは……」
「うーん……大丈夫だと思う。強いていうなら、恥ずかしくてちょっと暑いくらいかな」
二人は信じられない現象を目の当たりにして、咀嚼できていないようだった。
榊原さんは、気持ちを落ち着けながら言葉を探し、つぶやいた。
「普通は、怖いと思った時にはもう、考えられなくなるんです。形を見つけたら、そこから目が切れなくなる。何を見たか説明しようとして、また、見てしまう」
今は何も映っていないスクリーンに目を向けた。
僕自身も困惑している。
二人の反応を見るに、僕の様子は相当おかしいようだ。
二人にとっては抱くべき反応や感情のようなものが、僕には生じていないのだろうか。
「鳴川、お前自身はどう考える」
真剣な表情でこちらを見る篠崎さん。ともすれば睨んでるようにも見えるが、それも致し方ない。
「そうですね。夜禍に対しての恐怖心がゼロというわけじゃないと思います」
「どういうことだ」
「榊原さんと会う日の前夜、夜禍が南三条に現れた時ですね。僕はカーテンの隙間から夜禍らしきものを確認してるんですよ。その時はちゃんと、恐怖心は抱いていましたし、その感覚はまだ新しいです」
「……そういえば、そうでしたね。驚きの連続だったので忘れてました」
「ふむ……」
部屋に沈黙が落ちた。
篠崎さんがノートPCを取り上げる。
「とりあえず、結果は保留。要再検査とする。澪、今のことは記録するな」
「篠崎さん?」
「このまま中央に伝えたら鳴川がバラされるかもしれん。まだ早いだろう」
一生来ないで下さい、そんな機会。
早いも遅いもありません。
それから僕を睨む。
「訳の分からない状況だが、変に過信するなよ。夜禍への対応は従来の規定通りに動け」
「ええ、分かっています。澪さんの指揮下で、余計なことはしませんよ」
「ならいい。今日は終わりだ。巡回業務を実施するかどうかは澪が決めろ」
「あ、わ、わかりました」
「分かりました」
部屋を出る時、榊原さんは振り返らなかった。
休憩室。机を挟んで白湯を飲みながら、さっきの検査結果について話し合う。その延長線上で、元の世界の話をしていたら、榊原さんがさらに訊いてきた。
「その、本当に、夜禍がいないんですか」
「僕の世界にはね。オバケや超常現象をわざわざ否定することはしないけど……一番怖いのは人だと思ってる」
「そう、ですか。想像もつきません。じゃあ、夜は、何をするんです?」
質問の意味がすぐには分からなかった。
「何をって……寝る人もいれば、働く人もいるし、遊ぶ人もいるよ」
「外で?」
「外で」
榊原さんは、理解しにくい説明を聞いた顔をした。
「コンビニは一晩中開いているし、仕事帰りに散歩する人もいる。駅前は夜の方が人が多いことも。山や高い建物から街の灯りを見ることを、夜景って呼んで楽しんだりね」
「夜の景色を楽しむ、ですか」
「うん。春夏秋冬、夜にはちょっとしたイベントがあるよ。春には夜桜を楽しんだり、夏は花火大会で夜空に咲く大輪の火花を楽しんだり。秋にはお月見と言って、みんなで夜に出て月を見上げたりもするよ。冬はLEDでライトアップされた街並みや商店街を見て楽しむんだ」
「それは全て、夜に外出して?」
「そうだね。安全に注意すれば、夜も楽しい時間だよ」
彼女の指が紙コップの縁で止まった。
僕にとっては、なんてことはない日常だ。
夏の夜、窓を開けた職員室へ虫の声が入ってきたこと。遅くまで残った生徒を駅まで送ったこと。飲み会の帰り、冷たい空気を吸いながら歩いたこと。深夜のコンビニで、翌日の朝食を選んだこと。
特筆することのなかった、日常の一コマ。
「暗い場所が危険じゃなかったわけではないよ。事故も犯罪もある。でも、夜そのものが人や社会を壊しに来ることはなかった」
「……そんな世界、あるんですね」
「僕からすれば、こっちの方が信じがたいけどね」
榊原さんは紙コップを両手で包む。
「見てみたいです……その、空に打ち上げられる大きな花火」
「こっちでは花火大会とかは……まあ、難しいか」
「はい。夜を楽しむ、という感覚が普通はありませんから。夜中に窓の外を見ても怒られない場所が、本当にあるなら……」
私は、行ってみたい。
そう呟く彼女に。
思わず笑いかけて、やめた。
「案内できればいいんだけどね」
「……先輩は、帰りたいんですよね」
「もちろん」
答えると、胸の奥で何かが沈んだ。
帰ると口にするたび、戻れない可能性まで一緒に輪郭を持つ。
「ただ、今はやりたいことがある。元の世界に戻る方法を探すのは、色々と落ち着いてからかな」
榊原さんは追及しなかった。
「分かりました」
彼女の声は、検査室にいた時より穏やかだった。
二日後、僕たちは初めて夜の巡回へ出た。
検査をした日は念のために自宅待機となったので、澄雨さんとあんずちゃんと夜を過ごしていた。澄雨さんは新しいベッドや枕にはまだ慣れてないようだったが、あんずちゃんはいつもぐっすり眠ってくれる。
小さなアパートの一角だけど、穏やかな夜を迎えていた。
さて、今日はといえば。
担当は南三条の夜間指定通行路。灯火点検と、通路上の障害物確認。
夜禍の目撃報告はなく、危険度は最低区分だった。
出発前、榊原さんは僕の装備を一つずつ確認した後、ピンと指を立てて言う。
「今日は私の指示から外れないでください」
「うん」
「気になるものがあっても追わない」
「わかった」
「止まれと言ったら止まる。見るなと言ったら見ない」
「了解」
「……返事だけはいいんですけどね」
「行動も伴わせるさ」
支部を出る頃、空はだいぶ暗くなり始めた。ちょうど日没の時間。これから1時間で一気に暗くなるだろう。
店先ではシャッターを下ろす音が続き、通りを歩く人は駅や住宅地へ向かっている。日没が近づくほど、街全体が灯りの内側へ畳まれていく。
榊原さんは前。僕は半歩後ろの車道側。
さあ、業務開始だ。
十七番灯、十八番灯、異常なし。
通報端末、作動確認。
道路上の自転車一台を歩道外へ移動。
彼女は確認するたび端末へ入力し、僕へ周囲を報告させた。
「十九番灯」
「点灯正常。異常なし。東へ帰宅中の民間人二名」
「問題なし、ですね。次にいきましょう」
短い指示に従って歩く。
途中、端末へ注意信号が入った。
二十三番灯の照度低下。
地図上では、住宅地を抜ける細い指定通行路の途中だ。
件の街灯に到着すると、灯りは完全には消えていなかったが、一定の間隔で明滅している。
榊原さんが片手を上げた。
「止まって」
僕はその場で足を止める。
彼女がこちらを振り返った。まさか本当に止まるとは思っていなかった顔だった。
「どうしたの?」
「いえ。何でもないです」
榊原さんは灯りの届く端まで進み、路地の先を確認する位置を選んだ。
「私が退路と状況を見ます。先輩は正面を確認していて下さい」
「了解」
すでに周囲は暗くなっている。主灯を胸の高さに固定しつつ、反射板で街灯の光を周囲に送りながら正面を観察する。
人影なし。奥の交差点まで動きなし。
「人影なし。倒れた赤いコーンが通路を半分塞いでいる。近くで道路工事していたし、工事用の備品だろうね。奥の交差点まで動きなし」
「分かりました。片付けるので手伝ってください」
「了解」
榊原さんは役所側へ照明不良と障害物を報告する。僕は南側から来た自転車の男性を止め、一本手前の通路へ案内した。
整備班が到着し、明滅していた灯りが安定するまで十五分。夜禍の出現はなく、コーンも回収された。
巡回を再開した後、榊原さんの足取りが変わった。
前より歩幅が広い。端末の入力も速い。何度もこちらを確かめなくなった。
「二十七番灯」
「異常なし。民間人なし」
「次、通報端末」
「作動確認。異常なし」
彼女は自分の仕事だけを見ていられる。
元の善と組んでいた時は、夜禍だけでなく相方の暴走まで監視していたのだろう。今夜、その負担の一つだけは減らせたらしい。
巡回終了の入力を終えた時、時刻は二十二時を少し回っていた。
「これで終わり?」
「支部へ戻って、報告と装備返却を返却します」
「てっきり夜明けまで働くのかと思ったよ」
「夜明けまで事務所で待機ですよ」
「あ、そうなんだ。じゃ、コーヒーでも買っておこうかな」
「事務所にありますよ。皆眠気覚ましにコーヒーを飲みますから、種類は豊富です。私は紅茶派ですけど」
「肩身が狭そうだねえ」
周囲を警戒しつつ会話を交わしながら支部へ戻る。
装備を返却し、二人分の報告を照合する。
初めての巡回業務。
照明不良一件、通路障害一件、民間人の迂回誘導一件。夜禍確認なし。
悲惨な事故も英雄的な活躍もない。ばっちりだ。
人を夜の外へ残さず、灯りと道を朝まで繋ぐ。協会の仕事が何を目的にしているのか、初めて身体で理解できた。
「榊原さん」
報告端末を閉じた彼女へ、折り畳んだ紙を差し出す。
「何ですか、これ」
「ま、ちょっとしたお礼だよ」
榊原さんは紙を開いた。そこには個包装の小さい板チョコと。
今日はたくさん学びを得ました!本当にありがとう。これからもよろしく!
彼女の視線が、その一文で止まる。
「……なんですか。これ」
「ん? 感謝の気持ち。こういうのは言葉にするのが大切だからさ」
「……そんなたいした事、してません」
「僕はたくさん学ばせてもらったよ。僕にこの世界の夜を教えてくれたのが、君でよかった」
返事はない。
榊原さんは紙を半分に折り、さらにもう一度折った。
四つ折りになった紙は、彼女の協会証と一緒に、胸元のポケットへ収まったのだった。