酔いから覚めたら妻子持ちのDV男に憑依してたんだけど 作:くじらん421
多分4話に分割した方がいいけど……まあええか!!の精神でぶん投げます(っ'-')╮ =͟͟͞ (12話)
初めての巡回業務から四日。
僕と榊原さんが一緒に夜へ出るのは、これで三回目だった。
その夜、南三条で四基の街灯が同時に消えた。
「南三条二十一番灯から二十四番灯まで、連続消灯。灯りの間に民間人六名。夜禍の目撃情報はありません」
榊原さんが端末を確認しながら、通りの先を見た。
二十番灯から二十五番灯までは、およそ六十メートル。その間にある二十一番灯から二十四番灯までの四基が消え、道路は途中だけ切り取られたようにうす暗くなっていた。
北側と南側には正常な灯りが残っている。区間の中央では薬局が自家発電の外灯を点け、浮島のように明るい軒下へ、帰宅途中らしい人たちが固まっていた。
幼い子どもを抱いた女性に高齢の夫婦。薬局の制服らしきエプロン姿の男性も二人いた。
完全に安全照度を失っているのは、薬局の南北にそれぞれ十五メートルほど。合わせて三十メートル程度だった。
元の世界なら、多少怖くてもスマートフォンのライトでもつけて通り過ぎる程度の距離だろう。
しかしこの世界では、その三十メートルが夜へ沈んでいるかのような雰囲気で、より現実的な恐怖がそこにあった。
「……先輩は薬局まで走っていってもらえますか。私は退路を確認、確保します。住民が動いても、暗がりには入らないでください。こちらから声をかけるまでは、その位置で留めておいてください」
「了解」
「返事が良くて何よりです。前の先輩なら、暗闇に入るなんて絶対嫌だってごねてましたから」
何やってんだ、善……
「んー、というか、そんなに暗いかな。二十番灯も薬局も点いているし、向こうの二十五番灯も見えるよ」
「暗いんですよ、これ。元の世界では、この程度なら普通に通るんですか?」
「もっと暗くても歩いてたかな。夜にランニングもしていたし。秋の夜は涼しくて好きだったよ」
「夜にランニング……」
榊原さんが、信じがたいものを見る顔をした。
「つくづく、違う世界なんですね」
彼女は携行灯を胸の高さに固定し、反射板を道路へ向ける。
「二十番灯側の退路、異常なし。仮光路を確保しました」
無線へ報告し、彼女がこちらへ目をむける。
「先輩。薬局まで行ってください。住民を一列にして、二十番灯までの誘導をお願いします」
「分かった」
榊原さんが作った光の線を通り、薬局の軒下まで駆ける。
「夜禍協会です。あちらの灯りまで皆さんを誘導します。薬局のスタッフの方は、お二人ですか?」
エプロン姿の男たちへ確認する。胸の名札には、それぞれ店長と薬剤師補助と書かれていた。
「薬局内に、まだどなたか残っていますか?」
「い、いや、誰もいない。俺が最後に店内を確認した。裏口も施錠した」
「分かりました。ありがとうございます。ここからは、こちらの案内に従ってください」
「ああ。助かる……本当に、よかった」
店長の男は目に見えて安心する。僕らの会話を聞いていた子どもを抱いた女性は縋るような目をこちらに向ける。
その横で、高齢の男性が妻の腕を掴んだまま暗がりを指差した。
「今、何かが動いたような。あそこだ。電柱の横にいた」
「分かりました。確認してみますね。視認すると危険ですから、あちらの女性を見ていてください」
男性が指した先には、灯りの切れた電柱がある。
皆の視線を榊原さんに向けさせたあと、その電柱付近にフラッシュライトを当ててみるが、何も見えない。
「……すまない、気のせいだったかもしれん」
「分かりました。大丈夫ですよ、ありがとうございます。今は念のため、気になるものがあっても見ないようにしてくださいね」
静かに首肯した男性。彼の指摘自体は否定しない。見間違いだと言い切っても、彼は納得しないだろうし、真偽の確認は今でなくてもいいからだ。
「これから彼方の女性……榊原が作った退路を通ります。私の背だけを見て、ついて来てくださいね」
薬局の店員へ声をかける。
「青い鞄の方。私のすぐ後ろを歩いてください。あと、後ろの人たちが遅れていないか見てもらえますか」
「お、俺が?」
「ええ。あなたが一番、周りを見られていますから」
嘘である。むしろ、この中では二番目に余裕がない。
ただ、人間は与えられた評価に案外素直だ。特に、それが自分にとって好ましい評価ならなおさら。
「落ち着け」と命令するより、「あなたは落ち着いている」と役割ごと渡した方が早い。
あとは、その役を演じるための仕事を一つ与えてやればいい。
「あ、ああ。分かった。やる」
「助かります。では皆さん、この方の後ろへ。子どもを抱いている貴女は、彼の背中だけ見てください。後に続く方は前の人の肩から目を離さないように。大丈夫ですよ、ほんのそこまでですから」
恐怖を消してから動かす必要はない。
足を出す順番さえ決めれば、人は案外動ける。
僕がゆっくり歩き始めると、皆がついてくる。薬局の軒下から二十番灯の光が届く位置までは、十五メートル程度。
途中で子どもが泣いて、母親の足が止まりかける。
「お母さん、大丈夫ですよ。そのまま私を見て。あと少しです」
「でも、この子が……」
「泣いていて大丈夫ですよ。泣き止ませなくていいです。そのまま抱いていてあげてください。お子さんには『大丈夫、ママと一緒だよ』って、いつもの声で話しかけながら歩きましょう」
それから、母親の胸元で泣く子どもへ視線を落とす。
「怖いね。でも、お母さんが抱っこしてくれてるからね。お母さんにぎゅってしてて。あとちょっとだけ、一緒に行こう」
「……っ、ぅ……」
「そう、それでいいよ。泣いてても大丈夫」
僕は再び母親を見る。
「お母さんは僕の背中だけ見て。そのまま来てください」
「……はい」
彼女は不安そうだったが、子どものために優しい笑顔を向ける。強い母親だ。
「先輩、あと少しです」
「うん」
彼女は反射板を片手で固定しながら、もう片方の手で予備灯を路面へ置いた。僕らの足元まで光が伸びる。
そうして何事もなく、無事に六人を救助できた。榊原さんはすでに役所側へ仮迂回と緊急整備を要請していた。
六人全員が僕らに礼を伝えてくれたあと、それぞれが避難路を通じて帰宅するのを確認し、僕らは二十番灯の真下に戻った。
「救助要請のあった住民6名の退避が完了しました。負傷なし。夜禍確認なし。消灯区間は封鎖を継続します」
報告を終えた榊原さんが、端末を下ろした。
「先輩」
「うん?」
「初めての救助活動、無事に終わりましたね。お疲れ様です。それと、ありがとうございました」
「いやいや、こちらこそ的確な指示と役所への連絡もありがとう。避難指示も報告も、今の僕にはできないことだからね」
「それはまあ、分かってますけど……」
彼女は暗い区間と僕を見比べた。
「今まで一人で救助活動してましたから」
「謝罪案件が増えていくなあ……」
「まだありますよ」
「え?」
「まだまだ、たくさんありますから。頑張ってくださいね。私もホントに大変だったんですから」
言い切った後、榊原さんの口元が緩んだ。
整備班の車両が到着し、道路へ追加灯が並べられていく。
それから巡回業務を再開したが、榊原さんは終始機嫌が良さそうだった。
* * *
僕と榊原さんが一緒に夜へ出たのは、これで三回目。
この四日間に対応したのは、どれも新聞に載るような事故や事件ではない。
照明不良や路上を塞ぐものの撤去、帰宅時刻を過ぎても動けずにいる人の避難誘導が主だった業務だ。思っていた以上に夜禍へ遭遇することはない。緊張感はあるが、巡回業務がほぼ全てと言ってもよかった。
別の地区で夜禍が出現したという情報は事務所や無線を通じて共有されるが、自分と榊原さんが応援に駆り出されることはなかった。もしかすると篠崎さんが何か配慮してくれたのかもしれない。
その二日後には、閉鎖時刻を過ぎた診療所の前で、高齢の女性を保護した。
診療所を出て夜間輸送車両へ向かう途中、遠くで注意信号が鳴ったらしい。女性は指定通行路の中央で座り込み、足首を押さえて動けなくなっていた。どうやら、足をひねって転んだようだった。
注意信号を受けて北側区間は一時封鎖され、車椅子を積んだ搬送班は三十六番灯より先へ入れない。今いる場所に留まるより、そこまで移した方が安全だった。
「娘が、避難所で待ってるの。行かないと。でも、足が……」
息を吸うたび、喉の奥がヒューと細く鳴っていた。軽いパニックで呼吸が浅くなっている証拠だ。
榊原さんは周囲の灯りを確認し、女性の前へしゃがんだ。
「大丈夫ですか? 南側の通路を使って避難しましょう。夜禍の目撃はありませんから、落ち着いて……」
説明は正確だったが、女性の呼吸は戻らない。情報を理解する余裕そのものが失われているのだ。
榊原さんがこちらを見た。
「先輩……この人を連れていってもらってもいいですか?」
「ん、そうだね。ただ、まずは僕に任せてほしい。落ち着かせてみる。退路と応援の要請は任せていい? あと椅子型担架もお願い。向こうのお店に置いてあるはず」
「わ、分かりました。後ろは任せてください」
僕は女性の斜め横へ腰を下ろす。視界を塞がない位置。
「私の声は聞こえますか」
「……は、はい、あの、む、娘が」
「大丈夫ですよ。ゆっくり、深呼吸をしてください」
彼女の左肩に手を置き、それから二の腕、肘、手首をリズムよく握る。
最後に手を握ってから、また肩に。
「私たちは夜禍協会から派遣されて来た協会員です。娘さんのところへ、私たちが必ずお連れします。貴女は無事に、送り届けられます」
肩をトンと叩く。
「もう貴女は安全です。夜禍協会員に保護されていて、娘さんにも会うことができます」
肩をトンと叩く。
女性が顔を上げる。うん、よし。
「貴女は安全です。分かりますか?」
「え、ええ……。そうね、夜禍協会の方が来て下さったものね。安全よね」
「ええ、そうです。何も恐れることはありません。では今から、立つところまでを三つに分けます。最初に杖を右手へ。次に左手を地面へ。最後に私の腕へ体重を移す。たった、それだけであなたは立ち上がれます」
「歩けるかしら……」
「歩けなくても大丈夫ですよ。座ったまま移動できるものをご用意します。それに、そこまで私がちゃんとお連れしますから」
「あら、頼もしいわね」
「女性の前ですから」
「あらやだ、うふふ」
彼女が笑ったところで、榊原さんが救助椅子を押して戻ってきた。
女性を椅子へ移し、灯りの内側まで搬送する。最寄りの待避点で娘と合流した女性は、毛布を掛けられながら何度も頭を下げる。
「お兄さん、ありがとうね。助かったわ。お名前は何ておっしゃるの?」
「鳴川 善と申します。ここ数日は無理に歩かないでくださいね」
肩をトントンと叩くと、女性はハッとした後、穏やかに微笑んだ。
「ええ、そうするわね。それと……」
女性は榊原さんに向き直る。
「ありがとうね、お嬢ちゃん。あなたが皆さんを呼んでくださったんでしょう? 最初に声をかけてくれて、嬉しかったわ。あの時は焦っちゃってごめんなさいね」
「いえ、私は……」
「その通りです」
僕が言うと、榊原さんがこちらを向いた。
「安全な道を選んで誘導し、応援を要請したのは榊原さんです。私 は横で話をしただけですよ」
「せ、先輩がこちらまで連れてきたじゃないですか」
「でも、最初に榊原さんが動いて、迅速に応援を呼んでくれただろう? それから足首の手当てもして、ずっとそばにいたじゃないか。僕のバディとして心強いよ」
女性は何度も頷いた。
榊原さんは困ったように口を閉じたが、否定はしなかった。
「あ、この子うちの協会イチオシの子なんですよ。インターネットでも有名で……これこれ、ほら」
「あら、ほんと! 榊原 澪さんとおっしゃるのね。若きホープですって。すごい人に助けられたのねえ」
「ちょ、せ、先輩!何を見せ……あっ! それこの前の! 写真消したって言ったじゃないですか!」
「何を言ってるんだい、ミオ太くん。これは公式SNSアカウントの投稿だよ。公式アカウントにアクセスすれば誰でもいつでも見られるよ」
「…………っ!!」
僕たちの様子をコロコロと楽しそうに見ながら、協会員の補助で搬送車両に乗り込んだ女性を見送った後、榊原さんは端末へ簡易的な報告を入力する。
その手つきは、以前より軽く、横顔はどことなく嬉しそうに、楽しそうに見えた。
「あ、先輩」
「うん?」
「榊原さんじゃなくて、澪でいいです。皆そう呼びますし、現場でもその方が反応しやすいので」
「急だね」
「嫌なら別にいいですけど」
「分かった。よろしくね、澪」
「……はい」
* * *
人を動かすのは僕。灯りと退路を管理するのは榊原さん。二人の役割が形になり始めた頃、実物の夜禍を遠距離から確認する案件が入った。さらに二日後のことだった。
場所は南四丁目外縁の旧運動場。指定通行路からフェンスを挟み、四十メートルほど離れた場所に人型らしい影が見えるという通報である。
民間人はすでに退避済み。
僕らの役目は、灯りの内側から位置と進行方向を確認し、現場を封鎖すること。それと、もし夜禍が移動するタイプの場合は封鎖網を調整して応援班や誘導を担当している人たちに連絡すること……とのことだった。
前提知識として榊原さんに何度も言われたのは、夜禍を排除することはできない、ということだった。僕が知識不足でそのようなことを口にした時、彼女は一瞬、得体の知れないものを見るような顔をしたあと、すぐに「ああ」と納得した。
「そっか。先輩の世界には夜禍はいないんでしたね」
端末を確認しながら、榊原さんは足を止めずに続ける。
「いいですか。夜禍が出ても、倒そうとしないでください。そもそも倒せません」
「そうなんだ……それは、一級協会員とかでも?」
「無理です。高出力灯を重ねて人間側の領域を確保した上で、夜禍耐性が高く、干渉力も高い「適性者」認定を受けた協会員が必要です。圧倒的な光量と適性者たち、その二つが集まって初めて、夜禍の進路を逸らすか、短時間その場に留めるか、の選択肢が生まれます。でも、それくらいです。夜禍を追い払えるわけじゃありません」
「じゃあ、僕らが現場に着いたら、メインの仕事はどんなものになるのかな?」
「現場の封鎖と避難誘導がほとんどです。近くに残ってる人がいないか確認して、いたら灯りの内側まで退避させる。そのあと封鎖して、新しく人が入ってこないようにします。夜禍の接近圏へ入って、動けない人を直接引き出すような救助は一級案件です。そうなったら篠崎さんに連絡して、指示を待ちます」
榊原さんが端末の地図を指で拡大する。
「今回みたいに民間人がほとんどいない場所、あるいは、退避済みの場合、夜禍の位置と進行方向の確認をして、指定の地図アプリで共有します。夜禍が動いたら封鎖範囲をずらして、随時共有。近づく必要はありません」
「夜禍そのものは?」
「監視だけします。人のいる方へ来そうなら、必要に応じて二級以上が対応します。でも、それも人間から離すためです」
榊原さんはそこで僕を見る。
「協会の仕事は、夜禍をどうにかすることじゃありません。夜禍の近くから、人間をいなくすることです」
「なるほど」
「なので、興味本位で近づかないように」
そう言ったきり、榊原さんは口を閉じた。現場へ近づくにつれ、言葉数が少なくなる。
指定の現場に到着したが、まだ夜禍は見ていない。フェンスの向こうには、暗い運動場と、使われなくなった倉庫があるだけだ。
「この辺りですね……近くにはいるはずです。間違いありません、鳥肌が立ってきました」
「……ふむ」
僕にも、喉の奥が乾き、胃が浅く縮むような感覚はあった。脈も普段より速い。
ただ、正体不明の現場へ入る緊張と言われれば、それで説明できる程度だ。少なくとも、榊原さんが言うほど確信めいた反応ではない。
「先輩、無理しないでくださいね」
「わかった」
じゃり。
砂を喰むような音が響く。
榊原さんは反射的に主灯の角度を変え、フェンスの向こうへ身体を向けた。
いた。
夜禍だ。そう認識した瞬間、ぞわりと全身の肌が粟立つ。
人型のように見えるが、ところどころが不自然だ。
背丈は二メートルを超えている。両腕のようなものは膝より下まで垂れ、肘の位置が左右で違う。左腕だけが途中でもう一度折れ、関節の内側をこちらへ向けていた。
頭部は肩の間へ埋まり、首がない。
顔に見える場所には白い窪みが三つ並んでいる。
眼窩にしては位置が低い。窪みの縁には、細かな白い突起が不揃いに並んでいる。歯のようにも見えたが、確かめたくはなかった。
脚は動いていない。
表面は濡れた煤のように光り、黒い膜の下で灰色と茶色の塊が混ざりきらずに蠢いている。腹に当たる部分では細い管が何本も浮き上がり、互いに違う速さで脈打っていた。
人型へ詰め込まれた巨大なナメクジ。
あるいは、人間を一度ばらばらにして、外から人の形へ押し戻した何か。
どちらにせよ、理解したくない形だった。
不愉快を煮詰めて眼前に持ってこられたような気持ちの悪さが、ソレが決して人ではないことを確信させた。
手首の橈骨動脈へ二本の指を当て、十秒だけ数える。二十九回。概算で毎分一七〇を超えている。視認前は百十前後だったはずだ。
指先がわずかに震え、額と背中には汗をかき始めた。呼吸も浅くなっている。わずかに吐き気もする。
「―――、夜禍を確認しました。位置情報を、地図に入力します」
榊原さんを見ると、少し白い顔をして、険しい表情で何かを堪えながら、スマホを握って操作していた。
先日の検査での説明では、夜禍耐性が高い榊原さんでも、夜禍を長時間目視すれば、翌日まで頭痛や吐き気が残るとのこと。
なるほど、彼女と篠崎さんの言っていたことがよく理解できた。
しかし、この
「先輩、気分はどうですか。こんな状況下で、まだ先輩がいることに対する違和感が強いです」
「……心配してくれて、どうもありがとう。検査の中で君と篠崎さんが言っていたことがわかったよ。正直、気分が悪いね。塩を限界まで溶かした炭酸水を周囲に撒き散らしたい気分だ」
「ず、随分冷静じゃないですか。泣いてもいいんですよ」
「泣かないけど……? 澪こそ、目の端で光る雫があるけど……?」
「こ、これは、なんでもありませんけど」
なんで強がってるんだろう、この子。
「とにかく、
「―――――あ、うん」
「……なんですか、その間は」
「いや? 全然、なんでもないよ。分かった、現場で夜禍を観測する案件は初めてだし、澪の言う通りに……」
「やっぱり気が変わりました。先輩が視認して状況を私に報告してください」
「いやだよっ?! あんな
「……」
「……」
「……………」
「……」
「…………………………」
「わかった、わかったからそんな圧をかけないで……」
身体は夜禍に対して生理的な反応を示す。嫌悪感もかなり強い。
しかし、思考は正常だ。
以前、インフルエンザにかかった時のことを思い出す。39℃まで上がった身体、頭痛や身体の節々の痛みはあって、体は重く、動くのもだるかった。
しかし、本を読んだり、電話越しに人と雑談したりすることはできる。体調こそ万全ではなかったものの、意識ははっきりしていたことを覚えている。
ともあれ、負担を分けるなら、僕が引き受ける方が合理的だろうな。
「何を報告すればいい?」
若干顔に赤みが戻ってきた榊原さんは、無線と退路を確認した。
「動いたら、その位置と進行方向、速度を教えてください」
「了解」
「注視はせず、視界の端でぼんやり捉えるように。一秒ごとに……いえ、二秒ごとに視線は切ってください。その後、三十秒……いえ、十五秒休憩をとってからまた確認してください。私が肩を叩いたら、何があっても視線を戻してくださいね」
「条件を厳しくするのやめてね?」
しれっとした顔してこちらに押し付けてくる榊原さん。まあ、いいよ。いいんだけどね。
「先輩はこれまでずっと私に押し付けてきたんですから。これくらいお願いします」
「それ言われちゃ弱いっていうかサ……まあ、了解。バディの頼みだ。しょうがないね」
フェンスの支柱を基準に、見る範囲を決めて、暗い運動場へ視線を入れる。
気をしっかり持って、もう一度夜禍を視認する。榊原さんは注視するなと言ってたけど、もうじっくり見ちゃったんだよなあ。
でも後になって精神に異常をきたす可能性もゼロではない。ちゃんと彼女の指示どおりに動こう……ん?
夜禍が、フェンスの支柱一本分だけ移動していた。
「旧倉庫南側。フェンスの支柱、八本目から南西へ移動。速度は分速一メートルほど。歩行動作は確認できない」
肩へ手が触れる。
視線を切った。
「少し下がります。歩けますか」
「大丈夫。頭も正常かな」
彼女は僕の言葉をそのまま無線へ送り、応援班の到着地点を指定した。
「こちら巡回二班。人型一を確認。こちらの観測者に身体反応あり。作戦の継続に支障なし。民間人なし。観測ポイントを移動します」
携行灯の光を保ったまま、街灯二基分だけ観測地点を下げる。
応援班と合流した頃には、夜禍は運動場の奥へ消えていた。最後に確認した位置を共有し、封鎖線の内側から再確認したが見つからず、その時点で霧散扱いとなった。
ただし外縁の封鎖は継続し、朝まで監視を置くようだ。先行していた僕らは残りの監視、封鎖業務を応援班にお願いし、報告のために支部へ戻ることにした。
支部へ戻った後、シャツが背中へ張りついていたことに気づく。手を洗おうとして蛇口を捻ると、指が細かく震えていた。
ふむ。
榊原さんは隣で、こちらの顔を見ていた。
「怖かったですか」
「うーん、怖かったと思うよ。身体がこれだけ反応してるから」
「思うって……」
「心拍数はいつもより高く、吐き気がして、生理的嫌悪感も強く、汗もびっしょりだ。なら
彼女は返事をしなかったが、心配そうにこちらを見やる。
「ま、帰るまでの道のりで落ち着くと思う。……やれやれ、あれが夜禍か。正直、二度と会いたくないと思うくらいには嫌な存在だよ、ほんと」
そう言って、なんでもないように肩をすくめてみせる。彼女はそんな僕の様子を見ながら、首を捻っていた。
翌日の午前、支部へ来た榊原さんは、自分のこめかみを何度も確かめていた。
「どうしたの?」
「頭が痛くないんです」
「健康で何よりだね」
「そうじゃなくて。夜禍を確認した次の日は、起きた時から気持ち悪くなるんです。昨日は近くまで行ったのに、何ともない」
「ふーん?」
「……なんか、他人事のように聞いてますけど先輩はどうなんですか? あの後吐き散らかしたり、悪夢を見て眠れなかったりしませんでしたか?」
「え? いや、特に……。怖かったなあ、とは思ったけど、昨夜は帰ってシャワー浴びてすぐ寝ちゃったからなあ」
「ええ……? なんで私より長く詳細に視認したのになんともないんですか」
「さあ……? 年の功的な……?」
「おじさんくさいです」
「 ミ゛」
いきなりなんてことを言うんだ。アラサーだけど、心身は若いつもりなんだぞ。実際、体は若いわけだし。
「体調がいいならそれに越したことはないんじゃない?ほら、あれじゃないかな、澪は夜禍をそんなに見ずに済んだからとか」
「……そっか、ほとんど先輩が確認してくれたから」
至極単純な理由。だからこそ、盲点だったようだ。
「役割分担がうまくいったということだね。今後もこのスタイルで行こうよ」
そう答えると、榊原さんはしばらく黙っていた。
やがて、確かめるように言った。
「その……次も、見てくれるんですか」
「ん? そりゃもちろん。その仕事は僕が引き受けた方が安全でしょ?現状、僕はできることが少ないからね。何にでも役立てて欲しいな。僕らはバディでしょ」
「……バディ。そう、ですね。はい、お願いします。私も気分が悪いまま書類仕事しなくて済むのはありがたいです」
どこか力の抜けた返事だった。
彼女は端末を持ち直し、仕事に戻る。
その日は一度もこめかみに触れなかった。
その日の夜。
家へ帰って洗濯物を畳んでいる時、改めて二人の衣類を見て、週末に買い物へ行くことにした。
あんずちゃんの服は、学校へ着ていくものこそ最低限揃っているが、普段着は随分くたびれている。澄雨さんも似たようなものだ。特に靴は、二人ともそろそろ買い替えた方がいい。
「澄雨さん、今度の土曜日って仕事ある?」
「えっ? あ、ううん。お、お休み……だけど」
「じゃあ、三人で買い物に行こうか」
「か、かいもの?」
「うん。二人の服と靴を見に行こう。この前同僚に大きなモールについて教えてもらってね。視察がてら、二人の服や靴を買いに行こうと思うんだけど、どうかな。あんずちゃんも、何か欲しいものがあったら自分で選んで買えるよ」
あんずちゃんが、自分の服を見下ろした。
「……ママも?」
「もちろん。今回は二人の買い物だからね」
「わ、わたしは、まだ、これ、き、着れるよ?」
かなりよれたジャージを見下ろしながら澄雨さんはそういう。
「物持ちがいいのはいいことだね。ただ、着られるのと、買い替えなくていいのは別だから、新調してもいいかもしれないよ。ほら、あんずちゃんの参観日とかあった時に、綺麗な服を着て行った方がいいし」
「あ、そ、そう、だね。え、えへへ……」
そう言うと、澄雨さんは困ったように自分の袖を摘んだ。
「僕も初めて行くし、当日色々見てみて、欲しいものがなければ買おう。せっかくの土曜日、また三人で出かけたいし、どうかな」
「…………」
ーーー? あんずちゃんが難しい顔をしている……ような?
「あんずちゃん?」
「さんにん?」
「うん。三人で」
数秒考えてから、あんずちゃんは頷いた。
「いく」
澄雨さんを見ると、あたふたして視線を彷徨わせたが、あんずちゃんをじっとみた後、こくりと大きく頷いた。
「決まりだね」
これで土曜日の予定が一つ埋まった。
……先ほどから、あんずちゃんの落ち着きがない。
チラチラとランドセルを見ているが、さて。
翌日の水曜日には、協会へ休暇申請を出した。
今の僕は再研修中という特殊な扱いなので、正式な承認とは別に、指導担当の榊原さんにも同行予定へ支障がないか確認してもらうことになっている。
「土曜日ですか? 特に予定入ってませんし、大丈夫ですよ」
「ありがとう。じゃあ出しておくね」
榊原さんの確認をもらい、事務方を通して篠崎さんへ。
その日のうちに承認は下りた。
* * *
木曜日。
篠崎さんと榊原さんの監修の下行われた再研修から、すでに十日ほどが過ぎた。時間の流れはなんとも早いものである。
今日は昼過ぎから巡回業務に当たった後、応援班に引き継いだら日没前に帰宅できるという日だった。
装備返却を終え、上着を羽織り、帰宅しようとしていると、休憩室から汁物の匂いが流れてきた。
「おーう、鳴川。豚汁があるぞ。どうせ外食だろ、食ってけよ」
職員の一人に呼ばれたが、僕は時計を確認して首を振った。
「ありがとうございます。でも、今夜は帰りますよ」
「おいおい、澪ちゃんが作ってくれたんだぜ? 珍しく二人でコンビやってんだろ? 食ってやりな」
「そうなんですか。では、一杯だけ。家で待っている人がいるので」
協会の制服姿にエプロンと三角巾を重ねた榊原さんが、お椀を片手にこちらへやってきた。
件の豚汁のようだ。具沢山で美味しそう。出汁もちゃんと取ったらしく、上品な香りがする。
馴染み深い香りだ。硝煙の匂いはしないけど。してたまるか。
「もう帰るんですか」
「うん。今日はあんずちゃんがハンバーグを丸めたらしくてね。形が崩れなかったか、報告を受ける約束なんだ。それを焼くのは僕の仕事でね」
最近、晩ごはんを作れる時はあんずちゃんが何かしら手伝ってくれている。卵を使うときは必ずと言っていいほどスタンバイしているし、そうでない時も、気づけば隣に立っているので、色々とお願いすることが多い。
とても賢い子で、教えたことはすぐに覚えるし、要領も良い。
「澄雨さんにもしっかり食べてもらわないといけないしね。娘は健啖家だけど、澄雨さん自身は少食なんだ。あんずちゃんよりも気を使ってるまであるね」
「……そうですか」
「だから一杯だけいただくね。うーん美味しそう。いただきます……あ、これすごく美味しい。しかもピリ辛……これは、コチュジャン!」
「正解です。少しだけオイスターソースも入れてます」
「ははあ、なるほどねえ。今度二人にも作ってあげようかな。ありがとう、いいアイディアをもらったよ」
「……いえ、別に。では、お疲れさまでした」
「お疲れ様でした。また明日」
ぺこりと律儀にお辞儀してくれた榊原さんに会釈を返し、見送られながら支部を出る。
澄雨さんとあんずちゃんには、帰る時刻が読めない日でも、必ず連絡を入れる。先に寝て欲しいと伝えても、二人は大抵起きていた。
帰宅すると、あんずちゃんが食卓の椅子に座っていた。
澄雨さんは……あれ? どこにいるんだろう。
「ただいま、ちょっと事務所の人に引き止められてね。時間がかかっちゃった」
「ハンバーグくずれなかった」
あんずちゃんは端的に伝える。
「ほう、それは重大な報告だ。見せてもらおうかな」
冷蔵庫から皿を出すと、大小のハンバーグが三つ並んでいた。少し丸いものもあるが、十分立派である。
「上手にできてる。あんずちゃんが丸めたの?」
「ママも」
「二人ともすごいね。下ごしらえ、ありがとう。とても助かったよ」
そういうと、あんずちゃんは小さくこくりと頷いてみせ、立ち上がる。トコトコとキッチンに向かうので様子を見ていると、先日購入したエプロンと三角巾を装着した。手伝ってくれるようだ。
三角巾が少し歪んでいたので、一言声をかけてから、直してあげる。
事前に声掛けしても、僕の手が頭に近づくと反射的に頭を庇おうとするが、ガードが解除されるまでの時間はかなり短くなってきている。いい傾向だ。
「そういえば、ママは?」
三角巾を直した後、満足そうに立ち鏡の前に立っているあんずちゃんに尋ねると、ピッと僕の背中越しに何かを指さした。
そっちに目を向けると、二人が寝ている寝室が……ん?
「す、澄雨……さん?」
わずかに開いた扉の隙間。
そこからの彼女の目が覗いていた。
声をかけると、ギィ、と扉のヒンジが音を鳴らしながらゆっくりと開く。
顎を引き、わずかに俯いた様子の彼女は鍋の蓋を胸元へ抱え、立っていた。
そこに表情はない。
が、目が合うと、いつものようにへらりと笑って、前屈みになっておずおずと出てきた。
「あ、あっ、ごめ、え、えへへ、お、おかえ、おかえり……なさい」
「うん、ただいま。……? ちょっと、こっちへ来てくれる?」
少し気になることがあったので、呼び寄せると、少し固まったあと、縮こまりながらこちらへとやってくる。
多少警戒されてるが、澄雨さんのほうも、最初に比べて僕に近寄ることに抵抗感は弱まりつつある。彼女自身からそばに寄ってくることはないけど…………え?
ぽすん。
澄雨さんの額が胸に当たる。
「―――っ!? あ、あぇ?! ご、ごめ、ごめんなさ、あ、えへ、えへへ、ごめ……」
目測を誤ったらしい。どうやら、俯いていたせいで目測を誤ってぶつかってしまったようだ。
はたから見ると、胸に飛び込んできたように見えるかもしれない。
急にパニックになる澄雨さんの頭に触れる。
「―――っ」
「大丈夫、ほら、落ち着いて呼吸をしよう」
肩に触れる。
「怖がらなくて大丈夫。嫌なことはしないよ、ここは安全だ」
手を握る。
……よし、落ち着いてきたかな。
澄雨さんはひどく慌てはいたが、なぜか離れない。
結果的にふんわりと抱きしめている形になるのだが。
……まあ、良いか。子どもに良好な夫婦仲を見せることは大切なことだし。あんずちゃんの前で、大人同士の接触が怒声や暴力へ変わらないと示すいい機会だ。
そうそう、それより少し気になることがあった。
「澄雨さん、ちょっと右目を見せてごらん」
「んぇ」
「右目だけ確認するよ。顎に触れるね」
そう言って彼女の顎を軽く持ち上げ、右目を見る。うん、やっぱり充血している。
「最近少し擦り気味だったよね? 痒そうにしていたから気になってたけど……結膜炎かもしれないね。今夜は様子見て、早めに眼科に行こうか。僕も一緒について行くよ」
「ぇ、ぁ」
「まあ軽い炎症みたいだし、ものもらいではないか。目を擦らないように。いい?」
「ぁ、ぁ、ぁぇ」
くう〜。
反応の悪い澄雨さんに首を傾げていると、テーブルの方から可愛らしい音が聞こえた。
見るとあんずちゃんがお腹をさすっている。
あちゃあ、しまった。お腹が空いてるんだよな。ごめんごめん。
「さ、あんずちゃんと澄雨さんの二人がハンバーグの種を作ってくれたんだ。美味しく焼くから、晩御飯の準備をしよう?」
「…………ぇ、あ、はぇ?」
まだ様子がおかしい澄雨さんを座らせて、ハンバーグを焼く。ついでに仕込んでいたポテトサラダと付け合わせのベビーキャロットとアスパラガス、ミニトマトを用意して平皿に盛り付けた。
せっかくなのでライスはお椀に入れてからひっくり返し、一緒に平皿へ。バジルも振る。あんずちゃんにはこの盛りつけをお願いした。うんうん、上手だ。
盛り付けも料理には大切なこと。美味しそうに見せることで食欲を湧かせることもできるし、食べものを大切に扱おうとする経験を得ることもできる。
お手本を見せながら、あんずちゃんは盛りつけをする……終わってみるとびっくり。ちょっとしたプレートの出来上がりだ。
あんずちゃんの分には旗を立てておいた。……どこの国旗なんだろう、これ。
「さ、いただこうか。美味しそうだねー。あんずちゃんが上手に丸めてくれたから、綺麗な形になったよ。ありがとね」
あんずちゃんはハンバーグに釘付けで反応を示さない。今は褒め言葉よりも食欲が彼女を支配しているらしい。
「澄雨さんも、ありがとね。すごく美味しそうだよ」
「あ、う、ううん。その……えへへへ」
彼女は控えめに笑ってくれた。こうして穏やかに笑ってくれることも増えつつある。
そんな二人の様子に少し嬉しくなった。
「じゃあ、いただきます」
「いただきます」
「い、いただき、ます」
ちなみに食事は楽しくいただきたい、というのが僕のスタイル。
なので、食事中のおしゃべりはOKだ。家庭によってはダメとするところもあるのだろうが、僕は普段できない話やちょっとした雑談、相談する時は食事をしながらすることにしている。
とは言っても、この家庭では8割以上僕が話しているけど。
あんずちゃんは黙々と食べ続けるし、澄雨さんは「えへへ」とか「へ、へ〜」とか無難に相槌を打つだけ。
でも二人の視線や身体の向き、反応を見ていると、多少興味を持ちながら聞いてくれていることがわかる。特に夜禍協会の仕事のことを話している時、澄雨さんは手を止めて聞いてくれることもあるのだ。
僕もそれぞれの学校の話やパートの話も聞きたいけど、ま、この辺は追々かな。
「―――そんな感じで、今日は早く帰れたんだ。最近は仕事にも慣れてきたし、バディの澪との連携も良くなってきたよ。そういえば、今日帰る前に豚汁を作ってくれてて、協会のみんなに配ってたから僕もいただいたんだけど、これが結構美味しくてね。今度二人にも作ってあげ……?」
そんなことを思いながら、さっき夜禍協会で豚汁を食べた話をしていると、澄雨さんが口を開き、モゴモゴと何かを言いかけて、やめた。
プレートに視線を戻す、が、また、口を開こうとして……またプレートに視線を戻す。
三度目で、ようやく声が出た。
「い、いつも……その子と、一緒なの?」
「その子?」
「えっ、あ、ううん。なんでも、ないよ。えへ」
「――? あ、澪のことか」
澄雨さんの手が止まる。
「固定のバディ……、同僚だから、夜の任務ではほとんど一緒だよ」
「あ、そ、そうなんだ」
「心配しなくて大丈夫。澪は判断が早いし、夜禍耐性も高い。協会内でも期待されている新人で、ずっと安全な環境だよ」
「……うん。よかった、ね」
笑ってはいたが、語尾が消えかけていた。その視線の揺れ方には、どこか覚えがある。
もしかすると、澄雨さんは僕と澪の関係を――
縺?a縺ァ繝シ縺吮劭
危険な夜の仕事、それも最前線に近いところだ。夜禍を直接見ることだってある。僕が仕事で帰れなくなることが不安なのだろう。
僕自身の心配というより、自分たちの安全や平穏がまた失われることへの不安かもしれない。
だが、視点を変えれば、それは悪い変化ではなかった。
彼女はこの部屋を、安全基地として認識し始めている。
以前は外にも内にも、安全な場所はなかった。今は心を落ち着けて眠れる場所があり、あんずちゃんが怯えずに食事を取れる。
彼女にとって、僕は石垣の要石なのだろう。
だから、いなくなることが不安になる。
「大丈夫。心配しないで、僕はちゃんと帰ってくるよ」
澄雨さんを見る。
「ここが、澄雨さんとあんずちゃんがいるこの部屋が、僕の帰る場所だからね」
「―――っ! う、うん! えへへへ」
澄雨さんの食事のスピードが上がる。
安心させることはできたらしい。
あんずちゃんが、僕と澄雨さんを順番に見た。
「みお、つよい?」
「頼りになるよ」
聞くだけ聞いて満足したのか、あんずちゃんは特に反応せず、自分のハンバーグへ箸を進めた。
それから僕らは食事を終え、澄雨さんが皿を流しへ運び始めた。
僕も立ち上がろうとしたが、あんずちゃんが椅子に座ったまま動かないことに気づく。
食事はもう終わっている。空になった皿を前に置いたまま、壁際にあるランドセルをーー最近ネット通販で購入したもの、あんずちゃんがたまに撫でているーー何度も見ていた。
「どうかした?」
声をかけると、あんずちゃんはこちらを見た。
返事はない。
代わりに椅子から降り、ランドセルのところへ向かう。金具を外し、蓋を開く。
中を探し回ることもなく、教科書と背板の間へ手を差し込み、取り出したのは、四つ折りにされた一枚の紙だった。
あんずちゃんはそれを両手で持ったまま、しばらく立っている。
「僕に見せてくれるの?」
ーーーーーこくり。
少しの逡巡があったあと、小さく頷く。
が、あんずちゃんはすぐには渡さない。
僕が椅子へ座り直して待っていると、あんずちゃんはようやく近づき、紙をテーブルの上へ置いた。僕の手元まで押し出した後も、指先だけは紙の端に残っている。
「ありがとう」
そう言って優しく受け取り、丁寧に紙を開いた。
上部には大きな文字で、『授業参観のお知らせ』と書かれていた。
開催日は、今週の土曜日。
発行日は先月の日付になっている。
一度折っただけではできない細かな筋が、同じ場所にいくつも重なっていた。角も柔らかくなっている。
ランドセルの中で忘れられていた紙の折れ方ではない。
取り出して、広げては、折りたたみ、また戻す。それを、何度も繰り返し。
そういう折られ方だ。
「そっか、土曜日なんだね」
「……うん」
あんずちゃんは答えた。
それから、長い間を置いて。
俯き加減に、小さな手で服を握りしめながら。
「ーーーーくる?」
震えた、か細い声で訊いた。
考えるまでもない。
「もちろん、行くよ」
あんずちゃんの顔が上がる。
「僕はあんずちゃんのパパだよ。当然、行くよ」
聞いておきながら、信じられない様子だ。あんずちゃんには珍しく、口も小さくぽかんと開いている。
可愛い。
「それにほら、この前モールに買い物に行くって話したでしょ? その日は一日全部、休みにしてあるからね。ええと、授業参観は午前中だけで、昼食はなし...か。じゃあ、これが終わったら、美味しいご飯をモールで食べて、それから前に約束した買い物へ行こう。どうかな?」
あんずちゃんは頷きかけて、台所へ目を向けた。
澄雨さんは洗い物の手を止め、呆然とした顔でこちらを見ている。
「ママも?」
あんずちゃんが期待した声色で尋ねる。
「もちろん。二人で行くよ」
「あ、わ、わたしも……いいの?」
「むしろ来てもらわないと困るよ。あんずちゃんの学校のことは、僕より澄雨さんの方が知ってるでしょ。服はまあ、今ある服の中で比較的いいものを出そう。しっかり洗濯して、洗濯のりを使ってアイロンすれば、綺麗になるよ」
確か、白を基調としたワンピースドレスがあったはず。シンプルだけど、工夫すればむしろいいかもしれない。
「そ、そ、そっか。うん、い、行く。行きたい、な……えへへへ」
いい笑顔だ。なんだか僕も楽しみになってきたぞ。
あんずちゃんは母親の顔を見て、それから僕へ視線を戻す。
「ふたりとも?」
「うん。二人とも」
僕はしゃがみこみ、優しく、頭を撫でる。
「教えてくれてありがとう」
目を見開き、されるがままのあんずちゃんは何も言わなかった。
ただ、俯いて、小さく震えている。
僕はしばらく撫でたあと、「よし!」と一息、立ち上がる。
目尻を光らせたあんずちゃんが顔を上げるのを見てから、僕は冷蔵庫の扉に貼ってあった買い物メモをずらし、空いた場所へ授業参観の手紙を磁石で留める。その横に、土曜日の予定を書き足した。
午前――授業参観。
午後――三人で買い物。
「これなら忘れないね」
「……うん」
あんずちゃんは冷蔵庫に貼られた、大きく開かれた手紙を、しばらく見上げていた。
* * *
金曜日の午後。篠崎さんが僕らを会議室へ呼んだ。
机には、ここ数日の報告書が三部並んでいる。
「連続消灯の仮迂回を決めたのは誰だ」
「澪です」
「診療所前の搬送経路」
「澪です」
「旧運動場で、夜禍の目視担当を鳴川へ替えた判断は」
「澪です。夜禍の視認に際して、僕にそれほど大きな影響がなかったこと、彼女に万が一のことがあった場合、僕では適切な対処が取れないことなどを鑑みての判断でした」
篠崎さんは報告書を一枚めくる。
「文章はお前が書いたな」
「整理だけ。ほぼ彼女の文章ですよ」
「お前な……、いちいち澪に返すな。聞いたことだけ答えろ」
「事実を分けているだけですよ」
「口が減らねえやつだ……ちっ、やりにくい」
篠崎さんは僕を睨み、それから榊原さんへ向き直った。
「澪」
「はい」
「今後も低危険度案件はお前が現場を回せ。鳴川は補助に置く」
彼女の背が伸びた。
「私が、ですか? その、こういうのは最初だけなのでは……」
「判断が遅れた箇所はない上に、要救援者も全て拾っている。報告も今まで以上に上手くまとめられている」
「ほ、報告は先輩が」
「報告書の中じゃあ、作戦中の重要な判断を下しているのはお前だと、そいつがしつこく書いてる。報告者はお前で、鳴川はただの提出者。つまり、これはお前の書類だ。文章の組み方は鳴川から盗めばいい。責任も評価も、判断した人間の名前に付く」
篠崎さんが僕の報告書を指で叩いた。
「組織で生きるってのはそういうもんだ。それとも澪、お前は評価されるのが嫌なのか」
「……嫌じゃありません」
「なら黙って評価を受けろ。協会内でもっと上に上がりたいってんなら、尚更な。この報告書は事実しか書かれてねえ。そうだろう?」
篠崎さんは僕に目をむける。
「ええ。事実を報告するのが報告書ですから」
「わかってるじゃねえか。澪、そういうことだ」
「はい」
彼女の返事は短かった。
けれど、机の下で握っていた手が開くまでには、少し時間がかかっていた。
会議室を出たところで、女性職員が榊原さんへ声をかけた。
「澪ちゃん、今度の南四丁目も主担当だって?」
「え、もう聞いたんですか」
「期待のホープですもの」
「それ、もういいですから!」
耳まで赤くなった榊原さんは、逃げるように廊下を曲がる。胸元のポケットを押さえながら。
会議を終えてから一時間ほど後。いつもの調子を取り戻した榊原さんが、地図筒と書類の束を抱えて研修室へ入ってきた。
机へ広げられたのは、南四丁目の再開発区画だった。
既存の指定通行路を二本繋ぐように、白い線が一本追加されている。
「南四丁目第七夜間連絡路。明日、開通前の最終試験をします」
声がいつもより高い。少し興奮している様子が伝わる。
「この連絡路は、南四丁目を通る二本の指定通行路を、最短距離で結ぶ百八十メートルの新設路です。今までは灯りの間隔が広く、途中に死角ができていたので、補助灯を二基増設して、反射板の位置も変えました。通報端末も交差点の手前へ移設しています。開通すれば夜間の迂回距離が半分以下になって、救急車両や整備班も早く入れるようになります。さらに周辺区画を第二種区域へ繰り上げる条件が整うので、隣接する禁域の昼間調査や復旧にも繋げられるんです!」
「ほー、それはいいね。澪が提案したの?」
「はい。全部じゃないですけど。あと、先輩が作ったチェックリストも、最終試験の確認票に使われることになりました」
彼女は書類の一枚をこちらへ向けた。
先日整理した項目が、正式な様式に合わせて組み直されている。
「すごいじゃないか」
「まあ、私が前から言ってたことが、やっと通っただけですけど」
そう言いながら、口元は隠せていない。
「なるほど、このプロジェクトの主担当が……」
「はい。私です」
「そっか。かなり期待されているからこそ、大きなプロジェクトを任されたんだね。おめでとう……かな?」
「ありがとうございます。すでに下準備は済んでいるので、明日、最後の確認に行くんです」
「そっかそっか。……ん? 明日?」
返事の後、彼女は書類の端を揃えた。
それから、当然の確認をするように言った。
「先輩も、補助で入りますよね」
「ええと、それなんだけど……明日は行けないんだ」
紙の端を押さえていた指が止まった。
「え、こ、来ないんですか?」
「うん。その日は家の予定があってね。ほら、一昨日の水曜日、勤務から外れる申請を出す際に、澪にも業務に支障がないか確認してもらったけど……ええと、あ、これだね」
そう言って僕はカバンの中から承認済みの休暇申請書を取り出した。正式な承認者は事務方と篠崎さん。再研修中の特別運用として、指導担当の榊原さんにも「同行指導日程に支障なし」という確認欄へ署名してもらっていた。
それをバッと奪うように見たあと、思い出したのか小さく「あっ……」とこぼしてからこちらを見上げる。
「で、でも確認に行くのは夕方ですよ!」
「午前はあんずちゃんの授業参観。その後、澄雨さんとあんずちゃんの服と靴を買いに行く。その日は夕食以降も、最後まで一緒に過ごすと約束してるんだよね……。その後でいいなら全然いいけど」
「でも、でも、最終確認は日没後すぐでないと……」
「うーん、そっか。その様子だと別日に、というのも難しいよね」
「すでに、話は進んでいますから……関係部署や役所側にも、話は、通して、て……」
どんどんと声が小さくなっていき、やがて、榊原さんは地図へ目を落とした。
「―――この仕事、私たちで作ったのに」
聞き取れるかどうかほどの声だった。
「いいや、君が頑張って成し遂げようとしてきた仕事だよ」
顔が上がる。
「改善案を出したのも、現場を見てきたのも君だ。僕のチェックリストだって、君に教わった内容を整理して並べただけだからね。元々、僕抜きで、いや、「鳴川 善」抜きで進めてきたプロジェクトだろう? 僕が来る前からこれは進められてきていて、たまたま僕が来たから、それがスムーズに進み始めた。そうじゃないかな」
「そ、それは! ……そう、かもしれませんが。でもっ!」
「大変心苦しいけど、澄雨さんとあんずちゃんとの先約がある。埋め合わせはなんでもするから、こればかりは許してほしい」
さっきの様子を見るに、このプロジェクトの正式認可が下りたのは、ついさっきのことなのだろう。
僕が休暇申請を出していた事を忘れていた彼女が悪い、という話ではない。おそらく彼女も、このタイミングで認可されると思わなかったはず。
つまり、タイミングが悪かった。それだけだ。
だから、僕はせめて彼女に対して真摯でいよう。
「資料を見る限り、明日は開通前の運用確認だよね。灯火、無線、通報端末、退路を手順どおり確認して、異常が出れば中止する。整備班が二人、役所側も遠隔で監視している」
彼女が作った確認票へ目を落とす。
「君一人でも回せるよう、自分で組んだ手順だろう? 仮に僕が同行できたとして、おそらくちょっとした雑務や二重確認くらいしかできないと思う」
能力への評価としては、これ以上ない言葉のつもりだった。
けれど、榊原さんの表情は明るくならない。
顎に力が入り、紙を持つ指だけが白くなる。
初めて現場を任される重圧が、今になって出たのだろうか。
「不安なら、別の補助を付けてもらおう。単独で無理をする必要はないよ」
「――っ! 無理じゃありません!」
返事が早かった。
「先輩の言うとおりです。私が作った連絡路です。私が一番分かってます」
「うん。だから任されたんだと思う」
「……分かりました」
彼女は地図を巻き始めた。
「私一人でやります」
話し合いは、そこで終わった。
そのまま明日の準備へ移るよう篠崎さんに言われ、僕らは装備庫へ向かった。
僕には返却記録の確認が残っていたため、そのまま榊原さんに付き合った。
彼女は棚から腰ベルトを二本取った。
無線機を二台。
主灯を二基。
予備電源と遮蔽布も、それぞれ二つずつ机へ並べる。
いつもの配置だった。
右側が榊原さん。左側が僕。
「僕の分まで出してくれたの?」
彼女の手が止まった。
机の上を見下ろし、何度か瞬きをする。
「い、いつもの癖です。他意はありません」
一つずつ、元の棚へ戻していく。
「手伝おうか」
「結構です」
最後に遮蔽布を畳み直し、棚へ収めた。
二人分あった机の左半分が空く。
榊原さんは残った一人分の装備を、自分の手前へ引き寄せた。
「大丈夫です」
こちらを見ないまま、ベルトを握りしめる。
「私一人でできます」