酔いから覚めたら妻子持ちのDV男に憑依してたんだけど 作:くじらん421
仕事の都合で長く空いてしまいましたが、一旦落ち着いたので定期的に投稿します。
盛大に吐き散らかし、混乱していた僕は女性に言われるがままシャワーを浴びていた。手狭な浴室ではあったが、室内と違って清掃が行き届いており、心地よい温度のお湯を浴びていると次第に落ち着きを取り戻してくる。胃の内容物を吐き出したからか、違和感こそあるものの、少しスッキリしたような心地ですらある。
また浴室内には鏡がないため、自分が別の人間に成り代わっていることを自覚しなくて済む。混乱した頭も少しばかり冷静さを取り戻してきた。
「……なんだってこんな、漫画みたいなことに」
考えても答えは出ないだろう。それでも、考えざるを得ないのだ。
僕は大きくため息をついて、この訳のわからない状況について再認識する。なんとなしに自分の手を見てみる。
違和感。普段何気なく視界に入っていた「手」や「足」が決定的に違うと、こうも強い違和感を抱くのかと驚く。皮膚の質感や形、手を握りしめた時の感触がまるで違うのだと強く実感する。
「元の体よりもガッチリしてる……筋肉量が多いのか」
右腕に力コブを作ってみると、おお、と感嘆する。この体の持ち主は筋トレをしているのか、一般的な男性よりも筋肉量が多いような気がする。腹筋もいい感じだ。
「……『これ』はまあ、悪くない程度かな?自慢するほどではなくとも小さくはないようで」
ヤンキーみたいな見た目の男が登場する漫画やアニメでは「これ」は大抵デカいことが多い気がするが、現実では一般的な大きさなのだろう。元々持っていた「それ」と比較しても大差ないので、なんとなく期待が外れたような気分である。
そんなしょうもないことを考えていると、くだらない思考に対して小さく笑いが込み上げる。三十歳を目前にしてもーーこの体の持ち主の年齢は分からないがーー男の、というか、自分のアホさは変わらないらしい。そんなことに「自分らしさ」を感じると、また一つ落ち着きを取り戻してきた。
精神は肉体に引っ張られるなんて、フィクションではよく言われることだったが、少なくとも今の自分はいつも通りであると感じている。
なに、超ハイクオリティのVRゲームをしていると思えばいいさ。幸いFPS視点のRPGゲーム(ソロプレイ)はたくさんしてきた。同じようなものと捉えて、今は現状を把握し、今後の動きについて考えていこう。メインクエストを進めるためのフラグを探す……よくある流れだ。
目を閉じてみる。こうすれば何も見えないし、いつでも「自分」はここにいると認識できる。今後落ち着きたいときは目を閉じることにしよう。
「……よし、まずはあのきったねえ部屋をどうにかしよう。掃除や整理整頓すれば気も紛れるだあああああああ冷たああああああああ?!?!?!?」
温水シャワーが急に冷水シャワーになった。
「え、えへ、ガ、ガスが止まっちゃったみたい、だね。お、お金払わないと」
急いで浴室から飛び出るとなぜかタオルを持って待機していた女性が驚いたような目をこちらに向けてきたので、風呂場での出来事を説明する。どうやら、ガス代の滞納が原因でガスが止められたため、急に冷水になってしまったようだ。
渡されたタオルを浴室内に持ち込み、体を拭く。自分の体ではないとはいえ、流石に全裸を見せる気にはなれない。女性が扉越しに説明をするので相槌を打っていると、女性は何か緊張したような声色で続けた。
「だ、だからね、水道局に支払ってくるから、お、お金もらってもいいかな……」
「え?あ、そうですk……そっか。じゃあ、お願いしてもいいかな。あんずちゃ……、あんずも連れてってもらえる?」
「……ぇ」
とりあえず精神が入れ替わっていることは伏せておきつつ、話を合わせる。妙に下手に出ながら頼んでくるから何かと思えば、水道代を払ってきてくれるらしい。今の状態で近所に出たら十中八九迷子になってしまうので、ここは好意に甘えるとしよう。
それに、今後の動きについて考えるなら一人の方がいい。アパート内での情報収集もしたいところなので、母子揃って外出してもらうとしよう。
……しかし、妻子持ちになったのか。なんだか妙な気分である。
タオルを腰に巻き、とりあえず浴室から出れられるようになったので扉を開けると、女性はポカンとした様子でこちらを見上げてくる。
「い、いいの?」
「うん? 何が?」
「あ、あの、お金……」
「あぁ、うん。まだ酔いが残っててね。悪いけど、お願いしてもいいかな」
「わ、悪いって……、なん、ぇ、どういう……」
なぜか女性が困惑している。
「あれ? やっぱり難しそう?」
「――――っ?! そ、そんなことないよ! え、えへ! すぐに行くよ! 着替えてくるね!」
僕の聞き間違いかと思って尋ね直すと、びくりと体を大きく震わせた彼女は、途端に笑顔を取り繕ってそう言った。女性は逃げるようにその場を後にしようとするが、頼みたいことと、確認したいことがあったので、彼女が去ろうとする瞬間、僕は手を伸ばしてその手首を掴んだ。ごく軽く、でも確実に力を込めて。
すると、彼女の体が瞬間的に固まり、その後小さく震え始めた。指先に伝わる彼女の手首の筋肉は、瞬時に硬直し、まるで凍りついたよう。脈拍は恐ろしいほど速く、僕の指先に跳ね返る。肌からは微かな汗が感じられる。その場で完全に動きを止める様は、まるで時間が止まったかのようだ。彼女の背中に視える呼吸は浅く、速い。体がどう反応するべきか忘れてしまったのかもしれない…いや、流石にそれはないとしても。
表情は見えないが、恐怖と混乱が彼女の心を支配し、脳が一時的に処理落ちしているのだろう。この反応は、単なる緊張を超えたものだ。パニックに至る手前である。
急激な変化が見られた。
ただ、手を掴んだだけで。
僕はすぐに圧力を緩め、そっと彼女の手首から指を離す。これ以上、彼女を追い詰めることは避けるべきだと直感で感じた。
「急に掴んでごめんね。痛かった?」
できるだけ優しい声を意識してそう尋ねる。彼女は握られた自身の手首を隠すように胸元に持っていきながら、黙って首を横に振った。
「そっか。でもほら、お金を渡さないといけないでしょ? それに急に飛び出たら、さっきみたいにあんずちゃんのおでこを扉でぶつけるかもしれない」
そういうと彼女はこくりと頷いて、その場に静止する。目に見えて震えているが、僕の「動くな」という言葉通り立ち止まっている。
「じゃ、お金を渡したいんだけど……とりあえず部屋に行こうか。僕の財布と着替え、どこにあるか分かる?」
まずはパンツを履きたい。彼女はこちらを振り向くことなく、静かに移動する。ひどい猫背のまま移動する彼女を見て、僕は先ほどの反応を思い返していた。
(間違いなく「この体」に恐怖心を抱いているなあ。なんとなーく、彼女と「この体」の関係性が見えてきたぞ。他所様の家庭のことだし、色々理由はあるのかもしれないけど……あまり元の体に遠慮しなくても良さそうだ)
「この体」の前に立つことには相当の恐怖があるはずだ。背中を丸めて、両手を胸の前に持ってきながら歩く姿はあまりにも痛々しい。ただ部屋に向かっているだけだというのに、まるで処刑台にでも向かっているような足取りだ。
なんとも、気の毒に。
今は自分がこの体を操っているというのに他人事のように捉えてしまう僕は、やはり今の現状を正しく理解していないのかもしれない。
ただ、せめて、僕がこの体にいる間はむやみやたらと彼女を怖がらせないようにしよう。現状、僕も彼女しか頼れないような状況だ。下手に敵を作るような言動は控えなければ。
そう心に留めながら、彼女からパンツと着替え(服はリビングに置かれていたカラーボックスの中にあった。次からはそこから取ることにしよう)を受け取り着替えていく。シンプルなモノクロの半袖短パンはブランド物のようで着心地自体は悪くない。ちょっと派手だけど。だが……他人のパンツか。なんか気持ち悪いし、これだけは新しいやつを買おう。
「あ、あの、お財布……」
「ん、ありがとう」
「え、あ、う、うん」
伏目がちに、おずおずと財布が渡される。折りたたみ式の財布だ。触れると柔らかくも確かな弾力のある感触。うーん、鹿の皮かな。割といい財布。さっきの服といい、高級志向だったのだろう。一方で彼女の服や家の内装を見ると……よくいえば廉価、悪くいえば安っぽいものばかり。特に彼女の着古されたボロボロジャージはいただけない。ブランド物や派手な格好を好まない人でも、もう少しいい服、というより綺麗な服を着るだろう。
「財布の中は、っておいおい、かなりの金額が入ってるじゃないか。………紙幣は見慣れない物だけど」
単純にお金がないのか、と思いきや、財布の中には10000円と記載された紙幣が、ぱっと見、数十枚入っていた。一万円札だろう。千円札や五千円札は入っていないため、お金の価値は分からない。案外安かったりして、と思ったが、女性にガス代を聞いてみると、都市ガスのそれと大きな違いはなかった。電気代や水道代も同じくらいだったので、お金の価値は変わらないようだと安心する。
が、だとすると、この男はお金があるにも関わらず、家に入れてないのだろう。いや、そもそも女性がライフラインの支払いのためにお金をせがんでくるということは、彼女が自由にできるお金自体少ないのかもしれない。
「いるんだよなあ、支払いが必要なものに対して妙に渋ったりイライラしたりするやつ」
「………」
女性は何も言わないが、反応しないよう努めてるということは、やはりそうなのだろう。本当になんというか、気の毒である。
ガス代の支払いとまとめて他のものを支払ってしまおう。なあに、お金はあるのだ。
そう思っていたら他の未払金も出てきて、結局5万円ほど無くなってしまった。どんだけ払ってねえんだよ、こいつ。
女性は支払いのために家を出た。お願いしたとおり、あんずちゃんも連れて行ったので室内には一人だ。早速、情報収集を兼ねた掃除を行うとしよう。物色とも言う。
窓を全て開放し、玄関のドアも少し開けた状態にして空気の通り道を作る。元々自分が住んでいたマンションでも、在宅中は1日に1〜2回、換気をしていた。なんとなく、空気を入れ替えたい性質なのだ。花粉の時期は流石に避けるが。
わずかに寒い風が部屋を抜ける。15℃前後くらいかな。悪くない。未だ酔った感覚がある今の頭には心地いい。
部屋は1LDKの簡単な間取りで、一部屋は元の体の自室のようだった。案の定、汚い部屋だ。でもあまり使ってないようで、菓子や飲み物などのゴミはほとんどなく、衣服が脱ぎ散らかっているだけ。対して、リビングはかなり汚い。あと臭い。大抵はこのリビングにいるんだろう。女性とあんずちゃんはさぞ居心地が悪いだろうに。部屋に引っ込んでろ。
部屋を物色もとい掃除しているとスマホを見つけた。何やらごついケースに入っているので元の体のものだろう。幸いパスコードはかかっていなかった。不用心なやつめ。あまりスマホに頓着しないのだろう。だからこそ、目が覚めたリビングではなく、この自室に放ってあるのだと思う。開いてみると充電が切れそうだったので、適当に充電器を探して充電しておく。あとでじっくり確認してみよう。
各部屋の衣類をまとめて、ゴミはゴミ袋に詰めていく。重要そうな書類や郵便物は全て綺麗にした机の上にまとめておこう。洗濯が必要な衣類が結構な量になった。バスタオルが結構あるのは何故だろう。いや、3人家族ならこんなものなのか?その割にフェイスタオルが少ない気もするが…家の洗濯機を確認したけど5kgまでのものだから家での洗濯は時間がかかるだろう。ゴミ袋に入れてコインランドリーに持って行ったほうがいいかもしれないぞ。とりあえずリビングの隅に積んでおくか。
そうして簡単に片付けをして、リビングの机にまとめていた書類や郵便物を確認しながらひと段落していたところで、玄関の扉が開いた音がした。母子が共に帰ってきたのだろう。時計を見ると30分くらいで帰ってきたようだった。近くのコンビニで無事支払えたようでよかった。
リビングの扉がカチャリと小さく開く音が聞こえたため、椅子に座ったまま振り返ると、扉の隙間からこちらを覗き見る2対の目が見えた。母子の同じ仕草になんとなくおかしくなって笑みが浮かぶ。
「おかえり、無事に払えた?」
「……え、あ、うっうん。ちゃんと全部払って、きたよ、えへ」
「そっか。ありがとね」
「え、えへ」
「……あの、入ってきたら?」
「あ、う、うん」
なぜか扉の隙間から話を続けるのでそう促すと、母子は手を繋ぎながら入ってきた。なんか可愛いな、それ。あんずちゃんはトコトコと母親についていきながら、無表情にじっとこちらを見つめてくる。それはちょっと怖いかも。
そして何故か机の対面に座る二人。
「えーと、うん、支払いしてきてくれてありがとね」
「い、いいよ。えへ、えへへ、ごめんね」
「うん? 何が?」
「えっ、あ、いや、な、なんでもない。ま、間違えちゃった」
「なんだそりゃ」
なんとなく幼い言い方にクス、と笑いをこぼしてしまう。
「……えへ、えへへ」
お、今の「えへへ」は割と自然なやつだったぞ。そういうの、もっとちょうだい!
「えーっと、澄雨」
「―――っ?!」
女性の名前を呼ぶと、驚いてみせた。小さく目を見開き、瞳孔が開いている。そんな驚かれるとは思わなかったぞ。というかうっすらと鳥肌立ってるけど、そんな身体が反応するほど驚いたの?呼び方気持ち悪かったとかだったら普通に泣けてくるよ?
対照的にあんずちゃんはびっくりするほど無反応である。無反応のままこっちをじっと見つめてくる。怖いよ。昼過ぎでよかった。
「ひっ、なっ、よっ」
「ひなよ?」
もしかして名前間違えた?掃除してた時に見つけたあんずちゃんの母子手帳に「母親:鳴川 澄雨」って書いてあったからそうだと思ったんだけど。え?あんずちゃんまさか血繋がってない?
「あっ、ち、違っ、ひ、久しぶりに、名前!」
「名前?」
落ち着くためか、一旦深呼吸を挟む澄雨さん。
ゆっくりでいいよという意味で、何も言わずに手元の郵便物を確認しながら先を促す。
いくばくかの時間を挟んで、ゆっくり澄雨さんは口を開いた。
「……パパがママのなまえ。ひさしぶりによんだ」
何故かあんずちゃんが答えた。こらこら、せっかくママが勇気出して言おうとしたのに、割り込んじゃダメだぞあんずちゃん。見なさい、澄雨さんが口を開けたまま固まっちゃったじゃないの。
「そうだっけ? ちゃんと呼んだ方がいいかな?」
「………」
そこで黙るんかあい。
視線を澄雨さんに向けると、ハッとしたような顔をして、口をもごもごさせる。
何度かごくりと喉を鳴らしたあと、再度澄雨さんは口を開いた。
「よんd「あんずも呼んで」……あんずちゃあん」
無表情でそういうあんずちゃんと情けなく娘に縋り付く澄雨さん。
なんだこのやりとり。
「く、くくくっ!」
だめだ、笑いが込み上げてくる。澄雨さんがものすごい真剣な表情してた分、余計コミカルに見えてくる。元々笑いの沸点低いんだこっちは。あんまり笑わせないでほしい。
「ふー…、いやはや、そうね、あんずちゃんの事もちゃんと呼ぶね」
「………」
また無言に戻っちゃった。でもなんとなく、雰囲気的に納得してくれたようだった。
さて、先ほどの掃除で得た情報、まずは自分を含めてこの家族について整理しよう。
まず、目の前の女性は「鳴川 澄雨」さん。澄んだ雨と書いて「すう」と読むようで、綺麗な名前だなと思った。24歳のようだが、それよりもずっと幼く見える。高校生と言っても多分通じるレベルだ。
そして娘の方は「鳴川 あんず」というらしい。9歳。そう、まさかの小学3年生である。知った時の驚愕たるや、人生で3番目くらいの衝撃だった。え?! 9歳?! ということは…‥と澄雨さんの年齢を計算したのは僕だけではないはず。自身の経験から、鳴川家のえっぐい家庭環境を推し量れてしまった。そしてこの子も9歳に見えない。その言動も相まってもっと幼い印象を持っていた。あんずちゃんとは別の機会にもう少し深く関わって理解したいと思う。子供だしね。
そして僕、というよりこの身体は「鳴川 善」というらしい。25歳。免許証らしき身分証から、名の読み方は「ぜん」であると確認した。おいおい、善て。親御さんがどんな気持ちでつけたのか想像に難くないぞ。
家庭環境としては……正直目も当てられないというのが正直なところである。澄雨さんもあんずちゃんも、とてもじゃないが「まとも」であるとは言えない。もう少し正確に把握するため下手な決めつけは避けたいが、本来なら間違いなく通報案件である。
現状、僕はこの問題の当事者であるため、今後全ての言動へ意識を向ける必要がありそうだ。やだあ……疲れるぅ…滅べよ、善。
「んん、じゃあ、改めて。澄雨とあんずちゃん、支払いに行ってきてくれてありがとね」
「えへへ…」
それは返事なのだろうか。
「他の郵便物も見て見たけど、今のところ未払のものはなさそうかな?澄雨、その辺はどう?」
「え、えっと、大丈夫だとお、思うよ」
ヘラりと浮かべた笑みはどこか、心配事が減ったような、そんな気楽さが感じられるものだった。まあ、ライフラインほぼ全滅しそうだったしね……そりゃ心配してたか。
手元の封筒を見ると、そのほとんどに最終通告だとか緊急だとか、そんな文字がデカデカと印字されている。こんなのが常に目に入るところにおいてあったら誰だってストレスになるわな。かわいそうに。
「今後の支払いはクレジットカードや銀行口座に紐づけたいところだなあ。澄雨、クレカか銀行の通帳、保管してなかったっけ」
澄雨さんに尋ねると大きく震え、さっきまで僅かにあった柔らかい雰囲気が吹き飛んで縮こまってしまった。え? どうしたの?
「わ、わか、わかり……まぅ」
こーれは分からんですな。
「そっかー。普段使ってる銀行の通帳がどこにあるかは?」
「さ、探すね! すぐ探す!」
「必要ないよ、座って。でも、ありがとうね」
澄雨さんは大声でそう言い、立ち上がるので、申し訳ないが少し強めの口調でストップをかけた。澄雨さんは一瞬青い顔をしたが、ありがとうと言われた途端に表情が和らぎ、少し落ち着いた。その際、ボロい鞄をチラッと見ていた。
なるほど。
「
一連の流れを見ていたあんずちゃんが端的にそう言った。視線を向けると、目が会う。その瞬間、あんずちゃんは椅子に座ったままさっと頭を両手でガードする姿勢をとった。なんだそれ、かわよ。
「くくく、そうだね。あんずちゃんの言うとおりだ」
「…………」
あんずちゃんはこちらを伺い、何もしないと見るやガードを解いた。先ほどの言葉には応えてくれなかったが、雰囲気的に大丈夫と判断されたのだろう。子どもは大人の言動に敏感だというが、この子は普通の子らよりもかなり聡く、そしてアンテナも鋭い。
彼女は、「僕が澄雨さんが嘘をついていることに気づいたこと」に気づいたのだ。さらに言うなら、通帳がカバンの中にあると僕が把握したことも看破したかもしれない。僕の目線と状況、この2点のみで彼女は「だめ」と僕に釘を刺したのである。
驚くべき賢さである。そして、悲しむべき素養だ。
何が「だめ」なのかは聞いてみないと分からない。だが、母親を守るために僕のことを見張り、牽制するような姿勢を見せるのは、母子関係が
なお澄雨さんは僕らのやりとりにはてなを浮かべている。
なるほど、君はそういうやつなんだな(誤用)。
「うん、未納金や未払金がまだあったらこれで対応してくれる? いくらか渡しておくから」
僕はそう言って財布の中の万札を20枚ほど掴んで適当な封筒に入れて澄雨さんに渡す。
それでも財布の中には同じくらいの万札が入っている。これは手元に残しておこう。急に借金取りが来たり、物入りになったりするかもだからね。
「えっ。えっ、えっ、えっ、えっ、な」
澄雨さんの顔は封筒と僕の顔の間を赤べこのように行ったり来たりするが、あえて気にしない素ぶりを見せる。それよりも大金だから無くさないところに保管しておいてねというと、ハッと我に返り、例のボロいカバンにいそいそとしまう。ちらりと通帳らしきものが見えた。僕の前でカバンの中が見えるようなことはしないほうが……、いや、そこまで気が回らないのかな。
澄雨さんが鞄にしまい終わるのを見届けると、僕とあんずちゃんに見つめられていたことに気がつき、えへ、えへと言いながら猫背になってしまった。あんずちゃんはそんな様子の母親をじっと見つめていたが、一区切りついたのか、またこちらを見つめてくる。澄雨さんも真意を計りかねているのか、こちらをちら、ちらと上目遣いに見てくる。
さて。
「うん、じゃあ、僕の様子が朝からおかしいことについて説明するね」
そう言って僕は口火を切る。
さあて、なんて嘘を吐こうかしら。