酔いから覚めたら妻子持ちのDV男に憑依してたんだけど 作:くじらん421
皆さんに楽しんでもらえて嬉しいです。
よければぼちぼちお付き合いください。
僕は静かに息を吐く。
「……まず、僕の認識機構は、従来の自己同一性と比較して非同相的変異を示している」
「……ぇ?」
澄雨さんが、困惑したようにまばたきをする。
「つまり、僕の神経系ではシナプス可塑性の劇的な再編成が生じており、これに伴い、前頭前野、海馬回路間の相互結合係数が変化している。その結果、長期記憶の照合プロセスにおいて、不一致が生じている状態なんだ。言い換えれば、僕の自己概念の構成要素であるメタ認知モデルが変質している。意識連続性の連結性が断裂し、過去の経験に基づく行動スキーマが再構築されたと感じているよ」
「え、えと」
澄雨さんの指が、膝の上でぎゅっと絡まる。うん、わかるよ。何を言っているんだろうという気持ちより、むしろ、怖いという気持ちが出てくるよね。日本語が話されているはずなのに、何一つ理解できないという感覚は、一種の恐怖を掻き立てる。
話されているはずなのに、何一つ理解できないという感覚は、一種の恐怖を掻き立てる。
人には知識欲があり、知識を得ることにある種の快楽を覚えるという。反面、全く理解できない情報に対しては忌避感や恐怖心を抱くらしい。人の心は興味深いよね。思い知るがいい! 三角定規たちの肝臓を!
「要するに、僕の内的時間認識とエピソード記憶の接続様式が通常とは異なっているんだ。そのため、以前の僕と現在の僕では、行動決定のアルゴリズムが乖離している」
「……ぅ……」
はたして僕は、人間として見られているのだろうか。澄雨さんは得体の知れない化け物を見るような目でこちらを見てくる。え? そんなに? いや僕自身思いついた言葉をのべつ幕なしに並べ立てているだけだからよく理解していないよ?
あんずちゃんは相変わらずの無反応・無表情だが、どことなくこちらを見る目が非難がましい。この子はあれだ。多分、僕の説明は理解していないだろうけど、僕が何かを誤魔化そうとしていることは察しているのだろう。たまに澄雨さんの方をちらりと見やるし、澄雨さんがいじめられているように見えているのかもしれない。澄雨さん怯えているし。ごめんて。
「これは、神経生理学的には異常脳波パターンの転移、または一過性の同一性崩壊に起因する可能性がある。もしくは、非局在的意識情報の位相変移が関与しているのかもしれない。あるいは、多元的自己のパラレルスキーマ間における誤同期が発生しているとも考えられる。また、僕の神経伝達物質のバランスも変化している。ドーパミン作動系の活動性が低下し、セロトニン再取り込みのフィードバックループが変調している。このため、意思決定プロセスの遷移確率分布が、以前とは異なる位相空間にシフトしていると判断してるよ」
「ぅ、ぅぅ」
澄雨さんの目が泳ぎ始める。肩越しに玄関の扉を見るような様子もあった。ダメだよ、逃げようとしないでね。そしてあんずちゃんからの目線も、いよいよ汚いものを見るようなものに変わり始めた……ような気がする。
よし。完全に処理不能な状態に誘導できている。計画通りだ。心の傷についてはコラテラルダメージとして飲み込もう(瀕死)。
「従来のパーソナリティは、脳の確率分布において局所最適化されたエネルギー井戸に閉じ込められていたはずだけど、現在の僕は、その最適化状態を逸脱し、非線形ダイナミクスの影響を受けている状態というわけだ。要するに、僕は現在、従来の自己とは異なる形態の認知構造を持っている」
「そのため、僕はこれまでの記憶と完全には一致しない行動を取ることになる」
「………っ!」
澄雨さんが息を呑んだ。
「脳の内部状態空間がリカレントネットワーク的に変化したと捉えるか、パーソナリティの可塑性における離散的変位と捉えられるか。いずれにせよ、僕の行動は、以前の僕とは異なるパターンで推移しているはず」
「…………」
「そのため、過去の僕の行動と照らし合わせたとき、矛盾が生じることもあるだろう。それが、今朝の僕の状態だね」
「……つ、つまり…?」
「色々あって、別の人格が出てきたのかも」
「ぇ、と……」
「だから、僕は何も知らないし、僕は『善』とは全く違う人格なんだ。僕は君たちのことは知らないし、今置かれている状況も全く理解できてない。その辺は澄雨さんも感じ取っているんじゃないかな。『僕』は、元の人格とはかなり違うでしょ?」
「それは……うん……」
澄雨さんは、何も理解できていないまま、いや、分かりやすい質問には頷いた。あんずちゃんも小さく、こくり、と頷いた。
「今の僕は、従来の『善』とは異なる人格。僕は君たちのことも、周囲のことも、『善』のことも、何も、知らないし、理解していない。だから、2人には助けてほしいんだ」
「た、た、たすけ……?」
「今、僕はなんの力もない。何も知らない。君たちの協力なしには、状況を改善することができない」
「だから、僕のことを助けてくれませんか」
「…………」
僕は少し姿勢を正して、対面に座る2人に小さく頭を下げる。澄雨さんはその様子にひどく驚き、あんずちゃんですら、目を見開いていた。
10秒くらい頭を下げて、顔を上げた時には、澄雨さんの顔には「何を言ってるのか分からないけど、とりあえず従うしかない」という感情が残っているように見て取れた。なんとなくでも、僕の説明(?)を信じたようだ。
あんずちゃんはまだ伺うような様子だが、冷え切った目は向けていない。
よし、一旦はこれでいい。
意図的に難解な言葉を並べ立て、澄雨さんとあんずちゃんの思考を停止させる。
僕の説明を聞いても、考えれば考えるほど混乱する。だから考えるのをやめて、納得したことにするしかない。
こういう状態を作るのが狙いだった。
「ま、難しいことは考えなくてもいいよ。ただ、今の僕は以前とは違う。それだけ理解してくれれば嬉しいな」
「……ぁ、えへ、わ、わかった。えへへ……」
………さて、この「嘘」がどこまで通じるか。
そう、結局僕は、何も説明していない。ただ、2人が納得してくれて、僕のために協力してくれるよう「
さっき、掃除をしながら考えていた。2人にとって今の僕は「別人」に見えるはず。口調は元の「善」を知らないから真似しようがないし、性格のトレースも難しい。先ほどの説明も、おそらく元の人格からは出てこないような説明、そして語り口調だったはず。
だからこそ、違和感を消すために「善が変わった理由」を与えることにしたのだ。
置かれている状況を正確に把握できていない現状、本当の正体を明かすのは慎重になりたい。
それに、伝えたところで、現状を打破することはできないだろう。少なくとも、今は。
だったら、正直に正体を明かすよりも、僕にとって都合の良い環境を作るしかない。
時間をかけて、2人が「やっぱりそうだったのか」「なんとなくそんな気はしてた」と思うように誘導する方がいい。
それなら、不要な混乱を減らせて、中長期的な安定は得られる。澄雨さんの反応からして、話の最後の部分しか頭に入っていないだろう。それでも一旦、善という人物の変化については飲み込んだはず。
人は、自分の判断を裏付ける情報を信じやすい。そして、一度納得したら、それを強く信じるものだ。だから、違和感があっても「納得できる説明」を与え続ける。そうすれば、2人は次第に「そういうことだったんだな」と思い込むようになる。少し工夫して思考を誘導してしまえば……、大袈裟にいうなら、人をある程度コントロールすることができてしまう。
―――確証バイアス。
自分を律するために理解していた知識を悪用するとはね。無意識に、息を大きく吸い、そして吐き出しながら、静かに椅子にもたれかかった。ぎし、と鳴いた椅子が、どこか僕を責めているように感じた。
しばしの沈黙。僕は話題を変えることにする。
「……んー、そういえばさ。僕って、今、何の仕事してるんだっけ?」
その瞬間、澄雨さんの肩がビクリと震えた。息を詰まらせた彼女の顔に、一瞬、動揺の色が走る。
えっ……?口に出すのも憚れる職業なの?ヤのつく自営業じゃないよね?そうだとしたら、しがらみが面倒だぞ?
澄雨さんは、一瞬、僕の顔を見て――すぐに視線をそらした。
「し、ごと、って……?」
その問いかけには、とぼけているような響きがあった。
「うん。僕、何の仕事してるの?」
言葉を繰り返しながら、僕は澄雨さんの様子をじっと観察する。
彼女のまばたきの回数が増え、視線は落ち着きなく泳いでいる。
戸惑ってる……?いや、それだけじゃない。どこか「言いたくなさそう」にも見えた。
なんだなんだ、緊張してきた。
「………」
彼女は、何かを考え込むように唇を噛み、何度か口を開きかけては、また閉じる。
「あの……えと……ぅ……」
ヤクザは嫌だ、ヤクザは嫌だ、ヤクザは嫌だ、ヤクザは嫌だ!
小さく喉を鳴らし、やがて、掠れるような声で答えた。
「……しごと……して、ない……よ?」
してないんかいっ!! いやそりゃ面と向かって「ニートだよ!ばーか!!」とは言えませんよね。なんかごめんね。
心の中で軽く謝罪して、表情を崩さないように気をつける。
口の端がひくついた気がするけど、あくまで気軽な雰囲気を保ちながら、次の質問を投げかけた。
「そっか。じゃあ、どうやって生活してたの?財布には結構な現金が入ってたけど……」
澄雨さんの肩がまたもや小さく跳ねた。
おいおい、もしかして「善」。お前、この子にお金を稼がせてるのか。しかも、大きな金額がドンと入るような。いくらなんでもそれは。
「あー、澄雨さん。もし言いづらかったら別に……」
言いにくそうに、彼女の唇がわずかに動いた。
「……ぜ、善くんの、両親が、お、お金……お、送ってくれてる……」
小さな声だった。
「なるほどね」
カス!!! びっくりするほどのカース!!!! 別ベクトルでクズじゃないか善、お前!! いやお金を送る両親も両親だけどな!
「ご、ごめんね、えへ、えへへ、ごめん、なさい」
澄雨さんは、不安げにちらっとこちらを見たあと、すぐに視線を下げてボソボソ呟くように謝罪した。
「カスみたいな夫でごめんってこと? まあ、うん、でも澄雨さんは謝らなくていいと思うよ。ありがとう、言いにくいことを教えてくれて」
「えっ?! かす?! あ、ありが、って、あそっか……あ、えへ、えへへへ」
一瞬驚いたように顔を上げたが、何かに納得した様子を見せたら、今度はもじもじとし出した。うーん、かわいいね。庇護欲が刺激されるぅ。
「どれくらいの頻度でお金はもらえるのかな?」
「あ、昨日が、その日…あ、つ、次は今月のお、おわり……」
「毎月の仕送りってことか。実家が太いボンボンかな? でもその割には生活レベルがあんまり……ふむ」
僕は少し考えて、何気なく澄雨さんを見る。彼女の様子には明らかに「気まずさ」が滲んでいた。この話題があまり触れてほしくないものだと示すように。金の出どころを言いにくそうにするってことは、澄雨さん自身もこの生活に対して引け目があるのかもしれない。でも、先のガス代の支払いの件で知れた通り、財布の紐を握っていたのは「善」であるから、何も言えない生活をずっと送ってきているんだろう。経済的にも縛っていたのか、この男は。
気の毒な話である。本当に。
「澄雨さんは働いてるの?」
「えっ?! な、何もしてないよ!してない! 嘘じゃないです! スーパーでパートしてないです!」
スーパーでパートしてるのか。
「お、お昼は、レジ打、じゃなくて、おさんぽしてる!」
お昼はレジ打ちしてるのか。
「僕は普段、日中何してるの?」
「ぱちんこ。パパはへた」
「あ、あんずちゃん!?」
なぜかあんずちゃんが答えて、澄雨さんが慌てる。あんずちゃんの説明にちょろっと毒が混ざっててかわいい。必死に謝る澄雨さんを「気にしてないよ」と宥めてから話を聞くと、どうやら善は普段、日中はパチンコやら競馬やらに勤しんで、夜はあちらこちらで呑んだくれているらしい。家のことには一切関与せず、帰ってこないことも結構あるようだ。外に女でもいるんだろうか。
お手本のようなクズである。様式美すら感じ得てしまうね。
「で、でも、善くんは、たまにでも帰ってきてくれるし、ご飯買ってきてくれることもあったし、ほ、本当にお金がいる時は、土下座したら、笑いながらくれる、から、えへ、えへへ」
「あかんこれ」
しれっと澄雨さんの状態と善との関係性について明かさないでほしい。深刻すぎる状況に、今僕が置かれてる状況が可愛く思えてくる。
なんにせよ、お金の心配はないようだ。お金の引き出し方などは一旦置いといて、仕事やら人間関係やらを気にしなくていいのは正直とても助かる。しばらくはこの家を拠点に、落ち着きたいところだった。今はこの身がボンボンのバカ息子であることを幸運に思うことにしよう。
「これだけのお金が毎回送られてくるなら、当面の心配はなさそうだ。前の僕がどうだったかは知らないけど、お金が入ったらちゃんと渡すからね。悪いけど、定期的な支払いがあったら処理をお願いしてもいい?」
「…ぁ、ぅん! うん! まか、せて! うん! えへ!」
彼女は惚けた顔をした後、今度は嬉しそうにそういった。
「その言葉を予想していなかった」とでも言いたげな表情で、頼られて嬉しいのか、ストレスがなくなってホッとしているのか。
自然な笑みだったような気がする。
そうしてまた、沈黙が流れた。ただ、そんなに居心地の悪いものじゃない。澄雨さんはよかったね、と小さな声であんずちゃんに話しかけているし、あんずちゃんは無表情だが、母の目を見て小さく頷いている。彼女にとっても、いい状況に好転したのだろう。
その中で、僕はそっと息を吐きながら、心の中でひとつの結論に達していた。
(できることはしてあげよう。僕に付き合わせるわけだし、見返りにというわけじゃないけど、目の前の2人が安心して過ごせる環境の提供くらいは、人として、協力すべきだろうな。何より……この2人の状況を見て見ぬふりなんてしたら)
僕は、彼らに顔向けできないだろう。あの時、皆に宣言したのだ。
いつだって、僕は、彼らにとってのーーー。
「……んぇ?」
小さな決意を胸に抱いていると、澄雨さんが、視線を彷徨わせながら、ふと部屋の隅を見つめてつぶやいた。
「き、きれい……?」
小さな声で、呟くように言った。今気づいたのか。少し安心したからか、視野が広まって気づいたのかも知れない。
僕は微笑みながら、自然に答える。
「ちょっと片付けたんだよ。2人が支払いのために外出したときにね」
何気ない一言のつもりだったのだが――澄雨さんの表情には、驚きとともに、わずかに警戒の色が滲んでいた。僕の言葉をどう受け取ればいいのか、判断できないというようだ。
「……お、おかたづけ……?」
「うん。汚れてるのが気になったから、ちょっとだけね」
できるだけ穏やかに返す。
「……あ……そ、そっか……」
澄雨さんは小さく頷いたものの、どこかぎこちない。彼女はまだ、この状況をどう理解すればいいのか迷っているようだった。
無理もない。突然、「善」が掃除をし始めるなんて、彼女からすれば、ありえない出来事なのだ。
僕が以前の「善」とは異なる存在であると説明はしているものの、気持ちが追いついていないのだろう。
見た目には同じ人間なわけだし、納得には少なくない時間が必要である。
僕の突然の変化が、彼女にとって「良いこと」なのか「怖いこと」なのか――まだ判断がついていないのだ。
……それにしても、彼女の反応の仕方が気になるな。その表情には、単なる驚きだけじゃなく、わずかに「怯え」が混ざっている。「片付いている」こと自体に、戸惑いを感じているような――そんな不安定な反応だった。
変化に対する小さな警戒。
それが、彼女の反応の正体だと直感的に理解する。彼女にとって、「家の中の状況が変わること」は、本来、安心できることではないのかも知れない。または彼女に取って、「掃除をすること自体」が何か特別な意味を持っているのだろうか。
ふむ、よし。
「……せっかくだし、3人で掃除しようか」
僕は何気ない調子でそう言った。
「……ぇ?」
澄雨さんに動揺が広がる。
「いや、ほら、せっかく片付けたし、この機会にもう少し整理しておこうと思ってさ。3人でやれば早く終わるし、どうかな」
そう言ってみるが、澄雨さんの顔は強張ったままだった。
「……ぁ……ぁ……」
口を開きかけて、すぐに閉じる。言いたいことがあるのに、どう言えばいいのか分からない――そんな迷いが見えた。困惑、不安、緊張……あとは、恐怖?彼女は明らかに、今の状況にどう対応すればいいのか分からなくなっており、わずかにパニックに陥っているように見える。これは良くない流れかも。
「……大丈夫だよ。ただ掃除するだけ。そんなに難しい話じゃないさ。ね? あんずちゃん?」
僕がそう言ってあんずちゃんを見ると、彼女は少し僕の顔を眺めた後、澄雨さんに向かって小さく、こく、と頷いてみせた。
「……ぁ……ぅ……」
しばらくの沈黙のあと、彼女はか細く頷く。
「……ぅ、うん……や、やる……」
頷きこそすれ、その声は明らかに怯えていた。それでも、拒否することはもっと怖い。だから、彼女は頷くしかなかったのだ。
どれだけ、追い詰められて生きてきたんだろうな。この家の中で、彼女は何を考えながら生きてきたのか。どんな環境の中で、どんな風に過ごしてきたのか。少しずつ、見えてくるといいな。
「じゃあ、分担決めようか!」
僕はすっと立ち上がり、重たい空気を変えるため、意図的に声のトーンを上げて話を進める。
「澄雨さんはリビングの片付け。僕は台所周りをやる」
「……ぅ、うん……」
「それで、あんずちゃんは……」
視線をあんずに向ける。彼女は相変わらず無表情のまま、じっとこちらを見ていた。
「床のゴミを拾って、ゴミ箱に捨てるのをお願いできる?」
彼女は何も言わなかった。ただ、ゆっくりと頷いた。静かに――僕の言葉の意味を慎重に確かめるように。
この子も……警戒してるんだろうなあ。
彼女にとっても、僕の変化は「異常」なのだ。それが「良いこと」なのか「悪いこと」なのかを、彼女はまだ判断できずにいる。それでも、あんずちゃんは指示には従った。その冷静な態度が、逆に彼女の「周囲を見ている」ことを示している。まずは、一緒に何かをすることに慣れさせていこう。
僕は軽く手を叩いた。
「じゃあ、やろっか」
そう言うと澄雨さんの肩が、また小さく震えた。この子よく震えるな。チワワみたいに思えてきたぞ。かわいい。
「……ぅ、うん……」
頷いたものの、その声はどこか頼りない。僕が何か反応するのを待っているようにも見える。……どれだけ掃除に対してネガティブな記憶があるんだ?
掃除という単純な行動ひとつに、彼女の心はこんなにも揺れている。善が掃除に対して怒ったことがあったのか、それとも……。
まだ分からない。だが、僕の予想では、澄雨さんの生い立ちが関係している気がした。
「大丈夫。適当にやればいいよ」
僕はあくまで気軽に言う。彼女の負担をできるだけ減らすように。しかし、澄雨さんはかすかに戸惑ったように目を伏せた。
「ぇ、えと、な、なに……すれば……」
僕は一瞬、彼女の問いかけの意味を考えた。指示を待っているのか、掃除の仕方を知らないのか。掃除なんて、基本的には「片付ける」「拭く」「掃く」くらいのものだ。
それなのに、彼女のこの戸惑いようは……なんとなく、後者の気がする
簡単な指示を出すと、オタオタと掃除を始めるものの……うん、やっぱりそうだ。掃除をすることに慣れていない。実家が異常なほど綺麗だったか、家事をさせてもらえなかったか。
澄雨さんのこれまでの反応を思い返すと、そのどちらもあり得る気がする。しかし、今は深く考えすぎず、彼女が無理なく掃除をできるようにすべきだった。
「じゃあ、まずは散らかってる物の整理整頓からやろうか。できる範囲でいいからね」
「……ぁ、ぇへ、えへへ、う、うん……」
澄雨さんはぎこちなく笑いながら頷き、それを見ながら僕はすぐに動き出す。彼女を見守るのではなく、自分も掃除に取りかかることで「一緒にやる」という空気を作るために。
最初のうちは、澄雨さんも少しずつ動き始めた。テーブルの上の空き缶を片付ける。散らばっていた衣服をまとめる。だが、それだけだった。横目で様子を見ていたけど、澄雨さんは「とりあえず手を動かしている」だけだった。
空き缶を片付けた後、そこにできたスペースを拭くことはしない。床の上に散らばっていた書類をまとめるが、それを「整理する」という発想はない。ただ、目に見える「ゴミ」を拾い、それ以上はどうしたらいいのか分からない――そんな感じだった。
本当に、掃除の基本を知らないんだろう。彼女のやり方は、「片付け」ではなく、「とりあえず目の前のものをどけるだけ」 だった。明らかに「整理整頓」の習慣がない。整理整頓ができない人自体は決して少なくない。仕事場などではともかく、自室がごちゃごちゃしてる人はいくらでもいるだろう。それ自体はなんら珍しいことではない。
だが、澄雨さんの場合は、そもそも整理整頓がわかっていないような気がする。
掃除は教育またはしつけされる事の一つだ。学校では掃除の時間があるし、アルバイトなどでも掃除を学ぶ機会はあるはずだ。
だが、彼女の様子からして、そのすべての機会を逃したまま大人になったような。
そんな歪さがそこにはあった。
視線をあんずちゃんに向ける。彼女は指示通り、床に落ちていた細かいゴミを拾い、ゴミ箱へと運んでいた。明らかに澄雨さんよりもスムーズだった。僕が「床のゴミを拾って、ゴミ箱に捨てる」という指示を出したとき、彼女はすぐに理解して動き出した。
彼女は「掃除の基本」が身についている。「ゴミを拾う」だけじゃなく、「どこを綺麗にするべきか」や「どこまで片付けるべきか」を理解している。その違いは明らかだった。
澄雨さんは掃除ができない。
あんずちゃんは掃除ができる。
澄雨さんにとって、家の中がどうなっているかは、彼女が決められることではなかったのかもしれない。
掃除はしなくていい、そう思わせるような環境だったか、あるいは、掃除をすることを許されてこなかったか。
「……ふうん?」
まあ、とりあえず、澄雨さんには「片付ける」ことを続けてもらおう。掃除のやり方が分からない人に、いきなり手順を教えても混乱するだけだ。まずは簡単なことから始めてもらうのがいい。
「澄雨さん、ゴミ袋、ここに置くから、拾ったものをまとめてくれる?」
「あ、え、えへ」
「……くす、やっぱりそれ、返事なんだ」
つい、笑みが溢れる。それを見て、澄雨さんはポカンとしていたが、すぐに にへら、としてみせた。かわいい。
彼女はすぐに反応する。指示されれば動ける。だが、自分で判断して動くことは難しい。彼女にとっての今後の課題だな。
普段から、ある程度僕が掃除しておくか。簡単な掃除と整理整頓をやらせるために、あえてどこかは片付けが必要なままにしておくとして…。そう思いながら、僕はもう一度、散らかった部屋を見回した。
――そのとき、ふと冷蔵庫が目に止まった。そういえば、食材はちゃんとあるのだろうか?僕は何気なく冷蔵庫の扉を開けて、目を見開いた。
まともな食材が、ほとんどない。そこにあったのは、コンビニで売っているウィダーゼリーが数個。スーパーの惣菜パックがいくつか並び、ラベルには消費期限が迫っているものも混じっている。そしてペットボトルの水。あとは、冷凍庫の隅に何かの冷凍食品が押し込まれているだけだった。生鮮食品らしきものはほぼ皆無。
野菜も、卵も、肉もない。
冷蔵庫が、ここに住む二人の生活を物語っているようだった。彼女たちは「食事を作る」という生活をしていないようだ。何かを料理するための材料ではなく、「すぐに食べられるもの」だけが並んでいる。調味料の棚を開けると、そこも最低限のものしかなかった。塩と醤油、それからマヨネーズとケチャップ。砂糖やみりんは見当たらず、油もほぼ使われていない形跡がある。
つまり、「作る」じゃなくて、「買ってきて食べる」生活をしてるのだろう。コンビニやスーパーの惣菜で済ませるのが当たり前になっているのかもしれない。調味料がほとんど使われていないのは、そもそも自炊の習慣がないからだろう。
「………」
僕は静かに冷蔵庫の扉を押し戻しながら、眉間をほぐして目の前の現実を整理した。
あかん。
この家を、もう少しまともな環境にしないといけない。部屋の掃除だけじゃなく、食事の環境も整えなければ。となればまずは食材の買い出しだな。
冷蔵庫の中を思い返しながら、頭の中で必要なものをリストアップする。うーむ、オムライスの材料なら、負担なく作れるし、それなりに栄養も取れるかあ。鶏肉、玉ねぎ、ピーマン、卵、ケチャップ、牛乳、バター…最低限の調味料も揃えた方がいいかも。僕はもう少し片付けをしておきたいし、うん、買い物は2人に頼もうか。
僕は適当に置いてあった紙とペンを手に取って、買い物リストを書き始めた。誰に渡すか……澄雨さん? いや……あえてあんずちゃんに渡そう。
無表情の彼女は、何を考えているのかは分からない。だからこそ、少しでも彼女のことがわかるように、彼女の心を動かす必要がある。これはいい機会かも知れない。
紙に「オムライスの材料」とタイトルを書き、必要な食材をリストアップする。箇条書きにした文字が、少しずつ紙の上を埋めていく。
「よし」
書き終えたメモを手に取ると、僕はリビングへ戻った。
「澄雨さん、ちょっとお願いがあるんだけど」
「え?! あ、うん……な、なに……えへ…?」
「買い物に行ってもらえないかな」
「か、かい、もの……?」
「冷蔵庫見たけど、食材がほとんどなかったからね」
僕はなるべく軽い口調で言った。澄雨さんの視線が、ちらっとキッチンの方へ向き、そしてしまったと顔を青ざめる。
「あ、ご、ごめんね! 何もなかっ、あの、えっと、えへ、えへへ」
「何それかわいい(うん、それは全然気にしてないよ)」
「……ぇ?」
「うん、それは全然気にしてないよ(何それかわいい)」
「あ、う、ぅん」
しまった口が滑った。僕は、澄雨さんの視線が揺れるのを感じながら、さりげなくメモをあんずの方へ向ける。
「これ、お願いできる?」
渡す相手は――澄雨さんではなく、あんずちゃん。あんずちゃんは、僕の手元にあるメモを一瞬じっと見つめた。彼女は何も言わない。ただ、無表情のまま、視線だけが紙の上をすべる。
そして、ゆっくりと――そのメモを受け取った。
「……」
受け取ったメモを、あんずちゃんは両手でしっかりと握る。その仕草はどこか慎重だった。よし。
「澄雨さんも、一緒に行ってくれる?」
「ぁ、あぇ」
澄雨さんは、まだ戸惑いを残したまま、小さく頷いた。
「え、えと、な、何か、持って、いく?」
「エコバッグは持っていった方がいいね。財布とかも忘れずに」
「ぁ、うん、えへへ…」
澄雨さんはワタワタと準備を始める。あんずちゃんは、手元のメモをじっと見つめたまま――小さく、静かに息を吸った。彼女の目の奥に、ほんの少しだけ、何かの決意のようなものが宿った気がした。表情には出さない。それでも、なんとなく、あんずちゃんが役割を受け入れたことが分かった。
彼女にとって、「買い物」という行為はどんな意味を持つのだろう。少なくとも、彼女自身が家事の一部を担当するとを決めた瞬間は、この子にとって大切な意味を持つはずだった。この調子で、少しずつでもいいから、二人に「できること」を増やしていこう。
僕は、二人の背中を玄関まで見送る。
「じゃ、行ってらっしゃい」
そう言うと、澄雨さんは「ぅ、うん」と小さく返事をし、あんずちゃんは――何も言わず、ただ静かに玄関へ向かった。玄関の扉が、ゆっくりと閉じる音が響く。二人が買い物へ向かった家の中は、静かだった。
僕は振り返り、幾分マシになった部屋を見渡しながら、もう少し片付けを進めようと腰を叩いた。
その頃、澄雨とあんずは並んで歩いていた。澄み切った空が広がり、風が心地よく頬を撫でる。陽射しはやや強いが、暑さを和らげてくれるほどの爽やかさがある。通りにはコンビニや小さな商店が並び、二人は静かに歩を進めていた。
あんずは無表情のまま、買い物リストを両手でぎゅっと握りしめていた。紙が少し皺になっている。
(……そんなに強く持たなくてもいいのに)
澄雨は横目で娘を見ながら、そんなことを思った。
「あんず?」
呼びかけても、あんずは前を向いたまま表情を変えない。澄雨は小さく息を吸い、喉の奥に絡みつくようなこわばりを押し殺しながら、意を決して口を開いた。
「あのね、あんず。パパ、これまで何度か、こ、こういうこと、あったの。パパのパパとママがね、お金を止めた時とか、家に来た時とか、時々……。あんずも知ってるかなあ」
あんずは依然として前を向いたままだった。
「でも、いつもすぐ、元に戻っちゃう……。いつもの、怖いパパ」
自分で言いながら、澄雨の胸が痛んだ。何度も見た光景が蘇る。善が変わろうとしている「ように見えた」時期は確かにあった。けれど、それは長くは続かなかった。今回もそうなのだろうか。彼女はそっとあんずの顔を覗き込むが、娘は何も言わず、ただ真っ直ぐ前を見つめている。その無表情さが、澄雨の胸の奥に静かに不安を広げていった。
「だ、だから怖いことがあったら……す、すぐママに言いなよ……?」
勇気を振り絞りながら、言葉を紡ぐ。もしまた元に戻ってしまったら。もしまた「いつものパパ」に戻ってしまったら。そのとき、あんずを守れるように、ひとりで抱え込まないように。
「で、でも、今回は、なんだかすごいね。本当に人が代わったみたい。パ、パ、パパのいってることは全然わかんなかったし。あんなに頭良さそうなこと言ってるの、初めて聞いたなあ。本当に善君じゃ、なかったりして……えへ」
眉を下げながら、小さくつぶやく澄雨。あんずは目線だけ澄雨に向けるが、すぐに正面に戻してしまった。
あんずは何も言わない。風が吹き抜け、街路樹の葉が揺れる。沈黙が二人の間に流れ続ける。澄雨は耐えられなくなった。
「は、はんのうしてぇ」
情けなく、あんずの袖を軽く引く。けれど、やっぱりあんずは何も言わない。ただ、両手で握りしめているメモを、さらに強く握った。まるで「決意」を示すような仕草だった。
澄雨の「怖さ」と、あんずの「何か」。交わらないまま、2人は静かに並んで歩き続ける。陽射しが眩しく、遠くで車のクラクションが鳴った。
ゆっくりとアスファルトに響く2人の足取りは、なんとなく、軽いものに聞こえた。
2025/03/15 一部表現を変えました。
2025/03/16 一部表現の齟齬を修正しました。