酔いから覚めたら妻子持ちのDV男に憑依してたんだけど   作:くじらん421

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大変お久しぶりです。
仕事が少し落ち着いたのでまた定期的に投稿していければ。
のんびりとお付き合いいただけたら幸いです。



4. あたたかいごはん(改稿前)

現在、僕は室内を水拭きしながら、澄雨さんとあんずちゃんの帰りを待っていた。

 

三人で掃除をしたといっても、さすがに一度で全部きれいになるわけではない。見た目は少しマシになったけれど、匂いの発生源になっていそうな場所はまだまだ多い。床の隅、壁際、冷蔵庫の下、家具の裏。そういうところに生活の澱みたいなものが溜まっているのだろう。今日はとりあえず最低限。後日、改めて本腰を入れて掃除する必要がある。

 

僕は古封筒の裏に、必要そうな掃除道具や洗剤を書きつけていく。雑巾、台所用洗剤、漂白剤、消臭剤、ゴム手袋。あとは……、スポンジと、床用のシートと、できればバケツももう一つほしいところだ。

 

去年の今頃だったか。職場でこうして古封筒をメモ代わりにしていたら、今どき珍しいですね、と笑われたことがある。スマホでもタブレットでもなく、わざわざ紙の裏面に手書きするのが、いかにも古臭いのだそうだ。

 

別に時代に逆行したいわけじゃない。デジタルは便利だし、僕だって普通に使う。けれど、咄嗟に書くなら、やっぱり紙が楽なのだ。考えながら線を引いたり、順番を入れ替えたり、書き損じたり。そういう雑さごと抱え込めるのが紙のいいところだと思う。

 

……たった一年ほど前のことなのに、随分と遠い。

 

目を閉じれば、今でもあの時の笑い声が聞こえてくる。

まだ覚えている。少なくとも、今は。

 

でも、こうして他人の体で、他人の人生の中に入り込んで暮らしていけば、いつかは薄れていくのだろうか。新しい景色、新しい人間、新しい出来事に押し出されるようにして、僕の中にあったものが少しずつ色褪せていくのだろうか。

 

僕は雑巾を強く絞りながら、小さく息を吐いた。

 

その時だった。

 

――ガチャ。

 

玄関の方から扉の開く音がする。

 

どうやら二人が帰ってきたようだ。僕は雑巾をバケツに放り込み、手を軽く拭いてから玄関へ向かった。

 

案の定、そこには澄雨さんとあんずちゃんがいた。澄雨さんはエコバッグを肩に下げ、あんずちゃんは両手でティッシュの箱をしっかり抱えている。買い物メモには書いていなかったけれど、見れば納得だ。確かにこの家にティッシュは見当たらなかった。

 

「あっ、え、えへへ」

 

「……」

 

澄雨さんは靴を脱ぎながら、いつものようにへらりと笑う。あんずちゃんは無表情のまま、しかしなぜかティッシュ箱をこちらに向けていた。……見せてくれているのだろうか。

 

「おかえり。二人とも、結構買ったね。重かったでしょ」

 

そう声をかけて、澄雨さんのエコバッグを受け取る。ずしり、とした重さが腕にかかる。やはり僕も一緒に行くべきだったかもしれないと少し反省する。

 

「あっ、あっ、あっ」

 

荷物を受け取られた澄雨さんが慌て始めたが一旦置いておくことにする。今はそれよりも、あんずちゃんの方が気になるのだ。

 

僕は腰を落として、あんずちゃんと目線を合わせた。

 

「ティッシュ、買ってきてくれたんだ」

 

「ティッシュなかった」

 

「確かに、なかったね。よく気づいた」

 

「あんずが買うって言った」

 

「へえ。そりゃ気が利くね。僕の娘、めちゃくちゃ賢いじゃないか」

 

あんずちゃんは相変わらず無表情のままだったけれど、ほんのわずかに体が左右に揺れた。ああ、これは照れてる。間違いない。かわいい。

 

そっと頭を撫でようと手を伸ばすと、彼女の腕がびくりと震えた。反射的に頭を庇おうとしたのだろう。しかし、両手はティッシュ箱で塞がっている。よって、その防御行動は半分ほど失敗し、結局そのまま僕に撫でられるしかなかった。

 

「ありがとう、あんずちゃん」

 

力が、ふっと抜けたのが分かった。

 

隣では澄雨さんがハラハラした目でこちらを見ていたので、撫でるのはこれくらいにしておく。あまり一気に距離を詰めるのもよくない。

 

「じゃあ、買ってきたもの、しまっていこうか」

 

エコバッグを抱えて台所へ向かう。二人も、ちょこちょこと後ろについてきた。

 

買ってきた食材をカウンターに並べて、冷蔵庫を開ける。さっきまでの、ほとんど何も入っていなかった冷蔵庫が、今日は少しだけ“家”らしくなっていく。なんだかそれだけで嬉しい。

 

「上の段は飲み物とか、すぐ使うものがいいかな。豆腐と野菜もこっち。下の段は少し温度が低いから、お肉とかの方が向いてるね」

 

説明しながら順番にしまっていく。牛乳、卵、鶏肉、玉ねぎ、ピーマン、ケチャップ、バター。最低限だけれど、ちゃんと食事が作れそうな並びだ。

 

全部入れ終わる頃には、冷蔵庫の中身がようやく“人の生活”になっていた。

 

「す、すごぉい……」

 

「……」

 

二人が並んで冷蔵庫の中を見つめている。感心してくれているようだ。普通のことを普通にしただけだ。でも、この家ではその“普通”がなかったのだろう。そう思うと、胸の奥が少しだけ重くなる。

 

「はい、一旦閉めるよ。開けっぱなしだと冷えなくなっちゃうからね」

 

「ああっ、冷蔵庫……!」

 

「――っ」

 

二人とも、名残惜しそうにしている。なんだか冷蔵庫を眺めること自体がイベントになっているみたいで、おかしくて笑ってしまいそうだった。

 

けれど次の仕事があるので、僕は手を叩いて気持ちを切り替える。

 

「じゃあ、ご飯を作っていこうか。僕が難しいところをやるから、二人には簡単なところをお願いしたいんだけど……澄雨さん、それで大丈夫?」

 

「えっ?! あ、う、うん。あ、でも、りょ、料理は少し苦手で……」

 

「大丈夫。だから一緒にやるんだよ。あんずちゃんも、それでいいね?」

 

こくり。

 

うん。かわいい。

 

「じゃ、まずは手を洗おうか」

 

僕がそう言う前に、あんずちゃんが澄雨さんを見上げて言った。

 

「ママ、手をあらう」

 

「あ、そっか。はぁい」

 

二人は洗面所へ向かっていく。うむ、手洗いの意識が高い。とてもよろしい。僕はその間に食材と調理器具を並べることにした。

 

……予想はしていた。していたけど、予想以上に何もない。

 

包丁一本。しゃもじ。お玉。少し厚みのあるフライパン。ペラペラなまな板。炊飯器とトースター。以上。

 

えっ、終わり?

いや、本当に終わりだった。

 

ボウルも泡立て器も計量スプーンもない。菜箸もない。ピーラーもない。なるほど、これは“料理しない家”だ。調理器具の少なさが、生活の履歴を物語っている。

 

まあ、当面はこれでどうにかするしかない。買い足しは後日だ。

 

そうこうしているうちに、二人が戻ってきた。澄雨さんはそのままだが、あんずちゃんは真っ白でしわだらけのエプロンと、ドアノブカバーみたいな白頭巾をかぶっていた。

 

「おお、決めてきたね。小学校で使ってるエプロン?」

 

こくり。

 

「準備ばっちりだ。えらいね、あんずちゃん」

 

そう言って微笑むと、また少しだけ体が左右に揺れた。両手もぎゅっと握られている。うむ、やっぱり照れてる。かわいい。その様子を見ていた澄雨さんも、にへら、としている。

 

その時、あんずちゃんが澄雨さんを見上げた。

 

「ママ、エプロンしてない」

 

「えっ?! ママ、エプロン持ってないよ?! し、しないとだめかな?!」

 

「おりょうりの時はエプロンする。パパもしてる」

 

「あ、い、言われてみれば……」

 

そう、僕はしている。

いや、正確には、拭き掃除の時にズボンが濡れないよう、その辺にあったワイシャツを腰に巻いていただけなのだが。どうやらあんずちゃんの中では、それは立派なエプロンらしい。

 

その認識に基づいて、自分もちゃんとエプロンをしてきた、と。

うーん、観察が鋭い。非常にいい。

 

「ママはエプロン持ってないよぉ」

 

「…………」

 

「あ、あんずから圧を感じる……!」

 

澄雨さんが困ったようにこちらを見る。助けてほしいのか、確認してほしいのか、怒られると思っているのか。眉を八の字にして、僕とあんずちゃんを交互に見るものだから、なんだかおかしくなってしまった。

 

「うん。あんずちゃんの言う通り、エプロンは大事だね。じゃあ、澄雨さん、ちょっとこっちへ来てくれる?」

 

そう言うと、澄雨さんはきゅっと身を固めた。ほんの少し迷ってから、恐る恐るこちらへ寄ってくる。

 

僕は近くにあった、洗濯予定……いや、まだ洗う価値のある派手な柄のワイシャツを手に取った。

 

「失礼するね。後ろに回るよ。大丈夫?」

 

「あ、ぅ、うん……」

 

返事をもらってから、後ろに回る。腰エプロンになるよう、袖をくるりと回して前で結ぶ。なるべく手早く、必要最小限の接触で済ませる。触れた瞬間、澄雨さんの体はやはりびくりと強張ったが、逃げることはしなかった。

 

「はい、できた。これで即席エプロンだ」

 

「……ぇ、あ……」

 

「今度ちゃんとしたのを買おうか」

 

そう言うと、澄雨さんは少しだけ目を丸くした。その表情には驚きと、戸惑いと、ほんの少しだけ嬉しさが混ざっているように見えた。

 

一方、あんずちゃんはそれを見て、満足したらしい。小さく一つ頷いた。

厳しいチェックを通過できたようで何よりである。

 

「じゃあ、二人ともこっちへ。作業を分けるね」

 

台所に立つと、あんずちゃんがすぐに手元を覗き込むように近くへ来る。対して澄雨さんは、まだ少し離れた場所で固まったままだ。

 

「澄雨さん?」

 

「――っ! あ、い、今行くね、え、えへへ」

 

慌てて近寄ってくる。“えへへ”でかなり緊張を誤魔化しているけど、ちゃんと来てくれるなら十分だ。

 

「まず、あんずちゃんには卵をお願いしよう。全部で八個。大変だけど、あんずちゃんならできると思う」

 

こくり。結構力強い頷き。やる気だ。

 

「卵はね、平らなところで優しく叩くんだ。こうするとヒビが入るから、そこから両手で割る。ほら、こんな感じ」

 

お手本で一つ割って見せる。ボウルがないので深めの皿で代用だ。卵がぽとんと落ちる。

 

「少し殻が入っても、後で取れば大丈夫。慌てなくていいよ」

 

あんずちゃんは食い入るように見ている。一度で覚えようとしているのがよく分かる。真面目な子だ。

 

「じゃあ、一緒に一個やってみようか。こっちにおいで」

 

僕は正面に少しスペースを空けた。あんずちゃんは数秒だけ逡巡してから、すっとその位置に入ってくる。頭を撫でたい欲があるが、今は作業優先だ。

 

「こうやって持って……そう。優しくコンコン。もう少し強くても大丈夫。うん、ヒビが入ったね。じゃあ、親指をここに当てて……そう、左右に開く」

 

ぽとん。

 

卵がうまく落ちた。

 

あんずちゃんは皿の中をじっと見て、それから僕を見上げる。

 

「完璧だ。すごいね」

 

撫でる。やっぱり少し震えるけれど、もう逃げる感じはない。

 

続けて、フォークで卵を混ぜるやり方も見せる。最初はぐるぐると器の中で卵を回していたが、空気を含むように下から持ち上げて混ぜる事を教えると、すぐに修正した。賢い子だ。

 

「じゃあ、残りもお願いしていいかな。こっちの場所でやってみよう」

 

こくり。

 

別のスペースに案内するとあんずちゃんは卵と皿とフォークを持って移動し、すぐに作業を始めた。いいね。もう一人でいけそうだ。

 

「はい、じゃあ次は澄雨さん」

 

「あ、は、はぃ」

 

「澄雨さんには、玉ねぎをお願いしようかな」

 

「た、玉ねぎ……」

 

「うん。包丁は普段使う?」

 

その問いに、澄雨さんは視線をふらりと逸らして、えへ、と笑った。

なるほど。分かりやすい回答をありがとう。

 

「じゃあ、まずは剥くところからやろう。ほら、玉ねぎって頭と根っこがあるでしょ」

 

「……あ、ほ、ほんとだ」

 

隣から覗き込んでもらいながら、頭側を少し切り落として、水で流しながら皮を剥いて見せる。白い部分が出てくると、澄雨さんは「おお……」みたいな顔をした。

 

「それで、これを細かく切ります。みじん切りっていうやつ」

 

「みじん、ぎり……」

 

「あんまり難しく考えなくていいよ。まずは包丁の持ち方だけ」

 

僕は包丁を手に取って見せる。人差し指を軽く添える持ち方。澄雨さんは緊張しながらも食い入るようにみてくる。

 

「じゃあ、持ってみて」

 

「こ、こう……かな」

 

「うん、そう。握りしめすぎると逆に危ないから、少し力を抜いて……あ、そうそう。上手」

 

「――ぇへへ」

 

つい褒めてしまった。いやでも、褒めたら嬉しそうにしているので良しとしよう。

 

僕はまず半分を手本で切ってみせる。玉ねぎを二つに割り、繊維に沿って切れ目を入れて、最後に断つように包丁を落とす。ぱらぱらと細かい玉ねぎができる。

 

「こんな感じ。ちょっと難しそうに見えるけど、やってみると意外とできるよ」

 

包丁と残り半分の玉ねぎを渡すと、澄雨さんは覚悟したような顔でそれを見つめた……が、動かない。

 

「あ、あの……えへ」

 

「うん?」

 

「あのぉ、ちょ、ちょっと怖いから……その……」

 

「もしかして、手を添えた方がいい?ただ、後ろから添える事になるけど、大丈夫?」

 

「あっ、う、うん……」

 

 

意外だった。

いや、包丁が怖いという意味だろうけど、それでも、僕が後ろから支えることを彼女自身が望むとは思っていなかった。少しだけ驚く。

 

「わかった。嫌だったら、いつでも言ってね」

 

「だ、大丈夫……」

 

本人がそう言うなら、ここは信じよう。

 

「じゃあ、失礼して」

 

背後に回る。

触れた瞬間、やはり体は強張った。構えていても体は反応してしまうのだろう、無理もない。けれど、今は逃げないようにしている。その事実を大切にしたい。

 

「まず包丁を持って。そう。左手はこう、猫の手で。指先は隠して……うん、その形。じゃあ、滑らせるように切るよ。押すんじゃなくて、前に少し動かしながら……そう」

 

すとん。

 

「あっ、き、切れた」

 

「切れたね」

 

その声が、びっくりするくらい素直だった。

本当に初めてなのか、あるいは、それに近いくらい経験がないのだろう。

 

「今みたいな感じで、怖くない厚さでいいから切ってみよう。薄くしようとしなくて大丈夫。切れればそれで十分」

 

「う、うん……」

 

最初の一枚を切ってしまえば、その後は案外早かった。おっかなびっくりではあるけれど、手順を守る力はある。何より、こちらの言うことをきちんと聞いてくれる。途中で怖くなって止まることはあっても、投げ出しはしない。

 

うん、澄雨さんはできないんじゃない。やったことがないだけだ。そう気づくと、なんだかこちらまで嬉しくなる。

 

切り終えた玉ねぎを見て、澄雨さんの目が本当に少しだけ輝いた。

 

「で、できた……」

 

「できたね。しかも初めてにしてはかなり上手だよ」

 

「ほ、ほんとに……?」

 

「ほんと。もっと時間がかかるのが普通だからね」

 

「……えへ、えへへ」

 

今度の“えへへ”は、かなり自然だった。よしよし。

 

一方その頃、あんずちゃんはというと――。

 

「…………」

 

静かに、しかし着実に、全部の卵を割り終えていた。

 

えっ、早くない?

 

しかも途中から一つずつ混ぜるのではなく、全部割ってからまとめて混ぜる方式に切り替えている。効率よく進めるやり方に気づいたのか。小学校三年生なのに、本当に頭の回転が早い子だ。

 

「すごい。全部終わったの?」

 

こくり。

 

「は、はやいね。ママが玉ねぎを頑張って切っているうちに、いつの間に……」

 

「いや本当に早い。僕が思ってたよりずっと早い」

 

頭を撫でる。今度はほんの少ししか震えなかった。

 

「2人ともありがとう。じゃあ、あとは僕が最後までやるね。二人は近くで見ててくれる?」

 

二人は並んで頷いた。

 

玉ねぎと鶏肉を炒め、ケチャップを絡めて、ご飯を混ぜる。じゅう、と音がして、甘酸っぱい匂いが広がる。さっきまでのこの家では考えられなかった匂いだ。ああ、これだけでもこの料理には価値があるな、としみじみ思う。

 

さあ、チキンライスのできあがりだ。少し多めに作ったから五人前くらいはあるかな?

 

「すご……いい匂い……」

 

「……」

 

澄雨さんはほわっとした顔で、あんずちゃんは真剣な目でフライパンを見つめている。

 

出来上がったチキンライスを取り出した後、包むための卵を作る作業の一部は、あんずちゃんにやってもらった。慎重に、だが上手に、お皿から卵液を滑らせて、これも完成。いい手際で、本人もやり切った感を顔に出していた。

 

チキンライスを卵で包むと……

 

「お、オムライスだ!?」

 

「――――っ!」

 

オムライスが3皿、ほぼ完成だ。しかし、最後の一手がまだ足りない。

澄雨さんにケチャップを渡して、最後に文字を書いてもらうことにした。

 

「えっ?! も、文字を?!」

 

「うん。難しく考えなくていいよ。名前でも、なんでも」

 

「あ、あぅ……」

 

澄雨さんは散々迷ったあげく、1つのお皿にぎこちない字で「あんず」と書いた。

いい母だね。

 

あんずちゃんの方には、僕が「どうする?」と聞くと、彼女はしばらく考えてから、無言でケチャップを取り――。

 

「ぱぱ」

 

と、書いた。

 

……。

 

僕は数秒、固まった。

てっきり「まま」と書くのだと思っていた。不意打ちでその二文字は効く。

澄雨さんも驚いた風に口を開けている。

 

「おれい」

 

一言だけそう呟く。

 

「……そっか、ありがとうね」

 

「…………」

 

なんて言ったらいいのか分からず、言葉に窮する。

あんずちゃんは無表情のままだ。でも、これはきっと、大きな事なんだと思う。

この「ぱぱ」に込められた彼女の感謝の気持ち、しっかりと受け取ろう。

 

「じゃあ、僕は澄雨さんの名前を書こうかな」

 

「え、えへへ……」

 

僕は残ったオムライスに「すう」と書く。

 

「可愛らしい名前だよね、澄雨さん」

 

「……へぇァっ?!」

 

動揺する澄雨さんはさておいて、三皿のオムライスが食卓に並ぶ。

 

さあ、食事の時間だ。食卓はすでに綺麗にしているから、落ち着いて食べることができる。せっかく料理をしたんだ、気持ちよく食べたいよね。

 

「じゃあ……いただきます」

 

「い、いただきます」

 

「……いただきます」

 

三人の声は揃っていなかったけれど、それでも確かに同じ食卓だった。

 

澄雨さんは最初の一口を運んだあと、ぴたりと動きを止めた。

 

「あ……」

 

その目が少しだけ見開かれる。

 

「どうしたの?」

 

「あ、あの……えへ、なんか……」

 

言葉を探すように視線を落として、それからぽつりと呟いた。

 

「昔、パパが……ご飯、作ってくれた時のこと、思い出した……」

 

小さな声だった。けれど、はっきり聞こえた。

 

「そうなんだ」

 

「う、うん……ご飯の匂いが、ちょっと似てて……」

 

それ以上は言わなかったが、顔を見ると、どこか遠いところを見ているようだった。嬉しいとも悲しいともつかない顔だ。

この人の中にも、ちゃんと“あたたかい記憶”があるのだなと思う。

 

一方で、あんずちゃんは――。

 

もぐ。

もぐもぐ。

もぐもぐもぐ。

 

無言で食べ続けていた。

 

そして一皿目を食べ終わると、こちらを見上げる。

 

「……おかわり」

 

「あるよ」

 

二皿目。

完食。

 

「……おかわり」

 

「あるよ」

 

三皿目。

完食。

 

「…………」

 

「……さすがに四皿目はないかな」

 

こくり。

納得したらしい。

 

いや、すごい食べっぷりだ。気持ちいいくらい食べる。よほど美味しかったのか、よほどお腹が空いていたのか。たぶん両方だろう。

 

「おいしかった?」

 

そう尋ねると、あんずちゃんは小さく頷いた。

 

「おいしい」

 

その一言は、思った以上に破壊力があった。

うん、嬉しいね。やっぱり。

 

そうして穏やかに食事をしたあと、あんずちゃんはソファにふらりと移動したと思ったら、ものの数分でこくり、こくりと船を漕ぎ始めた。そりゃあれだけ食べれば眠くもなる。やがてそのままパタリと横になり、すぐに静かな寝息を立て始める。

 

「寝ちゃったね」

 

「……うん」

 

澄雨さんは拙い動作で洗い物を手伝ってくれながら、ちらちらとあんずちゃんを見ていた。どこか安心したような、でもまだ少し信じきれないような、そんな複雑な顔だ。

 

しばらくして、澄雨さんがぽつりと言った。

 

「……すごいね」

 

「うん?」

 

「今日……なんだか、すごかった。お料理も、掃除も……ぜ、善くんじゃないみたい、って……いや、善くん、なんだけど……別の、善くん……みたいな……」

 

言葉は相変わらずたどたどしい。

でも、言いたいことは分かった。

 

疑っているというより、飲み込もうとしているのだ。

2人が買い物に行く前に僕がした、あの胡乱な説明を。

 

「前にも言った通り、たぶん今の僕は、“前の善”とは少し違うんだと思う」

 

「……うん」

 

「だから、変に思ってもらって大丈夫だよ。むしろ、その方が自然だと思う」

 

澄雨さんは、しばらく黙っていた。

それから、小さく笑った。

 

「……別の善くん、なんだね」

 

「多分ね」

 

「そっか……。じゃあ、今の善くんは、や、やさしいんだ」

 

その言葉に、僕は少しだけ困った。

優しい、か。自分ではあまりそうは思わない。やっていることは全部、合理的判断の延長だ。目の前の状況を改善した方が、僕にとっても都合がいいからやっている面もある。

 

でも、受け取る側がそう感じるのなら、それはそれで悪いことではないのだろう。

 

「どうだろうね。でも、少なくとも、二人が安心して暮らせるようにはしたいと思ってる」

 

「……うん」

 

今度の頷きは、少し深かった。

 

洗い物を終え、部屋を見回す。多少片付いたとはいえ、まだまだだ。それでも、少し前よりは確実に“家”に近づいている。そう思えるだけで十分な進歩だった。

 

……さて。

 

あんずちゃんも寝たことだし、僕は寝る準備をしようと別室の押し入れを開けて、思わず顔をしかめた。

 

出てきた布団は、見事なまでの煎餅布団だった。しかも、黄ばみとくたびれ方がひどい。清潔さにもまるで信頼が置けない。

 

「これは……無理だな」

 

「えっ?」

 

「いや、布団。さすがにこれの上で寝る気にはなれないかな」

 

僕がそう言うと、澄雨さんは押し入れの中を見て、何か変なところがあるかな、という顔をした。普段から使っているから、あまりよく分かってないらしい。この辺も少しずつ改善していこう。

 

「明日、布団かベッドか、何かちゃんとした寝具を買おうと思う」

 

「えっ、あ、でも……」

 

澄雨さんが明らかに慌てた。視線が泳ぐ。

 

「お昼に、ちょっと……予定が……」

 

「そっか。それなら大丈夫。僕1人か、あんずちゃんと二人で行くよ」

 

僕は軽く言った。すると澄雨さんは目を丸くした。

 

「えっ?! で、でも、あ、あの、なん、なんとかして行くよ……!」

 

澄雨さんがそこまで言った時、ソファの方から小さな声がした。

 

「わたしが行く」

 

見ると、あんずちゃんがいつの間にか目を開けていた。寝起きなのに表情はいつも通り無表情である。すごいね、その安定感。

 

「パパと、ふたりで行く」

 

澄雨さんがはっとして、あんずちゃんを見る。

それから、僕を見る。

 

迷っている。ものすごく迷っている。

そりゃそうだ。今の僕は“別の善”だとしても、外見は同じだし。

 

だから僕は、なるべく穏やかに言った。

 

「心配なら、澄雨さんの手が空く時に改めて一緒に行ってもいいよ。急ぎではあるけど、明日じゃなきゃ駄目ってほどでもないし」

 

澄雨さんは少しの間、僕の顔を見た。

何かを測るように。確かめるように。

 

それから、小さく頷いた。

 

「……わか、った」

 

その声は、まだ少し不安げだったけれど、さっきまでの怯えとは違った。

ちゃんと、自分で選んだ声だった。

 

「じゃあ、そうしよう」

 

僕がそう言うと、あんずちゃんはソファの上で身体を起こし、無表情のままこちらを見上げた。

 

その目は相変わらず静かで、何を考えているのか全部は分からない。

けれど今は、少なくとも、完全な拒絶の色はなかった。

 

僕はその視線を受け止めながら、小さく息を吐いた。明日もまた、少しずつ。この家を、まともな場所にしていこう。

 

そのために、まずは寝る場所からだ。

ハラハラした様子の澄雨さんをみて、今夜はちゃんと寝られるのかな、とそんなことを心配しながら静かに決意するのだった。

 

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