酔いから覚めたら妻子持ちのDV男に憑依してたんだけど 作:くじらん421
小説ジャンルはコズミックホラーです(唐突)
翌朝、僕は見事な寝不足だった。
仕方がない。あの煎餅布団の上で寝る気には、どうしてもなれなかったのだ。昨夜の時点で薄々そうなるとは思っていたが、実際に布団を敷いてみると、想像以上に「寝具」としての信用が無かった。
薄い。汚い。臭う。しかも表面に広がる黄ばみが、視覚的にも精神衛生的にもよろしくない。体を横たえた瞬間に「いや無理」となってしまったのだから、これはもう僕の潔癖さがどうこうではないと思う。
結局、リビングの隅にあった比較的マシなタオルケットを何枚か重ね、壁に背中を預けるようにして、うとうとする程度で夜をやり過ごした。睡眠と呼ぶには少々無理がある。喉も肩も少し重たい。だが、昨日起きた時に比べれば気分はかなりマシだった。
部屋の空気が違うからだろう。
換気をして、ゴミをまとめて、床を片付けて、三人でオムライスを作って食べた。たったそれだけのことで、昨日まで「人が壊れていく場所」みたいだったこの家が、ほんの少しだけ「人が暮らせる場所」へ寄ってきていた。完全に綺麗になったわけではない。臭いもまだ残っているし、台所も寝具も全然足りない。でも、少なくとも昨日の朝みたいに、覚醒した瞬間にうわっ……となるレベルではない。
小さな変化だが、こういうのは大きい。
「……ん」
ぼんやりと目を開けると、台所の方から小さな物音が聞こえてきた。食器が触れ合う音。冷蔵庫の開く音。カサ、とビニールが擦れる音。誰かがそろりそろりと動いているらしい。
時計を見ると、まだ朝の七時台だった。なるほど、あんずちゃんの登校と澄雨さんのパートを考えると、彼女たちの朝はかなり早いようだ。体を起こし、軽く首を回してからリビングへ出る。台所の方を覗くと、澄雨さんが冷蔵庫の前に立ち、その横に、いつもの無表情であんずちゃんがちょこんと立っていた。
二人で朝食会議でもしていたのだろうか。冷蔵庫の中を見つめる二人の後ろ姿は、なんというか、妙に真剣でちょっと可愛い。
僕が姿を見せると、澄雨さんの肩がびくりと跳ねた。
「あっ……お、おはよう……」
「おはよう。2人とも朝早いね」
「え、えへ……」
相変わらず万能すぎる返答の声色も、昨日よりやわらかい。青ざめてもいないし、完全に固まってもいない。小さなことだが、悪くない傾向だ。
「あんずちゃんも、おはよう」
「おはよう」
おっ、ちゃんと返してくれた。いいね。朝の挨拶は大事。生活の骨格の一つである。
台所を見ると、昨日買った食パンの袋と、卵、牛乳、ハムが出されていた。けれど、それ以上の作業は進んでいない。おそらく「どうやって食べようか」までで止まってしまったのだろう。ま、昨日いきなりオムライスをやれたからといって、今日の朝からきちんと料理して朝食を回せるようになるわけでもない。そこは焦らなくていい。
「じゃ、朝ごはん作ろうか。食パンは焼いて……目玉焼きにしようかな。ハムはそのままいただこう」
台所に立って、冷蔵庫に引っ掛けていたワイシャツを腰に巻いてから、そう口にした瞬間だった。
「……」
何か気配がした気がして横を見ると、いつの間にか、あんずちゃんが昨日と同じ真っ白で皺だらけのエプロンと、ドアノブカバーみたいな白い頭巾を装備して、すでに僕のすぐ横に立っていた。
「うわっ」
思わず声が出る。だって、さっきまで普通の制服姿だったじゃないか。いつの間にそんな完全装備で来たの。忍者か?
あんずちゃんは無表情のまま、こちらを見上げた。
「たまご」
「……たまご?」
「たまごやる」
ああ、なるほど。どうやらこの子の中では、「たまご係」はもう自分の役割として定着しつつあるらしい。昨日の成功体験がしっかり刺さったのだろう。いいね、とてもいい傾向だ。
「そっか。じゃあ、今日もお願いしようかな」
こくり、と頷く。無表情なのに、なんだろう、この妙なやる気の圧は。
「澄雨さん、悪いけどフライパンとお皿、出してもらっていい?」
「えっ、あ、う、うん! す、すぐ出すね!」
慌てて動き出す澄雨さん。
僕は食パンをトースターに入れ、あんずちゃんの前に卵を三つ置いた。
「今日は目玉焼きにしよう。昨日はお皿に割ったけど、今日はフライパンに直接落としてみようか」
あんずちゃんの視線が、卵からフライパンへと移る。かなり真剣である。たかが卵、されど卵。
「でも最初の一個は僕がやるね。熱いから、火傷しないようによく見ておこう」
「うん」
小さく返事をすると、あんずちゃんは背筋を伸ばした。エプロンに頭巾という装備も相まって、なんだか小さな料理人である。
僕はフライパンに少量の油をひき、火加減を確認してから、一個目の卵を割る。コンコン、と殻を叩いて、親指を入れて、そっと開く。白身と黄身が、つるん、とフライパンへ落ちた。
じゅわ、と小さく音がする。
あんずちゃんの目が、ほんの少しだけ見開かれた。
「ほら、こんな感じ。黄身を潰さないように優しく、ね。次はやってみる?」
「やる」
二個目はあんずちゃんに任せる。少しだけ殻が高い位置から落ちたのでヒヤリとしたが、黄身は無事だ。よし、上出来。
「上手。ちゃんとできたね」
頭を撫でると、肩が一瞬だけ震えた。けれど、昨日みたいに体を固くはしない。そのままされるがままになっている。いい傾向だと思いたい。急ぎすぎは禁物だけど。
三個目もあんずちゃんが割って、三つ並んだ目玉焼きがフライパンの上で白く縁を固めていく。完成した目玉焼きに塩胡椒を振って、焼き上がった食パンを各皿に乗せて、その上にハムと卵を乗せる。うん、シンプルだけどいい朝食ができた。あんずちゃんの目玉焼きを見る目もきらりと輝いて…いや、口元のよだれか。袖で拭ってやる。何かしらの反応を示すかと思ったけど、意識はご飯に全集中されているようで、されるがままだった。
……昨日のあんずちゃんの食べっぷりからして、あと2個くらい作ろうかな。
「あと2個作ろうか、半熟にしてみよう」
「はんじゅく」
「黄身がとろっとしてるやつ」
「……!」
あんずちゃんが、分かりやすくフライパンを見た。澄雨さんも、僕らの様子が気になるのかそろそろと近づいてきている。二人とも、完全に見学モードだ。
僕は卵を二つ割り、今度は先に塩を少しだけ振って、フタをせずにじっくり火を通していく。白身の端が固まり、黄身の表面だけが薄く膜を張るくらい。タイミングを見て水を少し入れて蓋して蒸す。火は止めておく。
「よし、こんなもんかな」
パカりと蓋を開けると蒸気が上がった。それから皿に滑らせるように盛ると、黄身がぷるりと揺れた。
「……わぁ」
澄雨さんが、小さく声を漏らした。
あんずちゃんも、じっと食い入るように見ている。無表情なのに、そこはやけに雄弁だな。
「そんな大したものじゃないよ」
そう言いながらも、二人の反応に僕は思わず口元が緩む。そりゃあ、こんな顔されたら嬉しくもなる。朝から半熟目玉焼きで目を輝かせてくれる家族、なかなか得難いぞ。
「はい、朝ごはんできたよ」
配膳して机につく。昨日の夕食に続いて、こうして当たり前みたいに食卓を囲んでいることが、少しだけ不思議だった。
「いただきます」
僕が言うと、澄雨さんが少し遅れて「い、いただきます」と続き、あんずちゃんも小さく「いただきます」と言った。
まず食べ始めたのは、あんずちゃんだった。
昨日の夕食の時点で気づいてはいたが、この子、食べる時はためらいがない。トーストを一口、二口とかじり、すぐに目玉焼きに手をつける。黄身がとろりと流れ、パンの端に少しついたそれを、じっと見たあと、またぱくり。
「おいしい」
「そりゃよかった。あんずちゃんが割った卵だよ、それ」
短い感想だが、十分である。
一方、澄雨さんはというと、自分の食パンをちびちびとちぎるように食べながら、嬉しそうにあんずちゃんを見ている。その視線はとてもあたたかい。……と思ったら、その合間にちら、ちら、とこちらも見てくる。ああ、うん。そうだよね、今の善が本当に怒らないのか、変わらず穏やかなのか、その辺もまだ確認中だよね。分かるよ。
あんずちゃんも、食べながら時々こちらを見る。こっちはもっと露骨である。じーっと見て、目玉焼きを食べ、目を輝かせ、そしてこちらをまた見る。
僕は内心で「やれやれ」と思いつつ、その視線をそのまま受け止める。別にいい。見たいなら見ればいい。僕だって二人のことを見ているのだから、お互い様だ。
パンに齧り付くとサクり、と小気味のいい音と、卵の濃厚な味が口に広がる。
「うん、よくできてるね。美味しい」
そういうと、あんずちゃんはこくりと頷いて、今度は食べることに集中した。
結局、あんずちゃんは食パンを四枚食べた。目玉焼きも、追加した2つをちゃんと完食した。すごいな、朝から。育ち盛りってすごい。いやまあ、昨日も三回おかわりしてたしね。ちゃんと食べられることは良いことだ。
「ごちそうさま」
小さくケプっと喉を鳴らすあんずちゃん。
その様子を見て、澄雨さんがまた、にへら、と緩んだ。自分の分は相変わらずちびちび食べているくせに、娘が食べるのは嬉しくて仕方ないらしい。母親だなあ。
僕はあんずちゃんの口元を拭いてやりながら、ふと昨日の冷蔵庫の中身を思い出す。惣菜ばかりで、まともな食材はほとんどなかった。今こうして朝食を囲んでいるだけでも、この家には相当な変化なのだろう。
食後、あんずちゃんと澄雨さんは、それぞれ出かける準備を始めた。
あんずちゃんはランドセルを開けて教科書を確認し、筆箱を入れ直し、ハンカチとティッシュを制服のポケットにしまう。昨日買ってきたティッシュ箱を得意げに見せてきたのを思い出して、少し笑いそうになる。ちゃんと使われてる、いいことだ。
澄雨さんは台所でマグカップを洗ってから、例のボロい鞄に何やらごそごそ詰め込んでいる。財布、連絡帳、タオル、何かのメモ、たぶんパート先で使うもの。動きは少し慌ただしい。
僕はその様子を、リビングの椅子に座ってぼんやり眺めていた。こうして見ると、本当に普通の朝だ。普通の母親と、普通の小学生が、それぞれ学校と仕事に向かう支度をしている。その普通の中に、僕はうまく入れているだろうか。
なんとなく、そんなことを考えていると、突然机の上に置いていたスマホが震えた。
画面を見る。
夜禍協会 南三条班
本日 18:00 巡回補助 参加可否確認
「……夜禍協会?」
口に出して、首を傾げる。
初めて見る単語だった。夜の禍、と書いて夜禍。読み方は多分、ヤカかな?ろくでもない感じは伝わる。伝わるけれど、伝わるだけだ。意味までは分からない。
「澄雨さん」
「あっ、は、はいっ」
名前を呼ぶと、大げさなくらいぴんと背筋を伸ばす。
「この“夜禍”って、何?」
「……ぇ?」
固まった。それはもう、見事に固まった。
スマホと僕の顔を交互に見て、それから「え、えっと……」と口をもごもごさせる。うん、やっぱりこの人にいきなり単語の定義を求めるのは酷だったかもしれない。
「そ、その……よ、夜に、でる、やつ……で……」
「夜に出るやつ」
「う、うん……く、黒くて……こ、こわい……」
「黒くて怖い」
「さ、さわられたら、だめで……」
「触られたらダメ」
「ひ、光が……だいじで……」
「光が大事」
「……」
「……」
なるほど。
説明しようとしてくれているのは分かる。ものすごく分かる。
でも、要領は得ない。
いや、責めてるわけじゃないよ? ただ本当に、澄雨さんの頭の中では「当たり前すぎるもの」で、言葉で整理する回路があまり動いていないのだろう。
僕は視線をあんずちゃんへ向けた。
「……あんずちゃんは分かる?」
あんずちゃんは、ランドセルを背負ったままこちらを見返してきた。無表情。ほんの少しだけ、首が傾いた……ように見える。
「どうしてそんなこと聞くの?」みたいな。
この世界の人間からすれば、夜禍なんて、わざわざ説明を求める単語じゃないのかもしれない。
「そっか」
僕はスマホを伏せる。まだ知らないことが多すぎる。
いや、「多い」どころではないな。生活圏、街、この世界の常識。全部、まだ表面を撫でた程度だ。
「……ちょっと、散歩でもしてこようかな」
「お、おさんぽ……?」
「うん。情報収集も兼ねて。どうせ今日は寝具も見に行くし、その前にこの辺を少し把握しておきたくてね」
念のため財布は持参しよう。適当に放っていた財布の中身を確認する。
黒地のカードに目が止まり、抜き出すと、そこには非常に気になる一文が書いてあった。
「――――――っ、これは」
動揺している。落ち着こう、心拍と呼吸を整えて……、うん、よし。
話を変えよう。
「あ。そういえば、僕、あんずちゃんの学校がどこにあるのか知らないや」
カードをポケットにしまいながら、そう言った瞬間、澄雨さんが「ひぇっ」とでも言いそうな顔をした。
「が、学校……? あ、えっと、ど、どうして……」
「ちょうどいいから、一緒に行こうか。あんずちゃんの登校に同行して、そのあと少し歩いてみる。僕も場所覚えられるし」
あんずちゃんに視線を向ける。
「それでもいい?」
こくり、と一つ頷きが返ってきた。即答。よろしい。ところが澄雨さんは、何故か少しパニックになった。
「わ、わたしも行く! あ、い、いつも、その、途中まで、いっしょで……!」
「ああ、そうなんだ」
なるほど。どうやら普段から、パートに向かう前にあんずちゃんと途中まで一緒に歩いているらしい。それなら自然だ。むしろ、よく知らない強面の父親がいきなり送り始めるよりも、いつもの動線に僕が混ざる方が安全かもしれない。
「じゃあ三人で行こう」
「……ぅ、うん」
「あと、澄雨さんのパート先も知りたいな。食材も買いたいし」
「う、うん……えっ?! パー、えっ?!」
また完全に止まった。ん? あ、いやそうか、昨日、澄雨さんがパートしてることは、彼女の「白々しい否定」から僕が把握しただけで、流してたんだっけ。彼女からすれば、まともに認めた記憶がないのだろう。さっきの動揺は「なんで知ってるの?」ってことか。
僕は思わずくすっと笑ってしまう。
「その辺は、まあ、なんとなく」
「ぇ、えっ、あ……」
澄雨さんの顔に、ぱっと不安が差した。嘘を見抜かれていたことを責められると思ってるな。でも同時に、頬のあたりが少し赤い。羞恥心もあるらしい。怒られるかもしれないのに、ちょっとだけ恥ずかしさが混ざって、自分でも訳が分からなくなってる顔をしている。
面白いというか、いや面白がっちゃいけないんだけど、なんか人間っぽくて少し安心する。
「別に責めないよ。大丈夫」
そう言うと、澄雨さんは「……あ」とだけ小さく声を漏らし、それ以上は何も言わなかった。僕も追求せず、家を出る準備をした。あんずちゃんからの無言の圧も高まってたしね。
やがて三人で家を出る。
朝の街は、驚くほど普通だった。
アパートの前の細い道には、自転車が通り、洗濯物が揺れ、遠くで犬の鳴く声がする。小さな商店のシャッターが上がり、角のコンビニには配送トラックが止まっている。元の世界の、どこかの地方都市をそのまま切り取ってきたみたいだ。少なくとも、景色だけ見れば異世界感はほぼゼロである。
だが、少し歩けばすぐに妙なものが目に入った。
まず、街灯が多い。いや、正確には、街灯とは別の灯りの設備がやたらある。道路脇の低い位置に埋め込まれた誘導灯みたいなもの、頑丈そうな箱型照明、交差点の角に設置された反射板。しかもどれも、普通の防犯設備より少し過剰だ。
さらに、標識がある。
『夜間指定通行路』
その下に矢印と地図。
夜に通っていい道、ということか?
逆に言えば、それ以外は通るなという意味だろう。妙に物々しい。
掲示板には、さらに気になる貼り紙が並んでいた。
『日没前帰宅推奨週間』
『夜禍注意報発令時は最寄りの避難施設へ』
『夜間灯火設備点検のお知らせ』
夜禍。またその単語だ。
僕は歩きながら、内心で首を傾げる。
夜に出る、黒い、触られたらだめで、光が大事。
澄雨さんの説明は要点だけ抜き出すと、そんな感じだった。
つまりこれは、単なる抽象的な“災厄”ではなく、夜に出る何か具体的な脅威――存在、なのだろうか。
「……ねえ、これ」
僕が掲示板を見上げると、澄雨さんもおずおずと足を止めた。
「う、うん……」
「この【夜禍】って、結構、日常に食い込んでるんだね」
「……ぇ?」
「あ、いや……ほら、標識とか掲示とか」
「ぁ、ぁあ……」
彼女は少しだけ納得したように頷いたが、それ以上の説明は出てこない。やはり説明するものというより「あるもの」なのだろう。空気とか雨とか台風みたいに、存在前提で暮らしている類の何かなのかもしれない。
あんずちゃんの小学校……第三東小学校は、家から徒歩十分ほどの場所にあった。
校門の前にはランドセル姿の子どもたちが何人もいて、先生らしき人物が立っている。校舎も校庭も、ぱっと見は普通の公立小学校だ。だが、校門横の掲示板にはやはり見慣れない文言が混ざっている。
『今月の夜禍避難訓練予定』
『夜間外出時の安全確認表』
『保護者向け:指定通行路変更のお知らせ』
ふむ。
あんずちゃんは校門の前で立ち止まると、こちらを見上げた。
「きょう、2時におわる」
「2時ね。ありがとう」
「うん」
「じゃあ迎えに行くね。一緒にベッドを見ようか」
あんずちゃんは、僕の言葉に小さく頷くと、そのまま踵を返した。
小さな背中が、朝の校庭へと向かっていく。ランドセルはまだ少し大きく見えるのに、歩き方には妙な迷いがない。まっすぐで、静かで、無駄がない。小学三年生の足取りというより、何かの役目を果たしに行く人の歩き方みたいだな、とぼんやり思う。
校舎の入り口辺りで、「あんずちゃーん」と声が飛んだ。
明るい声だった。同じ制服の女の子が二人、あんずちゃんに小走りで寄っていくところだった。一人は髪を二つに結んでいて、もう一人は短めのおかっぱ頭。どちらも元気そうだ。
あんずちゃんは、その声に大きく反応することはなかった。ただ、足を止めて、二人の方へ顔を向ける。それだけだ。無表情のまま。けれど、逃げない。
「きのうのやつもってきた?」
「せんせい、きょうあれだってー」
二人が何やら話しかけると、あんずちゃんは短く何か返した。ここまでは聞こえない。だが、会話は成立しているらしい。片方の子が笑って、もう片方があんずちゃんの腕を軽く引くような仕草をした。あんずちゃんはそれにも抵抗せず、そのまま三人で校舎の方へ歩き出す。
うん、よかった。
完全な孤立ではない。少なくとも、名前を呼んで寄ってくる相手がいて、朝に並んで歩ける程度の関係はある。学校という場において、誰とも接続がないのと、細くても繋がっているのとでは意味が違う。ましてあんずちゃんみたいな子は、自分から輪の中心へ入っていくタイプではないだろうから、声をかけてくれる子がいるのは救いだ。
隣で澄雨さんも、ほっとしたように、小さく息をつく。
やっぱり気にしているのだろう。まあそうだよね。家でのあんずちゃんを見ていると、学校でも一人で静かにしているんじゃないかと思ってしまう。でも、今の様子を見る限り、少なくとも誰とも喋らない子ではないらしい。
「うん。ちゃんとあるみたいだね、人間関係」
「……ぁ、ぅん」
澄雨さんは、まだ校舎の方を見ていた。視線の先には、三人並んで廊下へ入っていく後ろ姿がある。母親として、安心したのだろう。顔つきがわずかに緩んでいた。
しかしその安心も、長くは続かなかった。
「あ……」
小さく声を漏らして、澄雨さんの表情がまた少し強張る。
その変化に気づいて横を見ると、彼女はちら、とこちらを見て、すぐに視線を逸らした。
……ん? なんだろう、パートのことかな?
2人きりになって、一度飲み込んだはずの羞恥心と不安が、今になってまた戻ってきたのかもしれない。
「……」
案の定、校門から離れてしばらく歩いても、澄雨さんはあまり口を開かなかった。
元々よく喋る人ではないが、それにしたって今の静けさは少し違う。ただ無口なのではなく、「何かが来るのを待ってしまっている」静けさだ。
僕たちは住宅街の細い道を抜け、少し広い歩道のある通りへ出る。朝の交通量はそれなりで、自転車の学生や通勤中らしい人たちが行き交っている。向かいのドラッグストアは開店準備中で、店員が入口前のワゴンを並べていた。歩道脇には低めの街灯と、その足元を補うように埋め込まれた小さな灯りがある。昼間は存在感が薄いが、こうして意識して見ると、やはり数が多い。
「……ねえ」
僕がそう声をかけると、澄雨さんの肩がわずかに跳ねた。おやおや、反応がよろしいことで。
「ひゃ、は、はい……!」
「そんなに身構えなくて大丈夫だよ」
「あ……ぅ……」
「パートの件だけどさ」
その一言で、彼女の歩幅が目に見えて小さくなった。分かりやすいなあ、本当に。
しかも、自分から話を切り出すわけでもなく、逃げるわけでもなく、ただ「来る」と分かったから受ける姿勢になるあたりが、いかにも澄雨さんらしい。
僕は歩く速度を少し落とし、彼女に合わせる。
「そもそも僕、何も知らないんだよね。君たちのことも、この街のことも、前の僕がどうしてたのかも」
「……ぅん」
「だから、パートのことだって、別に隠してたからどうこう言うつもりはないよ」
「……ぇ」
「むしろ、ちゃんと働いてるの、すごいことだと思う」
その瞬間だった。
澄雨さんが、ぴたりと足を止めた。
二歩ほど進んでからその気配に気づき、僕も立ち止まって振り返る。
彼女はそこで、すごく間の抜けた顔をしていた。
いや、失礼だな。間の抜けたというか、完全に予想していなかった言葉を受け取って、一瞬だけ思考が空白になった顔である。口が少し開いて、瞳が丸くなっている。
「え……」
「今の僕なんて、何もしてないしね。家のことも昨日からようやく触り始めたところだし、パートで働いて生活に参加してる方が、ずっとまともだと思うよ」
「…………」
言葉が入っていくのが、顔を見ていて分かる。
まず、警戒が止まる。次に、不安がほどける。
最後に、それが“褒められた”という意味で脳に届く。
「あ……、あ、ぁ……」
「うん?」
「……そ、それは……その……」
言葉が続かないまま、口元がもにょもにょと動く。
そして数秒後、ふにゃり、と表情が崩れた。
によによしている。
なんというか、嬉しさをどう処理していいか分からなくなった人の顔だ。
目尻が下がって、口元がゆるんで、でもそれを大きく出すのは恥ずかしいから押し込めようとして、結局押し込めきれずに漏れてしまっている。
なるほど。こういう顔もするんだ、この人。
「……えへ、えへへ……」
「それは悪い気はしないってことでいいのかな」
「わ、わか、わかんない……」
「わかんないんだ」
「だ、だって……その……」
頬が赤い。視線は僕を見ようとして、でも合わせきれず、すぐ斜め下へ逃げる。
照れている。ものすごく照れている。褒められ慣れていない人が、不意打ちでまともに肯定された時の反応そのものだ。
「……でも、ありがとう」
やっとそれだけ言って、彼女はまた歩き始めた。
さっきまでより少しだけ足取りが軽い。
よろしい。単純で助かる。いや、単純という言い方は良くないな。反応が素直で助かる、だ。
僕たちはそのままスーパーへ向かった。
道中、僕は意識的に少し周囲を見て歩く。
街の構造は、やはり普通でいて普通ではない。何よりも気になる単語が目に入る。
夜禍。
何度見ても、字面からして物騒だ。
夜に出る禍。
しかも、おそらくだが、その存在を前提として、通行路や点検や避難が整備されている。怪談や伝承ではない。完全に社会制度の一部だ。
「……」
僕が掲示板を眺めるたびに、澄雨さんはちら、とこちらを見ていた。
多分、「そんなに気になるの?」と少し思っているのだろう。
まあ、気になるさ。
君たちにとっては空気みたいに当然でも、僕にとっては突然投げ込まれた世界の前提条件だ。
やがて、スーパーが見えてくる。
大きすぎず、小さすぎず、住宅街の生活圏にある普通のスーパーだ。
入口前には特売の野菜の箱が積まれ、買い物かごが整列し、自転車が何台か停まっている。
これだけ見れば本当にどこにでもある店なのだが――
入口横のガラスに貼られた掲示で、やはり足が止まった。
『夜禍協会協力店』
「……協会、ねえ」
思わず独り言が漏れる。
「ぇ……?」
「あ、いや、こっちの話」
夜禍協会。スーパーですら「協力店」なのか。つまり、夜禍とやらは一部の危険職の人間だけのものではなく、商店や流通や地域運営そのものに関わっているらしい。厄介だな。かなり根深い。
「じゃあ、行ってらっしゃい」
僕がそう言うと、澄雨さんは一瞬きょとんとしてから、はっとしたように姿勢を正した。
「あ、う、うん……」
「頑張ってね」
その一言で、彼女の顔が一気に赤くなる。彼女にとっては、命令でもなく、急かしでもなく、ただ背中を押されるような言葉が珍しいのだろうか。
「……ぅ、ぅん……」
澄雨さんは、視線を合わせきれないままぺこりと頭を下げると、そのまま逃げるみたいに自動ドアの中へ入っていった。途中で一度だけ振り返り、またすぐに前を向いて早足になる。完全に照れ逃げだな、あれ。お可愛いこと。
僕は一人、スーパーの入口前に残された。
改めて、ガラスに貼られた掲示を見る。
夜禍協会。夜禍注意報。灯火設備異常。
どれも同じ単語を含んでいるのに、説明はどこにも無い。
この世界の人間にとっては、説明を必要としないのだろう。
つまり、知らない方が異常なのだ。
「……ちゃんと知らないといけないな」
小さく独り言をこぼした、その時だった。
「あー、それなぁ」
横から声が飛んできて、僕は少しだけ肩を揺らした。
振り向くと、犬を散歩させている中年男性が、こちらと同じ掲示を見上げていた。ジャージ姿にサンダルという、いかにも“近所の人”な格好だ。犬は柴犬っぽい雑種で、地面の匂いを熱心に嗅いでいる。
「最近また近場で夜禍が出たから、色々変わったんだよ。ほんと面倒くさいよなぁ」
夜禍が出た。
気になる言い方だ。あまりにも自然で、あまりにも日常語として発せられるものだから、背筋がぞわりとした。
「そうなんですね」
曖昧に相槌を打つ。知らないと言うわけにもいかないし、知ってるふりをしすぎても危ない。こういう時の中途半端さは本当に面倒だ。
「南の方、また通行路ずれたしさ。灯火点検も増えるし、夜ちょっと動くだけで回り道だよ。あんたも気をつけなよ」
「ああ……はい」
「まあ、日が出ている内は平和なんだけどねぇ」
男はそう言って笑い、犬を引きながら歩いていく。その笑い方は軽い。軽いのに、その内容は全然軽くない。この世界では、「夜に出る何か」と折り合いをつけて普通に暮らしているのだろう。
男が去ったあと、僕はポケットからスマホを取り出した。
まだ、あの通知が残っている。
夜禍協会 南三条班
本日18:00 巡回補助 参加可否確認
「……どうしたものかな」
そう呟いてから、今度はもう一つ、財布の奥から会員証を引き抜く。
朝に目にした、動揺を誘ったカード。
黒地に銀文字で
『夜禍協会 会員証』
と書いてある。その下には「鳴川 善」の名前。
『 二級下位 』
の文字。
「二級下位、ね」
なんの階級で、二級下位がどの辺なのかは分からない。
でも少なくとも、善はこの“夜禍”とやらに対して、ただ怯えるだけの一般人ではなかったらしい。
巡回補助。
灯火点検。
夜間指定通行路。
家の中だけ見ていた時は、善は金を持っていて、働いていなくて、パチンコして酒を飲んで妻子を怯えさせているだけのカス男のようだと考えていた。いや、カス男であることは今も変わらない。
変わらないが、それだけではない。
この世界の夜に関わる役割を、少なくとも一部は背負っているのかもしれない。
それがどれほど大きいのか、どれほど危険なのかは分からない。でも、澄雨さんとあんずちゃん、そして鳴川 善の3者を知るための一端は、たぶんそこにもある。
僕は会員証を指先でひっくり返しながら、小さく息を吐いた。
朝の街は、相変わらず穏やかだ。買い物客は普通に行き交い、主婦は野菜売り場へ向かい、犬はのんびり尻尾を振る。なのにその穏やかさが、そのまま「夜までの猶予」みたいに見えてくる。
日中は人の時間。
では、夜は誰の時間なんだろう。
そんなことを考えながら、僕はしばらくスーパーの前に立ち尽くしていた。