酔いから覚めたら妻子持ちのDV男に憑依してたんだけど 作:くじらん421
ストーリに大きな変更はありません。
変更点
・一部の描写、表記の改善
・コンビニで出会った少女とのシーン
「……まずは、できるところからだな」
独り言のようにそう呟いて、僕はスーパーを後にした。家へ戻る前に、一度コンビニへ寄ることにする。さっき、あんずちゃんの登校に付き添って歩いている途中で見かけた店だ。洗剤とゴミ袋、簡単な昼食、できれば新聞、それから情報の整理に使うノートなんかも欲しい。元の世界へ帰る方法だの、この世界の夜だのを考える前に、生活の足場を少しでもまともにしなければならない。順番を間違えると、人は妙なところで足を取られる。
通りの先、目を引く色の看板が見える。コンビニだ。ガラス越しに雑誌棚が見え、入口脇には期間限定の菓子や安売りの飲料が積まれている。元の世界のそれと似ているからこそ、かえって、異世界にいることを忘れそうになる。
自動ドアが開き、聞きなれない入店チャイムが鳴る。冷房の乾いた空気が頬を撫で、揚げ物の油と、紙製品と、洗剤の匂いが一度に鼻を掠めた。店内の白い光は均一で、影の落ち方までコンビニのそれだ。
その、あまりに見慣れた明るさの中で、レジに立っていた女の子がこちらを見た。
見た瞬間、表情がわずかに崩れる。
ほんの一拍。
けれど、見逃すには十分すぎるほど分かりやすかった。
目がわずかに見開かれ、眉間が寄る。口元が、反射的に嫌なものを見た時みたいに硬くなる。「げ」とまでは言わない。だが、言わなかっただけで、顔の方はほとんどそう言っていた。
しかし次の瞬間には、それも引っ込められていた。
「……いらっしゃいませ」
声は平坦。義務として言っただけの声音。温度を削ぎ落とした上に、ほんの薄く棘が残っている。
うん?と僕は疑問に思う。
怖がっているのではない。怯えとも違う。もっと個人的な反応だ。あれは、少なくとも「強面の知らない男が来た」というだけでは出ない顔である。
つまり、この子は「善」に対して何かしらの感情を持っている。
知っているか、見たことがあるか、あるいはそれ以上か。僕は何食わぬ顔で買い物かごを取り、店内へ足を進めた。
その子を視界の端に置きながら、観察する。
年齢は十代後半。高校生か、そうでなければ卒業したばかりくらい。
敵意とまでは断言しないが、少なくとも好意ではない。
悪感情はある。それも相当に。
記憶しながら、僕は棚を見て回る。ええと、食器用洗剤。住居用のスプレー……そのほかの掃除用にあれやこれやを買い物カゴに放る。
「やっぱり、商品は知っているものと少しずつ違うな」
並び方も、コンビニ全体の構造も、元の世界のものとひどくよく似ている。が、商品の名前やデザインが知らないものだ。
知っているはずの大手メーカーも、その企業名とロゴが別物になっている。
飲料も、菓子も、洗剤も、どれもよく似た別物だ。
僕は小さく笑いそうになる。怖い、というより、奇妙に好奇心をくすぐられる。
こんな状況で好奇心を持つのもどうかと思うが、知らない商品が日常の顔をして並んでいる光景には、それなりに探索欲を刺激するものがある。時間に余裕ができたら、一つ二つ試してみるのも悪くないかもしれない。
昼食用に、おにぎりを二つとサンドイッチを一つ。
牛乳を一本。地方紙と全国紙を一部ずつ。安いリングノートも忘れずにかごへ入れる。
古封筒の裏に書きつけるのも嫌いではないが、ここから先はもう少し落ち着いたものに整理していく必要があるだろう。
会計のためにレジへ戻ると、彼女はわずかに背筋を伸ばした。
「袋、要りますか」
「あぁ、お願いします」
「ポイントカードは」
「持ってません」
「……」
短い応答。会計の手つきは速く、乱れがない。仕事ができる子なのだろう。
だから余計に分かる。僕に向ける感情がありありと伝わってくる。
会計中、彼女はほとんどこちらの目を見ない。だが一度だけ、バーコードを通し終えた瞬間に、まっすぐこちらの顔を見た。
その時の目には、あからさまな軽蔑、そして見たくないものを見てしまった人間特有の表情。
善は、この子に何をしたのだろう。あるいは、この子は何を見たのだろう。
このコンビニはアパートからも近い。鳴川 善のいきつけのコンビニなのだとすれば、一悶着あったのかもしれない。
いずれにせよ、覚えておこう。
「ありがとうございました」
最後まで声音は硬かった。
「ありがとね」
僕がそう返すと、彼女の眉が寄る。普通の調子で返されるとは思っていなかった様子。
店を出ると、外の空気が少しだけ柔らかく感じた。
袋の中で洗剤と新聞が触れ合い、小さく音を立てる。僕はそれを持ち直しながら、家へ向かって歩き出した。
◾️◾️◾️◾️
歩きながら、頭の中でこれまでのことを整理する。
僕は今、鳴川善という男の体にいる。この世界は、言葉も街並みも生活感覚も、元の日本によく似ている。
だが何もかもが細部までずれている。
そして、そのずれの中心にあるのが、おそらく夜だ。
夜禍や夜禍協会の存在。
夜間指定通行路や灯火設備といったインフラ。
朝から見てきたすべてが、夜という時間帯だけに備わっている。
そして、家の中にもまた別の問題がある。
澄雨さんやあんずちゃんのこと。生活基盤と環境。
そして、夜禍協会員証に刻まれていた「二級下位」という文字。
思うに、鳴川 善は単なる愚か者といわけではないだろう。
少なくとも、この世界の夜に関しては、何かしらの立ち位置を持っているはず。
それがどの程度の意味を持つのかはまだ分からないが、完全な無関係ではないことだけは確かだ。
アパートに戻り、扉を開ける。昨日の朝より、空気はずっとましだが、まだ匂いは残っているのですかさず窓と扉を開放して換気する。
コンビニ袋をダイニングテーブルに置いて中身を出しながら、僕は部屋を見回した。
む、まだやることは多いか。
「……先に、掃除かな」
声に出してから、袖をまくる。
まずは、目につくところから手をつける。
派手すぎる服を黒いゴミ袋へ放り込み、古びたバスタオルを選り分け、用途不明のビニール袋をまとめて脇へ寄せる。
全部を今日中に捨て切る必要はないが、「今の生活」に要らないものを視界から外すだけでも、部屋の印象は変わる。
服は一応、全部捨てるわけにはいかない。今の僕が着るものも必要だ。だから比較的無難な色味のものだけを残して、それ以外は一旦まとめる。派手なロゴの入ったシャツ、光沢のあるジャケット、妙に金属の多い服。善の趣味だったのだろうが、今の僕はちょっと遠慮したいセンスだ。
古いバスタオルも同じ。必要最低限だけ残し、それ以外は処分。
新しいものに変えたい。僕は購入したノートを開いて、そこにメモを書きつけた。
• 厚手マットレス or 敷布団
• シーツ
• 枕
• 枕カバー
• バスタオル
• フェイスタオル
メモを取りつつ、一通り片付けて、ようやく椅子に腰を下ろす。
さ、気を入れて「こいつ」に取り掛かりますか。
ダイニングテーブルの上に、善のスマートフォンをぽんと置く。
ここからだ。生活を整えること。夜を知ること。
その先で、元の世界へ帰る方法を探ること。
今の僕にできるのは、その順番を崩さないことだ。
まず確認すべきは、やはり夜禍協会に関する情報だろう。
善の財布から会員証を取り出し、机の上に置く。
スマホの通知には今夜十八時の巡回補助参加可否確認が届いている。つまり、この男は「夜」に対して何らかの実務的な位置を持っていた。そこが分からなければ、今後どこで何が綻ぶかも読めない。
協会の専用アプリらしきものを開く。
画面は、拍子抜けするほど事務的だった。
濃い灰色を基調にした無愛想な配色に、所属や階位や通知が整然と並んでいる。飾りはなく、凝ったデザインもない。緊急連絡用のアプリというのは、どこの世界でもこういう顔になるのかもしれない。
上部には、会員情報。
鳴川 善 南三条班
二級下位
南三条が地域名であることは道中の電柱で確認している。
その下にある「二級下位」という四文字を、僕は見つめた。
二級、下位。
一見すると、そこそこ上等である。けど、そういう位置は、自尊心を育てやすい。上を見れば届かず、下を見れば見下せる。善のような人間が自分を特別だと思い込むには、居心地のいい段差だろう。
班の連絡欄を開く。そこには短い文が並んでいた。
巡回補助、灯火点検、通行路変更、配置確認。
どれも必要なことしか書かれていない。けれど、その必要なことの隙間に、人間の苛立ちと疲れが薄く残っている。
「三号灯、再点検済み」
「区画報告の反映、確認お願いします」
「本日18:00 集合 未返信者は不参加扱い」
そして、その下に混ざる善宛てらしい文。
「おい鳴川見たなら返事しろ」
「前回も任務開始後に既読ついてたぞ」
「来るか来ないかくらい先に言ってもらえるかしら。班の配置に関係するのだけど」
いい関係ではないようだ。しかし、歓迎されていないわけでもない。ふむ。
もっと遡る。似たようなやり取りがいくつも出てくる。遅刻、無断同然の欠席、雑な返答、途中からの既読。善の返信は、どれも驚くほど短く、しかも誠意がない。基本的に、
「今日むり」
「あとで」
「いけたら」
「了解」
とだけ返している。本当に見事なまでに、最低限の責任感しかない。「最低限」という言い方も甘いかもしれない。責任を負う気がないからこそ、こういう文面になるのだろう。ところが、その一方で、別の温度のメッセージも残っていた。
「東側、鳴川が先に気づいて助かった」
「三区画の誘導、善くん入ってたなら一言くれ」
「今回はちゃんと動いてたな」
「……厄介だな」
自然と口に出ていた。
全面的に駄目なら切られるが、時々だけしっかり役に立つ人間は、そのどちらにもなれないまま周囲に負担だけを残す。現場はそいつを嫌いながらも、人数と能力の計算から外せない。
おそらく鳴川 善とは、まさにその類なのだろう。家庭内では圧倒的に強い立場に立てる。協会では半端に戦力になる。
親からの送金もある。そうなれば、自分を矯正する機会などほとんど失われる。
班の活動履歴も少し覗いた。
巡回補助、灯火点検、避難誘導、通行路確認。
「・・・・・・」
気になる点がある。先ほどから「討伐」や「制圧」の類の語が見当たらない。あるのは、夜禍と正面からぶつかることより、人間側の被害を減らし、動線を保ち、灯りを切らさないための仕事ばかりだ。
そのことが、妙に引っかかった。
夜禍というものがどれだけ得体の知れない存在であれ、人間に排除可能な相手なら、もっと別の語彙が前に出るはずだ。
けれどここにあるのは、点検、補助、確認、誘導。
つまりこの世界は、夜禍に「勝つ」ことではなく、「やり過ごす」ことを現実的な前提にしているらしい。
「……先に、そっちを調べるべきか」
そう呟いて、僕は協会アプリを閉じた。ブラウザアプリを開き、検索欄に打ち込む。……別タブに写ったアダルト系サイトは見なかったことにしよう。
予測変換の候補が並ぶ。
夜禍 速報
夜禍 協会 依頼
夜禍 適性者
指が一瞬止まる。適性者。知らない単語は増える一方だが、今は一歩ずつ進めよう。
まずは夜禍そのものを知る。開いたのは、百科事典じみた情報ページだった。
白地に黒文字、説明文、見出し、項目立て。元の世界でもたまにお世話になっていた。
その、ひどく穏やかな紙面めいた画面にはこう書かれていた。
外見上は人型に近い輪郭を示すが、身体比率、姿勢、歩行、停止動作などが通常の人体と微妙に一致せず、全身が黒色ないし黒影状に認識される例が多い。
一般市民に対して重大な精神的・身体的危険を及ぼすおそれがあるため、各自治体では夜間外出の抑制、指定通行路の設定、灯火設備の維持、避難施設の指定などにより被害低減を図っている。
僕はそこまで読んだところで、画面から目を離した。
窓の外はまだ昼。それでも、その明るさがどこか薄い膜みたいに思えた。向こう側に夜があるというだけで、昼の輪郭まで少し変質して見える。
この街の人間は、こういう存在を前提として普通に働き、買い物をして、子どもを学校へ通わせているのだろうか。だとしたら、この世界の日常とは、相当頑丈か、あるいは相当鈍感か、そのどちらかだ。
視線を戻し、ページをもう少し下へ送る。
形態的特徴、接触による影響、灯火との関係。
そこに書かれていることは簡潔だったが、簡潔であるがゆえに逃げ場がなかった。
まとめると、夜禍は黒い人型に近く、人体と微妙に一致しない。
近接・視認だけで強い恐怖や錯乱が起こる場合がある。
接触事例では重篤な身体損傷や自己損壊、死亡を伴うことがある。
対策の基本は接近回避と灯りへの退避。
「……接触したら終わり、ってことか」
思わず声に出す。語尾を整えた説明文の中に、事実だけが並んでいる。余計に気味が悪い。淡々と制度を説明したような文書として記述された怪異だけがある。
しかも、夜禍を中心とした社会的なシステムは完成されている。この社会はとっくに夜禍を「あるもの」として受け入れてしまっているのだろう。
さらに下へ進めると、検索候補のうち、気になった項目が出てくる。
夜禍干渉適性者
夜禍に対して一定の耐性を示す者は、一般に適性者と呼ばれる。
適性確認は、地域差はあるものの、小学校入学時の公的確認において行われることが多い。
適性者の能力は一様ではなく、最低限の接近耐性のみを示す者、注意喚起や誘導補助が可能な者、夜禍への物理的干渉が可能な者など、幅がある。
善は、その「適性者」の一人だったらしい。だから夜禍協会に籍があり、二級下位という半端な位置に居続けられたのだろう。
僕はそこで別のタブを開いて、検索欄に次を打ち込む。
夜禍協会
今度は公式サイトが上に出た。こちらも無骨な作りだ。理念よりも業務が先にあり、情緒よりも体制が前に出ている、そんなデザイン。
そこにはこう書かれていた。
夜禍協会とは、夜禍に関する地域支援、巡回補助、避難誘導補助、灯火設備点検補助、通行路維持協力等を行う認可民間協力団体である。行政機関、教育機関、地域支部、関係諸機関と連携し、市民の夜間安全確保の補助を主たる目的とする。
認可民間協力団体。行政ではないが、完全な私設組織でもない。
行政下ではないのは迅速な行動が求められるからだろうか。
さらに読み進める。
会員は、簡易的な夜禍耐性の確認行ったのち、登録・研修・地域支部所属手続を経た者を中心に構成される。
階位は特級、一級、二級、三級に区分され、さらに上位・下位の細分が存在するようだ。
一級、二級、三級。そして、特級。体系化された階位は、それだけ組織力の強さと磐石さを整備されている。
鳴川 善はその中の二級下位。
末端の雑用係ではないが、上位でもない。
「現場では動けるけど、責任を持って全体を仕切る位置にはいない……ってところかな」
FAQらしき欄も見つかった。
Q. 夜禍協会は夜禍を直接排除しますか。
A. 夜禍協会は関係機関と連携し、市民の安全確保を第一に活動します。
「……濁したような言い方だ。排除、とは言わないんだな」
倒す、でもなく。制圧する、でもなく。市民の安全確保を第一に活動する。
人が本当に夜禍をどうにかできるかどうか。
しかし、ここにあるのは、いわゆる守りの言葉ばかり。
夜禍に対する人間の態度は、おそらく最初から「勝つ」ではなく「被害を減らす」なのだろう。
僕はブラウザを閉じずに、ノートへ視線を落とし、見出しを二つ書き足す。
夜禍
夜禍協会
その下に、いま拾ったことを箇条書きで落としていく。
• 夜禍=日没後に出現する夜間危険指定対象
• 外見は黒い人型に近い、または人体と微妙にずれる
• 接触は最重度危険→接触厳禁
• 一般市民は回避・退避・通報が原則
• 有効な恒久的排除手段は公的には未確立
• 一部の人間は夜禍へ干渉できる
• 小学校入学時に適性確認→あんずちゃんを確認
• 夜禍協会=認可民間協力団体
• 善は二級下位=実働補助層?
ペン先が紙を擦る音だけが、静かな部屋に残る
。
情報は増え、理解も進んでいるは、それら自体は安心できない。
それは繋がらない。むしろ逆だった。
世界の仕組みが見えるほど、その仕組みの底にあるものの大きさも見えてくる。
ノートの上に並んだ文字列を、僕はしばらく黙って見ていたが、次第にノートを閉じ、椅子にもたれて目を閉じる。
静かだ。
さっきまで紙をめくる音やペン先の擦れる音で埋まっていた部屋が、急にひどく広く感じられる。広いと言っても、物理的な広さの話ではない。むしろ狭い。壁は近いし、押し入れは小さいし、三人で生きるにはどう考えても足りていない。
それでも、こうして一人きりになると、部屋の隅の沈黙だけが妙に遠くなる。昼だというのに、その沈黙は少し夜に似ていた。
多分、知ってしまったからだろう。この世界には、夜というだけで別の危険が立ち上がる。しかもそれは都市伝説でも創作話でもなく、自治体の紙や学校の配布物にまで刻みつけられている。
人は、名前のついた恐怖に慣れることができる。
けれど、慣れることと、支配から逃れられることは別だ。
この街の昼の穏やかさは、夜を知らないから成り立っているのではなく、夜があることを織り込んだ上で、なお保たれているのだろう。
その事実が、今の僕には少し不気味だった。
「……さて」
目を開いて自分を現実へ引き戻す。
大体は把握した。次に考えるべきことは、世界の全貌ではない。今日の午後だ。
あんずちゃんを迎えに行くこと。寝具を見に行くこと。
家に足りないものを少しでも埋めること。
それから、今夜の巡回通知にどう返すかを決めること。
「順番だ。順番を作り、順番を守れば、少なくとも足元から崩れることは避けられる」
意識して声に出し、それから僕は再び部屋を見回した。今、最優先なのはやはり寝具だろう。昨夜のような中途半端な仮眠で一夜を越すのは、二晩が限度だ。身体は誤魔化せても、判断力は徐々に鈍る。夜の情報が重要な世界で、寝不足のまま動くのは下策だ。
ただ、そこでまた問題になるのが、ベッドか布団か、というあの話である。昨日の時点では勢いで「ベッドを見よう」と言った。あんずちゃんを誘う口実としては分かりやすかったし、間違いでもない。家具屋へ行けば、ベッドも布団もマットレスも置いてあるだろう。
けれど、冷静に考えると、今日この家へ持ち込んで意味があるのは、おそらくベッドフレームではない。ベッドは場所を取る。搬入も面倒だ。配送を頼めば日を跨ぐ可能性があるし、その間の夜をまたあの煎餅布団で越すのは避けたい。
なら、優先すべきは敷布団か、あるいは厚みのあるマットレス。できれば三つ折りできるものがいい。昼の間に立てかけて風を通せるし、この狭い部屋でもまだ動線を確保しやすい。
「……今日は、マットレス寄りで見るかぁ」
ベッドそのものを候補から外すわけではないが、明日より今夜の実利。そういう順番で考えた方がいい。
ノートを再び開き、買うものの欄を見直す。
• 厚手マットレス or 敷布団 → マットレスで
• シーツ
• 枕
• 枕カバー
• バスタオル
• フェイスタオル
• エプロン(三人分)
エプロンの文字を見て、少しだけ口元が緩んだ。昨日の「料理の時はエプロンをつけるもの」という空気は、僕の中ではまだ半分冗談みたいなものだった。けれど、確かに、ああいう些細な決まり事を決めて、それを遵守する事こそが家の形をつくるのだ。
あんずちゃんは、きっとまた自分の役目みたいな顔をして卵の前に立つだろう。澄雨さんは澄雨さんで、戸惑いながらも「自分の分」があることに少し安心するのではないか。台所に立つ時の決まりがある、というだけで、人は思ったより簡単に日常へ戻れるものだ。
「……三人分、か」
口にしてみると、まだ少し妙な響きがある。三人分。自分の分だけではない、という感覚。
僕はここに、自分の意志で家族を作ったわけではない。目が覚めたら既にいて、しかも、その前の男が相当にろくでもない状態へ追いやっていた二人だ。
なのに今は、エプロンやタオルを「家族三人分」で考えている。
その数字に違和感はある。多分、二人が静かすぎるからだ。澄雨さんも、あんずちゃんも、僕に何かを大きく要求してくるわけではない。むしろ逆で、何も求めないことで、この均衡を保ってきたのだろう。そういう場所では、些細なことでもこちらが勝手に考え始めてしまう。
考え始めた以上、途中で放るのは性に合わなかった。
そこまで考えたところで、スマホがまた震えた。短く、乾いた振動だった。画面を見る。やはり、夜禍協会の通知である。
南三条班
本日18:00 巡回補助 未回答者あり
その下に、もう一行。
「配置調整の都合上、参加可否の確定をお願いします」
善が来るか来ないかで、実際に誰かの動きが変わる。だから返事を寄越せ。そういう話らしい。
僕はスマホを持ったまま、しばらく黙っていた。
今の僕が持っている夜禍の知識は、公開情報としては最低限、という程度だ。その程度では、夜へ出るにはあまりにも足りない。怖いという気持ちも当然ある。
しかし、今の時点での僕の感情は、単純な恐怖という形ではない。
あるのは、情報不足に対する警戒と、順番を崩したくないという感覚。
今夜、作戦に出るべきではない。
そう考えるのに、それほど時間はかからなかった。
夜禍について知らなすぎる。
善が現場でどの程度の信頼と役割を持っていたのかも見えていない。
しかも、今日はまだ寝具すら整っていない。澄雨さんとあんずちゃんを残して、何も分からない夜へ出るのは、合理的とは言えない。未知の夜に踏み込むには、状況も、情報も、あまりに粗い。雑な判断は、この家では増やしたくない。
アプリを開く。出欠確認の画面には、単純な二つのボタンが並んでいた。
参加
不参加
指を動かし、不参加を押す。
確認画面が出る。
本日の巡回補助を辞退しますか?
辞退。僕はそのまま確定を押した。
送信。特に反応はなかった。
今夜、僕は夜へ出ないが、今後もずっと同じように避け続けられるとは思っていない。夜禍協会の中で善がどう見られていたのか、どんな人間関係の中で動いていたのか。その外側を知らないままでは、いずれ必ず詰む。夜を知ることと、善という男の外の顔を知ることは、この世界では多分、ほとんど同じことなのだろう。
いずれは行かなければならない。
僕はスマホをポケットにしまった。
外はまだ明るい。その明るさは、安心というより猶予に見える。この世界では、光はただ景色を照らすものではない。夜と人のあいだに引かれた境界線に近い。そこからこちらにいるうちは、少なくとも「人の時間」なのだと教える印のようだった。
とりあえず今は、あんずちゃんを迎えに行く時間までに、残りのことを片づけよう。
寝具とエプロン。その他の日用品の購入。それから、この家の空気をもう少しだけまともにすること。
テーブルの端に置いていた会員証が目に入る。
黒地に銀文字。昼の光をほとんど反射しないそれは、最初から夜の中でだけ読まれることを想定しているみたいだった。そこに書かれた「鳴川善」という名前も、「二級下位」という階位も、まだ馴染まない。
それでも、逃げて済む話ではないのだろう。
僕は会員証を手に取り、しばらく眺めたあと、財布へしまった。
今はまだ、夜を遠ざけておく。
その代わり、夜に呑まれないための形を、昼のうちに少しずつ整える。
そうするしかないのだと、窓の外の明るさが、ひどく静かに言っていた。